……赦せ、リム。美味い料理を作るためなんだ

「魔王さまさあ、絶対シイガお兄ちゃんにメロメロだよね~?」


 コウモリみたいな黒い翼をはためかせ、水面上を飛び回りつつリムが言う。シイガは釣り糸を垂らしながら応えた。


「そうだな~」


 ここはアビス海。灰色の空の下、周囲には一面青黒い海が広がっており、ゆらゆらとうごめくように揺らめいている。


「そうだな~って……何、その冷めた反応っ! 嬉しくないの?」


「……嬉しくないに決まってんだろ。魔王だぞ?」


 驚くリムに嘆息し、竿を握り直した。尻を濡らす湿った苔の感触が不快で、ルイーナみたいな仏頂面になる。


 今シイガが座っているのは、大海原に浮かぶ巨大な亀の甲羅の上だ。


 アイランドタートルという背中に苔や藻などを生やした魔物で、性質は温厚。


 加えて、現在はリムの従属魔法〈リリムアイズ〉がかけられているため、シイガたちに危害を及ぼす心配もない。平べったい脚で水を掻きながらゆっくりと移動し、格好の足場になってくれていた。


 また、上空ではそれまでシイガがまたがっていたワイバーン――リムの配下が旋回しながら羽ばたいており、海面に眼を光らせている。


 リムがシイガの正面に移動し「う~ん?」と首をひねった。


「お兄ちゃん、魔王さまのこと嫌いなの?」


「別に嫌いじゃねえけど……」


「煮え切らないなあ。やっぱ嫌なの? 魔王城で料理をさせられてるの」


「…………」


 シイガは無言。口をつぐんで黙っていると、リムが肩を揺さぶってくる。


「ねえ! 嫌なの、お兄ちゃん? 逃げられるんなら逃げたいの? ねえねえ、シイガお兄ちゃんってば――」


「だあああ、うっせえ!」


 シイガはリムの手を振りほどき、


「常識的に考えろ! 半殺しで無理やり拉致して連れてこられて、厄介な魔法刻まれた挙句、脅されながら料理してんだ。それを喜ぶ奴がいるかよ?」


 いるわけがない。


「どんだけ料理を美味いと言って食べてくれても、その食いっぷりが気持ち良くても、俺のわがまま聞いてくれたり、色々用意してくれたりしても……魔王は魔王だし、俺が奴に支配されてる事実は変わらねえ。んな状態で――っと」


 そのとき手元に震えを感じ、シイガは言葉を切った。リムをどかして腰をあげると、竿を握りしめ、かかった獲物を釣りあげる。


 水しぶきをあげて海上に姿を現したのは、発達した胸びれを持つ魚の魔物だ。


「フライングフィッシュか!」


 一対のひれを翼のごとくはばたかせ、宙を泳ぐようにして襲いかかってくる魔物を、シイガは糸でぶん回し、自らが立つ亀の甲羅にビタァンッと叩きつけた。


 弱々しく痙攣している魔物の口から手早く針を外して、水を満たした異空間へと放り込む。リムが「おー」と拍手した。


「鮮やかだねえ~。さっすが、シイガお兄ちゃ――うわっと!?」


 黒い大きな二枚貝の魔物――キラーシェルが、牙の並んだ殻を顎のように開いて海中から飛び出し、リムの頭を食い千切ろうとする。


 魔物は元々魔界の生き物であり、魔族の下僕なのだが、この世界に馴染んでしまった野生の魔物は、たとえ相手が魔族であっても襲いかかってくるらしいのだ。


「こらあっ! 危ないなあ、もう……〈リリムアイズ〉!」


 リムは慌てて奇襲を避けると、再度飛びかかってきた貝の魔物に、従属魔法を発動。瞬間、魔物は開いていた貝殻を閉じ、リムの胸元に抱きとめられた。


「よしよし、いい子♡ 大人しく食べられようね~」


「……便利だなそれ」


 無駄に獲物を傷つけないし。どこぞの魔王さまとは大違いである。ルイーナではなくリムを食材調達に連れてきて正解だった。


「ふふん、でしょ? 目を合わせなきゃ効果ないのが、難点だけどね」


「貝の魔物に目なんてあるのか」


「うん、あるよ~。ほら、中に可愛いつぶらな瞳が……」


 などと開いた貝を見せつつ、リムがシイガに近づこうとしたとき。ふいにワイバーンがけたたましく吼え、アイランドタートルが甲羅の中に閉じこもった。直後、


「きゃっ!?」


 大蛇のような青紫の触手が一本、海中から勢いよく飛び出してきて、リムの右足首に絡みつく。そのまま、先ほどシイガが竿を使ってしたように、リムの小さな体がぐるんぐるんと乱暴にぶん回されて、


「あひゃああああああ――ごぶしゃっ!?」


 海面にビタァンッと叩きつけられた。シイガはぶん回されている最中、リムの手から落っこちてきたキラーシェルをキャッチする。


「リムっ! おい、大丈夫かよ!?」


「だ、だいじょうぶ……なわけ、ないでしょおっ!」


 ずぶ濡れ、逆さに吊りあげられたリムが、目を回しながら答えた。青紫の太い触手が次々と、海面を突き破ってのたくる。


 そして最後にイカのような三角形の頭部が現れ、ぎょろりとした青い眼がシイガたちを捉えた。恐怖ではなく興奮により、体が震える。


「出やがったな、クラーケン!」


「グオオオオオオッ!」


 ワイバーンが咆哮し、主のリムを救い出さんと急降下した。しかし、一際太い触手が鞭のようにしなると敢えなく叩き落とされ、海に没する。

 シイガは竜切り包丁を抜き、待ちわびていた大物と対峙した。


「ワイバーンを一撃か……〈海魔の王〉とか呼ばれるだけある。料理したら、さぞ美

味いんだろうなあ? イカ焼き、イカ飯、イカリング……へへっ。胸が躍るぜ!」


「いいから、早く助けてよおおおっ!」


 脚一本で逆さ吊りにされているリムが、悲鳴をあげてバタバタもがいた。従属魔法を行使しようにも、うまく目が合わせられないらしい。シイガは呆れる。


「お前、それでも魔族の幹部かよ……ったく、しょうがねえなあ」


「きゃひいっ!?」


 シイガが助けに入ろうとしたとき、素っ頓狂な声が響いた。

 クラーケンがリムにさらなる触手を伸ばして巻きつかせ、自由を奪ったのだ。空中で大の字にされ、無防備な姿を晒されたリムが、真っ赤になって激怒する。


「こりゃあああっ! みんなのアイドルリムちゃんに、なんて格好させやがってんのよイカ野郎! もう怒ったからね!?」


 瞬間、リムの周囲に紅く輝く魔法陣がいくつも浮かんだ。リムの小さな体から、高位魔族にふさわしい膨大な量の魔力があふれる。


「げっ!? ま、待て! 早まるなっ! 俺の大事な食材を、傷つけるんじゃ……」


「問答無用っ! あたしをはずかしめてくれた罪、あの世でたっぷり償わせてあげる。海の藻屑と消えちゃいなさい! レイジングブラ――ひょへえっ!?」


 リムが本気の魔法を放とうとした刹那。触手の先端が花のように開くとリムの胸元に伸び、豊かな乳房をつかむようにして貼りついた。


「えっ!? あ、ちょっ……やだ、待っ……あひいいいっ!?」


 収束していた魔力が霧散し、魔法陣が砕ける。


 リムが甲高い声でわめいた。


「ひっ!? 嘘っ、魔力が吸われ……あん! だっ、だめ! そんな一気に……らめえええええええっ!?」


「リムっ! 大丈夫か!?」


「ら、らいじょうぶ……なわけ、ないれひょおっ!」


 触手に魔力を吸われているリムが、身をよじらせながら答える。

 体に力が入らないのか四肢はだらりと弛緩しており、顔もしまりがなくなっていた。うねる触手の動きに合わせて、リムがビクビク体を痙攣させる。


「んああああ!? やだっ、助け……あひっ!? た、助けてシイガお兄ひゃ……あふぁあああああああああっ!?」


「お、おうっ! 待ってろ、今――」


 シイガは竜切り包丁を構え直すと、クラーケンの魔の手からリムを助け出そうとし、ふと動きを止めた。


「…………。いや、待てよ?」


 魔物は強ければ強いほど美味い。そして、魔力はエネルギーの源だ。つまり、魔力をたくさん吸った魔物は――


「もうらめっ、むりいいい! は、はやくひへえええっ!」


「……すまん。もうちょっとだけそのままだ、リム」


「はひいいっ!? なんれよ、たすけへよっ!」


「だめだ。そいつには、なるべく多くの魔力を吸ってもらいたい。その方が、美味しくなるかもしれないからだ」


「――は?」


 リムの顔から表情が抜け落ちる。シイガは、リムを安心させるように微笑った。


「心配すんな。何も、魔力が尽きるまで吸わせるわけじゃねえからさ。やばくなったら助けに入るよ。だから待て。できるだけ我慢しろ。魔力の量には、自信あんだろ?」


「お兄ちゃん……」


 リムの瞳から光が消える。


「……赦せ、リム。美味い料理を作るためなんだ」


「お兄ちゃあああああああんっ!」


 昏くよどんだ空の下、アビス海にリムの絶叫がとどろいた。

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