The beautiful beast(後)

 彼女がその家に住み始めてから四回、四季が巡りました。

 五回目の秋のこと、彼女は家の高い高い塔の上で、そこから見える景色を眺めていました。すると、コンコンと扉を叩く音が微かに聞こえます。

「誰か来たのかしら」

 彼女がここに住んでから、来客など一度もありません。彼女は塔の螺旋階段を駆け下りて急いで玄関の方へと向かいます。

「誰かいませんかぁ」

 聞こえる声は若い男の子のものでした。

「はぁい、今開けますね」

 彼女は木の扉を開けます。扉の外に立っていたのは体のあちこちを擦り剝いて、泥まみれの男の子でした。彼女はその男の子をどこかで見たことがありましたが、どこで見たのかは思い出せませんでした。

「久しぶり、おねえちゃん。僕だよ、覚えてる? 仕立て屋の息子の」

「あぁ! 大きくなったね」

 どこかで見たことがあると思ったら、仕立て屋の息子の彼です。彼の顔にまだあの幼さは残っているものの、それもほとんど薄れて、青年へと成長している真っ最中の顔をしています。

「とりあえず、中に入って座ってて。お茶でも淹れるわ」

 その言葉に彼は頷きます。

「その傷はどうしたの?」

 彼女は台所の方へと向かいながら、尋ねました。彼は初めての家に少し戸惑いながらも、家の中に入ってテーブルとイスの方へと向かいます。

「ここに来るまでに擦り剝いたり転んだりしたんだ。森の奥深くすぎて、獣道も無いから……」

 彼女は初めてここに来た時に、自分も傷だらけになったことを思い出して苦笑します。

「お茶より先に、その傷を治さなきゃね」

 彼女は彼の傷が治って、服に付いた泥が取れて綺麗になるように願います。

「……わぁっ」

 感嘆の声を上げたのは、淡く白い光に包まれた彼です。

「ほんとだ、本当に魔法だ!」

 彼は跡形もなく無くなった傷があった場所を見て、はしゃいでいます。

「やっぱり、おねえちゃんすごいや!」

「ありがとうね」

 彼女は水瓶に貯めた水からお茶を淹れるのに必要な水を掬って沸かします。

「おねえちゃんが村を出て言った時のこと、あんまり覚えてないんだ。小さかったから。でもおねえちゃんがすごく優しくしてたことは覚えてるよ! お母さんがおねえちゃんの話をしてくれるし」

「仕立て屋の奥さんが?」

 その言葉に彼は頷きます。

「お母さんが、おねえちゃんの魔法のこととか優しいこととか色々話してくれるんだよ。この家の塔も村から見えるから、よくおねえちゃんの話になるんだ。村の皆はおねえちゃんのこと好きじゃないみたいだけど、僕は好きだよ! 勿論、僕のお母さんもね」

 村の皆からまだ嫌われていることを思うと少し胸がズキンと痛みましたが、最後の彼の言葉で心が温まります。

「良かったらだけど、このお茶飲んだら塔に登る? とてもいい景色よ」

 彼はそれを聞いて目を輝かせました。

「いいの!?」

 彼女はいいわよと笑って、ポットにお茶の葉っぱを入れます。

「おねえちゃんは」彼は待つのが少し暇なのか、足をぶらぶらさせながら言います。「食事とかどうしてるの? 魔法は他の人の為にしか使えないんでしょ」

 彼女は二人分のカップを出しながら答えます。

「基本的に木の実とかを採ってるわ。あとは昔、少しだけ狩りの仕方を習ったことがあるから罠を仕掛けて小さな動物を捕まえたり……。このお茶はお茶になるような葉っぱを採って乾燥させたの。料理する道具とかは魔法で家を作った時に、ついでに作っていたの」

 そうじゃないと生活できないわ、と彼女は微笑みます。

「そっか。どうやって生活してるのかずっと心配だったんだ。村から見える塔の方にずっと行きたいって思ってたけど、行けなかったから。大丈夫そうでよかったよ」

 きっとこの森の奥深くまで来るのには、かつての彼の体力では不足していたのでしょう。

 彼女はポットに熱湯を注ぎます。お茶の葉がふわりと舞いました。

「私は大丈夫よ。それよりも村の皆は元気?」

 彼はその言葉に少し顔を曇らせます。

「村で一番、長生きなおじいさんは今年の夏に亡くなっちゃった」

 村で一番長生きなおじいさんというと、彼女が普通の人間の姿で最後に手伝いをした人です。

「それは……」

 彼女は言葉を続けることができませんでした。何も言うことができずに、ポットの中で紅くなったお茶を二つのカップに注いでいきます。

「あとは……村の穀物の量が少ないんだ。今年の夏はあまり雨が降らなかったから」

 だから、今年の冬はかなり厳しいと思う。彼は小さな声でそう加えました。

 今年の夏は雨がかなり少なくて、彼女の家の近くにある泉の水量もかなり減ったことを思い出しました。

「……もし」

 彼女は二人分のお茶をテーブルの方に持っていきながら言います。

「うん」

「もし、私の魔法を使ったら」

 彼女はそこで一度、言葉を区切りました。あれから短くはない月日が流れたのにも関わらず、隣の奥さんの私を見る顔や農夫の方々が石を投げてきた様を、まるで昨日のことのように思い出せるのです。

 彼は、そんな彼女の次の言葉を静かに待っていました。

「村の皆は喜ぶかしら」

 その言葉に彼はゆっくりと頷きます。

「喜ぶよ、絶対に。絶対に喜ぶと思うよ!」

 彼女は二つのカップのうち一つを彼に渡して、もう一つのカップを両手で持って飲みます。お茶のほんのりとした甘さが口の中で広がりました。

「じゃあ紅茶を飲んでから、塔に行こうかしら。……それから村に行きましょう」

 彼女は彼を見て言います。その言葉に彼は笑って頷きました。

「ねぇ」彼がお茶を冷ましながら言います。「おねえちゃんは普段何をしているの?」

「森の中を散歩しているわ。毎日新しい発見ばっかりで楽しいの。他には昔、お母さんから聞いた話を思い出していたり」

 彼女は昔を懐かしむように目を細めます。

「どんな話をしてくれたの?」

 彼は熱いのが苦手なのでしょう、恐る恐るといった体でお茶を飲みながら、尋ねました。

「昔話よ。ずっと昔ね、とあるところにとてもとても賢い女の人がいたの。その人があまりに賢いものだから、周りの人はその人のことを賢者って呼んでたの」

 彼女は熱っと言って慌てて口からカップを離した彼を見て、微笑みながら言います。

「賢者はとても賢いから、色んな研究をして、他の人々に役立つ発明を沢山して、沢山の人々から慕われていた。でもね、賢者は賢すぎたの。……賢者はとっても賢かったから、ある日魔法の使い方を編み出した」

 彼女はお茶をすすりました。

「賢いから魔法を使えるようになったの?」

「そう」彼の言葉に彼女は頷きます。「賢者がどうやって魔法の使い方を発見したのか、どうすれば魔法が使えるのかは伝わっていないのだけど、賢者は魔法が使えるようになってしまったの。そして賢者は、自分に不老不死の魔法をかけてしまった。ずっと研究ができますようにってね」

 彼はお茶が冷めたようで少しずつ飲みながら、じっと彼女の話を聞いていました。

「でも、賢者を慕っていた人は全く死なない彼女を怖がったの。そして賢者は人前から姿を消したわ。でもたまに人前に表れて魔法をかけるの。賢者の気まぐれでね」

 昔話は終わり。そう言って、彼女は残っていたお茶を全て飲み干しました。彼もそれを見て、カップに残っていたお茶を全て飲みます。

「なんか、その賢者さん、おねえちゃんに似てるね」

 彼が呟くように言います。

「だって、普通の人と違うようになったっていうだけで、今まで慕ってた人が離れて行ってしまったんでしょう」

「……そうね、確かに似ているかもしれない」

 でも、と彼女は続けます。

「私が賢者と違うのは、こうやって私に会いに来てくれる人がいるってことかな」

 彼女は彼の頭をくしゃりと撫でました。彼はどこかこそばゆい表情になります。

「さ、お茶も飲み終わったし、塔に登りましょ」

 その言葉に彼はこくこくと頷きました。

 彼女はにっこりと微笑んで、塔の階段の方へと行きます。いつもは一人分の足音しか響かない場所に、今日は二人分の足音が響きました。


**


 開きっぱなしの窓からびゅうっと風が吹き込んできて、彼女と彼の髪を揺らしました。

「あ、窓を開けっ放しにしていたわ。さっきまでここで景色を見ていたから」

 ようやく階段を上りきった二人は窓の方へと駆け寄りました。

「綺麗だね」

「……うん」

 塔の上から見る景色は、地面の上に立って見る景色とはまるで違いました。

 青空はガラスのように澄んで、この家と村を隔てる森は片手で薙ぎ払えそうなほどちっぽけに見えます。そしてその森の向こうに小さく、家が建っているのが分かります。畑の中に人が居るのも分かります。

 それからどれだけその景色を眺めていたでしょうか。太陽は傾きかけて、もう少しで地面に沈んでしまうでしょう。

「……村に帰ろっか」

 彼女はぽつりと言いました。その言葉に彼は頷きます。

「魔法で戻るの?」

「えぇ。手を繋いでくれないかしら」

 そういって、彼女は自分の右手を差し出します。彼はそこに自分の左手を重ねました。

「村に」彼女は今まで幾度となく願い、しかし一度も言わなかったことを口に出しました。「帰れますように」

 白く淡い光が二人を優しく包みます。

 そして――――


**


「……そして彼女の持つ魔法の力で村の穀物は増え、どんどん豊かになっていきました。それに感謝した村の人々は彼女に謝罪し、彼女はかつてのように村で幸せに暮らしましたとさ。……とまぁ、こんな話だよ」

「女の人、よかったね!」

 老婆が椅子に座って、まだ幼い少女を膝に乗せながら話を聞かせていた。石油ストーブが灯油を吸い込んで、ぼちゃりと重い音を立てる。

「じゃあ、お前さんの両親も帰ってくる頃だろう。私はそろそろお暇するよ」

 そう言って少女を膝の上から下ろし、立ち上がった。

「ねぇ」少女が老婆の方を見る。「おばあさんって、何でいつもお父さんとお母さんが仕事の間、遊びに来てくれるの?」

 老婆は少し悩んで、言葉を選ぶようにして言った。

「約束……なんだよ」

「約束?」

 老婆はそう、と頷いた。

「私は昔、とある賭けをしたんだ。で、それに負けたからその人の大事なものをずっと守らなくちゃいけないんだ」

「へぇ」少女はあまり納得のいかなさそうな顔で頷きます。「おばあちゃんはずっとその約束を守らないといけないの?」

 少女は小さな声で大変そうと呟いた。

「あぁ、ずっと守らなきゃいけない。確かに大変なこともあるけど、寂しくはないよ」

 そういって、老婆は二カッと笑う。

「そうだろう?」

 老婆はそう呟く。ここにはもう居ない、ずっと昔に生きたとある夫婦に向かって。

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The beautiful beast 雨乃時雨 @ameshigure

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