第36話 生半可な気持ちではダメだということらしい。

 鳥居の中で立つ明日香は、学校の鞄を足元に置いた。

 気づけば、両手は後ろに隠している。

 まさか。

「あのう、間戸宮明日香さん?」

「気安くわたしの名を呼ばないでください」

 明日香の返事は冷たかった。

「そ、その、後ろにあるものは?」

「そんなに気になるものなんですか?」

「いや、何か物騒なものとかあったりしないかなって……」

「だったら、どうなんですか?」

 明日香の質問は、僕に黙っていてくださいという圧力をかけているかのようだった。

「あなたを殺します」

 明日香は言うなり、片方の手からあるものを取り出した。

「本気、だよね、それ」

「当たり前です」

 口にする明日香の手には、ナイフが握りしめられていた。明らかにまずい状況だ。

「本当なら、わたしはあなたを高校の前で待つつもりでした。それで、隙があれば、このナイフで殺そうと思っていました。ですけど、今はわたしにとって、チャンスです」

 明日香はなぜか、笑みを浮かべた。

「あなたはバカですね。こうして、人気のないところまでついてきて、わたしにあなたを殺すチャンスをくれたんですから」

「僕はバカじゃない。ちゃんと、話をしようと思って」

「話は終わりです」

 明日香は持っていたナイフを振り下ろした。

「今さら命乞いは無駄です。姉さんと付き合うという、とんでもないことを告白したんですから。わたしにとって、絶対に許せないことを」

「君が、姉さんのことを好きだから?」

 僕の問いかけに、明日香は驚いたような表情を向けてきた。

「な、何を言ってるんですか。わたしは、姉さんのことを尊敬してるだけです。こんな男と付き合うだなんて、わたしは許せません」

「君はただ、姉さんを誰にも渡したくないだけじゃないのかなって」

「違います! わたしは、姉さんにただ、幸せになってほしいだけです。姉さんも姉さんです。たぶらかされてるとは気づかずに」

「じゃあ、君はどうすれば、一番、姉さんにとって、幸せなの?」

 僕が質問を投げかけると、明日香は俯いた。

「幸せだなんて、何が幸せなのか、わたしが教えてほしいくらいです」

「でも、今、『姉さんにただ、幸せになってほしいだけです』って……」

「何が幸せなのかわからなくても、幸せを願ってはダメなんですか?」

 顔を移してきた明日香の瞳は潤んでいた。

「姉さんやわたしは、政治家の娘です。だから、色々とやりたいことは制限されて、門限も決まっています。今の状態はとてもじゃないですけど、幸せじゃありません」

 明日香は鋭い眼差しを僕の方へ向けてきた。

「あなたは、そんな姉さんと付き合うということなんです。それがどのくらい、大変なのか、わかってるんですか?」

 いつの間にか、明日香は僕に詰め寄ってきていた。ナイフは手にしたまま。だが、首筋に当てることはなく、真剣そうな表情で向かい合ってきていた。

 つまりは、生半可な気持ちで、麻耶香とは付き合うなと言いたいらしい。

 僕は改めて、麻耶香が政治家の娘だということを思い出した。前に、春井と間戸宮家へ訪れた時以来だ。

「それは、これから、色々とわかってくるんだろうなって思う」

「そんな認識なんですね。やっぱり、あなたは姉さんと付き合うことは無理です」

「だけど、そういうのも含めて、僕は色々と君の姉さんと付き合っていければと思う」

「色々って、あなたは甘いです」

 明日香は距離を取ると、ナイフを、置いてあった学校の鞄にしまった。

「あなたを殺す気がなくなりました」

「それって、僕のことを認めてくれたってこと?」

「そうじゃないです」

 明日香は学校の鞄を手にすると、目を合わせてきた。

「呆れて、殺す気もなくなったということです」

「まあ、それはそれで、よかったというか……」

「全然よくありません」

 明日香は歩くなり、僕とすれ違うところで足を止める。

「姉さんは、渡したくありません」

 耳元で聞こえた明日香の声は、淡々としていた。つい、本音が漏れてしまったというものなのだろうか。

 僕が振り返ると、明日香は神社の境内を出た。

 で、僕の方へ目をやる。

「わたしがナイフを出したことは、内緒にしてください。言ってもいいですけど、それを知ったら、すぐに、あなたを殺します」

 明日香は言うなり、僕の視界からいなくなった。

 僕はおもむろに、鳥居の柱に寄りかかった。

「助かった……」

 明日香といた時間で精神がすり減ったのか、急に疲れが出てきた。

 僕は額に手のひらを乗せつつ、頭上にある木々の葉を見た。

「何だか、これからは色々と大変そうだな……」

 今さらながら、本当に僕は麻耶香とちゃんと付き合えるのか、自信がなくなってきた。

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