36-4.そんな彼だから

(もう駄目なんだ)

 目に涙を浮かべながら綾香はなんとかその場に踏み止まる。

 思ったのとは裏腹に、なんとか彼を引き留めようと心が走り出す。


「好きなんだ」

 それは、綾香がずっと言ってもらいたいと思っていた言葉。

「おれは、中川先輩が好きなんだ」

 それなのに、どうして自分ではない誰かに向けてのそれを聞かなければならないのか。

「だからもう、小暮と一緒にはいられない」


 キスしたくせにっ。叫んでやりそうになって口元を押さえる。こんなのは惨めすぎる。

 でも、だけど。

「それでもいいって、言ったら?」

 涙をこぼしながら綾香は訴える。

「先輩を好きでもいい、それでもわたしの彼でいて」

「それはダメだ」

 冷酷なくらいにきっぱりと正人は言う。

「そんなんじゃ、先輩は振り向いてくれない」


 は? と綾香のくちびるが歪んだ。

「なに言ってるの? 中川さんだよ? あの人と、付き合えるとかって、本気で思ってるの?」

 馬鹿じゃないの、身の程知らず、一ノ瀬さんだっているっていうのに。

 大好きな人に対して罵る言葉ばかりが浮かんできてなおさら綾香はつらい。


 そんな綾香にただただまっすぐに正人は告げる。

「今はまだ無理でも先のことはわからない。おれは、すべてをかけるって決めたんだ。先輩はきっと振り向いてくれる」

「なに言ってるの……」

「だから、ごめん」

「馬鹿じゃないの……」

「うん。馬鹿でいい。先輩が好きなんだ」


(ばか、ばか……)

 そんな彼だから好きになった。今まで会ったどんな人よりまっすぐだった。そんなふうに自分を見てほしかった。

 今まで自分がしていたのはそんな彼を捻じ曲げてしまうこと。

 それでも隣にいたかった。

(大好き、大好き)

 もう届かない。もう駄目なんだ。

 思い知って、泣くことしかできなかった。




 翌日、泣きはらした目の綾香を見て拓己はため息をつく。綾香の隣で須藤恵も泣きそうな顔をしている。

 自由散策の時間に拓己のそばに寄ってきて恵が訴えた。


「わたし間違えちゃったんだね。きっと、絶対、うまくいくって、思ったのに」

「仕方ないよ。池崎が馬鹿なんだ」

「綾香ちゃんに申し訳ないよ」

「そう思うなら、須藤が心を強く持って励ましてあげなきゃ駄目だ。自分が悪い、なんて小暮に言ったら絶対にダメだよ。罪悪感があるならなおさらだ」

 罪悪感なんてものは一方的な自己満足にすぎない、言葉ではなく行動しろ。美登利ならきっとそう言う。

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