03(完)

 二十歳になってはじめて飲んだシャンパンは、とくに美味しいものではなかった。

 どうした、晶、そんなぶすくれて、と楽しそうに自分をからかう声のせいで、美味しくないだけだった酒が、さらに苦く感じられた。

 美味しいだろ。本物のシャンパン、お祝いだ、お祝い、スパークリングもいいけどさ、やっぱシャンパンって美味しいよなあ。

 わざと乱された言葉遣い、背中を叩く粗っぽい仕草、舌を刺す泡の刺激にさえ苛立ちが募り、あのときの晶は大層不機嫌だった。

 せっかくの誕生日、せっかくのシャンパン、せっかくの慈ちゃん。――なのに、ちっとも楽しくなかった。ちっとも嬉しくなかった。

 なんでか、なんて、そんなことわかりきっている。

 晶も二十歳か、もう大人だね、なんて云いながら、慈ちゃんが、本当は全然、まったく、ちっともそんなふうに思っていないことが、これ以上ないほどはっきりしてしまったからだ。

 生まれたときからずっと隣に住む、歳上の幼馴染に想いを打ち明けたのは、晶が十九歳になった日――はじまりの、あの日――のことだ。

 晶の十九歳は、慈に向かって好きだ、好きだと云い続けて終わった。終わってしまった。

 進展なんかしなかった。ほんのこれっぽっちも。

 自分が二十歳になるその日、十二月二十四日に向けて晶は張り切っていた。秋になる前から夜景の綺麗なホテルに部屋を予約して、大手を振って飲めるようになるのだからとシャンパンの銘柄を勉強した。だってお祝いって云えばシャンパンだろ。

 冷静になって考えてみれば、自分で自分の誕生祝いの仕込みをするほど情けないことはない。

 けれど、晶はそんなことは気にしなかった。気にしないようにしていた。――だって慈ちゃんに任せておいたら、どうせそれまでと同じになるに決まっている。

 おれの好きな場所へ行って、プレゼントのひとつも買って、おれの写真を撮って、おれの家でメシ食って、ケーキ食って、それでおしまい。

 おれの話はなんでも全部――新しく取ったゼミが厳しいことからバイト先の本屋での笑える話、ともだちに騙されて連れて行かれた合コンで一緒になった、見た目可愛らしい女の子たちのおそるべき肉食っぷりまで――、全部聴いてくれるけど、おれの云うことを聞いてくれたためしはない。

 おれの好きなものはなんでも――白身魚の刺身や深入りの豆で淹れたコーヒー、早朝のランニング――知っててくれるけど、おれのことを好きになってはくれない。

 好きだ、好きだと云い続けてほぼ一年。

 もうこれで勝負を決めてやるんだと思って、クリスマスイヴのディナーと部屋を予約した。恥も外聞もなけなしの自尊心プライドもなにもかもなげうっての、捨て身の勝負だった。

 だけど、全部無駄になった。

 行きたいところがあるんだ、と云っても、あの日の慈は、いいよ、と頷いてはくれなかった。慈ちゃんに見せたいものがあるんだ、と云っても、今日は晶のための日なんだから、わたしのことはいいんだよ、ときっぱり拒まれた。

 挙句、駄目押しみたいに差し出されたのは、シックな雰囲気を湛えるボトル。晶が用意していたものよりも、だいぶ格の高い一本だった。自分はろくに飲めないくせに、いったい誰に教わったんだ。

 シャンパン、飲んでみたいって云ってただろう、とやわらかく微笑まれ、家に帰ってみんなと飲もう、と低い声で誘惑された。逆らうことなんかできなかった。

 慈の運転する車の助手席で、晶はずっと不貞腐れていた。ちくしょう、と奥歯を噛みしめた。ちくしょう、また一歩も前へ進めなかった。

 もう二度とあのときと同じ轍は踏まない、といまの晶は冷房の効いたリカーショップのワインフロアで、目の前に並ぶとりどりのボトルをじっと睨みつけている。いらっしゃいませ、と愛想よく近寄ってきたスタッフが、そろそろいい加減に買うか帰るかどっちかにしてくんないかな、という正直すぎるオーラを出しはじめても、晶はじっとその場を動かなかった。

 あれから半年が経った。おれの二十歳も半分が過ぎてしまった。

 でも、おれは相変わらず同じところで足踏みしている。――お隣の可愛いボクちゃん。

 ちくしょう。このままにしてなるものか。

 晶は意を決してスタッフを呼んだ。遅すぎる用命に彼女は一瞬の空白で抗議をしたのち、はい、と応える。

「シャンパンが欲しいんだけど」

 ええ、そうでしょうとも、とスタッフは思った。お客さま、あなたさっきからずっと、眼力で瓶が割れるのを待つつもりなんじゃないかと疑いたくなるほど長く、シャンパーニュの棚を睨みつけていらっしゃいましたものね。

「銘柄とかよくわからないんだ。大事な人の誕生日に一緒に飲むなら、どれがお勧めか、教えてください」


 タルトとシャンパンのおすそ分けに与った母と弟――かなえというのが彼の名だ――がそれぞれ自室に引き上げたあと、晶と慈はふたり、小野寺家のリビングで酒盛りを続けていた。もっとも、酒を飲んでいたのはもっぱら晶ひとりで、慈は茶を啜りながらちびちびとタルト食べ続けていたのであるが。

「ねえ、慈ちゃん」

 酔いに任せた晶の指先が、慈のやわらかな髪に触れた。慈はびくりと肩を震わせたが、大きく身を退くことはなく、皿の上に散らばったタルトの欠片をフォークで寄せ集める作業に没頭しているふりをしていた。

「慈ちゃんは、どうしておれじゃだめなのかな」

「だめ?」

 慈は横目で晶を見遣る。

「だめだろ。おれとつきあって、って云っても、全然、うん、って云ってくれない」

 だめだと云った覚えはない、と慈はのろのろと答えた。

「晶のそれは思い込みだから、もっと広い世界を見たらって云ってる」

「好きだよって云ってるのに」

「ずっと一緒にいたからな。家族だって、好きか嫌いかで分けたら好きになるでしょ」

 普段口にはしなくてもさ、と慈は云う。

「そう云えるってのは、運がいいからなんだけどね。晶も、わたしも」

「そういう、好き、じゃないって、知ってるくせに」

「そういう、好き、じゃないって、晶が思い込んでるだけだよ」

 そんなの、それこそ慈ちゃんの思い込みじゃん、と云いながら、晶は自分のグラスにシャンパンを注ぐ。花柄も可愛らしいそのボトルは、リカーショップの店員一押しの一本である。少しぬるくなったのだろう淡い金色の液体は、さきほどのような滑らかで細かな泡を生み出さなくなっていた。

「おれのこと、いつまでもこども扱いしてさ」

 不貞腐れきった声は、けれど、もうこどものそれではない。慈は深いため息をついた。今度は、晶の肩が大きく跳ねる。

「そうだね。晶は、もう、こどもじゃない」

「慈ちゃん?」

「こどもじゃないんだよね」

 どうして慈ちゃんはいまにも泣き出しそうな顔をしているんだろう、と晶は思った。まるで、すごく傷ついた人みたいに、すごくつらい目に遭った人みたいに。

「ねえ、晶。晶はわたしのなにを知ってる?」

「なにを……って?」

「晶の知ってるわたしは、ほんの、ほんの、本当に、ほんの少しなの。それ、わかってる?」

 慈ちゃん、という自分の声が強張るのを、晶はどこか遠くに聞いていた。なんだ、なにを云おうとしているんだ、慈ちゃん。なにか、とてもよくないことを――。

「わかってないよね、わかるはずない。だって、わたしは、晶にそういう自分を見せないようにしてきたんだもの、ずっと」

「慈ちゃん」

 酔ってるの、と訊く晶の声は、いまにも泣きそうだ。

 慈が晶の気持ちを正面から拒否したことは、これまで一度もなかった。最初のときこそ、わたしたちのあいだにはじまるものなどなにもない、とぴしゃりとやられたけれど、そのあとは一度だって、慈は晶の気持ちを拒否したりしなかった。

 考え直したほうがいい、とか、こどもとはつきあえない、とかいう彼女の言葉に、ちゃんとおれを見てよ、おれと向き合ってよ、と晶はいつでも悔しくてならなかった。

 だけど、いまは――。

「酔ってないよ。ほとんど飲んでないの、晶、見てたでしょ」

 そうだけど、と晶は唇をほとんど動かさずに俯いた。まるで、そこに落ちている言葉の欠片を探そうとでもするかのように。

「だって、急にそんなこと云うなんて」

「そんなこと?」

「おれが慈ちゃんのこと、ぜんぜんわかってないみたいな、そんなこと」

 わかってないでしょ、と慈はバッサリと切り捨てた。鋭い刃で胸を一突きされたかのように呼吸を止めて、晶はおそるおそる慈を見る。慈はかすかに笑って、またもや刃を翻した。

「わたしがどんなことで怒ったり、泣いたりするのか、知らないでしょ、晶は」

 晶は沈黙した。――知らない。なにも。慈ちゃんの云うとおりだ。

「晶が悪いんじゃないよ。わたしが見せてこなかったんだから、あたりまえなの。晶には知られたくなくて、必死に隠してきたんだから」

 でもさ、と慈は淡々と続ける。

「もしもこの先、晶とつきあったとして、そうなったらわたし、自分のいやなところやだめなところ、隠しておけないと思うんだよね。出ちゃうと思うんだ、どうしても。」

「そ、そんなのあたりまえだよ。っていうか、おれなんか、やなところもなにも、慈ちゃんになにもかも知られてるじゃん」

「そうだね」

 そうだねって、と晶はふたたび言葉を失う。

「それでもわたしは晶を嫌いじゃないよ。むしろ好き。大事な子だもん。でも、晶は違うでしょ。そうじゃない。わたしのこと、なんにも知らない。それで、好きって、なんでかなって。そう思うの、あたりまえじゃない」

 慈はまっすぐに晶を見据えた。

「だから、知りたいなって。晶はわたしのなにを知ってるの?」

 晶に残されたなけなしの矜持が、彼に口をつぐませる。なにも知らない、とはどうしても云いたくなかった。

 近所の幼馴染、ずっと面倒をみてきた歳下のこども。そんな立ち位置に甘んじていた自分に喝を入れ、いつかそこから抜け出してやると慈に噛みついた日。

 矜持も見栄も全部投げ捨てて、しがみついてでも慈を手に入れると誓った。

 それなりに大人の男と恋愛を楽しんできたであろう慈の、それでもいちばん近くにいたのは自分に違いないと、そう考えた結果だった。

 自分は間違っていなかった、と晶は思う。

 慈ちゃんの一番近くにいた男は、間違いなく、おれだ。

 十九歳になったあの日から、なりふりかまわず迫る自分に、慈は驚き、呆れ、しかし、それまでの認識だけはあらためてくれたように思う。傍らにいる涛川晶が、ただの歳下の幼馴染ではなく、自分を恋うひとりの男だと、そう思うようになってくれた。

 その証拠に、ここのところの慈は、以前ならば晶の前では決して口にしなかったような我儘や悪態や愚痴をぶつけてくれる。まだ学生の晶にはわからないことも多いけれど、仕事の話もときどきしてくれるようになった。

 少しずつ、少しずつ。

 相変わらずこちらの想いにはぜんぜん応えてくれない慈だけど、かつてのようにこども扱いされなくなってきたことは、ものすごく大きな進歩であるはずだと晶は思っていた。

 焦っちゃいけない。でも、手を緩めてもいけない。

 一緒に過ごす約束を反故にされても、選んだアクセサリーを全然使ってくれなくても、それでも晶はそのことにがっかりしたりはしなかった。

 慈はいつでも晶の傍に帰ってきてくれるからだ。肩の力を抜き、甘いものに喜び、無防備な笑顔を見せてくれるからだ。

 男として意識されていない、警戒されていない、それだけが理由ではないということは、自分ひとりの思い込みではないはずだ、と晶は思う。

 彼女の指先や髪や頬に、そういう意図を持って触れたとき、慈の身体はわずかに緊張する。男としての慾望を隠しきれずに、しかしぎりぎりで堪えているときも同じだ。しかも慈は、そんな晶の気持ちをたぶん正確に読み取っている。

 読み取ったうえで――、戸惑い、怯えている。

 それがたとえほんの少しだったとしても、以前の慈ならば考えられなかったことだ。

 もしも、いまもまだ、晶のことを近所のこどもとしか思っていないのなら、戸惑ったり、ましてや怯えたりなどしないだろう。かつては同じ布団で寝かしつけてもらい、風呂に入れてもらったことさえある。なにをいまさら、戸惑い、怯えることがある。

 ない。ないはずだ。

 まるでなにもわからずぽかんとするか、笑い出すかのどちらかだろう。

 だが、慈は違う反応を見せた。それは――晶にしてみれば到底満足の行くレベルではないが――、明らかに慈が晶を意識しはじめたということの証なのだ。

 少しずつ、少しずつ。

 おれは慈ちゃんに近づいている。

 晶はこの一年半のあいだ、そう思いながらずっと堪えてきた。一足飛びに距離を詰め、完膚なきまでに叩きのめされることだけは避けなくてはならない。これから先の長い人生、ずっと慈とともにあるために、あと少しだけ、もう少しだけ我慢する。

 それで間違いはないのだと、ずっと思ってきた。――今日、いまこのときまで。

 でも、それは、間違いだったのかもしれない。

「なにも、知らないみたいだね」

 慈の声には、ひとかけらの甘さも含まれていなかった。さっきまで頬張っていたタルトはどこにいっちゃったんだよ、と晶は泣きたくなる。あんな甘いもの食べて、その冷たい声はどこから出るんだよ。

「知らなくなんか、ないよ」

「知らないよ」

 知ってるってば、と晶は思わず声を大きくした。

「結構部屋が汚いこととか、寝起きが悪いこととか」

 慈の目が剣呑に細められる。

「好き嫌いが多いことも知ってるよ。どうにか食べられるだけで、魚、ほとんど嫌いでしょ、慈ちゃん。きのことこんにゃくも嫌いだよね」

「そんなの……」

「我儘で自由人だけど、全然かまわれないのはさびしいでしょ。追われると逃げたくなるけど、追いかけるのが得意なわけでもない。意地張って、ほっといてって云ったあとで、物陰からじっと相手を窺ってるめんどくさいところあるよね」

 慈の頬が真っ赤に染まった。唇の端がわなわな震えているところを見ると、相当怒らせたらしい。つまり、図星なのだ。

「いままでの相手はどうだったの?」

 余裕のない晶の声は、ひどく強張っている。それが慈にどう聞こえるかなど、いまの彼には考えも及ばないことだった。

「いままでの、相手?」

「そう。いままでの歴代彼氏。ちゃんと慈ちゃんのペースで慈ちゃんのことかまってくれたのかな。ほっとかれすぎても、かまわれすぎてもだめなこと、ちゃんとわかってくれたの?」

 くれなかったんだよね、と自分でも意地が悪いと思うような笑みを浮かべて慈を見れば、さっきまで真っ赤だった頬は、いまは心なしか青褪めて見えた。テーブルの上に投げ出されたままだった掌が、いまは固く握りしめられて小さな拳になっている。

 おれを、慈しんでくれていた掌だ、と晶は思った。頭をなで、カメラを構え、手をつなごうと差し出してくれた。

 おれはこのぬくもりを、なくしたくない。

「でも、おれはそのことをラッキーだと思うよ。もしも誰かが、慈ちゃんのことわかってくれてたら、慈ちゃんはおれとここでこうしていなかった。それがわかるから」

 慈は黙ったまま晶をじっと見ていた。ひどいことを云うんだな、とわずかに潤んだ瞳が晶を詰っていた。

 こんな悲しげな表情にさえ喜びを覚えるおれは、ずいぶんと悪い男になっちゃったみたいだ、と晶は思う。大事にしたくて、傷つけたくなくて、それなのに、こんなふうにひどいことを云うなんて。

「どこの誰ともわからないやつに、慈ちゃんが攫われなくてよかったよ、ほんとに」

 そう云いながら晶が伸ばした指を、慈はぱしりと払い除けた。なかば予想していたこととはいえ、やっぱり、だめか、とがっかりする気持ちは止められなかった。

「晶、ずいぶんひどいこと云ってる。そのこと、わかってる?」

「わかってるよ」

「それでわたしのこと好きだなんて、よく……」

 だからさ、と晶はため息と苦笑の混じった吐息を漏らした。

「わかっただろ、慈ちゃんも。おれが、狡くて、ひどくて、結構卑怯なこと」

 慈の目が大きく見開かれる。

「慈ちゃん、おれのこと舐めすぎ。莫迦にしすぎ。好きな相手がなに考えてるか、全部じゃなくたって、わかることくらいあるよ」

「ば、莫迦にしてなんか……」

「してるよ」

 莫迦にしてる、と晶は鼻先で笑った。

「おれのこと、いくつのこどもだと思ってるの。おれだって嘘もつくし、悪いことも考えるし、いやなことだって云う。狡くて、弱くて、卑怯だよ。慈ちゃんと同じ」

「同じって」

「同じだろ」

「同じじゃ……」

 同じだよ、と晶は強い口調で云い切った。慈は言葉を失って俯いてしまう。

「おれだって、慈ちゃんに知られたくないこと、いっぱいある。本当は、いまみたいな、いやな自分だって見せたくなかった」

「晶」

 謝らないでよ、と晶は先手を打った。

「謝らないで、慈ちゃん。見せたくなかったけど、見せてよかったと思ってるよ」

 知らずにすめば、知らせずにいられれば、そのほうがよかったのかもしれない。慈に向ける気持ちは、綺麗なままだったかもしれない。彼女に望むものもまた、綺麗なままで――。

 けれど、人は綺麗なままでは生きられないのだ、と晶は思う。少しずつ汚れて、少しずつ欠けて、少しずついろいろなものを捨てて。

 おれだけじゃない。慈ちゃんだけじゃない。

 声も知らぬ母も、育ててくれた祖父母も、この小野寺の家の人たちだって、みんな同じだ。大学の友人たちも、バイト先の仲間たちも、見も知らぬあらゆる人たちも、みんな同じだ。

 みんな同じで、そしてみんなが互いに少しずつ許し合って生きているのだろう。

 おれが、慈ちゃんの汚れたところや欠けたところを、それでも愛しく思うみたいに。

 少しずつ、少しずつ。

「晶」

 大きな声を出したら、そのまま泣き出してしまうことをおそれているかのように、慈の声は小さかった。

「なあに、慈ちゃん」

「晶、それでいいの? わたしで、いいの?」

 臆病なんだなあ、慈ちゃんは、と晶は思い、でも、そんなところも可愛いよな、とやわらかく微笑んだ。慈が目に見えてたじろぐ。

「慈ちゃんが、いいんだよ」

 慈はまた俯いてしまった。晶は今度こそ指を伸ばし、彼女の髪に触れる。いやいや、と首を横に振る慈に、いまはなにもしないよ、と胸の内だけで告げた。

 いまはなにもしない。

 慈の望まないことはしない。

 もう十分に慈を傷つけてしまった。たとえ、自分の想いを伝えるために仕方のないことだったとしても、いまはこれ以上、慈を追い詰めたくはない。

 だから晶は、ただ願うことにした。この雨の夜がいつまでもつづくよう、慈がこの夜の痛みを忘れてしまわないよう、ひっそりと願うことにした。

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起承転結 三角くるみ @kurumi_misumi

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