どうして、俺を殺さなかった?

 絶海の真ん中に開いた、魔界へ通じる次元の穿孔――通称〈アビスの大穴〉の上空に浮かぶ、禍々しい魔王城。その城内にある中庭で、


「……よし。これで準備は完了だ」


 コックコートの袖をまくってエプロンとスカーフをしめ直し、シイガは調理台の前に立った。長方形の板に脚が四本ついているだけの、簡素な作業台である。


 食事を必要としない魔族の根城に『厨房キッチン』があるはずもなく、ならばと屋外で料理をすることにしたのだ。空間魔法で作り出された異空間から、今回の料理に必要な道具を取り出し、環境を整えることしばらく。


 広々とした中庭に、屋外仕様の調理場が完成していた。


「ほほう。手馴れているではないか」


 庭の片隅、椅子の上に脚を組んで腰かけている魔王が、感心したように言う。消毒の水魔法〈キュアウォーター〉で手を洗いつつ、シイガは「おう」とうなずいた。


「旅の途中で獲物を狩って、調理すんのがほとんどだからな。慣れたもんだよ。まあ、こんな風に見られながらすんのは、俺もあんまり経験ねえけど……」


 中庭には〈玉座の間〉にいた魔物たちが集まっており、シイガが途中で逃げ出したりしないよう包囲している。


 魔界の魔力が漏れ出している影響か、昏くよどんだ空を仰いで、シイガは「うし」と気合を入れた。


 ――料理をはじめる。


「今回使うメイン食材はこれ、ブラックバハムートの『うちもも肉』だ」


 シイガはまず氷魔法の冷気を満たした異空間から、解体バラしたての黒竜肉を取り出し、どすんっとまな板に置いた。シイガは複数の異空間を持っており、食材や調味料、調理器具などの用途に応じて使い分けているのだ。


 軽く十人分くらいある巨大な肉のかたまりにフォークでぶすぶす穴を開け、香辛料を振りかけていく。


 魔王が「む?」と眉をひそめた。


「なんだ、何をしておる?」


「下味をつけてるんだよ。黒胡椒っていう風味の強いスパイスをまぶして、肉の臭みを取り除いてるんだ」


「臭みだと!? 我のクロが臭いというのか、貴様!」


「……どんな肉にも臭みはあるさ。魔物の肉なら尚さらな」


 変なところで怒る魔王に説明しながら、シイガは肉に薬草ハーブソルトを振りかけて揉み、味を擦り込む。これで肉の下ごしらえは完了だ。


「下味をつけ終わった肉は、しばらく放置する。下味がよく馴染み、冷たい肉が常温に戻るのを待つんだ。その間に野菜の下ごしらえも終わらせ、火を熾しとく」


 解説しつつ、シイガは次の工程に移った。


 グラント山脈に入る直前、麓の町で購入し、保存しておいた香味野菜――たまねぎ・にんじん・セロリ・ニンニクを薄切りにして再び異空間にしまうと、あらかじめ作っておいたかまどの前へ移動し、火魔法を唱える。


「〈ファイヤーボール〉!」


 手っ取り早く火を熾し、黒い蓋つき鍋を用意した。巨大な竜肉がすっぽりと納まる、特大サイズの鍋である。


 目の前の異空間から引きずり出したそれを、火の上に置いて温め、


「ここに『竜脂』を溶かす。竜脂は、竜肉の脂身から作られる硬化油だ。精製すんのに手間がかかるから、今回は黒竜じゃなく、前に作った地竜のものを使わせてもらうぜ。竜脂でニンニクを炒め、脂に香りを移していくぞ」


「ほう? 良い匂いだな……」


 鍋の中から立ちのぼるガーリックオイルの香りに、魔王が鼻をひくひくさせた。その反応を見て、シイガは口元をゆるめる。


「おい魔王。料理を見るのは初めてなんだろ? そんなところに座ってねえで、もっと近くに来てみろよ。ほら」


「近くに? ふむ……そうだな、そうさせてもらおう」


「あ、ついでに肉を持ってきてくれ」


「――我が?」


「そうだよ、別にいいじゃん。傍から見てるだけっつうのも、なんだしさ。自分も参加してみた方が、料理を楽しめるんじゃないかと思うぞ?」


「……ぬう。まあ、そういうことなら構わぬが」


 魔王は微妙な顔をしつつも立ちあがり、肉を両手で抱えあげると、えっちらおっちら運んできてくれた。


「ううむ、存外重いのだなあ。手もベタベタになってしまうし……」


「うおおおい!? 洗ってない手で触る奴があるかあっ! 手づかみじゃなくトレーごと運んでこいや! 不衛生だろ!?」


 シイガに怒鳴られ、ポカーンとしていた魔王の顔が、みるみる紅潮していく。


「ふ、不衛生……だと? 貴様、我の手が穢らわしいというのか……っ!?」


 魔王の髪が浮きあがって広がり、黒い紫電が弾けた。恥辱でぷるぷる震える魔王に、シイガは慌てる。


「そ、そういう意味じゃねえっての! あんたに限らず、食材に触るときには必ず手を洗うっつう決まりがあってだな……」


 などと必死に弁解するシイガの視線は、手元の肉へ注がれていた。魔王がキレるだけならまだしも、大事なメイン食材を落とされてはたまらない。


 シイガの注意が自分ではなく肉に向いていると気づいた魔王は呆れ、練りあげていた魔力を霧散させる。


「己の身より食材の心配か。本当に料理バカなのだな、貴様は……ふんっ、仕方ない。その気概とクロの肉に免じて、赦してやろう」


「……どうも」


 シイガは額の汗をぬぐうと、鍋の中に視線を戻した。スライスされたニンニクが淡い狐色になり、沸々と泡立っている。頃合いだろう。


「おい魔王。あんたが持ってるその肉を、こん中に入れてくれ」


「我が!?」


「おう。そっとだぞ? 落とすんじゃなく置くみたいな感じで、ゆっくり入れろ」


「う、うむ! ゆっくり……そっと……」


 魔王が鍋をのぞき込み、緊張の面持ちで肉を下ろした。

 熱々の油に触れた瞬間、肉がジュウウウッと激しい音を立て、魔王が「ぬおっ!?」と驚く。魔王らしからぬその反応に、シイガは笑った。


「上出来だ。ありがとよ、魔王さま」


 肉をトングで押さえつけ、こんがりと焼いていく。ジュウジュウという快音が鳴り、香ばしい肉の匂いが漂った。


「ふふん。どうよ、この音? この匂い!」


「……うむ、悪くない。まるでクロが悦びの声をあげているようだ。ああ、クロよ……お前は、こんなにも芳しい香りをしていたのだな」


 シイガが得意げに尋ねると、魔王は肉に対して語りかけ、立派に育った我が子を見るような眼差しで呟く。


 その反応は正直どうかと思ったが、それを言ったら自分の配下を料理させ、食べようなどと思える時点でとっくにどうかしていた。


 ――ともあれ。一度も食事したことがない魔族にとっても、肉が焼けていく様子には何かしら感じるものがあるらしい。


「へへっ。驚くのはまだ早いぜ、魔王? こいつを見ろ!」


 予想以上の好感触に気を良くしつつ、肉をトングで裏返す。

 美しい焼き色に染まり、芸術的な焦げをまとって生まれ変わった竜肉が、シイガたちの視界に飛び込んできた。


 魔王が「おおっ!」と目を丸くする。


「すごい変わりようだな。先ほどまで赤かったのに……」


「こんな風に表面を焼き焦がすのは、肉汁――肉の『旨み』を中に閉じ込め、逃がさないためだ。全面しっかりと焼き、逃げ道をふさいでおく」


 最初に焼いた面と同じくトングで肉を鍋底に押しつけ、向きを変えながら余すところなく焼き色をつけた。


 そしたら一度肉を取り出し、金属製の底網をセット。薄切りにした香味野菜と月桂樹の葉を敷いて、その上に肉とじゃがいもを置く。


「む? 最後の『じゃがいも』とやらは、切らずに入れるのか?」


「ああ。丸ごと蒸し焼きにすると甘みが逃げず、ぎゅっと濃縮されて引き立つんだよ。月桂樹の葉と香味野菜は香りづけだな。セロリのすじを取ったり、にんじんの皮を剥いたりせずに切ってる理由もあるんだが……まあ、後で説明してやるよ」


 シイガは鍋の蓋を閉め、その上にも薪を載せると、火魔法で燃えあがらせて、上と下から加熱した。こうすると鍋の中が高温になり、高圧の密閉状態になるのだ。


 肉や野菜から出る水分で、じっくりと蒸し焼きにしていく。


「……まだできんのか?」


「まだだ。こいつが八回落ちるまで待て」


 シイガは異空間から取り出した砂時計をひっくり返し、急かしてくる魔王の胸に押しつけた。魔王が愕然となる。


「八回も……?」


「我慢しろ。美味い料理を作るためには、手間と時間を惜しんじゃいけねえんだぜ」


「……むう」


 魔王が不満そうにむくれた。シイガはかまどの前にしゃがみ込むと追加の薪をべ、火加減を調整しながら、


「おい、魔王」


「ぬ?」


「どうして、俺を殺さなかった?」


 ――と尋ねる。それは、シイガが目覚めてからずっと気になっていた疑問だ。


「なんでわざわざ、食ってみようと思ったんだよ? 三百年間、ただの一度も口にしてこなかった料理を」


「……ふむ? なぜ、か……そうだな」


 魔王が顎に手を当てた。砂時計を弄びつつ、


「気分、気紛れ、気の迷い……まあ、別段はっきりとした理由があるわけでもないのだが。強いて言うなら、我がこの世界を侵攻している目的と同じだ」


 にやりと笑い、魔王は答える。


「『暇潰し』だよ」



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