第5話 僕の妹は、卓球部の練習でいつも帰りが遅い。
「川之江は相当嫌われてるんだな」
「だね。これだと、今後はまともに話すらしてくれないかも」
「可能性はあるな」
スマホから聞こえる東郷の声は、真面目そうな調子を含んでいた。
薄暗い住宅街の路地を、僕はひとりで歩いている。母親から夕飯の買い物を頼まれ、近所のスーパーに向かっているところだ。献立はクリームシチューで必要な牛乳が目的だ。冷蔵庫にあるかと思ったが、なかったのだ。
で、僕はスマホ片手に、夜道を進んでいた。といっても、所々電柱の灯があるので、真っ暗というわけではない。
「で、間戸宮姉は、川之江のことが好きなのか?」
「さあ、それはどうなんだろう」
「まあ、あれだろう? 間戸宮妹がひどく川之江のことを嫌ってるほどなんだからさ、よほど、川之江のことを意識してるんだろう、間戸宮姉は」
「似たようなことを春井さんにも言われたよ」
「ってか、そういうのってさ、春井とかはとっくに気づいてそうだけどな」
「なんか、それは、自分で鈍感だとか言っていたみたいだけど」
「ああ、そこらへんは意識したんだな」
「とにかく、僕としては、妹さんの誤解を何とか解かないと」
「難しいだろうな」
東郷の言葉に、僕は思わずうなずきそうになった。簡単でないとしても、明日香から睨まれるような関係は好ましくない。
「そういえば、間戸宮さんって」
と、僕は言いかけたところで、声を止めた。
「あんまり、この家のこと言い触らさないでよ」
「麻耶香が気にするから」
脳裏に、春井の言葉がよぎる。
「どうした?」
「いや、何でもない」
「そうか。まあ、間戸宮姉とは、学校で会えるんだからさ、その時に話をして、何とかするしかないよな」
「だね」
僕は返事した後、東郷と二、三言話して、電話を切った。明日ある数学の宿題を写してほしい約束だった。東郷は僕より成績が悪く、どうも、宿題は手につけたものの、さっぱりわからなかったらしい。
「ふう」
僕はため息をつくと、スマホをズボンのポケットにしまった。さっさと買い物を済ませて、家に戻ろう。
で、僕が何歩か足を動かした時。
脇道から、人影が目の前に現れた。
格好としては上下紫っぽいジャージで、ついているフードを深く被っていた。加えて、背をやや丸めており、顔は見えなかった。僕より小柄で、両手は左右にあるズボンのポケットに突っ込んでいた。
僕は何となく嫌な予感がして、来た道を戻ろうかと考えた。
と、相手はポケットからキラリと光る何かを取り出した。
僕ははじめ、どういうものか見分けがつかなかった。
だが、それを相手の正面に持ってきたところで、僕は一歩後ずさった。
「ナイフ……」
相手は折り畳んでいたであろう、ナイフの刃先を僕の方へ向けていた。
とりあえず、まずい。
僕は逃げようと一瞬思ったが、すぐに落ち着こうと、相手と正面を合わせた。
「僕を殺す気?」
自分で何バカな質問をしてるんだろうと感じつつも、口は勝手に動いていた。時間稼ぎか、はたまた気を紛らすためか。どちらにせよ、人気がない路地では助けが難しそうだ。かといって、自分ひとりで何とかできる自信もない。
じゃあ、なぜ、ナイフ持ちの人間を相手にしようとしているのだろう。
僕は相手の正体を知っている気がしたからだ。
「間戸宮、明日香?」
おもむろに言ってみた僕を嫌う彼女の名前。
襲ってこない。
間が空き、僕が次はどうしようかと頭を巡らしたところで、相手はフードを脱いだ。
「あなたはバカですか」
口にした明日香は呆れたような表情をしていた。
「別に、自分を殺そうとする相手の名前を聞いても、減るものじゃないから」
「バカですね」
明日香は右に傾いていたフードを、真後ろになるように手で整えた。
「校門の前で言いましたよね? 死んでくださいって」
「それは覚えてるけど」
「けどじゃありません。さっさと実行に移してください」
「だから、それは、君のお姉さんをたぶらかしていたらという話であって、僕は何も」
「本当にしつこいですね」
明日香は苛立った調子で声を漏らすと、ナイフを僕の方へより前へ突き出してきた。
「でも、これで死んでくれましたら、その口も黙ると思います」
「えらく物騒なことを言うんだね……」
「物騒も何も、これから、あなたを殺すんです。このわたしが」
明日香の口調に冗談っぽさはない。
僕はもう、どのタイミングで逃げようか考え始めていた。
「あの……」
「何ですか」
「ちょっと、電話がその……」
僕はさっきしまったスマホを取り出した。バイブで震える画面に目をやれば、「美々」と出ている。妹の名前だ。今の時間は確か、卓球部の練習を終えて、帰ってるところかもしれない。
「バカですか」
「その、最後くらいは電話とか出させてくれたら……」
「何を言っているんですか。どうせ、電話に出た瞬間、助けを求めるに決まってます」
明日香は棘がある語気で言い放つ。
「ちょっと出るだけだから。それに、君のことも言わないから」
「信用できません」
「信用して」
「できません」
「できないと言われても、お願いします」
僕は頭を下げた。スマホはまだ、電話が切れずに震えていた。
「一回だけです」
間を置いて答えた明日香は、ナイフを手におもむろに僕の方へ歩み寄ってきた。
「ちょっと待って! 今、『一回だけです』って」
「そうです」
内心怯えている僕を気にしないかのように、明日香は淡々と返事する。
で、僕は明日香とお互いの爪先が当たるぐらいまで距離が縮まった。
「あのう……」
「何ですか」
「これって……」
「もしものためです。変なことを少しでも喋ろうとしたら、これであなたの首を掻っ切ります」
明日香は、僕の首筋にナイフの刃先を当てつつ、言った。
間違いなく殺される。
わかっているとはいえ、実際に寸前な状態まで陥ると、嫌でも意識してしまう。
片手にあるスマホが、僕と明日香の状況を知らぬかのように、震え続ける。
「じゃあ、その、出ます」
「どうぞ」
明日香は僕の方を睨みつけた。言葉の内容と違い、実際は電話に出てほしくない本心が垣間見えるかのようだ。
僕はスマホの電話を取った。
「お兄ちゃん、今ピンチ?」
聞き慣れた妹の声は声を潜ませていた。
どうやら、美々は、僕が明日香といるところを目にしているようだった。
「そ、そうだね」
「そしたら、美々が助けるから」
「えっ? どういう意味かわからないんだけど」
僕はできるだけ、明日香に話の内容をばれない返事を心掛けた。美々の声は幸い、明日香には届いてないらしく、それらしき反応はない。ただ、早く電話を終わらせてほしいのか、苛立ったような表情をしていた。
「今、近くの角に隠れてるから」
「そうなんだ」
「だから、美々が一、二の三のタイミングで出てくるから、その瞬間に逃げて」
「と、とりあえず、わかったよ」
「後はお兄ちゃんの逃げ足次第だから」
美々の言葉に、僕はごくりと唾を飲み込む。
明日香は僕の首筋にナイフを当てている。
タイミングが悪ければ、僕は首を掻っ切られ、最悪、出血多量で死んでしまうかもしれない。一種の賭けみたいなものだった。
「それじゃあ、お兄ちゃん。いくよ、一、二の三!」
電話で聞こえてきた言葉のすぐ後。
「こらー!」
美々の叫び声があたりに響き渡った。
気づいたであろう明日香が、フードを被り直し、美々の方へ体を向けた。
僕はその瞬間、視線が逸れたところを見逃さなかった。
「あっ」
明日香の間が抜けた声には振り返らず、僕は走った。
首筋は幸い、傷はなかった。手で撫でた僕はホッとした。
とはいえ、安心はまだできない。
後ろに目をやれば、明日香が追ってきていた。で、後ろを暗くてわからないが、美々であろう別の人影がついてきていた。
にしても、明日香は意外というか、足が速い。僕はクラスの男子で中の上ぐらいなら、女子に追いつかれることはないだろうと思っていた。卓球部でそれなりに足腰を鍛えている美々に負けることはあるけど。
気がつけば、僕は脇道から、交通量がそれなりにある市道に出た。
「このままだと、追いつかれるかもしれない」
市道をある程度走ったところで、また後ろを確かめる。
明日香との距離は縮まっていた。まずい。
僕はどうしようかと頭を巡らした。
「ここは向こう側に逃げよう」
僕は明日香から何とか逃げ切ろうと、車道に出た。片側一車線なので、ちょっと走れば、反対の方へたどり着けるはず。
のはずだった。
気づけば、けたたましい音が聞こえ、僕は横からの強い衝撃で跳ね飛ばされた。体は一瞬宙に浮き、僕はコンクリートで固められた車道に倒れ込んだ。頭を打ち、周りにはいつの間にか、血が広がっていた。
奥からは車のライトだろうか、僕の視界を光で照らしている。まぶたは半分ほど閉じかかっていて、眩しさは感じられない。体中が痛かったりして、声を出す気力もなくなっていた。
「お兄ちゃん!」
甲高い美々の声が耳に届く。けど、意識が段々と薄らいでいき、僕は手足に力が入らなくなってきた。
「ああ、死ぬんだ……」
ふと、視界の隅っこに、フードを被った小柄な人影が映った。明日香だろう。相手は僕の方をじっと見てるかように立っていたかと思えば、走っていってしまった。
彼女の「死んでください」という要求を、僕は見事に受け入れてしまったのだ。
しばらくして、僕は何も聞こえなくなり、視界も真っ暗になってしまった。
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