第2話 実際の泥水なんて、さすがに飲めるようなものではないはずだ。

「そんな泥水を飲むんですか。センスないですね」

 ミック店内のテーブル席に座るなり、明日香は呆れたような語気でつぶやいた。

 僕は自分が頼んだコーヒーの紙コップを見やるなり、「違う」と答えた。

「これはコーヒー」

「でも、泥水という評判です」

「それは前の話。今はおいしくなったって、聞いてるけど」

「どこ情報ですか」

「ネット」

「バカですね。ネットの情報ほど、うさん臭くないものはないです」

 明日香は口にすると、フライドポテトをひとつ指で摘み、食べた。

「あの……」

 と、明日香の横に座っていた麻耶香が校門以来、ようやく顔を上げてくれた。

 向かい合って座る僕は、ようやく安堵の胸を下ろそうとして。

「きゃっ!」

 麻耶香は僕と目を合わせるなり、再び俯いてしまった。

「姉さん。こんな人に照れてる場合じゃありません」

「こんな人って……」

「今日はおごりなんですから、何も飲まないのはもったいないですよ」

 明日香が麻耶香の方へ顔を寄せ、声をかける。おごりという話は初耳だ。

 テーブルには、僕や明日香が頼んだもの以外に、紙コップがある。中身はオレンジジュースで、麻耶香が注文したものだ。座ってから、まだ口にしていない。

「姉さんは恥ずかしがり屋なんです」

「そう、なんだ……」

「うううう……」

 僕としては、麻耶香のこんな姿を目にしたことがない。どちらかと言えば、おっとりしており、今のように極端な反応をクラスではしていない。

「もう、いい加減にしてください」

「だから、僕は間戸宮さんをたぶらかしてないって」

「ウソです」

「何を根拠に」

「姉さんの今の様子が証拠です」

 明日香の嫌悪感満載な瞳と、俯いたままの麻耶香。というより、傍からは、彼女を泣かした彼氏に、友人が問い詰めてる光景にしか見えない。実際、店内にいる他校の制服を着た女子らに視線を向けられ、すごいいづらい。

「とりあえず、その、校門のところで言っていた、『死んでください』は無理な注文で……」

「誰があなたの意志を尊重すると言ったのですか?」

「だから」

「しつこいですね。本当にちょっと、近くの道を飛び出して車に跳ねられるだけでもいいんです」

「いやいや。それに、それだけじゃ、死なないかもしれないけど」

「その時は何とかします」

「何とかするんだ……」

 僕は身震いするも、あまり考えないことにした。

「それで、あのう、間戸宮さん」

「わたしも間戸宮です」

 僕は麻耶香に声をかけたのに、横にいる明日香が口にした。

「そう、だったね。その、間戸宮麻耶香さん」

「は、はい!」

 突然、麻耶香は顔を上げるなり、背筋を正して、僕と目を合わせた。頬は赤らめ、両手はスカートの上に乗せている。まるで、何かの面接を受けてる状態かのようだ。

「あのう、その、そんな畏まらなくても……」

「か、畏まってなんかいません! わ、わたしはこれでも、普通に、振舞って、るだけです」

 ぎこちない口調の麻耶香は、今にも泣きそうな表情をしていた。

「姉さん。落ち着いてください」

「落ち着いてます!」

 明日香の問いかけに、麻耶香は甲高い声で答える。さっきの女子高生だけでなく、他の客も目を移したりする。

「とりあえず、落ち着いてるのはわかったから、その、飲み物飲んで」

「い、いただきます!」

 麻耶香は言うなり、オレンジジュースが入った紙コップのストローに口をつけた。

「プハァー。はっ!」

 麻耶香は口元に手を当てるなり、僕の方から視線を逸らしてしまった。

「大丈夫です。こんな男に気を遣う必要はありません」

「もう、慣れたよ」

「ご、ごめんなさい。その、色々と口が悪い妹で……」

「別に、間戸宮さん、じゃなくて、間戸宮麻耶香さんが謝る必要なんてないよ」

「わたしのことは、その、麻耶香でいいです」

「いいの?」

「は、はい」

 麻耶香は間を置いてから、首を縦に振る。

「気に喰わないです」

 見れば、明日香は頬を膨らませていた。

「わたしは、あなたには死んでほしいです」

「明日香」

「姉さんは黙っていてください」

 明日香は声をこぼしてから、僕を睨みつけた。

「これ以上、姉さんと会うのはやめてください」

「会うも何も、こうやって面と向かって話したのは初めてなんだけど……」

「これからの話です」

 きっぱりと言い切る明日香。よほど、麻耶香が僕と会ってほしくないらしい。

「明日香、その」

「何ですか、姉さん」

「わたしは別に、その、川之江くんにたぶらかされてるなんて」

「姉さんはたぶらかされてます。その自覚がないだけです」

「でも……」

「でもじゃありません。わたしが言うのですから、間違いないです」

「いや、だから、それは間違いだって」

「あなたにあれこれ言われる筋合いはありません」

 明日香は僕を言葉で突き放すと、テーブル席から立ち上がった。

「行きましょう、姉さん」

「えっ? ちょっと、明日香」

 麻耶香に腕を引っ張られ、無理やり腰を上げる麻耶香。テーブルには食べかけのフライドポテトと飲みかけのオレンジジュース。

「フライドポテト、ご馳走様でした」

「って、まだ一本しか食べてないし」

「お代は別の日に請求します」

「本当に僕がおごるの?」

「当たり前です」

「明日香」

「もちろん、姉さんのオレンジジュースもです」

 明日香の言葉に、僕は言い返したくなるも、黙ることにした。色々と言われるだけで面倒だと思ったからだ。

 にしても、フライドポテトとオレンジジュースは残していくのか。

「明日香」

「何ですか?」

「その、オレンジジュース」

「諦めてください」

「何で、そんな、急に」

「この人と一緒にいる自体、もう、耐えられなくなったからです」

 明日香は麻耶香に話すと、僕の方へ視線をやる。

「間違っても、それ、食べたり、飲んだりしないでください。したら、気持ち悪いです」

「だったら、持ち帰るとか」

「でしたら、後で、あなたが持ってきてください」

 明日香は口にすると、僕に何回か目をやる麻耶香を連れて、店を出ていった。

 店内の客らは僕らの騒ぎが終わったとわかってか、視線を外していった。

 僕は紙コップのコーヒーを勢いで一気飲みした。まだ冷めてはいないものの、あまりおいしく感じられなかった。

「これじゃあ、泥水飲んでるのとあまり変わらないんじゃ……」

 僕は声をこぼしてみる。だが、それはブラックの味をまだわからないお子様の感想かもしれない。

 砂糖とミルクを入れなかったのは、単に女子の前で大人ぶりたい気持ちなだけだった。

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