32-4.内緒だよ




 美登利が縁側で眠っている。団扇を握ったまま横向きに寝そべって寝入ってしまっている。

 滑り落ちそうになっている団扇を取り上げてもぴくりともしなかった。疲れているのか閉じた目蓋に濃い影が落ちている。


「無理にはしゃぐからだよ」

 気を使ってくれたんだよね、ごめんね。

 庭伝いにやって来た巽は縁側の脇にしゃがんでそっと妹の顔を覗き込んだ。

「ごめんね」

 投げ出された指先に触れながらつぶやく。


 置いていくだなんて思わないで欲しい。置いていかれるのは自分の方。いつだって自分の方なのだから。

 愛しているよ。君のいる世界でなければ自分は生きられない。

 だからせいぜいまともな人間でいる。そうやって、ずっとずっと守るから。


 ふたりだけの世界なら良かった。変わることの痛みも奪われる恐怖もなく、ふたりでいられるだけの世界なら良かった。

 だけど時は流れて世界は変わる。君だって大人になる。誰かのものになってしまう。自分にはない権利を持った誰かと生きるようになる。


 それでも愛してる。そのときにはきっと笑って見せる、そう決めた。

 大好きな人、君だけの幸せを願うから。手をつなぐことがもうなくても、抱きしめることができなくても。

 眠る彼女の指先にそっと口づける。ずっと愛してる。





 巽がいた。正人の気配に気づいて顔を上げる。目が合った。

 美登利の手に触れたまま、彼は、人差し指を自分の口にあてた。ほんのかすかに笑って、内緒だよ、というふうに。


「池崎?」

 うしろから拓己が追いついてくる。

 びくっと振り返った正人に拓己の方も驚く。

「どうしたんだよ」

「いや……」

 慌てて目を戻す。巽の姿はもうどこにもなかった。

(え……)

 まさか今のは幻だったのか。じんわり汗を浮かべながら正人は自分に自信がなくなってきた。


「ふたりとも、いつきたの?」

「今ですよ。すみません、起こしちゃいましたか」

 ぼんやりと体を起こして美登利は空を見つめている。

「誰かここにいた?」

 額に張り付いた髪をかき上げた美登利はふと自分のその手を見つめる。

「……誰かいた?」


「誰もいないよ」

 とっさに正人は強く言い張った。

「誰もいなかった」

「そう……」

 ようやく目が覚めたように濡れ縁に腰かけて美登利は訊いた。

「何か用?」


「花火のお誘いに。今夜みんなでやろうかと」

「せっかくなんだからカップル同士で楽しみなよ。来年の今頃は遊んでられなくなるんだから」

「……そうですね」

 はっとしたように拓己は頷く。

 美登利はにこりとしたがなんだか疲れているようだった。

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