夜はつづく

01

 小野寺おのでらめぐむは梅雨時に生まれた。だからだろうか、彼女は雨の降る日が好きだ。

 大きな荷物を抱えて移動することの多い仕事柄、面倒だと思うこともなくはないが、雨や雪の降る日には、この世界が少しだけ綺麗に見えるような気がする。

「さすがの雨女ですね、小鳥遊たかなしさん」

 慈がそう云うと、目の前に座っていたひとつしか歳の変わらない先輩は、ぴくりと片眉を跳ね上げた。

「一年ぶりの帰国の日が、こんな雨とか」

「梅雨時なんだから当然じゃない」

 云いながら小鳥遊は、くゆらせていた煙草の火を消した。

「小野寺、あんた、そういうとこ変わんないんだね。ちょっと安心したわ」

「どういう意味です?」

「よけいなことばっか云うって意味」

 小鳥遊は煙草のないことが寂しいのか、グラスを傾けてビールを一口飲むと、そのぽってりと可愛らしい唇をくいと歪める。

「でも、まあ、少しは変わったか」

「変わった?」

 わたしがですか、と慈が首を傾げれば、小鳥遊は、自分で気づいてないの、とにやにやした。顔に似合わない、下種な笑みである。

「会うのは一年ぶりか、もっとか、えっとね、とにかく前に会ったときに比べて、あんた、女になったよね」

 えっ、と慈は動きを止めた。えっ、なにそれ、どういう意味ですか。

「そのまんまの意味」

 小鳥遊は次の煙草に火を点けた。不規則勤務のヘビーチェーンスモーカー、大酒飲みの超少食。彼女は間違いなく早死への道をひた走っている。

「なんだっけ、あんたの若い幼馴染、歳下の恋人、なんでもいいけど、そういうのが傍にいると、なんていうか、やっぱ身体にもいいのかなあ」

「おっさんみたいなこと云うな」

「女性フェロモン、ホルモン、とにかくそういうのが……」

 小鳥遊さん、と慈は道行く人が振り返らない限界程度の大声で、先輩の軽口をたしなめた。

 いまは海外でフリーランスの記者をしている小鳥遊が、帝都通信社で記者をしていたころから慈は彼女の世話になっている。だが、相手構わずのセクハラ発言やおっさん臭い物云いにはいまだに耐性がつかない。それはきっと、このひん曲がった言葉選びが、彼女の本当ではないからなのだろう、と慈は思う。

「久しぶりだっていうのに、憎まれ口ばっかりですね、小鳥遊さん」

 わたし、今日誕生日なんですよね、しかも、出張帰りで奇跡的に休みなんですよ、と慈はぼそりと呟いてみる。

 ふうん、と小鳥遊はさして興味もなさそうに頷いた。

「それ、なんのアピール。ひとり寂しい誕生日を賑やかにしてあげたんだから、お礼のひとつも云ってくれるわけ?」

「寂しくなんかないですよ」

「寂しいでしょ。わたしに呼び出されてのこのこやってくるくらいなんだから」

「帰りますよ、マジで」

 三十二歳になる誕生日が特別に嬉しいわけではない。どうせ祝ってくれる恋人のひとりもなく、家に戻れば両親と弟からの生温い祝いの言葉を受け取るだけなのだ。

 家にいたって楽しくはない。出かけるあてもない。

 でも、よりによって誕生日に、会えば厄介ごとしか持ち込んでこない厄介な先輩と、寂れ気味のカフェでツラ突き合わせて、薄いアイスコーヒーなんぞを啜っていなくてもいいんじゃないか、と慈はあらためて思う。

 そして、あ、いや、もうひとりいたな、面倒くさいのが、と小鳥遊よりももっと面倒な存在を思い出し、苦虫を噛み潰したような顔をした。

「ほら、その顔」

 小鳥遊は、綺麗な巴旦杏アーモンド型の双眸を眇めて、楽しそうに笑った。

「女の顔だよね」

 なんていやな人だろう、と慈は思った。

 小鳥遊にひかるのことを詳細に明かしたことはない。ただ、隣家に住む歳下の幼馴染とのエピソードを、いくつか披露したことがあるだけだ。

 それでもひどく勘の鋭い小鳥遊は、慈の言葉の端々から、慈と晶との複雑な関係――主に心理面における――を過たず読み取っていたものであるらしい。おまけに、顔を合わせることのなかったあいだにおけるふたりの関係の微妙な変化さえをも、ちゃんと感じ取っているらしかった。

 この素晴らしく繊細かつ鋭敏な感受性を、もっといい方向に役立てればいいのに、と慈は思う。

 まったく、と慈は、小鳥遊の吐き出す煙を器用に避けながら、すっかり氷の溶けてしまったアイスコーヒーを啜った。

「ひさしぶりだと思うからわざわざこっちまで出てきたのに、やなことばっかり云うんですね、先輩は」

 うんうん、と小鳥遊はひどく楽しそうに頷いた。

「ひさしぶりだってのに、小野寺が変わってなくて嬉しいよ、わたしは」

 なんなんですか、もう、と慈は聞こえよがしのため息をついた。

「ひさしぶりに帰国して、後輩をからかうくらいしか用がないなんて、小鳥遊さんこそ相変わらずですよね」

 慈にとっての小鳥遊は職場の先輩のひとりである。仕事上の縁という意味ではつながりの薄い相手だが、慈は彼女から多くのことを学び、そのことについてはいまも感謝している。

 入社して三年目の春、少しずつ仕事に慣れはじめたころに、慈は彼女と知り合った。

 当時の小鳥遊は、データ管理を管掌するセクションで閑職に甘んじていた。報道カメラマンとしてキャリアを積みはじめたばかりの慈は、勉強のために過去のデータの抽出を依頼することが多く、その対応窓口が小鳥遊だったのだ。彼女は、いつもごく面倒くさそうに依頼に応じ、しかし、依頼したものばかりではなく、関連するデータや参考記事までをもぶっきらぼうに教えてくれるような、わかりづらいようなそうでもないような、妙な親切が持ち味だった。

 そうしたやりとりを繰り返すあいだに、親しく言葉を交わすようになり、仕事上のアドバイスをもらうようにもなった。

 だが、小鳥遊はそれからまもなくして退職した。

 データ管理室は、もともとリストラ要員ばかりを集めたような窓際部署である。まがりなりにも日本の最高学府を卒業した小鳥遊が、若くして配属されるようなところではない。なにか事情があるのだろうと思ってはいたが、尋ねることのできないまま、彼女は、通信社とは縁も所縁もなさそうな低俗誌の記者になっていた。

 付き合いが増えたのは、むしろ、小鳥遊の転職以降のことである。

 手に入りにくい情報やデータをこっそり持って来い、と何度無茶を云われたかわからない。五回のうち四回は無視し、残る一回も決して素直に応じていたわけではなかった。

 それでも、最後の最後で断りきれずに小鳥遊の要求を飲まずにいられなかったのは、慈なりに、彼女に恩を感じるところがあったせいだ。疲れたときに愚痴を聞いてもらったり、失敗をしたときに飲みに誘い出してもらったり、小鳥遊はそういったガス抜きのタイミングを見計らうのがとても上手だった。何回、などと数えているわけではないが、無茶を云われたよりもずっと多かったことはたしかだ。

「小野寺はからかい甲斐があるから」

「ほんと、用がないなら帰りますよ」

 慈が直截な言葉で不愉快を伝えると、小鳥遊は、うん、と軽く頷いて、別にいいよ、と云った。

「いいよってなんですか、人を呼び出しておいて」

「うん。いいよ、顔見ておきたかっただけだから」

「なんです、それ?」

 またしばらく日本を離れるよ、わたし、と小鳥遊は云った。吸いさしの煙草を灰皿から取り上げ、深々と吸い込む。煙たそうに細められた瞳が、深い輝きを放った。

「先輩」

 小鳥遊が海外――いままではたしかバンクーバーだったと記憶している――に仕事の拠点を移してから、すでに数年が過ぎていたように思う。いまさらなんなんですか、と慈は笑った。

「そうだね」

 いまさらなんだけどさ、と小鳥遊は煙草の灰を落とす。

「今度は数年単位で戻らないつもり。あんたと会うのも、今度はずっと先になるかもね」

「先輩」

「根無し草も疲れたのよ。いまいるところは、それなりに暮らしやすい街だから」

「どこでしたっけ、いま」

 バンクーバー、と様子を窺うように問えば、そうだよ、となんでもないことのように頷いた。

「なんでまた、急に」

「急でもないの。ただ、いままで踏ん切りがつかなかっただけ」

 踏ん切り、と慈は訝しんだ。

「なんか、あったんですか? 先輩」

 追究する慈に、しかし、小鳥遊はそれ以上の質問を許そうとしなかった。薄く笑ってビールのグラスを空け、新しいものを注文する。

「で、あんたの晶くんはいくつ下なの、七、十、十五ってことはなさそうね」

「ちょっ、そんな下じゃないですよ」

 突然に晶のことを云い出され、慈は慌てる。

「十、一か、二か、そんなところか」

 もういや、と慈は思った。なんなの。なんでこの人こんなに鋭いの。

 慈の表情を見て取った小鳥遊は、かすかに苦笑いする。彼女はたしかに人の心を読むすべに長けているが、なにもかもがだだ漏れなのは慈自身のせいでもある。晶のこととなると、慈の感情は普段の倍も大きく乱れ、そのぶん表情も豊かになる。

 けれど慈は、自分ではそのことに気づいていなかった。

 慈にとって晶は大事な存在だ。

 自分を可愛がってくれていた隣家の幼馴染が、命と引き換えに産み落とした子。母の死を背負って生まれてきたせいか、どこか孤独と縁の深い子。

 彼の成長を見守り、まるで第三の母のような気持ちでいたところを、どこかで道を選び間違い、晶は慈に恋をしてしまった。

 慈は晶の気持ちを知っている。何度も何度も好きだと云われた。ただ押しまくるだけのアピールには戸惑うことも多いが、最近は小さな駆け引きを覚えたようで、そこもまた癪に障る。――いったいどこで覚えてきたのよ、そんなこと。

 だいたい、そんなものに応えられるわけがないのだ、と慈は思う。晶の想いなんて、そんなものには。

 年齢が問題なのではない。晶と慈の歳の差は十一。それなりの覚悟は必要だが、飛び越えようと思えば飛び越えられる、その程度の距離だ。

 問題なのは、と慈はため息をつきたくなった。そんなことじゃない。年齢なんて、そんな些細なことじゃない。

 晶は周りの誰もに祝福されて、幸せにならなくちゃいけない。

 やさしくて、可愛くて、できれば歳も近くて、莫迦でも賢くもなくて、マシュマロみたいにふわふわした、甘い甘い女の子とやさしい恋愛をして、幸せな結婚をしなくちゃいけない。可愛いこどもを授かって、夜泣きとか反抗期とかに苦労しながら、それでも奥さんとふたり、あたたかな家庭を築かなくちゃなくちゃいけない。

 ――たったひとりきりで晶を産んだ、あの子の母親、香子きょうこちゃんのぶんまで。

 わたしには無理だ、と慈にはわかっている。わたしはやさしくもないし、可愛くもないし、歳も離れている。誰かのために自分をげることもできないから、仕事を辞めて家庭を守ってあげることもできない。

 晶はそんなわたしを知っている。慈ちゃんはそのままでいいよ、と云ってくれるはずだし、晶はわたしのすることを、きっとなんでも許してくれるだろう。危ないことはやめてよね、と云いながら、でも、それでも、わたしがそうしたいと云えば、きっと。

 わたしだって、と慈はそこでコーヒーの最後のひと口を飲み込んだ。

 わたしだってきっと、晶のすることならなんだって見守ってやれるだろう。どんな仕事に就いても応援してやれるし、どんな女の子を選んでも祝福してやれる。

 そういうことなのだ、と慈は思った。晶はわたしを、わたしは晶を許しすぎる。そういう仲になるには、互いに互いを知りすぎてしまっているがゆえに、許してはならないことも許してしまう。――ような気が、する。

 そんなこと、晶にだってわかっているだろうに、と慈は思う。なにも云わないでいてくれれば、いままでどおり、居心地のいい関係でいられたというのに。

「で、なに、喧嘩でもしたわけ?」

 愛想の悪い店員を呼び、コーヒーのお代わりを頼む慈をじっと見つめていた小鳥遊が首を傾げた。文鳥のようで、なかなか可愛らしい。

「してないですよ」

 っていうか、と慈は云った。

「男なんていません。晶はそんなんじゃない」

 へええ、と小鳥遊は云った。

「晶くんねえ」

 小鳥遊さんが可愛らしいのはほんとに見た目だけなんだな、と慈は苦々しく思う。

「だから……!」

「好き好き云われてるのは楽しいよね、小野寺」

 へっ、と慈は頬をひっぱたかれたような顔をした。――痛かった。とても。

「相手が自分を好きで、自分も相手を憎からず思っていて、でも、そこには絶対的な気持ちの差がある。誰かと向かい合うときに、たくさん思われてるほうが居心地いいのは真理だと思うけどさ、そこに甘えてると、いつかなくすよ、なにもかも」

「なにもかも」

「そう、なにもかも、全部」

 でも、と慈は云った。

「でも、なに?」

「でも、晶は」

「晶は?」

 でも――、いったいなんだというのだろう。

「……そんなんじゃ、ないんですよ」

 本当に違う、そんなんじゃないんです、と慈は云った。


 小鳥遊と別れたころには、すっかり雨は上がっていた。

 温水の中を歩いているみたいなこの蒸し暑さは、雨が連れてきたんだな、と慈は思う。首筋にねっとりと絡みついてくる風が、これならいっそ吹いていないほうがいいのに、と思わせるほど不愉快だった。

 駅から自宅へ向かう道をゆっくりと歩きながら、慈は小鳥遊のことを思い起こしていた。

 小鳥遊に呼び出された理由は、最後までよくわからないままだった。晶とのことを散々からかったあとで、時間ないからもう行くわ、と不意打ちのように云われ、そのまま放り出された。

 相変わらず勝手な人だ、と慈は思ったが、数年は日本を離れる、という彼女の言葉を思い出し、小さくため息をついた。今日のこれは小鳥遊さんなりの別れの挨拶だったんだろう。あの人はいつも素直じゃないから。

 厄介ごとばかり持ちかけてくる厄介な先輩だったが、慈は小鳥遊が嫌いではなかった。

 頭がよくて、繊細で、ひねくれていて、厭味や皮肉ばかりが得意な人だったけれど、やさしい人だった。とてもやさしい人だった。他人に合わせて、自分を捻じ曲げてしまうほどに。

 そうでなければ、あの意地の悪さやひねくれた物云いの説明がつかない。

 今日だってそうだ。

 執拗に晶のことを持ち出して慈をからかっていた彼女は、なにもかもをなくす前に素直になればいい、とそう云いたかったのだろう。歳の差も、立場の違いも、互いの家族も、なにも気にすることはない、と。

 小鳥遊さんだって、と慈は無意識のうちに唇を尖らせる。

 彼女にだって大切な人くらいいるはずだ。わたしなんかにかまけていないで、その人に会いに行けばいいのに。

 うっすらと額に浮いた汗を手の甲で拭い、慈は舗道を照らす街灯を数えるように瞳を眇めた。

 なにがあったかはわからないけれど、小鳥遊は今度の帰国で、これまで抱えていたなにかを、すっかり捨て去ろうとしているのに違いない。

 そうでなければあんなことは云わないはずだ。この胸を抉る、あんな言葉など残さないはずだ。

 ――いつかなくすよ、なにもかも。

 鋭く鈍く自分を苛む痛みの正体に、慈は目を向けないようにしている。

 晶のことは大切だ。すごく、とても、大切だ。

 どんな不幸も災いも、彼を避けて通ってくれればいいと、心の底からそう思う。健やかであれ、のびやかであれ、幸いであれ。その未来が明るいものでありますように。

 明るい光の中で周りを大切にし、周りから大切にされ、そして、わたしのことは、ときどき、ほんのときどき思い出してくれれば、それでいい。

「っていうのは、わたしの勝手なのかなあ」

 慈は思わずひとりごちた。

 梅雨の夜の住宅街、それほど遅い時間ではないというのに、あたりにはまるで人気がない。慈の呟きは、ぬるい水のような夜にぽたりと落ちて、彼女の心を震わせた。

 この一年半、晶から想いを告げられるたび、どうして自分は彼の心を受け止めてあげることができないのだろうか、と慈はずっとそんなことを思ってきた。

 互いのことを知りすぎている、というのもひとつの理由だ。

 けれどそれが唯一の理由でないことも、慈はもう気づいている。目を逸らし、気づかないふりをしていることが、気づいている、ということの裏返しだ。

 慈は自宅の玄関扉の前で、大きなため息をひとつこぼした。不愉快なのはこの蒸し暑い夜なんかじゃない。

 ほかでもない、わたし自身だ。

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