04(完)

 晶はいったいどうしちゃったんだ、と慈は思っていた。さっきから掴まれたままの腕が痛い。身体と身体の距離がやけに近いし、それになによりこの視線。

 熱っぽくって、甘ったるくて、艶っぽい、この視線。

 とても、――居心地が悪い。

「晶がそうしたいって云うなら写真は撮るよ、もちろん。だけど明日っていうわけには……」

「明日」

「明日は仕事が……」

「明日」

 出張から帰ってきた翌日、慈の仕事は十中八九休みだ。晶はそのことをちゃんと知っている。慈は不機嫌に目を細めた。

「晶。困らせないで」

「いやだ」

 は、と慈の頬が引き攣った。晶がおかしい。遅れてきた反抗期だろうか。だとしたらとても面倒くさい。

「困らせる」

「なに云ってるんだ、晶」

「おれは慈ちゃんを困らせることにしたんだ」

 意味がわかんない、と慈は云った。云いながら、少しばかり――ほんの少しばかり――晶に怯えている自分を情けないと思った。

「おれってさ、いままで結構いい子だったと思わない?」

「自分で云うな」

 晶はにこりと笑った。まるでなにかのお手本みたいな笑い方だが、瞳の奥が笑っていない。

「でもね、いい子は今日で卒業。もう十九になったんだしね」

 まだたったの十九歳じゃないか、と慈は思った。つい先ごろ、とうとうめでたく三十路を迎えたこのわたしに向かって、なにを偉そうなことを云っているんだ。

 だが、そうした言葉は心の中で呟かれるばかりで、慈の口を開かせることはなかった。

 黙ったままの慈にかまうことなく、晶は楽しそうに続けた。

「おれはもう遠慮なんかしないし、躊躇もしないって意味だよ。いろいろ考えるのももうやめる」

 慈ちゃん、と晶はそこで口調をあらためた。本当は、慈、と呼び捨てにしてやりたいところだけど、それはまだ早いだろう。――慈にとって。

 晶には慈を逃がすつもりはない。自分の腕のなかに彼女を納めてしまうまでは、どんなささやかな云い訳も許さないつもりだった。

 慈は気が強い。押さえつけにかかれば、どんな手を使っても逃げ出そうとする。相手が晶ならばなおのことだ。小さなころから面倒をみてきた隣の家の男の子など、彼女にとってみれば男の数に入ってなどいない。

 晶はそのことをよくわかっていた。だからこそこれまで悶々としてきたのであり、さんざん苛々させられてきたのだ。

 歳の差があることは、もうどうしようもないことだ、と晶は開き直った。どう頑張ったって慈との出会いは変えられないし、なにをどうしたってどうなるはずもないことに嘆くなど、ただの時間の無駄でしかない。

 晶は慈と少しでも長く一緒にいたかった。できるだけ早く、自分こそが彼女の隣にふさわしい男だと認めてもらいたかった。夏に見かけた倉岡やらいうような外野に掻っ攫われるわけにはいかないのだ。

 だが、晶には大きなハンデがある。歳の差と慈の意識だ。

 歳の差のことはさておくとしても、まずもって慈は晶のことを男だとは思っていないだろう。よく懐いている弟、下手をすれば飼犬程度のような感覚でいるのかもしれない。

 なにが身内だ、なにがペットだ、冗談じゃない、と晶は思うが、これまでその立ち位置に甘んじてきたのは晶自身だし、いままでのつきあいを簡単に変えられるはずもない。それに、慈が晶の傍にいてくれたのは、つまりはその立場があったからだ、ということも弁えておかないといけない、と晶は思った。

 ゼロどころかマイナスからのスタートってわけだな、と晶は覚悟した。

 だけど、と晶は思う。考えようによっちゃ、慈ちゃんに一番近い男は、つまりおれだって云うこともできるんだよな。そのことは最大限利用させてもらうつもりだ。いまはもう、なりふりかまっている場合ではないのだから。

「なに」

 慈は努めて淡々と返事をした。晶の様子がいつもと違うことにビビっていると気づかれてはならない。

 まだ高校生だった晶の気持ちになんとなく気づいてしまってから、慈は迂闊に地雷を踏んでしまうことのないよう、こう見えてもかなりの注意を払ってきたつもりなのだ。恋人がいたこともあるが、彼を晶には会わせないよう気を配っていたし、晶に向かってはささやかな揶揄コイバナ――晶、きみにも好きな人くらいいるんでしょ――でさえ、不用意に口にはしなかった。

 慈にとっての晶は、自分にやさしくしてくれた香子が遺した可愛い男の子だ。

 大切にしたいと思うし、愛しいとも思うが、決して恋愛の対象にはならない。――してはならない。

 晶の想いに気づいてしまっただけで、彼を汚したような気持ちにさせられたのだ。恋愛など――まるで心を抉りあうように、美しいとは限らない感情をぶつけあうことなど――、できるはずがないではないか。

 晶の気持ちを受け入れるわけにはいかないけれど、晶を傷つけたくもない慈は、だから時間にすべてを委ねることにした。

 時間が全部解決してくれる、と慈は考えた。十代の淡い恋心なんて、よほどのことがない限り、いつかみんな思い出に変わっていくものだ。

 ――卑怯だなんて、百も承知だ。

「おれ、母さんのことは写真でしか知らない。父さんのことは名前も知らない。いつもは全然思い出しもしないけど、誕生日にだけはふたりのこと考える。父さんはどうして母さんの傍にいなかったのか、とか、母さんはなんでひとりでおれを産もうとしたのか、とか、いろいろさ」

 考えても仕方のないことだけど、やっぱ考える、と晶は云った。

「産んでくれたことに感謝するかって云ったらさ、それはどうかなとしか云えないよね。でも、感謝してるってはっきり云えることがあるとすれば、それは慈ちゃんをおれの傍に遺してくれたことだ」

 慈は息を詰めて晶を見つめた。――これは、誰だ。

「おれはずっと、慈ちゃんのことが好きだった。慈ちゃんがおれの気持ちになんか全然気づいてなかったことも知ってるけど、何人も彼氏がいたことも知ってるけど、それでも好きだった。ずっと」

「ずっと?」

「記憶にある限りずっと、おれは慈ちゃんのことが好きだったし、いまも好きだよ」

 慈が眉根を寄せて俯いた。

「困ってる? 慈ちゃん」

 困ってるよね、と晶は云った。慈は顔を上げて、そうだね、と苦笑いをした。

「困らせるの、わかってて云ってるんだ。やめないよ。今日ははじまりの日だから」

「はじまりの日?」

 そう、と晶は頷いた。

「おれの十九歳のはじまりの日。で、おれと慈ちゃんのはじまりの日」

「晶とわたしのあいだにはじまるものなんかない」

「あるよ」

「ない」

「ある」

 ないさ、と慈は云った。手加減などしている場合ではない、と彼女は考えをあらためたのだった。いまここではっきりと云っておかねば、もっと厄介なことになる。

 晶を傷つけたいわけではない。それでも、無理なものは無理なのだ。

「ひどいよね、慈ちゃんは」

「そう思うなら、もうこの話をやめればいい」

 これ以上ふたりで話すことはなにもないと云わんばかりに、慈はエンジンキーをまわした。

「帰ろう、晶。じきに日づけも変わる」

「話はまだ終わってない」

「話すことはなにもない」

 本当に、と晶は尋ねた。

「本当に、なにもない? 慈ちゃん」

 晶の右手が伸び、慈の左手首を掴んだ。慈は思わずぎょっとして晶の顔を見つめてしまう。右足はブレーキペダルから動かすことができない。

「驚かなかったよね、慈ちゃん」

 は、と慈はわざと嫌悪に満ちた声を上げた。

「なんの話?」

「おれが慈ちゃんのこと好きだって云っても、驚かなかった」

 慈は思わず目を見開いてしまった。

「知ってたんでしょ」

 晶の手に力がこもる。握りしめられた慈の手首が痛む。

「知ってたんだよね、おれの気持ち。いつから?」

 いつから知ってたの、と晶は捨て身で慈に迫った。

 自分の想いが慈に気づかれていたと、そう気づいたのはたったいまだ。軋むように胸が痛んだ。弄ばれたような、からかわれたような――実際の慈は、晶のことを弄んでもからかってもいないのだが――、そんな惨めな気持ちさえ湧き起こった。

 だけど、と晶は慈の手を掴む指先になおも力をこめる。

 だけど――、だけどおれは、この不甲斐なく情けない自分さえも踏みにじって先へ進む。今日を、はじまりの日に変えるために。

 慈は目に見えて狼狽えた。

「いつから……って」

 慈は、いつでもないよ、とほとんど声にならない声で云い訳にならない云い訳をし、もう帰ろう、晶、と逃げを打った。

 いいよ、と晶は頷いた。今日はもう帰ろう、冷えてきたしね。

「晶、手を……」

「離さないよ」

「は?」

「慈ちゃんが、いいって云うまで離さない」

 いいってなにを、と慈は焦れた声を上げた。

「おれのこと、おれの気持ち、ちゃんと見て。知らないふりとか気づかないふりとか、もうやめて。わかる?」

 晶はさらに強い光を乗せた眼差しで慈の瞳を覗き込んだ。

「おれは、慈ちゃんが、好き」

 一瞬、ほんの一瞬、慈の心に黒い影が射した。――晶の望みに応えてやろうか。

 逃げられれば追いたくなるのは、いきものとしての本能だ。簡単に手に入れたものは簡単に手放せるのもまた本能だ。ならばここで逃げたりせず、彼が飽きるまでつきあってやれば、晶の気はすむのではないだろうか。

 晶が自分に向けてくる感情を偽物だとは思わない。気のせいでも勘違いでもなく、晶はきっとわたしのことが好きなのだ、と慈は思った。

 だけど、晶は知らない。いまは永遠だと思えるその気持ちが、いつか必ず失われ、脆く儚くなるものだということを。

 晶の気持ちが一番美しいこのときに、彼の手を取り、その心を満足させてやることは、慈にとってさほど難しいことではない。十以上の歳の差は、こういうときにより際立つものなのかもしれない。

 しかし、すぐに慈は思い直す。晶は大事な子だ。そんなふうに不誠実に向き合うことなんかできない。

 ねえ、晶、と慈は云った。

「気持ちは嬉しいよ。だけど、わたしが晶と同じ気持ちじゃないことは、晶にもわかってるんでしょう?」

 うん、と晶は悔しそうに頷いた。

「わかってる。だから、必死になってる」

「それでも無理だよ。ごめんね」

 見ないふりも知らないふりもしてないよ、と慈は云った。

「気持ちはありがたいけど、受け取れないってこと」

「そう」

「なんで?」

 ああ、いや、そうじゃなくて、と晶は首を横に振った。

「好きになるのに理由がないみたいに、だめだってのにも理由はないよね。そんなことはわかってる」

 晶は、慈の手首を握りしめていた力をほんの少しだけ緩めた。慈は無意識のうちに詰めたままでいた息を吐き出した。

「全然望みはない?」

「ない」

「これっぽっちも?」

「これっぽっちも」

 嘘だね、と不意に晶は云った。慈はうんざりと首を振る。半分以上は演技だったが、苛立ちはじめてきたのも事実だった。

「おれのこと本当になんとも思ってないならさ、なんで、今日、帰ってきたの」

 別に、と慈は答えた。

「帰ってくるでしょ、普通に。仕事が終わったんだから」

「おれが待ってるってわかってたはずだよね。誕生日なんだ、慈ちゃんに会いたくて待ってるって、わかってたはずだ」

 それがどうした、と慈は眉根を寄せる。

「二年続けて誕生日をすっぽかされれば、いくら健気なおれだって、さすがに腹が立つよ。ついでに、慈ちゃんのことなんかどうでもよくなっちゃったかもしれない。だけど、慈ちゃんは帰ってきた。おれが待ってるってわかってて、帰ってきた」

 慈は身じろぎもしなかった。わずかでも動けば、自分でも気づかなかったなにかがこぼれ落ちてしまいそうな気がしたからだ。

「慈ちゃんはおれを裏切れなかった。かわいそうだと思ったのか、ただの習慣だからなのかわからないけど、おれを切り捨てられなかった」

「それは……」

「だからおれにはまだ望みがある。云ったろ、はじまりの日だって」

 簡単に結論なんか出させないよ、と晶はそこでようやく慈の腕を解放した。

 慈は素早くエンジンをかけ、車を発進させる。取り繕うゆとりは消え失せていた。

 いまはもう、とにかく晶とふたりきりでいることがいたたまれない。隠してきた気持ちを晒して、追い込まれているのは晶のほうであるはずなのに、どうしてこうもわたしが焦らなくてはならないのだろう、と慈は思った。

 さっきまでの饒舌が嘘のように、晶はぴたりと口を閉ざしてしまった。

 慈はミラー越しにちらりと晶の顔を窺った。窓の外へ視線を投げている晶の若々しい横顔は、慈からすればまだまだほんのこどもにしか見えない。

 だけど、と慈は思った。さっきの晶はまるで別人のようだった。

 慈はまた晶の様子を窺う。今度はミラー越しに視線がぶつかって、慌てて目を逸らした。

 だから、なんだってわたしがこんなふうに振りまわされているんだ――。

 そう遠いところまで来ていたわけではない。

 ふたりを乗せた車は、すぐに自宅の前に到着した。慈はエンジンを切らないまま、ついたよ、と晶に車を降りるよう促した。

「慈ちゃん、また明日ね」

 慈は不機嫌に瞳を眇め、返事をしなかった。

「また明日ね、慈ちゃん」

 車を降りた晶は助手席のドアを開けっ放しにしたまま、慈の顔を覗き込もうとする。

「閉めて、晶。寒い。晶も冷えるから、早く家に入りな」

 ふうん、シカトとかしちゃうんだ、慈ちゃん、と晶は唸った。

「わかったよ。いいよ、別に。明日の朝、慈ちゃん家まで迎えに行くから。おばさんたちもおれのこと応援してくれるかもしれないし」

 慈は目を剥いて晶を睨みつけた。

「慈はオトコを見る目がないって、おばさん、嘆いてたよ。慈ちゃんが前の彼氏と別れたあと」

 慈は思わずぽかんと口を開ける。母よ、年ごろと呼ばれる年齢を大幅に越えた娘の失恋をなんだと思っているのだ。見た目以上に深刻なダメージを負っていることが、なぜわからない。晶なんぞに迂闊に漏らしていいような話ではないというのに。

「じゃ、おれが立候補しちゃおうかなって云ったら、いいわよって、おばさんそう云ってたよ」

「冗談に決まってる」

 冗談なんかにさせないよ、と晶の声が低いものに変わる。

「絶対させない」

 そのままふたりはしばらく視線を戦わせる。先に折れたのは慈のほうだった。

 わかった、と慈はなにかを諦めたような声でそう云った。

「明日の昼ごろ、わたしが晶の家に行くから」

 約束だよ、と晶はいつもの笑顔になって頷いた。

「また明日ね、慈ちゃん」

 静かに閉められたドアの内側で、慈がなにやら悪態をついている。――この、クソガキがッ。

 動揺を隠しきれずに車庫入れに失敗する慈の醜態を見た晶は、悪くないね、とほくそ笑む。はじまりの日としては、悪くない出来だ。

 ――これから覚悟してね、慈ちゃん。

 どこか乱暴な足取りで自宅に入っていく慈を最後まで見送り、晶は、おやすみ、と小さく呟いて、夜のあいだに用意されたプレゼントを開ける前のこどものような、幸福な期待に満ちた笑みを浮かべた。

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