第54話 見上げれば月、見下ろせば炎。


 結論から言うと、ようやく、劇は終わりを迎えた。


 飛び交う蛍に祝福されるほたるとケイを舞台に残しながら、ゆっくりと幕が下りていく。

 遂に客席は幕一枚を隔てた遥かに彼方に遠ざかり、目の前にはそれでも俺を見つめる赤根の姿。互いの表情が辛うじてわかる程度の薄闇のなか、笑いながら涙を流す彼女はそっと俺に抱きついて来た。


「ありがとう」


 えっと思う間もなく彼女は離れ、幕の外でのカーテンコールへと向かって行った。


 それが、もう数時間は前のこと。


 未だに俺は夢うつつ。

 一人ぼんやりと、例の鍵を使って忍び込んだ屋上から、ゆらゆら踊るキャンプファイヤーの炎を見下ろして、赤い炎に彼女の影を重ねてしまう始末だ。


 ――ずっと、たぶん初めて会ったときから、見て見ぬふりをしてきた感情だった。

 ――女子に対する耐性がないから誰でもよいのではないかと、生まれて初めて見たものを親だと刷り込む鳥のようなものではないかと、自分を訝しんできた。けれど宮子ちゃんや沙織さんや新庄さんと少なからず交流があった今でさえ、当時よりも溢れてしまいそうになる。


「赤根のことが、好きだ……」


 せめてもの抵抗で自分の耳にすら届かせまいとするような小さな小さな声が、けれど確かに、口から漏れた。



     *   *   *



 公演後の時間は、ありがたいことに、慌ただしく過ぎていった。


 ミスターコンテストの衣装のままでカーテンコールに割り込んで卒業公演の宣伝なんかやりおった沙織さんを問い詰めて、部員の親などの関係者への挨拶を行って、今回公演を行う行わないで二転三転して迷惑をおかけした方々へお礼に回り、衣装を着替え泥のメイクを落とし、体育館のステージに貼られた蓄光テープを――正確には跡が残らないよう蓄光テープの下に張った粘着力の低いマスキングテープを剥がし、体育館中に置かれたパイプ椅子をしまい、使い回せるものと捨てるものに分けた大道具・小道具をごみ捨て場や道具置き場となっている部室へと男三人で運び、体育館のカーテンを暗幕から普通のものへと付け替えて、ようやく手伝えたクラスの片付けでも男手が足りないとごみ捨てに行って…………


 ようやっと一息ついた頃には、この学校の生徒のみが参加可能な後夜祭が、とっくに始まる時間となっていた。

 空を見上げれば――雲一つない星空とまではいかないが――雲間から涼やかな月光が地上へと降り注いでいる。キャンプファイヤーは無事に行われていることだろう。


 ふと一つ思いつき、目の前のごみ捨て場から比較的綺麗な段ボールを一枚抜き出した。そして俺は屋上へと足を運び、うだうだ悩む今に至る。


 ここから見下ろすキャンプファイヤーの火は、思いのほか儚げだった。まるで水中から見上げるお月様のように、ふわふわと揺らめいている。実際の月はというと、今もこうして地上の炎よりも確かな輪郭を身にまとい、地上に光を投げているのだけれども。

 キャンプファイヤーの回りには、一定の距離をおいて多くの生徒たちが集っている。楽しそうな笑い声が、ここまで聞こえてきた。耳を澄ませば、火の燃えるパチパチという音すら聞き取れるのではないだろうか?


 けれど澄ました耳が捉えたのは、扉の開く、鈍い音だった。


 振り返った先にいた小柄な人影は、驚いた風もなくこちらに向かってきた。そして公演での意趣返しのようにねちっこく「こんばんは、誠くん」と口にした。


「呑気に挨拶なんて……って返せばいいのかな?」

「よく覚えてるねぇ。あんなアドリブだらけの場面」と返事は呆れたように。

「あの時は緊張というか、ドキドキというか、すげえ集中してたから。この劇ぶっ壊しちゃったらどうしようって」

「びっくりドキドキするのは私の方でしょうが。あーもう、ほらほらもっと詰めて、私座れないでしょ」


 無理やり段ボールの端に座りながら俺を肩で押しやるのは、言わずもがな、赤根のやつだった。


「ごみ捨て場には腐るほど段ボールあるから」

「何とって来いって? いいじゃん寒いし。ちなみにコーヒーもあるよ? ウチのだからまあそこそこは美味しいはず」

 赤根は保温性の高そうな水筒と、どこかの出し物で余ったという紙コップを振りながら言う。コーヒーに惹かれた瞬間に、赤根はささっと紙コップにコーヒーを用意した。

「はいどーぞ」「ありがとう」と、なし崩し的に、肩が触れあう距離で座り込むことになった。何とはなしに二人で校庭を見下ろす。もっとも俺の方はというと、下のことなんかとっくに頭から消えつつあったのだけれども。


 しばらく、コーヒーをすする音が微かに響くだけの、会話のない時間が続く。横目でちらりと赤根を見ると、どことなく上機嫌なように見えた。


「舞台の外っていいよな、意味のない沈黙が許容されて」なんて思わず呟くと、赤根は横でむせていた。曰く「演劇に毒されすぎでしょ」とか。それと小声で何事か。一転、やや早口の明るい声色で話し出す。


「まあともかく、それだけ一生懸命になってくれるなんて嬉しいね」

「そうかねえ。本当は幾らでも手を抜きたかったけど、そんな余裕がなかったって感じかなぁ」

「へー、詳しく聞いても?」

「そんな大したことじゃないけど……。単純にキャパオーバーすれすれだったなていう反省」

「そっか……。ありがとう、いつも」

「こちらこそ、ありがとう」と素直に返す。が、しかし。


「馬鹿。茶化してよ……。公演前に誠くんがそう言ったときは、私茶化したじゃん……」

 手で顔を抑えながら赤根はそんな理不尽なことを言う。


「公演前と、ひとまず諸々終わった今じゃ違うでしょうよ」

「恥ずかしくないの?」

「恥ずかしいけど、言うべきこと言えない方が恥ずかしいでしょ」

「ワー、オトコマエー」

「茶化すなって」

「茶化してって」

「茶化されんのめっちゃ恥ずかしいんだからな!」

「茶化されないのすごく恥ずかしいんだからね!?」


 互いに深いため息と、耐えきれなくなったクツクツとした笑いがもれる。

 そのまま自然に、赤根が言った。


「台本周りのドタバタから含めて、今回の公演で心底思い知っちゃった。――私、誠くんのこと好きなんだなって」


「…………え?」

 辛うじてこれだけ返せた。


 言葉を失う俺のことを見てクスリと笑った赤根は「ちょっと長台詞になるけど、聞いてくれる?」と尋ねてくる。俺はなんとか頷くことしかできなくて、それを見て赤根はさらに笑う。


「元々私さ――言葉にすると思春期あるある程度のものだけど――なんか毎日が全然楽しくなかったのよね。中学のときがピークだったと思うけど、高校に入ってからもたぶん根っこは変わってなかった。あたかも演劇大好きっ子みたいに振る舞って、それこそそんな風に演じてた。しかも下手くそに」


 一つ息を吐き、力を抜きながら「そうじゃなきゃさぁ、よく知りもしない初対面の相手をあんな風に勢いだけで勧誘なんかしないでしょ」と続けた。


「それって、今年の春のこと?」

「モチコース」


 俺の目は赤根の横顔にくぎ付けになっていた。少しふざけた口調の彼女はしかし、目を潤ませながら月を見上げている。


「月が綺麗だ――なんて思ったの、誠くんと出会ってからなんだ。貴方と出会えて、生きることって結構楽しいじゃんって思えたの。去年の新人公演でやった役にさ『世界は美しい』だの『人生は最高』だの言わなきゃいけないものもあって、正直演技はダメダメだった。当時の三年生さんはテキトーに褒めてくれたけど、沙織さんはブスーっと不機嫌そうで『絵美ちゃん、私の見込み違いだったのかな?』なんて直接言われたこともあるくらい」


「え、去年は沙織さんに『絵美ちゃん』って呼ばれてたの?」と遮ると「そこ拾う?」と赤根はまた笑う。


「去年は去年で結構ごたごたがあったから記憶が曖昧なんだけど、あの人が私のことを『アカネちゃん』って呼ぶようになったのは私が台本を書くようになってからのはず」


 ここで1つ赤根はケラケラと笑いを挟んだ。

「役者としては未だに認められてないのかもね。さっきも先輩とちょっと話せたんだけど、今日の公演、客観的な評価としては宮子ちゃんが出てたゲネプロの方がよかったって言われたし」

「客観的に、ねえ……」

 主観的な感想が気になるところだけれども。


「というか、話が逸れてます。今、大事な話をしてるんです」


 赤根はふざけた口調で、しかし口を尖らせる。


「あ、悪い」

「はは、誠くんは本当に素直だね。そういうところも、好き」


 そういった彼女は俺の顔を覗き込んできた。にっこり微笑む表情を見て、俺は顔を逸らす。


「本当に素直だねぇ」

「なに、からかってんの?」

「ううん。真面目も真面目、大真面目だよ。誠くんのことが大好きなんです」


 全然真面目じゃなさそうに、クスクス笑いながらそんなことを言う。

 何か言わなくちゃ、そう思いながら深く息を吸ったその時、額に赤根のデコピンが飛んできた。沙織さん直伝のデコピンと言いながら、赤根はベーと舌を出している。


「あのなぁ……」

「返事、今は、いらない。むしろ聞いちゃダメなの。部内の惚れた腫れたなんて、周り巻き込んでギクシャクするに決まってるんだから」


 顔を逸らすように月を見上げた赤根の横顔に、一筋の涙が走った気がした。


「お前ばっかり言うのもルール違反だろ……」

「ルールは破るためにあるんですよーだ」


「じゃあ俺もルール破る」と唇を尖らせると「部長さんがルール破るんですかー?」と澄まし顔でコーヒーに口をつける赤根だった。


「部長だってとこ責めるのはセコくない?」

「セコくないセコくない。むしろルール破ろうとした部長を止めたワタクシ偉いデス」

「……じゃあルール破らなきゃいいんだよね?」


「はい?」と首を傾げる赤根に対して、努めて大したことじゃないように心がけながら言った。「俺も赤根のこと好きだから。引退したらまた告る」と。


 屋上は風が強い。火照った頬の熱を奪うような風が吹き抜けた。寒さを思い出したかのように赤根は少し身を寄せてくる。

 恐る恐るといった様子で頭を俺の肩に預けてくるが、行動とは裏腹に、彼女の口から溢れたのは「馬鹿だなぁ」と呆れた響き。


「言っておくけどね、誠くん、君自分で思っているよりモテてるよ? もったいない。もったいない」

「仕方がないだろ。それでもお前が好きだ、って思っちゃうんだから」


「えー。何それ何それ。モテてるって自覚あるの? うわぁ」

「そんなわけ……! 揚げ足取りだろそれ」

 痛い痛い痛い。頭でめっちゃ俺の肩をグリグリしてきてる。肩が触れてない方の腕で軽くデコピンをくれてやる。赤根は動きをしばらく止めたあと、しみじみと呟くよう囁いた。


「そっか。……そっかぁ。じゃあ、頑張ろう? お互いに」

「何を?」

「そりゃもちろん部活を」


 赤根は立ち上がり俺に笑いかけた。


「私はもっと誠くんに好かれるよう頑張るから、精々溺れすぎて部に迷惑かけないよう注意してね」

「こっちの台詞」

「はは。楽しみにしてる。──はい! 以上が『誠くんを役者に台本を書く』って約束は今回叶っちゃったから、誠くんを演劇部に縛る新しい口約束なのでしたー」

「誤魔化し方に無理があるんだよなぁ」


 最後まで二人で笑いながら、屋上を後にしようとして……突如「足がシビレテター」とわざとらしい棒読み声を赤根が上げた。そのままゆっくり倒れる馬鹿を慌てて支えて、いつかの夕焼けを思い出す。


「あの日は夕焼け、今なんて夜なのに、誠君の顔はいつもバレバレの真っ赤っかだね」と俺を見上げて赤根は笑った。


 あの日と違って俺は真っすぐ赤根を見つめて「今日はお互い様だろ」と返した。


 月光が照らす赤根の顔は、あの日のような分かりやすい微笑みなどではなくて、不服そうに唇を少し尖らせて、けれど唇の端は隠しきれず緩んでいるようなそんなどこか間抜けな赤ら顔だった。





     終章 文化祭公演編


      ―― 完 ――


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

女子がちょっと苦手な俺が、転入先の元女子校で劇部女子に振り回されている……! 置田良 @wasshii

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ