稲川翔太郎は題名が書けない

蒼鬼

前編

 稲川翔太郎いながわしょうたろう

 その名前は彼の所属する上川かみかわ出版の誇りであり生きた伝説である。

 老若男女問わず活字離れをする現代日本、電子書籍の登場により売れ行きの下がった紙媒体の書籍達。

 在庫を抱えて悲鳴を上げる大小様々な書店と、その在庫を返されて更なる悲鳴を上げる出版社。

 今やダウンロードで事が済む時代、書籍は売れず出版社の多くは『小説の暗黒時代』と呼び、増え行く赤字に頭を抱えた。

 そんな暗黒時代に、流星の如く現れたのが稲川翔太郎というライトノベル作家だった。

 王道ファンタジーを踏襲したストーリー構成は、懐かしくも新しく、その世界観に生きる魅力溢れるキャラクターは黒い活字の中で色彩豊かに動き回る。

 萌え系のキャラクターも、完全無敵のヒーローも存在しないそのライトノベルは、初めは世間に受け入れられるかと編集部をハラハラさせたが、その世界観は30代後半から40代のファミコン世代を中心に火が付き、彼らの通勤途中に寄る駅中の書店からはごっそりと消えて無くなり、書店員はバックヤードで取次の胸ぐらを掴んで「増刷ぞうさつはよ!」と何度も揺さぶる事態になった。

 そしてSNSに「これはヤバイ」「胸が熱くなる」「そう!こう言うファンタジーが読みたかったんだよ俺ァ!」などなどと、様々な賞賛の声と共に紹介され、その知名度は一気に広がり『稲川翔太郎ファンタジー』という非公式ハッシュタグすら生まれた。

 しかし、それでも電子書籍で読む人は本を手に取ることをしなかったが、初速の売上を担当編集部から聞いた稲川翔太郎本人が自身のアカウントを立ち上げると、140字以内のとても短い自己紹介の後、たった一言、こう投稿したのだ。


 ──僕の作品を、是非紙をめくって読んでみてください──


 そこから広がった2.5万リツイートの嵐の向かう先は全国の書店だった。

 ドデカイ嵐がぶち当たった書店は大小問わず絶叫し、取次が来ればバックヤードに拉致して「オラァ増刷出来んだろ!!? ジャンプしろジャンプ!」とカツアゲに近い無茶な要求を突き付ける日々が続いた。

 本社に帰る取次はどんなに朝身奇麗にしても夕方頃にはボロボロのくちゃくちゃになって外回りから帰還。

 だからと言ってデスクの仕事はある意味外回りより悲惨らしく、今日も今日とて地方の書店から「増刷はよ!」「増刷はよ!!」「重版でも可!!!」という催促の電話が鳴り響いている。

 デスク担当は毎日の電話対応に追われ、日に2~3人はデスクに突っ伏してビクンビクンと痙攣する叫喚地獄だ。


 しかし、それだけでは終わらない。


「新人賞ーーーッ!!!」

「もうウンザリだ! 新人賞を破壊する!」

 稲川翔太郎の波に乗ろうと、上川出版の新人賞にとてつもない数の応募作品が寄せられたのだ。

 その数、2774編。

 簡単に文字数に換算すると、400字詰め原稿用紙80枚~100枚までの受け付けなので、最大で約1億1千96万文字。

 大手出版社ならともかく、上川出版は中の下辺りの小さな会社である。

 なにせ稲川翔太郎を発掘した当初の応募時は、67編だった位だ。

 賞金も大賞で10万円の、ささやかなものであるにも関わらず、分厚い封筒が100も200も届くので、ある時は残業をして新人賞の作品を必死に読み込む事もあった。

 そして更に更に、上川出版の他に、稲川翔太郎という男の作品は、時代の流行りをも動かした。


『本屋女子』の出現である。


 休日を本屋で過ごす事が、最先端のお洒落でありステータスという渋谷系女子達の出現により、書店の年間男女別統計が女性8割という数字を叩き出した事がきっかけで生まれた言葉だ。

 スマホより、本を読む方がかっこいいし可愛い。

 本屋女子の中には、手先の器用さを活かして『デコ表紙』なるものを作り、ラメ入りのマスキングテープでギラギラにデコられた文庫本がマストアイテムにすらなった。

 本屋女子の存在は、他の大手出版社も動かし、太宰治や芥川龍之介の短編集を重版し、表紙に有名漫画家やイラストレーターの書き下ろしを起用したフェアを開催し、成功させる。

 その動きに食いついたのはソーシャルゲーム界隈で、とある会社は豪華声優陣をキャストにした文豪達を美少女やイケメン化させて、時には異形の敵キャラクターと戦わせたり、時には彼らと会話を楽しむゲームを開発し、大成功。

 更にゲームから文豪やその作品を知ったソーシャルゲーマーが本を買う循環が生まれ、書店や出版社は独自のフェアを開催してしばらくてんやわんやの大騒ぎが続いた。

 小説の暗黒時代は稲川翔太郎という人物の登場から一転、黄金時代となった。


 ……それから、2年後。


 彼の初作品は、沢山のファンに惜しまれつつ完結した。

 しかし既に読者の期待は稲川翔太郎ファンタジーの第二作目に向けられており、ネットでは二作目に関する予想や話題が挙げられている。

 上川出版社の編集長は、稲川翔太郎の人心掌握に長けた文章と、流行すら生み出す才能に「前世はローマの皇帝かもな」と、冗談半分に笑いつつ、ようやく落ち着いてきてはいるものの、まだまだ冷めない本屋ブームに新人作家を乗らせるべく、今日も編集部のメンバーとああでもないこうでもないと意見を交わしあっている。

「それでは編集長、行って参ります」

「ああ、気を付けてな八坂野やさかの

 編集長の言葉に、稲川翔太郎の担当編集者、八坂野幸助やさかのこうすけは、黒縁の眼鏡の位置を正しながら「はい」と短い返事を添え、颯爽と編集部を後にした。

 4階に位置する編集部からは、エレベーターを使って正面玄関まで直行し、そこから外に出ると大通りを走るタクシーの1台を止める。

「沢城通りの45番地、福寿荘ふくじゅそうまでお願いします」

 運転手に簡潔に目的地までを伝え、所定の場所までタクシーに揺られ15分。

 会社名義の領収書を切ってもらい、過ぎ去るタクシーを見送ると、ゆっくりと八坂野は顔を上げた。

 その視線の先、道路を挟んだ向かい側に昔懐かしい鉄筋コンクリート造りの小さなアパートが建っている。

 ネットでは東京都内の高層マンションの一室に住んでいるとか、高級ホテルを住み歩いているとか、東京を出て田舎の一軒家で文豪のような生活を送っているとか、様々な憶測が飛び交っているが、実際の所、一世を風靡した稲川翔太郎という作家は築30年の安アパートで細々と暮らしているのだ。

 ライトノベル史上初の大快挙を成し遂げ、今やアニメ化や劇場版公演もされた名作は、印税もキャラクター使用料もかなりの額が入ったらしいのだが、それの殆どに手を付けずに貯金に回している。

 その話が出る度に、不景気の悪循環を作り出している1人なのでは?と八坂野は稲川を怪訝に思うのだ。

 福寿荘、1階角部屋105号室。

 チャイムの音が嫌いな稲川を気遣い、八坂野は冷たい金属製の扉を軽くノックした。

「稲川先生、八坂野です」

 名乗りの後、数秒。

 ドアの向こうからのそのそという足音の後、ガチャり……とドアノブが回った。

 八坂野は胸を撫で下ろし、少し体を半身に傾けて一言。

「先生、進捗しんちょくどうですか?」

 彼のその言葉に、部屋に居た彼は答えた。


「稲川先生なら逃げたぜ」


 先に部屋に上がっていた男、装丁デザイナーの虹村にじむらが無気力にそう言うや否や、八坂野は眉尻を下げ、ハァ……と大きくため息を付き。


「稲川ぁあああーーーッ!!!」


 と、渾身の咆吼をかますと、鼻くそをほじる虹村の視線を背中に受けながら、猛ダッシュでアパートから駆け出した。

 八坂野出撃から数十分後、稲川翔太郎は馴染みの喫茶店で呆気なく確保される事になる。



「すまなんだーッ! 幸助くんすまなんだーッ!」

「謝るぐらいなら逃げないでください先生!」

 わああ。わああ。とボサボサの黒髪を振り乱して泣きわめく稲川翔太郎本人を引き摺って、アパートまで歩くのは八坂野の日課だ。

「やっぱり僕はダメなんだよぉ幸助くん! 僕には才能が無いんだぁーッ! こんな苦しむぐらいなら、僕達を殺しておくれよ幸助くんーーーッ!」

「ああもう先生、泣き言でしたらアパートで聞きますから、天下の往来で叫ぶのはやめて下さいご近所さんの迷惑ですから!」

 そう叱責する八坂野の声もなかなかの声量なのだが、その一撃が聞いたのか稲川はそこからアパートまでの距離は、声を殺してシクシクと嗚咽を漏らすだけに留まった。

 105号室の前に行くと、何も言わずとも虹村がドアを開けて2人を入れる。

「ハッハ。先生、今日はどこで捕まったんですか?」

 虹村はサラリと笑うと、胸ポケットに入れていたマルボロのタバコを箱から出して咥えたが、八坂野がわざとらしく咳き込むと「おっと悪いねぇ」とバツが悪そうに苦笑いを浮かべて、咥えたタバコを箱に戻す。

 八坂野は、嫌煙者であった。

「いつもの喫茶店ですよ。やれやれ全く」

 うんざりとした様子で、革靴を無造作に脱ぎ捨て部屋に上がれば、日常的に健康サンダルで出歩く稲川の足はもう玄関にサンダルを置いてきぼりにした状態だった。

 八坂野は、万年敷き布団の上に引き摺ってきた稲川を転がすと、彼は身軽な甚平姿のままコロリと一回転した後綺麗な土下座の姿勢になる。

 稲川翔太郎の得意技、ローリング土下座である。

「幸助くん! やっぱり僕には才能が無いんだよぉ! いっそここでこの首落としておくれよぉ!」

「先生のお願いでも御遠慮させていただきます」

「ぎぇああ! そんな殺生なこと言わないでよ!」

「殺生も何も、殺しもしたく無い真人間ですので、私」

「ひーんッ! 幸助くんの冷血漢ーッ!」

「どうぞご勝手にお呼びください。それで……先生、進捗どうですか?」


「おう。それなら俺が先に全部読ませて貰ったぜ」


 無造作に虹村が掲げた大きな茶封筒。

 その厚みから察するに、150~200項と見える。

「完成しておられたんですか!?」

 驚きの声を上げる八坂野に、稲川は布団にこすり付けていた額を上げた。

「うん、本文は昨日出来たんだよ」

 あっけからんとそう言ってのけた彼に、八坂野は眩暈を覚えた。

 彼の初作品が連載終了したのは、3ヶ月前だ。

 それまでに特別書き下ろしや、サイン会、劇場版オリジナルシナリオの監督など様々な仕事があった。

 八坂野ですら同情する激務の中で、100項を越える作品を書き上げるなど、正気とは思えない。

「先生……寝ておられますか?」

 あまりにも常軌を逸した状態に、八坂野はついそう口走ってしまっていたが、稲川はにへら。と人好きのする笑みを浮かべて「毎日10時間は寝てるよ」と返した。

 また、八坂野の視界に暗い星がパチパチと爆ぜる。

「先生、あんた化物かよ」

 いつの間にか八坂野に諌められたはずのタバコをふかしながら、虹村は率直に思った事を稲川に向けて言っていた。

 人によっては確実に心証を害する言葉だったが、それでも稲川は「そうかなあ」と困ったような笑みに変えた。

 苦笑いにも見えるが、どことなく嬉しそうなので、悪い気はしていないようである。

 が、ここに二人の会話に入りきれない男が一人。

 言わずもがな八坂野幸助である。

 八坂野は、一度眼鏡を外し、胸ポケットに入れている眼鏡拭きで何度も何度もレンズを磨いていく。

「幸助くん、何か驚くような事でもあったのかい?」

「驚くも何も」

 磨き上げた眼鏡をかけ直し、八坂野はキョトンとしている稲川に向かって言った。

「完成しておられるなら、どうして御一報下さらなかったのですか!」

 八坂野の、少し怒気を含んだ問い掛けに稲川は肩を竦め、人好きのするその顔に今度は本当の苦笑いを浮かべた。

「いや……でも、それ。完成していないんだよ」

「頁抜けでもあるのですか?」

「いや、いや、いや、そうじゃあないんだ。でもそれは本当の本当に未完成なんだよぉ……」

 モゴモゴと言葉は尻つぼみ。

 今どきどこで取り扱っているのか、黒縁の瓶底眼鏡の奥の丸い瞳はオロオロと右往左往。

 駅近の激安デパート、トンキー・ホーテで買った冬用のピンクの半纏の袖を上下にバタバタと。

 オノマトペを活用し、傍から見ても挙動不審さを前面に押し出して必死に未完成である事を主張する稲川。

 が、八坂野は虹村の手から原稿入りの封筒を取り上げ、カバンにしまい込む。

「それでは、校閲に回しますので。近々連絡します」

「ああッ! 違うんだ待っておくれよ!」

「待てと言われましても、私含め上川出版一同が先生の新作発表を心待ちにしています、完成しているのであればすぐにでも……」


「違うんだよ八坂野くん! まだそれには題名タイトルが付いていないんだよぉ!!!」


シワひとつない八坂野のスーツを握り締め、稲川は無精髭を生やしたアンバランスな童顔を歪めて叫んでいた。

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稲川翔太郎は題名が書けない 蒼鬼 @eyesloveyou6

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