第53話 文化祭公演「蛍姫物語」


「誠先輩、悪いニュースと悲しいニュース、どっちから聞きたいですか?」


 教室公演でのそれより遥かに広い体育館の舞台袖で、上下を黒い服で揃えた、いわゆる黒衣くろごの羽里ちゃんが小声でそう尋ねてきた。ちなみに今は公演の真っ最中で、舞台上では凛ちゃんと雅彦君の演じる役が悪だくみをしていたりする。


「いいニュースは?」と尋ねると、彼女は「そんなものはありません」と首を振った。


「それじゃ、悪いニュースで」

「悪いニュースは、さっきの場面でアカネさんが捌け口を間違えました」

「悲しいニュースは?」

「これから先、ほたるアカネさんは屋外でも裸足のままです」

 羽里ちゃんが指差す先には、ほたる用の漆(風の)下駄が置いてあった。今回の公演では、その場面が屋内なのか屋外なのかを表す手段の一つとして、敷物を履いているか否かという方法をとっている。

 少し考えてみるが、今後の入り捌け的に、確かにこの下駄を渡すのは難しかった。


「いいニュースはやっぱりない? 現状を打開できるような」

「強いて言えば、誠先輩にこのことをお伝え出来たことですかね」

「あー……社会人になると報告・連絡・相談ほうれんそうが大事と教わるらしいね」

「おいしいですよね。ほうれん草」

 そうだね。おいしいね、ほうれん草。


 さて、どうしようか。



     *  *  *



 この場――つまり下手側の舞台袖――で集まることが可能なメンバーで集まって、話し合いを行うことにした。既に一つ場転をしていて割ける時間は五分強程度だが、どうするのか、あるいはどうもしないのかを決めなければいけない。

 小声で話し合いを行うのはたったの三人。羽里ちゃん、今回の劇で悪役求婚者役の凛ちゃん、そして俺だ。


 舞台では、ほたるとその父親が、つまり赤根と雅彦君が口論をしている。もうこの次のシーンにはほたるは屋外へ飛び出すのだ。


「変に何かをしないことが正解だと、ウチは思います」

 凛ちゃんは端的にそう主張した。


「アカネさんはただでさえ代役で余裕がありません。この上さらに負担をかけるべきではないかと」

「でも、アカネさんは無難にまとめに行きたくないと思うよ? ギリギリまでできること全部をやりたいんじゃない?」

「そうは言っても、ミスの一つや二つ想定していないはずがないっしょ。もしもしてないというのなら、先輩の見積もりが甘すぎます」

「どうどう。まとめると、凛ちゃんは下駄がないくらいは許容すべきと思っていて、羽里ちゃんはどうにかして渡せないかってことだよね。羽里ちゃん、何か具体的な案は何かある?」


 二人の意見をまとめつつ、尋ねた。


「せめて向こうと連絡が取れればいいんですけど、無いものねだりしても、しょうがないですもんね……。ごめんなさい。妙案は浮かびません。仮にアドリブを入れるにしても、どんなものを入れたらいいのやら……」

 小さく首を横に振りながら答える羽里ちゃん。


 何もすべきではないと主張した凛ちゃんを含め、三人で黙り込んでしまった。貴重な時間が一秒、二秒と流れていく。ふと、凛ちゃんが溢す。


「アカネさんのキャラなら、裸足で駆け回るような姫様でいいと思うんですけどね……」

「あ、それ私も近いこと思った。無理に宮子に寄せる必要なんてないのにって。正直、台本会議のときの方が生き生きしてたよね?」


 二人の会話を聞いて、俺はハッとさせられた。舞台上を見やれば、確かにどこか息苦しそうな、窮屈そうな赤根の姿があった。

 一昨日の夜、宮子ちゃんは俺らしい演技をすればいいと言った。俺らしい演技とは何ぞやと思わないわけではなかったけれど、やりたいようにやればいいのなら――。


「二人ともありがとう。お陰でやってみたいこと、浮かんだよ」

「ええと……どういたしまして?」 

「で、どんなことが浮かんだんすか?」

「いやなに、ちょっと素直になろうかなって。具体的には『こっち向けや』という気分で」

「え、アドリブぶち込むんです?」

「アドリブというか、まあ、ケースバイケースで。あと可能なら下駄取りに戻るかも」

「誠先輩ってホント……。あ、ケイさん、もうすぐ出番みたいです」


 羽里ちゃんの言いかけたことは気になったけれど、確かに舞台ではほたると父親の口論が佳境を迎えていた。この次の瞬間にもほたるは館を飛び出して、俺が彼女を探し回ることになる。具体的には暗転後、俺がほたるを見つけた場面が始まる。


 よし。信じてるよ、赤根。



     *  *  *



 冷ややかな月光が、地に降り注いでいる。

 俺はその明かりを頼りに、小さな川の音を耳におさめながら、草木をかき分け、林の中に入って行く。館を飛び出したとかいう、あの馬鹿ほたるを探すためだった。わざわざこんな場所を探すのは「もしかしたら」という心当たりがあったため。


 脳裏に浮かぶは、遠い昔、二人で蛍を見た記憶。


 走りながら、二度、転んだ。

 それでも、走った。

 胸を占めるのは、怒りだった。

 誰に向けてなのかは分からなかったけれど。

 たぶん、何もかもに向けて、全てに向けて、怒っている。

 頬を切る草木に対しても、すまし顔の月に対しても、あくどい求婚者や彼女の父親、あるいはほたるに対しても、そして何より……自分に対しても。あいつを見つけたとき、自分がどんな行動をとってしまうのか、不安になるほどだった。


 そして、最後はもはや行く手を阻む枝をへし折りながら、ようやく開けた場所に出た。川がチロチロと鳴きながら、その水面に淡い月光を弾かせている。


 けれど一番目を引いたのは、川岸の大きな岩に腰かけるほたるの奴だった。

 やや俯きがちにぼんやりと川面を眺めながら、器用に岩の上で膝を抱えて座っていた。


 安堵と心配とが混ざり合い、なんだかあれ程までの怒りがスッと引いてしまった。少なくとも台本通り「やっと見つけた……!」と騒ぐ気には到底なれない。

 わざと足音を立てながら、彼女の元へと近づいていく。荒れた息を懸命に抑えながら、話かける。


「こんばんは、ほたる」

「……ケイ」

「こんばんは」

「……呑気に挨拶なんて」

「いやいや、本当は見つけたらすぐぶん殴ってやろうと思ってたさ。それはともかく、こんばんは」

「……こんばんは」


 諦めたように答えながら、彼女はようやく顔を上げた。微かに、驚きの色がほたるの目の奥に浮かんだ。そうだよ、こっち向け。


「やっと目があった」

「え……」

「このところずっと、そうだったろ?」

「言われてみれば、そう、かも」

「かもじゃない。間違いなくそうだった」

「……そんなのどうだっていいじゃん」


 彼女の目の色が強くなっていく。不審と警戒と「止めろ」という感情だろうか。止めるわけがない。


「よくない」と端的に答えを返すと、彼女は立ち上がった。予想通り、あるいはこちらからパスした通り、台本の流れに戻った台詞が返ってくる。


「どうだっていいの。アンタには分からない。分かりっこない。私なんかよりも大切で、みんなで守らなきゃいけないお姫様わたしがあるのよ……! だから、だから! 私のことは放っておいてよ!!」


 唐突に、少し前のことを思い出した。

 ケイのではなく……俺の、相田誠の記憶。

 思い出したのは赤根のことだ。こちらを見ているようで、そのくせ本当には見てない目で、演劇に興味はないかと初対面でぬかした赤根のことだ。身勝手な赤根ほたるの言い分に、あの時と同じ種類の、怒りに近しい感情が首をもたげた。


 この時点で、このまま素直に台本の流れに沿う選択肢は確かにあった。けれど、……けれどきっと、俺は役者失格だ。


 確かに先代沙織さんの頃から「共に舞台に立つ役者をよく見ろ」と「演じるのではなく自分自身の感情に向き合え」と、色んな人に言われていた。ここはそういう部だった。けれど、これは行きすぎだろう。

 だって今の言葉が「ほたる赤根絵美より、台本江見明音の方が大切だ」と言っているように聞こえてしまったのだから。

 そしてそう捉えたうえで、俺は演技を――もはや演技と呼べるのかすら怪しいが――続けようというのだから。


 一つ、横隔膜の底から絞り出すような、深いため息が自然と漏れた。


「ばーか」


 彼女は、目と口をポカンと開けた。間抜け面。


「自意識過剰。そりゃあ求婚者なんてのが現れるようになって、外から来る人も物も増えた。でもほとんどの人にとって、お前はのまんまだよ。村長おやっさんだって、根っこはお前のことを思っての行動だろ。あれでも。違う?」

「そんなこと分かってる。でも、私は……」

「私は?」


 川の音が、風の音が、次第に引いていく。息苦しいまでの静寂が訪れたあとで、赤根は絞り出すように「怖い」と呟いた。


「怖いのよ……。きっと、誰かのためを思っての――いや、さも誰かのためを思っていますって行動の方が楽なんだと思う。自分のためって、怖いのよ。とても」


 薄暗い舞台。ピンスポットライトを浴びて、赤根は微笑みながら続ける。


他人ひとの目はもちろんだけど、自分自身の目を誤魔化すには、そうしないと駄目みたい」

「でも、それでも譲れないものもあったんだろ? だから――」


 だから、この公演を中止にしなかった。


「だから、ずっと無理難題で求婚者を追い返してる」

「そうね。うん。貴方の言う通りバカね、私。半端もの」

 俯きながら、赤根は悲しそうにケラケラと笑った。


 かける言葉が浮かばなかった。たぶん、どんなに巧みな言葉を投げかけても、今は意味を持たない。

 そんなことを考えていたからだろうか、その垂れたこうべを見て、俺は……ポンと彼女の頭を撫でたたたいた


 勢いよく赤根の顔が上がる。

 今日イチの驚いた顔。

 見開かれた瞳に俺の顔が映り込む。

 謝りながら、俺は慌てて逃げ出した。

 そして赤根は――爆笑した。


「なっ……プハッ!! ヒッ――ハハ。そんなっ、顔するくらいなら、ハナっからしなきゃいいのにっ……!! おっかしーの! クハッ、フフッ、ヒヒャヒヒヒ!」

「そんな笑わなくてもいいだろが!」

「そ、そうね。ヒッ、ごめ、んね……!」

「……まあ、ちっとは元気になったんならいいんだけどさ」

「ごめ――今、そういう台詞ムリィ……ヒハハッ!」


 こんにゃろう……。俺は近場の岩に座って、コイツが落ち着くまで待った。結構けっっっこう待った。


「ごめんごめん! 拗ねないでって!」

「拗ねてねぇ」

「あーはいはい拗ねてないね。うん、拗ねてない。で、何の話だったっけ?」

「もういいよ……」

「私のこと心配してくれてた話だっけ?」

「身も蓋もねぇ……」


 いつの間にか、川の音や風の音、加えてどこか涼し気な虫の音が辺りに戻っていた。というかこれ芦原の仕事か。消したりつけたりとまあ大変だなアイツも。と、他人事のように思ったりする。


 俺が座る岩の側面に背を預けるようにして、赤根ほたるは地面に座り込んだ。顔は合わせないまま語り合う。


「ケイの言う通り、譲れないものはあったのよね。確かに」

「何の話だっけ?」

「はーい。誤魔化さない。ねえ、どうしてだと思う? どうして私は、無理難題なんかを吹っ掛けてるのでしょう?」


 イタズラっぽい声が、不思議と遠く響き渡った。

「知るかよ」と答えても「知ってるかどうかじゃなくて、考えて」と返される。


 実は、求婚者を追い返す理由を考えろという流れは、回り回ってようやく元の台本の流れに戻りつつあったりする。流石に、ここで台本の流れに沿って収拾をつけなければ。


「結婚の話を断るため?」

「だとしたらなんで結婚を断りたいと思う?」

「あー……もっと遊んでいたいからとか?」

 唐変木のようにケイはぬかすが、ほたるは少し笑ったあとで「うん。もっと一緒に遊びたい人がいるの」と答えた。


「へえ。ならこんなところで油を売ってる場合じゃないだろ。その誰かと遊ぶなり、あの男を追い払う対策を立てるなりしろよ」

 ケイは立ち上がり、ほたるに対して背を向ける。

 それに対し、ほたるは「……帰っちゃうの?」と小さな声で問いかける。さて、台本ではここで言い争いが起き、想いを暗にぶつけ合う。だけど、既にさっき言い争いしちゃってるんだよなあ……。

 ちらりと振り返り、ため息を一つ。


「履物、とって来るから。何も履かずに飛び出しやがって……」

「え? ああ、そういえばそうだった――」

 ほたるは座りながら器用に片足をピンと伸ばして持ち上げる。きっと客席から観てわかりやすくするための動作なのだろうとわかる。わかるのだけれども……、衣装の裾がずり落ち、ひざに加えて太ももまでもが露わになって――。


「ハシタナイデスワヨッ!!」

「誰なの!?」

「ケイダヨ!?」

「知ってるけども!」

 裏声で突っ込む俺と、機敏に立ち上がり応酬するほたる。客席から多少の笑いが起きた。よかった。ギャグで誤魔化せたと信じて、再度履物を取りに行くと言いながら俺は舞台袖に逃げ込んだ。



     *   *   *



 舞台袖に戻ると、後輩二人がなんとも味のある表情をしていた。

 ぶっきらぼうに「何?」と聞くと、羽里ちゃんは「わ。ケイさんっぽい」なんて言ってのける。


「それはともかくお疲れ様でした。で、ほたるさんの下駄ですけど、ちょっとボロっちくしておきました。これならケイの家にあってもおかしくない! たぶん!」

 小声で宣言されつつ手渡されたなんちゃって漆下駄の塗装は、一部が剥げていて、確かにボロい見た目になっていた。言われてみれば小綺麗な下駄がケイの家にあるのはおかしい。


「ありがとう。凄いね、チラッと『可能なら取りに戻る』と言っただけなのに」

「どういたしましてです。そんなことより、舞台に集中してくださいな。タイミング見て戻らなきゃなんですから」


 腰を掴まれ、くるりと半回転させられる。先程より薄暗くなったように見える舞台に、赤根が一人。

 そうだ。まだ今後の展開のためには、ほたるとの約束を取り付けなければならないのだ。二人で、また此処に蛍を見にこようという約束。今来ている厄介な悪役求婚者を追い払わなければ叶うことのない、ケイに課せられる無理難題。

 正直もはや何の不安もないけれど、とはいえ未だ気を抜くことは許されない。

 だと、いうのに。

「今のアカネさん、すっごく可愛いですね?」と、後ろで羽里ちゃんがイタズラっぽくささやいた。聞こえないふりをして、俺は舞台に視線を集中させた。

 そんなこと分かってるよと反応しかけた心を無視するように。


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