ラストチャンス・1991
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ラストチャンス・1991
フランス、メーヌ地方の田舎町、ルマン。
一九九一年、初夏。その日、彼らは、決断を迫られていた――。
*****
《頼む、大橋! GOサインを出してくれ! 仕掛けるならチャンスは今しかない!》
無線機から届く、ドライバーの切羽詰まった叫び声が、ピット内に響き渡る。
その声を聞いたマツダスピードチーム監督の大橋孝至は、思わず顔をゆがめ歯ぎしりをした。
「少し待て寺田。今、皆で相談する」
通常のレースであれば、一も二もなく全開を指示している状況だった。しかし、彼らにはそれが出来ない理由が二つ存在していた。
一番の理由は、このレースそのものにあった。
二四時間の長丁場を戦い抜く世界最高峰の耐久レース『ルマン二四時間耐久レース』 毎年六月にフランス中部にあるサルテサーキットを使用して行われるそのレースの過酷さは、ドライバーにとって、そしてマシンにとって筆舌にしがたいものがある。
しかし、その過酷なレースも、終盤にさしかかり、残り時間は一時間を残すばかりだ。
「なんてこった……よりによってこの状況かよ」
泣き言に近いぼやきが零れた。大橋としては今すぐにでも全開の指示を出してやりたい。
だが、レースが終盤にさしかかったこの状況で全開走行をするいうことは、エンジントラブルを引き起こすリスクが格段に跳ね上がることを意味している。
事実、大橋たちのマシンは昨年のレースではマシントラブルで完走出来ずにリタイヤしていた。
もう一つの理由は、今いるポジションにある。
大橋たちのマシンの順位は、現在総合で二位。つまり、このまま無理をしなければ、世界第二位の栄光は確実に手に入るのだ。
「リーダー、このまま行けば二位は確実だ。無理をするのはよそう。ここでリタイヤなんかしたら、今までの全てがパーだ。俺たちにはもう、今回しか残されていない。ラストチャンスなんだぜ」
チームスタッフの一人が口にした、ラストチャンスという言葉が大橋の心に重くのしかかる。
……ラストチャンスか、くそったれ。
それは、彼らにとって認めたくない現実だった。
大橋たちが走らせるマシン マツダ・787Bには、他車との決定的な違いが一つだけ存在している。それは、心臓部に搭載されたユニットの特殊性に他ならない。
『ロータリーエンジン』
世界で唯一、日本のマツダだけが実用に成功した、奇跡のユニット。
ピストンの上下運動を回転運動に変換して動力として駆動輪に伝達する通常のレシプロエンジンに対して、ローターの回転運動をそのまま動力として伝えるロータリーエンジンは、効率性に優れ、高出力を発揮。
その軽量さと相まって一時期はモータスポーツの世界をはじめとした自動車業界を席巻。その高性能ぶりは未来のエンジンと称されたほどであった。
だが、高出力ゆえの燃費の悪さや、構造的な問題による寿命の短さ、そしてレシプロエンジンの技術的な進歩により、ロータリーエンジンは市場での優位性を喪失。その栄光は過去のものとなりつつあるのが現状だ。
そんな状況のなかで、ロータリエンジンのネガティブなイメージを払拭するべく全社を挙げて取り組んでいるのがこのルマン挑戦だった。
世界最高峰と呼ばれる耐久レースで好成績を残せば、ロータリーエンジンが未だ健在であることを世界にアピールすることが出来る。
そう信じて、彼らは皆、今日まで戦い抜いてきたのだ。
だが、まだ見ぬ勝利に向けて経験を重ね、順調に階段を上っていた彼らを悲劇が襲った。ルマンの車両規定が変更されることが決定されたのである。
そしてその中には、ロータリーエンジン搭載車両の参戦を来年度以降禁止することが明記されていた。
つまりは、彼らが栄光を手にするチャンスは、今大会が最後なのである――。
……世界二位か。
大橋は、これまでの苦難の日々に思いを馳せた。
はじめは予選突破すらままならず、その次は完走するのがやっと。まともにレースが出来るようになるまでに数年を有した。楽な道のりではなかった。何度も何度も失敗し、屈辱にまみれながら歩んできた道だ。それが今、最後の最後でようやく実を結ぼうとしている。
(世界二位。十分じゃないか、お前たちは良くやったよ。ここでリタイヤしてしまっては今までの全てがふいになってしまう。だからこれでいいんだ。さぁ、そのままペースを維持するよう指示をだそう)
頭の中に、優しげな声が響く。それは、きわめて合理的で、現実的なことを言っている。だが、大橋は、その言葉を――――――悪魔の囁きだと思った。
「二位か……それじゃあ足りないよな」
そうだ、その通りだ。自分は何を躊躇していたんだ。これまでの苦労、これまでの屈辱。それら全てを取り返すには、勝ちにゆく以外の選択肢はあり得ない。
大橋は、自らの内に沸き上がりかけた弱気を振り払うと、スタッフたちのほうを向いて、力強く言った。
「ドライバーに全開の指示を出す。我々が目指すのは二位ではない、勝利だ」
その言葉に動揺したスタッフたちから反対の声が上がる。しかし、大橋は続けて言った。
「二位では、今までの屈辱は何になるんだ! 挑戦なき戦いに勝利はない!」
大橋の檄がピット内に響いた。その迫力に、皆圧倒される。
「だからって……あまりに無謀です。下手をしたらせっかくの二位もパーになってしまう」
「二位、三位をキープしようとする者など、敗者と変らない。挑戦するべきだ」
「だけど、しかし……」
大橋以外のスタッフが判断に迷うなか、彼らの後方から一人の男が歩み出た。
「君たちは、自分らが作ったマシンが信じられないのか?」
男はチームスタッフ全員の顔を見渡しながら、静かに言った。
「松浦さん……」
大橋はその名を口にした。松浦国夫――ロータリー四七士と呼ばれるロータリーエンジン初期開発メンバーの一人であり、787Bの開発責任者でもある。
「君たちは、787Bがザウバーメルセデスに敵うわけがないと、そう信じているのか?」
松浦は皆に尋ねる。
「私はそうは思わない。君たちは、この気むずかしいロータリーエンジンをここまで仕上げた。その技術はどこへ出しても恥ずかしくない、世界最高峰の技術だ」
その通りだ、と大橋は思った。はじめは完走がやっとだったあのエンジンが、今では優勝を争うまでに進化した。それは弛まぬ挑戦を続けた結果手にした、技術力の結晶だった。
「世間ではロータリーエンジンを奇跡のエンジンという。だが、それは違うと私は思う。あれは奇跡なんかじゃない、技術者の意地と執念が生み出した必然だ。だから、やろうじゃないか! 我々があきらめなければ、必ずそのマシンは応えてくれる!」
松浦が口にしたその言葉が、皆の心に火を点ける。
「……やりましょう、大橋さん」
クルーの一人がそう言ったのを皮切りに、その意見に同調する者が次々と後に続く。勝利への挑戦を支持する声がピット内に溢れた。
「あぁ、やってやろうじゃねえか。メルセデスなんか目じゃねえ!」
「……ラストチャンス、上等ですよ。やりましょう!」
「マシンを信じよう。俺たちは負けないッ!」
皆、口々に自らを奮い立たせる言葉を吐く。その様子に、熱いものがこみ上げてくるのをこらえながら大橋は、松浦に礼を言った。しかし、松浦は首を横に振った。
「技術者への礼は、レースに勝利してからだ。さぁ、寺田くんに支持を出そう」
大橋は無線機のマイクを手に取った。
「ああ、すまんが大橋くん。寺田くんへの指示は私に出させてくれないか」
「ええ、かまいませんよ。あいつに檄をとばしてやってください」
大橋はマイクを松浦に手渡すと、ドライバーの寺田に無線を繋いだ。
「こちらピットの松浦だ。聞こえるか寺田くん」
《松浦さん? 大橋はどうしたんだ?》
「いや、なに、彼に無理をいって無線を代わらせてもらったんだ。それでな、我々からの指示は一つだ」
二人の会話に、ピット内の全員の意識が集中する。そして、松浦は一拍置いてから、ドライバーへの指示を口にした。
「寺田くん、全開で踏んでくれ。我々の作ったロータリーエンジンは絶対に壊れない」
*****
――絶対に壊れない、か。
787Bのドライバー、寺田陽次朗は松浦が口にしたその言葉に感慨を覚えずにはいられなかった。
絶対に壊れないなどという言葉は、ルマンに参戦した当初は気休め以外の何者でもなかったからである。
初めてルマンを完走した時の苦い思い出を寺田は今でも忘れられない。
ブロー寸前のエンジンをいたわるため、まだレース終了までの時間が残っているにもかかわらず、ゴールライン直前で車両を停止し、終了時刻まで時間をやり過ごすことでようやく完走にこぎ着けた。
こちらが、一度停止させたエンジンがレース終了間際にふたたび問題なく始動できるかどうか胸をハラハラさせている一方で、レースが終わる寸前まで世界の頂点を争い続ける他のマシンたち。ゴールライン手前に停めたマシンの中から、彼らが激しく競いあう姿をただただ見つめることしか出来なかった屈辱。
あの時から十数年が経ち、数多の負けを経験して、ようやく壊れないと胸を張って言えるマシンを、世界と戦えるマシンを、今、自分は駆っている。
「松浦さん、あなたたちを信じます。ロータリーエンジンの素晴らしさ、世界に見せつけてやりましょう」
寺田は松浦に言葉を返しながら確信する。もう何も心配することはない。このマシンは、勝つことの出来るマシンなんだ。あの時とは、違う。
《寺田、俺からも一言だ。……勝て》
無線機から大橋の声が届く。
「ああ、任せろ」
寺田は短く返すと、アクセルペダルを踏む足に力を込めた。
太陽が僅かに傾きかけた、初夏のルマンの空に、ロータリーエンジン特有の泣き叫ぶような甲高いエキゾーストノートが木霊する。
それは、追撃の開始を意味する787Bの雄叫びだった。
寺田のドライブする787Bは、現在二番手。トップを走るザウバーメルセデスC11との差は、およそ一周。それは、全長13,6kmのこのコースが一周するのに軽く三分以上かかることを考えると決して小さな差ではない。おまけにレースの残り時間は約一時間しか残っていない。
だが、それでも寺田には勝算があった。
「大橋、メルセデスの様子はどうだ?」
《ああ、ペースは落ちる一方だ。奴さん、相当タイヤがきつそうだな》
それは寺田の読み通りだった。絶対的なパワーではメルセデスは787Bの上をいくが、その分車体重量も重く、タイヤにかかる負担が大きい。メルセデス側のピットインのタイミングから考えれば、終盤にタイヤのコンディションが悪くなるのは明らかであると寺田は予測していた。この観察力もまた、負け続けることによって学んだ相手を出し抜くための技能の一つだった。
《よし、このままいけばレース終了間際にメルセデスをパス出来るぞ。そのままペースアップだ》
「了解!」
寺田は、予選タイムアタック時にも匹敵するほど集中したドライビングを続ける。
「お先ぃ!」
ユノディエールと呼ばれる長いストレートで、周回遅れのポルシェをパス。二四時間という長丁場のレースの終盤にさしかかっているにもかかわらず、自分のドライビングが冴えを増してゆくのを感じた。
……それにしてもイイ音だな。
全開アタックの最中、車内に響くエンジン音を聴きながら、寺田はつくづくそう思った。それは、ロータリーエンジンだけが奏でる特別な音。長年に渡るルマン挑戦において、いつも自らと共にあった音だった。
「これで最後か……」
思わず呟きがこぼれる。この音がルマンの空に響き渡ることが二度とないと思うと、寂しさを覚えずにはいられない。
《ああ、これが最後だ。だから、ベストを尽くそう》
どうやら無線機の向こうに言葉が伝わっていたらしい。大橋のどこか寂しげな声が耳に届いた。
ユノディエールのストレートも終わりに近づき、ふと、スピードメーターに目をやる。表示は206マイル、およそ330km/hを表していた。
コーナーに入る前に計器類をざっと確認。水温OK、油温OK、油圧……若干低下、されどフィーリングに異常なし。
直線からブレーキングし、コーナーに進入。ブレーキのフィーリング……問題なし。タイヤのコンディションも良好。
――さぁ、待っていろメルセデス。
寺田はコースの遙か先を見つめ、そこにいるであろうメルセデスの後ろ姿を幻視した。
追撃を開始して二〇分が経過したその時、車内に大橋の声が飛び込んできた。
《メルセデス、ピットイン!!》
――マシントラブルか!?
寺田は一瞬胸を躍らせたが、どうやら違うらしい。
《タイヤ交換だ! ……奴さん、どうやらやるつもりだぞ》
その知らせに耳を疑った。この終盤でのタイヤ交換はあまりにリスクが大きい。そもそもここでタイヤを換えたとしても、そのグリップ力を使い切る前にレースが終わることは確実だ。そして何よりも交換作業に費やす時間の間、こちらは差を詰め放題である。つまりは、メルセデスは自分からリードを捨てたようなものだった。
「あちらさんも、なかなか男だね……」
思わず感嘆の言葉がこぼれる。
確かにこちらは追い上げてはいるが、正直、分はまだメルセデスの側にあった。いくらタイヤコンディションが悪かろうと、走行に支障ををきたすほどではないはずだ。もっと、イージーにリードを守りきる方法だってあっただろう。
だが、それでもメルセデスはあえてリードを捨ててタイヤ交換を選んだ。その先に待ち受けている展開、それは、
《真っ向勝負になるな》
寺田の体に緊張感が走る。まさか、このレース終盤で、やるかやられるかの接近戦を繰り広げることになるとは思っても見なかった。
《寺田、やれるか?》
「ああ、ワクワクするね」
大橋の問いかけに対して、嬉しそうに言葉を返す。恐らくこのペースでゆけば、ユノディエール手前の右コ-ナーで相手とかち合うはずだ。
寺田はステアリングを握る手に軽く力を込めた。
フォードシケインと呼ばれるスタートライン手前のシケインをクリアし、ピット前を通過。メルセデスの姿はまだ見えない。
だが、もうそろそろだ。
高まる緊張感。口の中に酸っぱいものがこみ上げてくるのを感じる。
あと少し、あと少し――。
もうすぐだ、もうすぐだ――。
ダンロップコーナーを越えブリッジを通過。
――――――いた。
寺田は、ついにその姿を捉えた。
「見えたッ!」
《GO!》
大橋のかけ声を合図に完全な撃墜モードへと意識を切り替える。
ピットアウトから飛び出したばかりのメルセデスに対して、コースを全開で駆けてきた787Bのほうが速度のノリは遙かに上だ。寺田はメルセデスとの差を瞬く間に詰めると、その銀色の車体を射程圏内に収めた。
――さぁ、勝負だ。
寺田は、テルトルルージュと呼ばれるストレート前の50Rコーナーを仕掛け場所に選んだ。絶対的なパワーでは、マツダ787Bはザウバーメルセデス・C11には敵わない。ならば、直線に入る前に相手をパスしておこうという魂胆だった。
「こいつをかわせるか!」
コーナー手前で一度、車体を大きくアウト側に振る。
すると、前を走るメルセデスもまた、車体をアウト側に寄せた。
思ったとおりだ、と寺田はしたり顔を浮かべた。いくらタイヤを新品に交換したとて、ある程度は熱が入っていなければ、そのグリップ力は十分に発揮できない。つまりは、コーナーで無理が出来ないということである。そうなれば、取り得る手段は二つ。おとなしくタイヤが温まるまで我慢するか、相手の進路を塞ぐかだ。
……まぁ、この状況で相手に前を譲るバカはいないよな。
メルセデスは案の定こちらをブロックする作戦を取ってきた。だが、それは読み通りだ。車体を一度外側に振ったのは、あくまで相手の出方を伺うのと、フェイントの意味を込めての行動に過ぎない。
――――ここだぁぁぁッ!!!
787Bの動きに合わせて車体をアウトに寄せたメルセデス。寺田はその、がら空きになったインへ車体を滑り込ませる。
相手のインを突くこと自体は極めてスタンダードな戦法だ。
だが、それをアウトいっぱいから急角度で行えるのは、コーナリング特性に優れる787Bならではの芸当である。この運動性の高さも、レシプロエンジンに比べて軽量なロータリーエンジンがもたらす恩恵の一つだった。
二台のラインが交錯する。
鋭くインを差す787B。オレンジとグリーンのカラーリングが印象的なそのマシンは、ついに王座へと足をかけた。
負けじとアウトからかぶせるメルセデス。鮮烈なシルバーのボディが目を引くそのマシンは、世界最速としての意地を見せる。
両者、互いに一歩も引かず。マシンとマシン。ドライバーとドライバー。それぞれの意地のぶつかり合いだ。
観客たちはその闘いに熱狂的な声援を送る。
二台はもつれ合ったままコーナーをクリア。そのままストレートに向かう。
そして、そこで先頭を走っていたのは――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――色鮮やかなボディに太陽の光を反射させた、銀色のマシンだった。
*****
「バカなッ!」
モニター越しに二台の熱戦を見守っていた、大橋は思わず叫んだ。
寺田の仕掛けたタイミングはこれ以上ないほど絶妙だった。マシンのコーナリング性能、タイヤのコンディションも787Bのほうに分があった。それなのにメルセデスはあのコーナーで787Bのオーバーテイクを凌ぎきったのだ。
「信じられん……」
大橋は驚愕の面持ちで呟く。
――ザウバーメルセデス・C11。現時点での世界最速のマシン。その実力を侮ったつもりはなかった。
だが、これほどとは……。
メルセデスの速さに感嘆の念を抱く。しかし、それでもなお、コーナリング性能で勝るはずの787Bのあのオーバーテイクを凌いだ事実に納得がいかなかった。
そもそもマシンにはそれぞれ得手不得手がある。787Bがロータリーエンジン搭載車ゆえの軽さと運動性をいかしたコーナリングマシンならば、メルセデスはターボエンジンの大パワーをいかした直線勝負型のマシンだ。相手の得意とする土俵で勝負して負けるならまだしも、787Bに有利なあの局面で後塵を喫することは本来ありえないのだ。
「寺田さんがまた仕掛けるぞ! …………あぁ! クソッ、またダメか」
モニターを見つめるスタッフたちから悲鳴を上がる。果敢に追いすがる寺田は、アルナージュと呼ばれる九〇度のコーナーで再びアタックを試みるが、またもや失敗に終わった。
「寺田ぁ! あきらめるな!」
大橋もモニターに向かって声を張り上げた。その声に応えるかのように寺田は、続くポルシェコーナーでも相手に並びかけるが、それもまた失敗に終わる。
「……ドライバーか?」
大橋はぼそりと呟いた。マシンにとっては好条件が続いているのにもかかわらず相手を抜くことができない。その原因はもしかしたら乗り手にあるのかもしれない、と考えたのだ。
「おい、メルセデスのドライバーはいったいどんなやつなんだ?」
近くにいた若いスタッフに大橋は尋ねる。
「はぁ、たしかF3上がりの若手三人組のはずです」
「それぐらいは俺だって知っている。もっと詳しい情報はないのか?」
「す、すいません。いかんせんマシンに対する情報収集には余念がなかったんで
すが、ドライバーに関しては特に目を引く経歴もなかったもので……」
「……無理もないか。現役F1ドライバーだってごろごろいる中でただのF3上がりの若手じゃあな」
大橋は軽く舌打ちをしながら、自分たちの情報収集能力の甘さを悔いた。
「せめて、今ドライブしてる奴の名前だけでも知りたい。悪いが調べてきてくれ」
「はい、ただちに行ってきます!」
ピットの外へ駆けだしてゆくスタッフを目で見送った大橋は、再びモニターに視線を戻した。
「……なんてこったい。こいつは本物だ」
モニターの向こうでは、787Bが必死にメルセデスの後ろに食らいついてはいるが、どう見ても旗色は悪く、その差は徐々に開きつつあった。メルセデスのタイヤが温まり始めたのである。
さすがの大橋もこれには焦りを覚えた。今メルセデスをドライブするのは、タイヤが冷えた状態にもかかわらず、ここまで完璧に寺田のアタックを凌ぎきるほどの腕の持ち主だ。そんな相手が万全の状態でこちらを振り切りにきたら正直太刀打ちできない。
「まったく……、神様ってやつはどうしてこうも意地が悪いのかね」
大橋は吐き捨てるように言った。だが、まだ、その目は死んではいなかった。輝きを失ってはいなかった。諦めてなどいなかった。
「まぁ、ハナっから不利は承知の上だもんなぁ」
大橋は開き直る。もともと勝ち目などなかったレース。ここまでやれただけでも普通なら十分だ。だが、それでも諦めきれずに彼らは頂点を目指した。その胸にあるのは挑戦の志。
――あのロータリーエンジンを積んだマシンが、世界最高の舞台で世界最速のマシンと先頭争いか。ハッ、上出来じゃないか。
大橋は不適な笑みを浮かべながら無線機のマイクを手に取った。
「寺田ぁ! なにしてやがる。メルセデスなんかさっさと抜いちまえ! お前なら……787Bならやれる!」
必死にメルセデスに追いすがる寺田に向けて檄を飛ばす。それは自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
――なぁ、神様。俺はさっきあんたを意地悪だと言ったけど取り消すよ。あんたは最高だ。俺たちのラストチャンスにこんな燃えるシチュエーションを用意してくれたんだからな。
大橋はマイクを置くと、メルセデスのあまりの速さに意気消沈するスタッフたちに向かって叫んだ。
「みんな顔を上げろ! それと、今からスピーチの言葉を考えておけ。俺たちはこれから勝ちに行くんだからな!」
メルセデスは確かに速い。まして、タイヤコンディションが万全になれば、あのドライバーの腕と相まって恐るべき速さを発揮するだろう。
だが、レースは二四時間の長丁場のクライマックスを迎えている。
その状況では、何が起こるかなど誰にも予測不可能なのだ。ただ速ければ勝てるほど、このレースが甘くはないことを、幾度も敗北を味わった大橋はよく知っていた。
「大橋さん、メルセデスのドライバーの名前がわかりました!」
ふと、その時、メルセデスのドライバーのことを調べるために使いに出していたスタッフが戻ってきた。
「どうやら、タイヤ交換の際にドライバーの交代があったみたいなんですよ。今マシンをドライブしているのがメルセデスチ-ムで一番腕のイイ奴だって話です」
「なるほど、それで名前は?」
「シューマッハ……ミハエル・シューマッハとかいうドイツF3出身の若いドライバーですね」
「シューマッハか。ふん、聞かない名だな。まぁいい、どんな凄腕だろうとも、たかがひよっこに寺田は負けん! 787Bもメルセデスなんぞには負けん! 信じるぞ、俺たちのドライバーを、そしてマシンを」
そう言って、大橋は意気込んだ。
彼らは、この時まだ、知るよしもなかった。今メルセデスのステアリングを握るこの若いドライバーが、後にどれだけの栄光を手にするのかを――。
*****
「さっさと抜いちまえ、か。簡単に言ってくれるねぇ……」
寺田は先ほどの大橋の言葉を思い出し、苦笑いを浮かべた。前をゆくメルセデスに、まだ一応は食らいついているが、その差はだんだんと開きつつある。もともと自力ではむこうのほうが上なのだ。それを考えれば、未だ振り切られていないだけでも上出来と言えた。
「ぐぅッ!」
コーナリング時に発生する強烈な横方向のGが、寺田の体をシートに押しつける。速さで勝るメルセデスを追うために先ほどから限界ギリギリのアタックを続けていた。コーナーをひとつクリアするたびに体中から吹き出る冷や汗。心臓が破裂しそうなほど高鳴る鼓動。それはまさに命を懸けた魂の走り。
(もういい! もうペースを落とせ! これ以上は無理だ。下手をしたら死ぬぞ!)
理性ではなく、本能が警告を発する。だが、寺田はその声を無視してアタックを続けた。
……死か。それだけは勘弁願いたいな。
いくらレーサーが命知らずと言われようとも、死ぬのが怖くない人間などまずいはしない。
ましてや、ルマンは、250km/h級のコーナリングを繰り返し、最高速度は340km/hを越える超高速レースだ。下手をすれば最悪の結果だって大いにあり得る。
命を削るかのような激しいアタックを続ける中で、静かに忍び寄る死の気配。それを寺田はひしひしと感じていた。
本来、無理をせずマシンに負担をかけないレーシングスタイルが信条の寺田にとって、今の走りは綱渡りそのものだ。ワンミスイコール即アウト。ひとつのミスも許されない。
激しいGに揺られながら、寺田は考える。死の恐怖を超えて、自分を駆り立てるもの。それはいったいなんなのだろうか?
ここまで共に走り続けてきた仲間たちの想い。はたまたレーサーとしての意地か? それともロータリーエンジンで世界を獲るという悲願だろうか? あるいはそれら全てなのかもしれないし、全く別の想いなのかもしれない。
ただひとつたしかなのは、死の恐怖に襲われようとも、アクセルペダルを踏む力を緩めようとはしない自分が今、ここにいるという事実だった。
「まったく、我ながら救いがたい……」
寺田は、そう自嘲しながら一つの決意を固めた。
「大橋、聞こえるか? ひとつ提案がある」
《なんだ?》
「奴にもう一度仕掛ける。ただ、今度は限界ギリギリじゃない。限界を超えた一か八かの大博打だ。下手をしたら二位どころか完走すら不可能になるかもしれん」
完走すら不可能。その言葉は、暗にクラッシュの可能性をほのめかしていた。だが、大橋は、迷ったそぶりをまったく感じさせずに言った。
《かまわん。気にせずやれ》
あまりにあっさりとしたその物言いに、寺田は思わず笑いがこみ上げそうになる。常識的に考えて、この状況でクラッシュ覚悟のオーバーテイクを許可するチーム監督など前代未聞だ。
寺田は改めて思った。自分は、かけがえのない素晴らしい仲間に恵まれたのだ、と。
自然とステアリングを握る手に力が入る。頭の片隅に陣取っていた死に対する恐怖を、勝利への渇望が駆逐してゆく。
――さぁ、ゆこう、787B。俺たちの最高のパフォーマンスを見せに。
ドライバーの意志に呼応するかのような甲高いエキゾーストノートが響く。今、寺田と787Bは、限界を超えた未体験の域へと、足を踏み入れた。
*****
「すげぇ……」
モニターに写る787Bの走りを見つめながら、チームスタッフの一人が驚嘆の声を上げた。
一度は開きかけた787Bとメルセデスの差が、徐々に縮まりはじめたのである。
コーナー進入のたびにフロントタイヤから立ち上る白煙。
加熱されて真っ赤になるブレーキローター。
鬼気迫るとしか表現しようのないその走りに、見るものは皆、息を飲む。
場内に響く熱の入ったフランス語のアナウンスと観客の声援が二台の激闘を盛り立てた。
「寺田……がんばれ……」
大橋は、コーナーに飛び込んでゆく787Bの姿を見るたびに、ゾッとせずにはいられなかった。
寺田との付き合いが長い大橋は、彼が本来はこのようなリスキーな走りをするタイプではないことをよく知っていた。それだけに、今、寺田がどれだけの無理をしているのかがわかる。
そもそも、クラッシュ覚悟でコーナー進入速度を上げれば即速さに結びつくほどドライビングテクニックというものは単純ではない。モータースポーツの常識から考えれば、自分の手に負える範囲を超えた走りは、クラッシュを招く呼び水にしかなり得ないのだ。しかし、寺田と787Bは、今この瞬間、その常識を超越していた。
「大橋くん、ちょっといいかね」
モニターを見つめる大橋に声がかかる。787B開発責任者の松浦だった。
「なんでしょう、松浦さん」
「いま気づいたんだが、メルセデスのマシンな、どうやら直線の伸びがレース序盤に比べてわずかに鈍いんだ」
「本当ですか! なにかトラブルでしょうかね?」
大橋はモニターに写るメルセデスに目をやるが、一見しただけでは、その兆候は伺えない。
「いや、トラブルというわけではないだろう。むしろ、トラブルを避けるために回転数を抑えているのだと思う。おそらく500から1000回転ぐらいは、最高回転数を抑えてるはずだ」
「向こうも苦しいってことですか。なんせ、あちらはターボエンジンですし、熱的にはきついでしょうね」
「ああ、この長丁場の終盤だ。苦しくない者などいないさ」
自然吸気のNAエンジンに比べ、パワーで勝るターボエンジンは、どうしても耐久性に問題を抱えてしまいがちだ。ましてや二四時間の耐久レースともなれば、トラブルに見舞われる可能性は、短時間で勝負が決するスプリントレースの比ではない。
「それで、戦闘力的には今のメルセデスの状態はどうなんです?」
「……残念だが、まだ速さではメルセデスのほうに分がある。しかし、むこうもまたエンジンの耐久性に不安を抱えている以上、こちらがつけいる隙は十分あるはずだ」
「信じるしかないってことですか……寺田を、787Bを、そしてロータリーエンジンを」
大橋は、モニターの向こうの787Bを見つめる。メルセデスとの差は、すでに一メートルにまで縮まっていた。
「おい、すまないがピットボードを取ってくれ」
大橋は、近くにいたスタッフに声をかけた。
「あ、はい、どうぞ。でも、いったい今さらなんの指示をだすんですか?」
「ん……、いや、なに、俺に出来るせめてものことをしようと思ってな」
そう言って、大橋はピットボードにちょっとした細工をほどこした。
「うっし! こんなもんか」
できあがったソレを見る。寺田が命をかけたアタックを続けている時に、こんなことしかできない自分が歯がゆかった。
その時、コースの彼方から、空気を切り裂くかのような甲高い音が近づいてくることに大橋は気づいた。
「きたか!」
ボードを手にピットを飛び出し、まもなくこの場所の前を通るであろうそのマシンを待ちわびる。遠くからでもよくわかるロータリーエンジン特有の甲高いエキゾーストノート。その音が、もう一台のマシンが奏でるレシプロエンジンのエキゾーストノートとハミングしながらこちらへと向かってくる。
「マシンが見えたぞ!」
大橋の後ろでスタッフの一人が叫んだ。コーナーの向こう側から、シルバーのマシンが姿を現す。そして、そのほぼ真後ろにつけるかたちで、オレンジとグリーンのカラーリングを身に纏ったひときわ目立つマシンが後に続く。
「いけえぇぇぇ寺田ぁぁぁ!!」
ピット前を駆け抜ける787Bに向かって、大橋はボードを掲げ精一杯叫んだ。ボードに書かれていたのはアルファベット二文字。
『GO』
大橋が寺田に送る最大限の励ましの言葉だった。
****
――粋なことをするじゃないか。
大橋が掲げたピットボードに書かれたその言葉を、寺田はしかと見届けていた。そしてそれは、限界を超えた走りを続ける寺田の背中を押す力となる。
――やるしかないよな。
ここに至り、寺田は一つの決意を固めた。前をゆくメルセデスにオーバーテイクをしかけようというのだ。
仕掛ける場所はすでに決めていた。一度目のオーバーテイクを防がれたストレート前のコーナー・テルトルルージュ。
思えば、今の状況はその時と同じだ。ただ違うとすれば、二台のペースが格段に上がっていることだろう。
まさに死闘。両者共に二四時間の耐久レースの終盤とは思えないほどの白熱した走りをみせていた。
そして、二台は連なりながらテルトルルージュにさしかかる。
「さぁて、それじゃあやりますかねぇ!」
寺田は今回もまた一度車体をアウト側に振った。
合わせてメルセデスもアウトに車体を寄せる。だが、今回は787Bの進路を塞ぐためではない。ただ単に自らにとって最速のラインを描くためにそうしたにすぎなかった。
――抜いてみせる。
――抜かせるものか。
二台の間に散る、不可視の火花。両者の技術、そして意地が激突する。
刹那、寺田は覚悟を決めた。限界を超えてもなお相手は速さでは自分の上をゆく。ならば、限界のそのさらなる先へ歩を進めるまで。
「南無三!」
寺田は異常ともいえるハイスピードでコーナーに飛び込んだ。スローインファーストアウトというコーナリングの基本を完全に無視したその走りは、もはや、無謀と言う他ない一か八かの大博打。
対するメルセデスは基本に忠実なアウトインアウトのラインでコーナーへ進入する。それは無駄のない完璧な走り。さらに、意図せずではあるが、自然とラインが787Bにとってベストとなるラインを塞ぐかたちになる。インにつくタイミングが絶妙すぎたのだ。
だが、寺田の狙いはインではなかった。
――曲がれぇぇぇ!!
寺田はインにつこうとはせず、オーバースピードのままメルセデスにアウトからかぶせてゆく。それは、優れたコーナリング性能を誇る787Bが見せる限界を超えた走り。
――行くな。こらえろ。そっちじゃない。
じりじりと遠心力で車体がアウトへ孕んでゆく。このまま車体がコースからはみ出れば失速は免れない。さらにそのまま勢いを殺しきれなければ壁にめがけて一直線だ。
激しい横方向のGに耐えながら、寺田は祈るような気持ちでステアリングをきる。
じわり。
じわり。
コースの外の芝生が、その先にある壁が、787Bめがけて迫り来る。
曲がれ。
曲がれ。
寺田はコーナー出口だけを見つめ、強く念じる。
突然、背中に振動が伝わった。どうやら後輪がわずかにコースからはみ出たらしい。
寺田は一瞬ひやりとする。最悪の可能性が頭をよぎった。
だが、その最悪は起こらなかった。787Bは無事にコーナーを抜けたのだ。
そして、レース開始から二三時間と四五分。ロータリーエンジンを搭載したそのマシンは、世界最高峰の耐久レースにおいて、先頭を走行していた。
――――どうだッ!!!!
寺田は歓喜に震えるまもなくマシンの操作に集中する。パワーで勝るメルセデスに直線でかわされぬように、相手をブロックする作戦を取るつもりだった。
しかし
それは
一瞬の出来事だった。
直線に入るやいなや、凄まじい加速で787Bを抜き去るシルバーのマシン。
「なん……だと……」
寺田は驚愕に目を見開く。コーナーでかわしたはずのメルセデスが、すでに自分の前を走っていた。
彼は知るよしもなかった。メルセデスがこれまで意図的に回転数を抑えて走ってきたことを。そして、その封印をたった今解き放ったことを。
「クソッ!」
寺田は即座に787Bをメルセデスの真後ろに滑り込ませる。これまで追撃中にそうしてきたように、相手のスリップストリームにつけることで空気抵抗を軽減させ、直線で振り切られるのを避けようと考えたのだ。しかし、一つだけ懸念材料があった。あまりにパワーの差がありすぎて距離をはなされてしまうと、スリップストリームは機能しないのである。
「ここまできて冗談じゃない!」
フロアをお踏み抜く勢いでアクセルを踏む足に力をこめるが、想いむなしく、メルセデスとの差はぐんぐん開いてゆく。
――っぅ……ダメかッ!
この終盤にきて、悪夢のような加速で787Bを突き放すメルセデス。その圧倒的なパワー差の前に寺田は絶望しかけた、が、
「これは……どういうことだ?」
にわかには信じがたいことが起こっていた。このまま突き放されると思っていた787Bが、スリップストリームの効果を得られるギリギリの距離で踏みとどまっていたのである。
寺田はメルセデス側のエンジントラブルを疑ったが、それは違った。メルセデスが失速しているのではない。787Bの加速が先ほどよりも伸びているのだ。
それは、まさに奇跡としかいいようがない現象。長年レースに携わってきた寺田にとっても初めての経験だった。
「まさか、こんなことが……」
驚きの表情を浮かべながら各種計器をチェックする。
水温、油温、共に上昇。
油圧、著しく低下。
――しかし、回転感軽く、パワー感有り。
寺田は直感的に理解した。今、このエンジンがブロー寸前であることを。そして、この驚異的な伸びが、ロウソクが消える瞬間の最後のひと燃えであることを。
心に迷いが生じる。
このままアクセルを踏みつづければ、間違いなくこのエンジンは死ぬ。
レースの残り時間は本当にもう僅かだ。ここで全てをふいにしていいのだろうか。
わかっている。
現在のレースの状況も、ロータリーエンジンが置かれた立場も。
ここでアクセルを緩めれば楽になれるのだろう。
だが、それでは勝てない。
――さぁ、どうする寺田陽次朗。
逡巡の刹那、頭をよぎったのは、松浦が口にした一言だった。
(寺田くん、全開で踏んでくれ。我々の作ったロータリーエンジンは絶対に壊れない)
「……その言葉、信じましょう」
寺田はアクセルを緩めなかった。
エンジンが断末魔の悲鳴のような咆哮をあげる。
目指すは、ただ、前だけ。
少しずつ、少しずつ前へ。
メルセデスとの差が徐々に、徐々に詰まり始めた。
ロータリーエンジンは回り続ける。どこまでも、どこまでも、突き抜けるように回り続ける。
脆い。弱い。儚い。そう言われ続けてきたエンジンは、この極限の状況で、最高のパフォーマンスを発揮していた。
まさにそれは、男たちの意地と執念が呼び起こした奇跡。
……337……338……339……340。
最高速度が340km/hに達したその瞬間、寺田の視界の先に、白いもやが立ちこめるのが見えた。
「メルセデス、ブロー!」
急激に失速するメルセデスをかわしながら、無線機に向かって叫ぶ。787Bの驚異的な追い上げに、メルセデスのエンジンがついに根を上げたのだった。
《よっしゃあぁぁぁぁっ!》
無線機から、大橋の歓喜の声が響く。メルセデスの姿は、瞬く間にバックミラーの彼方へ消えていった。
「やった……やったぞ大橋!」
《ああ! お前は本当によくやった。さぁ、ペースを落とせ、787Bに追いつける者はもういない》
「了解。さすがに疲れた」
寺田はマシンのペースを落とし、レースの終了時刻を待ちわびる。無線機の向こうから伝わってきた、勝利に興奮する仲間たちの様子がたまらなく嬉しかった。
「すごいよ……お前は本当に最高のマシンだ」
死闘を共に闘い抜いた相棒に言葉をかける。様々な苦難を経て、脆い、弱い、と、さんざん言われ続けたロータリーエンジンがついに手にした世界の頂点。遠き日に夢見たその場所を、彼らはいま、確かに走っていた。
「さぁ、行こう。まもなくチェッカーだ」
787Bをゴールラインへ向けて走らせた。王の凱旋を妨げぬようにと、全てのマシンが道を空ける。
「もうすこし……もうすこしだ……」
レース終了時刻までの残り時間、ゴールまでの距離、共にあと僅か。寺田は、今にも零れそうな涙をこらえて、仲間たちが待ち受けるその場所を目指した。
レース終了時刻まで、残り一〇秒。
10……9……8……7……6……
最終コーナー前、コース脇の沿道に翻る日の丸が目に入った。
5……4……3……2……1
脳裏をよぎるのはロータリーエンジンと共に歩んできたこれまでの日々。
……0。
レース終了。
寺田の全身の力が、どっ、と抜ける。
――終わったな。
言いようのない気だるさと幸福感を感じながら最終コーナーを抜け、総立ちの観衆が待ち受けるホームスタンド前へと787Bを走らせる。
そうして、男たちの魂の結晶ともいえるマシンは、彼らを讃える大歓声の渦の中へと飲み込まれていった――。
ラストチャンス・1991 4E @ep_meister
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