30-16.今はいとしい

 間もなくドアが開いて一ノ瀬誠が入ってきた。

「来たか」

 青ざめた顔でそれでもしっかり誠は頷いた。そっと幼馴染の肩に手をかける。


「なにも聞かないから、一緒に帰ろう」

 そっと顔をあげた美登利にほっとした様子で誠はもう一度言う。

「一緒に帰ろう」

「うん」

 顔をくしゃくしゃにしてまた涙を流しながら美登利は頷いた。



     *     *     *



 それからの三年間は達彦にとっては瞬きをする間の出来事のようだった。

 考えることもやるべきこともたくさんあって、帰省できない時期もあった。

『平気よ、理事長先生ときれいな女の子とがお見舞いに来てくれるの』

 帰れないことを詫びる電話で母親が言った言葉に引っかかりはしたがそれだけだった。


 思い出したのは、髪の長い女とばかり情事を重ねる自分に気がついたとき。

 夢にすら見ない、それなのにかつて抱いた渇望ばかり忠実に再現される。

 なにがしたかったのか、なにが欲しかったのか。


 愚かな自分はいつも振り返ってから気づく。

 愛されていたこと、愛していたこと。自分の受け取り方ひとつで世界はそうであったのに、それを教えてくれたものを自分は無残に叩き壊してしまった。


 なにがしたかったのか、なにが欲しかったのか。

 彼女に救われたかったわけではない。あの悪魔の手管にハマってぬるま湯に漬かって飼い殺しにされるつもりなんてさらさらない。


 実家からの通勤圏内に就職が決まると母は本当に喜んだ。

 体は弱ってほとんど働けなくなっていた。また一緒に暮らせることがなにより嬉しいと言った。

 愚かな母親オーレンカ。その盲愛が今はいとしい。

 だけど自分はただ注がれるだけの愛情に満足したりはできない。

 奪いたい、ただそれだけ。


「花火の音がするわね」

「夏祭りだからね」

「今日だったのねえ」

「五平餅、買ってこようか。好きだったよね」

「そうね。急がなくていいから、ゆっくり遊んでくるといいわ」


 自宅のアパートを出て河原沿いの歩道に上がる。対岸は夜店ですっかり賑わっている。

 花火を見物するために土手の芝生には人がたくさん座っていた。


 毎年決まった場所に一軒だけ出る五平餅の屋台を目指して歩行者天国の交差点を斜めに横切ろうとした達彦の目に、その姿が飛び込んできた。

 黒地に蝶の柄の浴衣。やたらと姿勢がいい。髪は短い。だけど顔を見なくてもわかる。


「みどちゃん」

 彼女はどんな顔で自分を見るのか。

 それを見逃したくなくて、雑踏の中で目を凝らした。

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