36-5.「調子、戻ったみたいだな」

(美登利さんは、池崎をどうするだろう)

 拓己には想像もつかない。拓己の陳腐な計算など、美登利や坂野今日子のようにより高度な計算を駆使する女たちにはまるで歯が立たないのだ。

 黙殺されるか、叩き潰されるか。その、どちらでもないのか。





 どこかすっきりした顔の正人を見て片瀬が話しかける。

「調子、戻ったみたいだな」

「え?」

「おまえはずっと調子が悪かった」

「うん、そうだな」

 やっと視界が開けた気分。なんでもできる、何者にもなれる。あなたがいれば。心は、どこへでも広がる。





「うまい、すげえいい匂い」

 彼女が淹れたコーヒーを飲むなり唸った宮前仁に美登利は満足そうに微笑む。

「なるほど。挽き立ての粉を使えば香りが良くなると」

「これ、材料は同じだろ?」

「そうだよ。温度、お湯の注ぎ方、それだけでも味が全然違う」

「ほーお」

「今度は煎りたての豆を試してみたいなあ」


「おまえは何杯コーヒー淹れれば気がすむんだ。ここは実験室じゃないんだぞ」

 堪忍袋の緒が切れたように琢磨が睨む。

「そうだよ、実験だよ。改善してあげてるんじゃん」

「頼んだ覚えはない」

「喫茶店でコーヒーが不味いってどうなのさ」

「タクマさん、メシ作るのはうまいのに」

「おう、料理は力業だからな」

 威張って言うことでもない。


「おまえがなにを試そうが俺はそうするつもりはないからな。意味ねえんだよ」

「バイト雇わない?」

「はあ?」

 持っていた新聞をぐしゃぐしゃにして琢磨は目を剝く。

「自分が暇だからって調子のいいこと言ってんなよ」

「いいじゃん、売り上げ貢献するから」

「必要ねえ」

 この店は道楽で、琢磨が他の収入で生計を立てていることは明らかだ。詳細については怖いから誰もなにも聞けない。


 仕方がないから美登利は最初の議論に戻る。

「喫茶店でコーヒーが不味いってどうなのさ」

「くどい」

「ねえねえ、タクマ。お願い」

「うるさい、さっさと帰れ」


 今日のところは確固たる態度の琢磨だが、数日中には堕ちるはずだと踏んで宮前はニヤリとする。これはおもしろいことになった。ぜひ日参しなければ。

 にやにやしていたら琢磨に睨まれ、宮前は慌てて口元を引き締めた。

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