第4話 政治家の娘だなんて、僕的には特に気にすることじゃないと思う。
「少々お待ちください」
お手伝いの女性が襖を閉めると、春井は座っていた座布団から横になった。
僕らが通されたのは、とある和室だった。僕の後ろには掛け軸があり、で、座卓には先ほどの女性が出してくれた麦茶があった。向かい側の春井にもある。それぞれ持っていた学校の鞄は、和室の隅に置いておいた。
「相変わらず、麻耶香の家は、どこか空気が違うよねー」
「違うというより、僕らの住んでるのとは別世界な気が……」
僕は言うなり、横に置いてあるミックの袋を見た。フライドポテトとオレンジジュースという場違いなもの。お手伝いの女性が持っていこうとしたが、僕は断った。とりあえず、間戸宮姉妹に直接渡そうと思ったからだ。
不意に、春井が体を起こして、僕と目を合わせてきた。
「で、さっき聞きそびれちゃったけど、麻耶香の用事って、その、ミックのを届けに来ただけ?」
「だけって言われると、そうじゃないような……」
「優柔不断ね」
「すみません……」
「あたしに謝られても、意味ないんだけどね」
春井は言うと、麦茶が入ったコップに口をつけた。
「ちなみに、あたしの用事は麻耶香に借りてたマンガを返すってところね」
「学校で返さなかったの?」
「それが、放課後まで忘れてて。ほら、あたし、今日掃除当番だったでしょ? それで掃除してる時に気づいて、帰りに麻耶香の家に寄ろうと思った時に、東郷から連絡があったわけ」
「そうなんだ」
「というわけで、あたしは言ったんだから、川之江くんも言わないと」
「えっ? とりあえずは、ミックを届けにっていうことは言ったけど」
「他にあるんでしょ? というより、ついでに何かしようっていう感じみたいだけど?」
春井の問いかけに、僕は内心、ぎくりとしていた。つまりは、明日香に誤解を何とか解けないかと思っていたからだ。ただ、フライドポテトとオレンジジュースを届けるだけでは、物足りない。「死んでください」と言われたことを何とかしたかった。
「そのう、間戸宮さんの妹さんにちょっと用事が……」
「へえー。だから、さっき、あたしに妹のことを聞いたのね」
納得したかのような表情を浮かべる春井。
「妹さんのこととなると、けっこう面倒そうな感じなような……」
「そんな感じだね」
僕の答えに、「大変だねー」と春井が気遣うような言葉をかけてくれる。
しばらくして、足音が聞こえてきて、近づいてきたかと思えば、襖が開いた。
現れたのは、麻耶香でなく、明日香だった。
「ご苦労様です」
明日香は淡々と言うなり、歩み寄ると、僕の横にあったミックの袋を手に取った。
「その、お姉さんは?」
「あなたには関係ありません」
冷たすぎる反応をする明日香。
「あのう」
「何ですか?」
片手を上げる春井の方に、明日香が顔を動かす。
「あたし的には、麻耶香に用事があるんだけど」
「それでしたら、今呼んできます」
「どうもー」
「ということなので、あなたはもう、結構です」
明日香の言葉に、僕は戸惑う。
「えっ、それって、僕はお払い箱ってこと?」
「そうです」
「いや、その、もう少しちゃんとした話を」
「結構です」
明日香が強い語気で、僕に言い放つ。
「まあまあ」
雰囲気を察してか、春井が僕と明日香の間に入ってきた。
「何があったか知らないけど、川之江くんはそこまでひどい人間じゃないと思うよ」
「あなたは何もわかっていません」
明日香が春井と目を合わせる。
「彼は、姉さんをたぶらかしたんです」
「だから、たぶらかしてないって」
「たぶらかした? へえー、やるねえ、川之江くん」
「って、春井さん」
「冗談冗談。言っとくけど、川之江くん、そんなことできるほど、度胸ないよー」
春井が笑みをこぼしつつ、手を横に振る。
対して、明日香の表情は険しかった。
「そんなことありません」
「何を根拠に?」
「姉さんはいつも、彼のことばかり話すからです」
口にする明日香は僕の方を睨みつけた。
「あれは明らかに、彼にたぶらかされたんです」
「へえー。麻耶香が川之江くんのことをねー」
春井がおもむろに目をやってくる。
「川之江くん、心当たり、本当にないの?」
「だから、ないって」
「そう。なら、それは麻耶香の一方的な片想いかもしれないね」
「片想い、ですか?」
「そう、片想い」
春井の言葉に、僕は何を言っているんだと思わずにいられなかった。
「そんな、まさか」
「その、まさかかも」
「ですが、姉さんに限って、そんなことはありません」
「どうして?」
「どうしてって、それは、姉さんはこんな彼を好きになるとは到底思えないからです」
明日香は僕を指差して、言葉をこぼす。にしても、僕はそこまでモテない男子扱いなのだろうか。確かに、女子と付き合ったことはないにしろ、多少なりとも、頑張れば。と、思っていたのは、単なる現実を知らないだけなのだろうか。
「まあ、男を好きになるっていうのは、些細なことでもなると思うし」
「それは、あなたがそういう経験をしたから、言っているのですか?」
「全然。あたし、男と付き合ったこともないから」
「わたしもです」
「でも、世の中には一目惚れという言葉があるくらいなんだから、それを経験した麻耶香の相手がたまたま、川之江くんだってことは考えられない?」
「それは、考えたくても、認めたくありません。いえ、否定します」
明日香ははっきりとした調子で返事する。どうも、僕が麻耶香をたぶらかしたということは何があっても、信じ抜く気らしい。
「それはまあ、気持ちが固いこと」
「ところで、あなたは姉さんに何の用事で来たのですか?」
「借りてたマンガを返しに来ただけ」
「そうですか。なら、そのマンガ、わたしが預かります」
「麻耶香は?」
「後で呼びに行こうと思いましたが、やめます。あなたはどうも、彼の味方みたいですから」
「それは、妹さんにとって、あたしは敵だってこと?」
「その通りです」
うなずく明日香。春井の「難しい子」という表現はやはり、正しいようだ。
「わかった」
春井はため息をつくと、隅に置いてあった学校の鞄の方へ向かった。
「ほら、麻耶香から借りてたマンガ」
「お預かりします」
手渡しで受け取った明日香は、ミックの袋を持ちつつ、僕の方へ目をやる。
「では、お帰りください」
「だって、川之江くん」
春井が僕の方へ視線を送ってくる。「諦めるわけ?」と言いたげな感じだ。
もちろん、さっさと引き下がる気はない。
「君の姉さんが、その、僕のことを好きになって、何か問題でもあるの?」
「何を言っているんですか?」
「言葉通りの意味だよ」
「問題です」
「それが姉さん本人の気持ちであっても?」
「だから、それは、あなたが姉さんをたぶらかしたんです」
「だから、僕はたぶらかしてなんかいない。ましてや、今まで女の子に告白やちょっかいを出したこともない」
座っていた僕は、いつの間にか立ち上がっていた。
「姉さんは、純粋に、あなたのことを好きになったと言うんですか?」
「というより、それしか考えられないって言いたいだけ」
「あり得ません」
「そこまでして、何で僕の言葉を信じようとしないわけ?」
「ここは、麻耶香に聞いた方が早いんじゃない?」
「姉さんは既にたぶらかされていますから、何を言っても、それが真実という保証はありません」
「これは、完全にどうしようもないねー」
春井が呆れたような表情を移す。僕もそうしたいけど、したらしたで、自分は「死んでください」という要求を受けている。僕はどうすればいいと聞くわけにもいかない。
「わかった」
「川之江くん」
「帰ろう、春井さん」
僕は言うなり、部屋を後にした。去り際に明日香とすれ違ったが、特に何も言葉をぶつけてこなかった。
ガラス戸と襖で囲まれた廊下を歩く途中で、春井が追いついてきた。
「川之江くん」
「何?」
「鞄。忘れてる」
見れば、春井が学校の鞄を二つ持っていた。片方は明らかに僕のだ。
「あ、ありがとう。というより、ごめん」
「別に謝ることじゃないでしょ? まあ、あの妹さんも時間を置けば、少しは話してくれるかもしれないしね。可能性は低いかもしれないけど」
春井は喋りつつ、自分の鞄をリュックのように背負った。僕のは受け取るなり、肩に提げる。
途中、お手伝いの女性に付き添われ、間戸宮姉妹の家を出た。
「にしても、川之江くんがねえー」
「ちょ、ちょっと待って、春井さん。何か勘違いしてない?」
住宅街を歩く中、にやけた顔を向けてくる春井に対して、僕は慌てた。
「勘違い?」
「間戸宮さんは別に、僕のことが本当に好きかどうかなんて……」
「いや、好きでしょ」
「そんな、断定的に言われても」
「だって、妹さん、『姉さんはいつも、彼のことばかり話す』とか言ってたでしょ? で、川之江くんにたぶらかされてるって思い込むほどだから、麻耶香、相当、川之江くんのこと、意識してんじゃない?」
「そう、なのかな……」
「そうだよ。まあ、それに気づかなかったあたしは鈍感だったというわけだけど」
両腕を組み、気難しそうな表情をする春井。
「そういえば、あの家のこと、あんまり、言わない方がいいって」
「ああ、それ? だって、政治家一家の娘だなんて、周りからしたら、その、色々と距離置くような感じでしょ? まあ、麻耶香としては、普通の高校生活を楽しみたいだけだから」
口にする春井は、何かに気づいたかのように、僕の方へ目を向けてきた。
「本当は、川之江くんに知られたくなかったかもね。このこと」
「何で?」
「そりゃあ、川之江くんのことが好きだからに決まってるでしょ」
当然のように言う春井に対して、僕は首を傾げた。
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