32-3.「そんなことないよ」

「着てなさい」

「え、だって、泳ぎにくいし」

「着てなさい」

「……はい」

 ちっと激しく舌打ちして亜紀子はスケッチブックを閉じる。


 遠目にそれを眺めていた恵が浮輪の上でぼそっとつぶやく。

「先輩、着やせするんだね」

「負けた……」

 がっくりうなだれる綾香にかける言葉がなかった。





 海で泳ぐなんて久しぶりだ。毎年来ていても娯楽は後回しになっていたから。

 少しなまったとは思ったが余裕で入り江の境界に飛び出た岩までたどり着けた。少し遅れて正人がたどり着く。


「くそ、負けた」

「だから言ったじゃん。下僕決定ね」

「今と変わんねーし」

 くすりと笑って美登利は沖の方を見た。

「ここから沖は危ないよ。潮の流れが変わるからね」


 言いながらぐるりと入り江を見渡す。岸辺に近い場所では拓己たち三人がビニールボートで遊んでいるし、岩場の方では巽と亜紀子が一緒にしゃがんで潮だまりを覗き込んでいた。

「平和だね」

 そうとしか言いようがない。


「つうか、あんた受験生だよな。予備校とかは」

「受験勉強しなくちゃならないような学校は受けないから」

「はあ?」

「うちの父は女の子にはお嫁にいくまで親のそばにいてほしいってタイプだから。通学圏内で女子大で国文学科ってなると結構限られる」

「キビシイんだな」

「そんなことないよ。放任なりの最低限の条件って感じかな」

「もったいなくないか」

「そんなことないよ」


 視線を感じると思ったら綾香がじっとこっちを見ていた。

 当たり前だ、好きな人のことは気になるし見つめてしまう。自分だってそうしたい。


 反動でなにも見たくない気分になって美登利は海に潜った。海中で体を丸めて気を落ち着ける。

 水面に戻ると正人がびっくりしていた。

「なんだよ、いきなり」

「戻ろう、アイスがあるんだった」

「う、うん」

 手で顔をぬぐって岸に向かって泳ぎ始めた。





 昼すぎには浜辺から引き上げて昼寝をした。なんて優雅な夏休み。

「美登利さん、花火も来るかな。誘いに行こう」

「行ってこい」

 見送ろうと思ったのに拓己に引っ張っていかれる。

 途中で春に仲良くなった拓己の元同級生と会った。話が長くなりそうで、先に行っててくれと言われてしまう。


(裏に回った方がいいんだよな)

 思い出して脇の木戸の方へ回った。

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