10-2.悪魔の罠

「ふうううう」

 長く長くため息をついて亜紀子は祭りの雑踏を眺める。

 亜紀子が通う美大の芸術祭。似顔絵屋担当で校内のメインストリートで店を広げてはいたけれど。まるで描く気が起きない。


「あんたなにさ、そのやる気のない態度」

 一緒に担当している級友にざっくり突っ込まれる。

「T大生の彼氏なんかゲットしやがったくせに」

 T大関係ないし。知らなかったし。T大生なんて。


 そう、自分はなにも知らずに突っ走ってしまった。ただ彼をモデルにしたい、それだけのために。彼のことなんてなにも知らなかったくせに。ただ、一目ぼれしてしまったばかりに。


 めったに見かけない画材を探しに、めったに出かけない都内なんかで、めったに入らない大型書店なんかで、彼を見つけてしまったばっかりに。

「運命の罠だ……」

「あーそーですか」

 けっと吐き捨てられたけれど。


 違う。これは、自分を堕落させんとする悪魔の罠に違いない。

 亜紀子は思う。芸術のために身を挺したはずだったのに、悪魔に身を捧げたはずだったのに。


 最初の妹至上主義発言にこそ引きはしたけれど、彼は至って真面目な交際相手だった。

 メールや電話の返事はきちんとくれるし、会いたいと望めば応じてくれる。彼が自由が利かなくなるときには事前にきちんと連絡がきた。

 多少事務的に感じられることもなくはないが、亜紀子自身そう情熱的ではない方なのでまったく不満はない。


 妹関係についても結局のところ警戒の必要はまったくなかった。

 彼の下宿先の部屋に妹の写真があるでもなく、自慢話をされるでもなく、頻繁に連絡を取り合っているふうもなく。

 最初にあんな発言さえされていなければ、彼に妹が存在する気配など感じられないほど。


 あれは一種の女除けだったのか。普通はあんなことを言われたら実際に付き合ったりしないだろう。亜紀子には下心があったから飛び込めただけで。

 そして飛び込んでみれば、彼は普通に優しい彼氏で。


(ダメでしょ、これじゃあ)

 亜紀子は愕然とする。

 これではただの満たされた人だ。仮にも自分は、芸術家を目指していて、表現しようとする者が満たされていてはいけないと亜紀子は思う。

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