02
「遅かったね、慈ちゃん」
重たい気持ちで扉を開けた慈は、玄関に響く聞き慣れた声に、思わず顔をしかめた。会いたくない、会いたくない、と思っているときに限ってなんでいるんだろうな、この子は――。
「待ってたのに」
「なんで?」
なんでって、と晶は、上り框に腰を下ろしてサンダルを脱いでいる、慈の丸まった背中に向かい、見えないとわかっていながら唇を尖らせた。
「今日は慈ちゃんの誕生日でしょ」
「だからどうしたの」
「お祝い、持ってきたんだよ。一緒に飲もうと思って」
一緒に、なにを、と慈は慎重に云った。わたしの声は、晶に、ちゃんと迷惑そうに聞こえているだろうか、とびくびくしながら。
「シャンパン」
「なんで?」
なんでなんでって、傷つくなあ、と晶は痛ましいような声を出した。ごめんね、と慈は思う。大切な子に冷たくあたって、わたしも同じだけ傷ついているからと、それは贖罪になるのだろうか。
「お祝いしたかったの。一緒に。わかるだろ」
「今日じゃなくていいかな。先輩と飲んできたからさ、もう」
いやだ、と晶は云った。慈が咄嗟に口をつぐむほどに強い声だった。
「今日飲む。慈ちゃんの誕生日は今日でしょ。今日じゃなきゃ意味がないの。わかるだろ」
わかるよ、わかるけど、と慈は思った。わかる、とは云えないのだ。
「空けなくたっていい。少しでいい。待ってたんだ。つきあってよ」
せっかく選んだのに、せっかく待ってたのに、と懇願する晶に慈は折れた。わかった、と根負けした彼女は頷いた。
「着替えてくるから、ちょっと待ってて」
部屋着に着替え、晶の待つリビングに降りていくと、なにごとかに笑う晶と母の声が聴こえてきた。飲んで帰る、と云った割にはまだ早い時間だったから、なにか食べるものがないか訊いてみよう、と慈は母に声をかけようとした。
「慈は手強いみたいね」
母の不穏な言葉が聞こえてきて、慈は咄嗟に身を固くした。磨りガラスの嵌ったリビングの扉は、向こう側が明るいせいで、廊下に佇む慈の姿をうまく誤魔化してくれる。
「手強いって?」
「苦戦してるじゃないの、晶くん」
晶の苦笑いに、母は容赦ない追い討ちをかけている。あーあ、と晶はため息をついたようだ。
「あんとき、おばさんに話すんじゃなかった。やりにくくてしょうがないよ、もう」
「あら、協力だってしてあげたでしょ。出張だなんだってほとんど家にいないあの子の予定、全部流してあげてるじゃないの」
母が
「なんにしたって選ぶのは慈。あの子は外野の云うことなんか聞きやしないんだから、頑張るのは晶くんよ」
母め、面白がってるな、と慈は顔を顰めた。大抵の女は、恋の話が大好きだ。自身のそれから遠ざかって長ければ長いほど、人の恋路に鼻を突っ込みたがる。
母にとっての晶は、いつまで経っても、お隣の可哀想な子だ。晶くんて、どこか遠慮して育っちゃったみたいに見えるのよ。
どこが可哀想なもんか、と慈は思う。たしかに、同年代の子に比べれば、晶はより深い翳りを背負っているのかもしれない。歳に見合わない落ち着きは、生まれながらにして世の無常を知るがゆえのものと云えなくもない。
でも、あれがそんな可愛いものではないこともまた、慈はよく知っている。
誰かに話せば十中八九、気の毒に、と云われるであろう生い立ちさえ武器に変え、好きだよ好きだよ好きになってよ、と迫ってくる卑怯は、なかなかどうしてたいしたものだ。たまに負けそうになる。
否――、たまにではない。本当はもう、負けているのかもしれない。
慈は慌てて首を横に振った。
違う違う、負けてなんかない。わたしは晶と恋なんかしない。愛はあるかもしれないが、それは、もっと、こうなんというか、隣人愛的な広く浅いものだ。そうに決まっている。そうでなくてはならない。
ときどき油断してしまうこともあるけど、わたしと晶の距離は以前と変わっていない。変わっていない、――はずだ。
四六時中、好き好き云われる心地よさに慣れてしまって、ここのところの慈は、晶に対するガードが緩くなりかかってきている。指先や髪や頬に触れてくる手を拒めないことも多いし、うっかりすると妙に甘い空気に持っていかれることもある。慌ててぶち壊すも、晶の眼の奥に燻るなにかを消し去ることはできないのだと気づいてしまった。
もういいじゃん、晶にしちゃえよ、まあまあ可愛いじゃん、あいつ、とは姉の恋愛にまったく興味のない弟の弁だ。ちなみに兄は、妹そのものに関心がなく、彼が家を出たいまは、妹が結婚しているかどうかすら把握していないようである。
しちゃえよ、じゃないんだよ、と慈は思う。だって相手は晶だよ。つきあいましょう、楽しみましょう、飽きましたから別れましょう、というわけにはいかない。
お隣と気まずくなったり、家族の負い目になったりするのはいやだ。
晶を傷つけるのは、もっといやだ。
そんなことを云えば、別れるのが前提なんてひどい、と晶は喚き立てるだろうが、慈はそこまで己に自信があるわけではなかった。
モテてモテて持て余すほどではないにしても、慈にだって人並みくらいの恋愛経験はある。過去の恋人たちとは、それなりに情熱的な想いを交わしてきたつもりだ。だが、いまの自分は独り身。誰ひとりとして長く続かなかった。
晶とだって、きっとそうなる。
それはいやだ、と慈は思ってしまうのだ。
隣家や家族に対する配慮ばかりがあるわけではない。純粋に、単純に、いやなだけだ。――恋が終わったあと、晶と疎遠になってしまうことが。
慈は我儘な自分を知っている。嘘つきで、卑怯で、臆病な自分を。
晶と恋をすれば、そんな自分を彼に知られてしまう。
晶がなにをもって、自分を好きだなどと云うのか、慈にはよくわからない。わからないけれど、長い年月をかけて積み上げた幻想に違いないと確信している。
だってわたしは、晶の前ではいつでも頑張っていたもの。
誕生と同時に母を失くし、育ての親ともどこか距離を置いている晶の、せめてものよりどころとなるべく、慈はこれでもいろいろと努力してきたのだ。
あたりまえのように、傍にいられるように。
あたりまえのように、甘えてもらえるように。
あたりまえのように、寄りかかってもらえるように。
晶には決してそうと知られたくはないが、彼があたりまえだと思っていることの、その裏には、慈なりの努力が隠れていた。
その努力とはつまり、晶の傍にいるのにふさわしくない自分を隠すことだ。
慈には、晶に見せていないことがたくさんある。
年齢相応の我儘や失敗、悩みや焦り、友人たちとの喧嘩や恋人たちとの別れ。自分を傷つけ、歪ませ、捻じ曲げてきたすべてのこと。
けれど、自分を形作る、たいせつな――、過去。
晶は、わたしのことなどろくに知らないのだ、と慈は思う。わたしが知らせようとしていないのだから、当然だ。
知らないことを理由に拒まれても、晶にすれば理不尽としか思えないだろう。教えてくれないのは慈ちゃんなのに、と可愛い顔を歪めて文句を云うのに違いない。
でも、だめだ。だめなのだ。
弱かったり、狡かったり、汚かったり、そういうだめな自分を晶には見せられない。
だめなところのないわたしはわたしではないと自分でも思うけれど、それでもわたしは、だめなわたしを晶に見せたくはない。
晶の前では強いままで、正しいままで、綺麗なままでいたいのだ。
なんと、弱くて、狡くて、汚いのだ。
こんなわたしを、――不愉快と呼ばずになんと呼ぼう。
「慈ちゃん、そんなとこでなにやってんの?」
リビングの扉が向こうから開き、晶が顔を覗かせた。晶の背後では、母が呆れたような、とぼけたような顔をしてこっちを見ている。おのれ間諜め、ドングリを落とした仲間を哀れむリスみたいな顔をしたって許すもんか。
「おばさんが、慈ちゃんの好きな冷しゃぶ用意してくれてるよ。大根おろしたのはおれだけど」
「辛くないでしょうね」
「わかんない。でも、辛いんじゃない?」
なんで、と慈はやや大げさに晶を非難した。辛い大根おろしは好きじゃないのだ。
「なんでかなんて、訊かないでもわかるよね。誕生日なのに、お祝いに行くからねって云っておいたのに、ひとりで出かけちゃった慈ちゃんに苛々してたからに決まってるじゃん」
「晶、バイトだったんじゃないの?」
「早番で終わって、買物して速攻駆けつけたっての」
「大根おろす時間がたっぷりあってよかったじゃない」
慈ちゃん、と晶は強い声を出した。
「でもさ」
約束なんかしてなかったでしょ、と慈は低い声でぼそぼそと云い訳をした。
「休みになるかどうかわかんないって、あれほど云っておいたじゃない」
「休みになったら知らせてねって、あれだけ云っておいたのに」
慈ちゃん、なんにも教えてくれないんだから、と晶は勝手知ったる他人のわが家とばかりに、炊飯器からごはんをよそって慈の前に置いた。
「あとでケーキもあるからね」
「あとでって、こんな時間にケーキ食べさせる気?」
「早く帰ってくればよかったんだよ。ごはんも一緒に食べられたのに」
飲んでこの時間なら、十分早いわ、と慈は悪態をつく。母に向かって、いただきます、と頭を下げれば、召し上がれ、と気取った返事が聞こえた。あれは絶対、なにもかも聞こえていて、笑いを誤魔化すための返事だな、と慈は苦々しく思う。
「この歳で、誕生日もなにもないでしょ」
「なに云ってるの。大事な日でしょ。慈ちゃんが生まれた日、おばさんが慈ちゃんを産んでくれた日なんだから」
ねえ、と晶は母に向かって笑いかけた。そんなふうに媚びまで売って、間諜を雇うのもラクじゃないな、と慈はやさぐれる。むしゃむしゃと冷しゃぶを平らげ、味噌汁を飲み終わると、ごちそうさま、と席を立った。すかさず出てくるケーキとシャンパンに渋い顔をし、おなかいっぱいなんだけど、と無駄な抵抗をすることは忘れない。
「ここのタルト、慈ちゃん、好きでしょ?」
季節のフルーツがこれでもかと盛られた美しいタルトは、たしかに慈の好物である。お愛想程度にしか酒の飲めない慈は、フルーツを使った甘味がことのほか好きだった。
「グレープフルーツにしてみたんだ。美味しそうでしょ」
晶が自慢げに箱を開けるだけのことはあって、鮮やかな色彩のタルトは目にも美味だ。
ぐ、と慈は喉を鳴らし、そうね、美味しそう、と短く返事をした。
「シャンパンもあるよ。少しなら飲めるよね」
「そんなに、誰が飲むんだ」
慈が飲めないのは家系である。母も、まだ帰宅していない弟も、酒はほとんど飲めない。
「おれが飲むよ」
悔しいことに晶は酒に強いのだ。おまけに甘党でもある。いつだったか、将来は糖尿か肥満だな、と悪態をついたこともあるが、心配してくれるの、と見当はずれの感謝をされて軽く退いた。
考えてみれば、わたしはほとんど晶にやさしい言葉をかけたことがないんじゃないだろうか、とふと慈は気がついた。幼いころのことはさておいても、ここのところの自分ときたら、晶の顔を見るたびに悪口雑言を投げつけているような気がする。
――まるで。
まるで、なんだって、と慈は慌てて首を横に振った。いま、なにを考えようとしたんだ、わたしは。
いそいそとナイフを取り出し、タルトを切り分ける母と、グラスを並べ、シャンパンの栓を抜く晶は、そんな慈の焦りにはまるで気づいていない。その証に、用意できたよ、と呼ぶ晶の顔は、無邪気そのものだ。
慈は、また胸に、鋭く、鈍い痛みを覚えた。
――早くしないと。早くしないと、本当に取り返しがつかなくなってしまう。
「はい、慈ちゃん」
フルートグラスなどというしゃれたものがわが家にあっただろうか、と首を傾げながら慈は晶の差し出すそれを受け取った。飲めない母までもがグラスを手にして、にこにこと笑っている。ご相伴に与れてラッキーだわ、というのは本音に違いない。
「太るよ、こんな時間にケーキなんか食べたら」
「あら、可愛くないのね、慈」
せっかく晶くんが買ってきてくれたのに、と母はいかにも悲しそうに抗議をする。
好きなように生きてくれとは云ったけれど、三十も過ぎて結婚どころか彼氏もいないようじゃ、心配で病気にもなれない、と母はよく云っている。いっそ彼女でもいいのよ、と妙に先進的なことを口にしたりもするが、ようは、死ぬまで独りでいる気なのか、と云いたいだけなのだ。
心配はわかる。けれど、伴侶を得たからといって心配がなくなるかといえば、それは違う。新たな心配が増えるだけだ。母を安心させることのできる日など、生涯やってこない、とその点については、慈は開き直っている。
気に入らないのは、母の言葉にいちいち頷いてみせる晶だ。いまも、せっかく買ってきてくれたのに、という母の言葉に、そうだよそうだよ、と賛同している。
「この店、結構並ぶんだよ。バイトのあと、わざわざ銀座まで行ったんだから、味わって食べてよ」
その名のとおり、輝くような笑顔を浮かべた晶は、お誕生日おめでとう、とグラスを掲げて慈を見た。うん、と頷いた慈は、ありがとう、と礼を云い、グラスに口をつける。
「慈ちゃん、美味しい?」
尋ねる晶の口調には、美味しくないわけがないよね、という押しつけがましい響きが籠っていた。慈の態度があまりにも悪いせいで、どうやら少し拗ねてしまったらしい。
「美味しいよ」
慌てた慈は、口に運んだタルトを飲み下してから、取り繕ったような笑顔を晶に向けた。彼のことを怒らせたり、悲しませたりしたかったわけではない。ましてや、傷つけたかったわけでも。
恋心を隠そうともせず、ひたすらに好意を捧げる晶に比べ、逃げまわるばかりの慈はあまりにも卑怯だ。応えられない、と断る慈の声には、本気が込められたことなど一度もなく、それゆえ、晶は諦めることもできない。
そうなのだ。晶がわたしを束縛しているのではないのだ。
わたしが、晶を束縛しているのだ。
少し前から、慈はそんな自分に気づいていた。気づいていて目を逸らし続けていた。
でも、それももう限界だ。
わたしは卑怯だ。こんな卑怯なわたしを知っても、晶はわたしを好きだと云ってくれるのだろうか――。
いいや、違う。そうではない。考えるべきはほかにある。
わたしは、いつまでこんな卑怯を自分に許すつもりでいるのか――。
ほんのひとくちの酒で酔いのまわった慈は、そんなことをぼんやりと思う。
晶は、拗ねたままの口調で、それでも、そう、それならいいよ、と自分もタルトを口にする。そして、彼にとって不愉快に違いない慈の態度をどうにか我慢するため、水か茶のようにシャンパンを飲み干した。
薄いジェリーに包まれてキラキラ輝くグレープフルーツを口に押し込み、滲みだす果汁を味わいながら、慈は、もしかしたら、と考えた。もしかしたらこれを、晶からもらう最後のプレゼントにしなくちゃいけないのかもしれない。
いつまでもこうしていてはいけない。
晶の想いに答えを返さず、甘えていてはいけない。
やさしい言葉をかけることもなく、素直な感謝も返すことなく、想いを受け止めることもなく、ただ甘えていてはいけない。
甘えて。
そうだ、わたしは晶に甘えている。
慈は、不意に、晶は大人になっていたんだな、と思った。無意識のうちに、わたしが甘えてしまうほど、晶は大人になっていたんだ。
なにかに頭を殴られたような覚醒は、曇っていた慈の目を覚まさせる。
そうか、と彼女は目を瞬かせた。晶はもう、大人になったんだ。
わたしの手を必要としない、大人になったんだ。
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