10-3.この人を描きたいと思った

 渇望。渇くような欲求が創作には必要で、それを感じたからこそ彼を求めたのに。欲したはずの彼の内面がまるで見えない。


 もう数えきれないほどデッサンした。何十時間と彼を観察した。深い仲にもなった。

 なのに彼の感情が見えてこない。嬉しい楽しいはかろうじてわかる。笑いもすれば本や映画や音楽に感動する様子も見せる。

 だけど哀は? 怒は? それが見えない。

(私には難解すぎる)


 出会った頃に感じた、描きたいと思った彼のイメージ。それすら手から零れ落ちてしまって、もはやただのお付き合いに徹してしまっている自分がいる。

 これを堕落と言わずしてなんと言おう。なんて恐ろしい。ついていく悪魔を間違えた。


 模擬店の並ぶ通りをそぞろ歩く人波を見つめる。誰を見ても彼に感じたような創作意欲は沸かない。それなりに見目の良い人物はいても、やはりそういうことではないのだ。


 絶望にも似た気分に浸っていたのに、奇跡が起きた。


 人込みの中、立ち止まってパンフレットを眺めている女の子。すらりとして髪が長い。

 姿勢のいいその姿。花が咲いたようだった。亜紀子の眼にはそう見えた。

(ああ。神様、ありがとう!!)

 思ったときには彼女にがっしりしがみついていた。


「デッサンさせて!」

「は?」

「似顔絵、似顔絵描いてるの、そこで。お願い! あなたを描かせて!」

「え、と……」

 見れば見るほど、きれい。よだれが出てきそうになるのをこらえて亜紀子は必死に彼女の手を握る。


 彼女は眉をひそめて困ったようにしていたが、連れの女の子たちと少し話をしたあと亜紀子のところに来てくれた。どうやら別行動にしたようだ。


「ありがとう!!」

 涙を流さんばかりに感謝して亜紀子は彼女に座ってもらった。

「楽にしてね。それほど時間はかけないから」

「はい」

 返事をしつつも彼女はきれいに背筋を伸ばして座る。本人にとってはそれが楽な姿勢なのだろう。


 そういう人は他にもいる。彼がそうだ。

(そうだった)

 ものすごい勢いで鉛筆を走らせながら亜紀子は思い出す。


 初めて会った書店で。立ち読みしている後ろ姿に視線を引っ張られた。

 さっき彼女に感じたように。光が、差したように感じた。この人を描きたいと思った。

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