03

 左手にスマートフォンを握りしめた晶は、自室の窓から自宅玄関前の路地をじっと眺めていた。

 莫迦みたいだよな、おれ。本当に莫迦みたいだ。

 この期に及んでもまだ期待している。慈ちゃんが帰ってきてくれるんじゃないか、と期待している。

 晶が吐きつける息のせいで、目の前の窓ガラスはすぐに白く曇ってしまう。白い帳はどうしようもない寂しさを滲ませた自分の顔を隠してくれるが、同時に慈との未来までをもどこかへやってしまうような気がして、晶は慌ててその曇りを指先で拭った。

 慈ちゃんとのことはまだなにも決まったわけじゃない、と自分を励ましながら、しかし、しばらくするとまた曇ってしまう窓をまた拭い、とそうしているうちに晶の手はひどく冷たくなってしまっていた。

 涛川家の十二月二十四日は、毎年とても静かだ。

 世間のほかの家のように浮かれた曲もかけないし、かろうじてケーキはあるけれど、華やかなご馳走も並べない。翌朝目覚めたときに、もみのきの下や枕元にプレゼントが置いてあるなんていうベタな仕掛けとも無縁だった。

 どうしようもないことだと、頭では理解している。自分を産むときに母親が命を落としたことも、涛川の両親が自分たちの娘の死を悼むことも、どうしようもないことだ、と。

 けれどときどき、どうしようもなく誰も彼もを羨ましく思うことがある。自分がこの世に生まれてきたことを、なんの衒いもなく、なんの負い目もなく、純粋に言祝ことほいでもらえる数多の人々のことを。

 自分だけが不幸だなんて云うつもりはない。世間には自分よりもしんどい目に遭っている人がごまんといる。本当の両親を知らなくても、涛川の父と母、それから慈に育ててもらった自分は幸せだ、と晶は思う。

 でも、それでも、――羨ましい。

 結露を拭い取ったばかりの窓ガラスが、いっぺんで曇ってしまうほど深いため息をついて、晶はそのまま目蓋を伏せた。

 ここに、慈ちゃんがいてくれたらなあ。

 十七歳になった日まで、誕生日の一日だけは、晶は慈を独占することができた。正確には、誕生日の前の日から、ずっと。

 晶の母の形見だという古いカメラで、慈はずっと晶の成長記録を綴っている。いまどきフィルムカメラなんて誰も使わないよ、新しいのにすればいいのに、と晶に生意気なことを云われ続けながらも、でもこのレンズは香子ちゃんの目なの、このカメラじゃなきゃ意味がないの、と慈はずっとその古い一眼レフを手離さなかった。

 幼いころからずっとそう云われ続けてきたせいだろうか。そうやって慈の手で、母のカメラに自分の姿を納めてもらっているうちに、晶は本当に母が自分を見守ってくれているような気になっていた。

 大きくなったわねえ、元気でいるのねえ、と母は、記憶にない声で晶を褒め、記憶にない笑顔で晶を愛してくれる。

 思い込みだと人は云うだろう。ただの、都合のいい妄想だと。

 でも、母の死を背負って生まれてきた自分が、いま、誕生日を素直に嬉しいものだと思い、自分自身を愛することができているのは、その思い込みのおかげなのだ。思い込みをくれた、慈のおかげなのだ。

 慈はきっと、そんなつもりなどなかった、と云うだろう。それは当然だ。

 慈が香子のカメラで晶の写真を撮りはじめたとき、彼女はまだたったの十一歳だった。深い思惑などあるはずがない。

 でも、思惑などなくとも、晶がいま生きてここにいることは慈のおかげなのだ。

 慈ちゃんはずるい、と晶は思った。生まれたときから傍にいてくれて、そのあともずっとずっと一緒にいてくれて、そうしたらこれから先だって隣にいさせてくれると思うじゃないか。

 晶は懲りもせずにまた窓ガラスを拭った。

 もうじき二十二時になる。誕生日が終わるまであと二時間。お願いだから帰ってきてよ、慈ちゃん。


 無意識のうちに指先でハンドルを叩いている自分に気づいた慈は、思いがけずはまってしまった渋滞に自分が苛立っていることに気づいていた。

 いったいなんだってこんなに混んでるんだろう、と慈は首を傾げ、しかし、街を彩る華やかなイルミネーションに、今日が世間にとってどういう日であるのかをすぐに思い出した。

 慈にとっての十二月二十四日は晶の誕生日で、それ以上の意味はない。毎年この日――正確に云えば、二十三日からの二日間――は、晶のために過ごすと決めていた。

 晶の写真を撮り、晶が行きたがる遊園地やら映画やらに連れて行き、晶が食べたがるものを作って、晶が選んだケーキを平らげる。晶の部屋で、晶の好きな絵本を読んでやり、晶の好きな音楽を聞き、晶の話をなんでも聞いてやった。晶、晶。――晶。

 晶のことだけを考えて過ごす二日間。たいしたプレゼントをあげられるわけでもなかったけれど、その時間こそが贈物になればいいと思ってのことだった。

 本当の両親の愛情にはかなうべくもないけれど、そうやって慈は、心の奥底に冷たい孤独を抱える晶の力になってやりたいと、ずっとそう願ってきたのだった。

 晶を身ごもった香子が、晶の父親を心の底から愛していたことを慈は知っている。男の名前も顔も問い質したことはないが、まだお腹の中にいた晶に香子が話しかけているのを聞いてしまったことがあるからだ。

 慈が見ているとは思わなかったのだろう。そのときの香子は、母でもあり女でもあるひどく清らかな顔をしていた。そしてごく静かな声で、ハジメさん、と男の名を呼んだのだった。その静かな声には、愛しさと哀しみ、歓びと怒り、そして希望と絶望が含まれていた。

 とても綺麗な、声だった。

 あのとき慈は思ったのだった。香子ちゃんはきっと赤ちゃんのお父さんのことを、本当に、心から愛しているんだ、と。

 香子と、そのハジメという名の男のあいだにどんなことがあったのか、慈は知らない。もう知るすべもない。

 世の中が綺麗ごとばかりではないと知っているいまでこそ、いろいろと悪い想像をすることは簡単だ。けれど慈は、一度たりとてそうした悪しき勘繰りを自分に許したことはなかった。

 ハジメという男も香子も晶のことをこの世の誰よりも愛したはずだ、と慈はそう思っている。そして、晶にもそう信じてほしいと思っている。

 それがよくなかったのか、と慈は申し訳ない気持ちの片隅にかすかに存在する寂しさに気づいた。

 よくよく考えてみれば、晶とわたしはなんの関係もない赤の他人なのだ。晶にとってのわたしは、ただの母親の幼馴染にすぎない。

 香子ちゃんがいなくなって寂しかったからといって、彼女が遺した晶のためになにかできることがあれば、なんて自分のエゴを押し通したりするべきじゃなかったのかもしれない。涛川夫妻の厚意に甘えたりしないで、さっさと晶の傍を離れておくべきだったのかもしれない。

 そうすれば晶は、いまごろちゃんとまっすぐに育って、まっとうな恋もして、幸せな毎日を過ごしていたかもしれない。

 いやいや、いまごろなんて、と慈はふるふると頭を振った。そんな未来だか過去だかわからないような話ではなく、もうたったいまこの瞬間にも、晶は幸せな誕生日を過ごしているかもしれないではないか。

 さっきそう思ったばかりではないか。

 ああもう、と慈は苛立ちに任せてまたもや首を振った。その苛立ちが、浮かれた街の渋滞に対するものだったのか、自分の思考に対するものだったのかはよくわからない。


 自宅前の路地に一台の車が滑り込んでくるのが見えた。締め切った窓ガラス越しではエンジン音を聞き取ることもできないほど静かに進んでくるその車のヘッドライトが目に入ったとき、晶はほとんど反射的に自室を飛び出していた。

 階段を駆け下り、スニーカーをつっかけて、カットソーの上にセーターを着ただけの格好で外に飛び出す。弾む息は白く、身体はみるみるうちに冷えていくけれど、それを上回る狂暴なまでの熱が腹の底から湧きあがってくる。

 運転手の姿が見えたわけでもない。ナンバーが確認できたわけでもない。むしろ車種すら定かではなかったその車の前に、晶は両手を広げて飛び出した。まるで立ち塞がるように車の行く手を阻み、大声で叫ぶ。

「慈ちゃん!」

 急ブレーキの音に重なり、なおも響く晶の声。夜更けの住宅街にふさわしからぬ騒々しさのなか、運転席から顔色を変えた慈が飛び出してきた。

「晶」

 危ないじゃないか、と焦りを示しながらも、抑制された慈の声に彼我の差を――絶対に越えることのできない彼女との差を――見せつけられているような気がして晶は苛立ち、なおも大声で慈の名を呼ばわった。

 慈は大慌てで晶に近づき、いつのまにか自分よりもよほど逞しくなっていた彼の腕をむんずと掴んだ。

「晶、うるさい。近所迷惑」

 慈ちゃん慈ちゃん、と壊れたオルゴールのように自分の名を叫び続ける晶を助手席に押し込み、慈はすぐに車を発進させた。いまこのまま自宅に入るわけにはいかない。ご近所一帯と両親兄弟、それに隣家の好奇の目と耳を一身に集めることになってしまう。

「晶、シートベルト」

 相変わらず興奮した様子の晶を落ち着かせるため、慈はわざと冷たい声を出し、晶の狂喜に水を差した。晶は手にしていたスマホをナビシートの床に放り投げ、運転する慈のほうを向いたままどうにかこうにかシートベルトを装着した。

「慈ちゃん」

「晶、ちょっと待って」

「慈ちゃん」

「どこかに車を停めるから。話はそれから」

 やだ、と晶は駄々をこねた。

「今日はおれの誕生日だよ、慈ちゃん。おれの云うことなんでも聞いてくれるんだろ。昔そう云ってたじゃないか。いますぐ車を停めて、おれの話を聞いて」

「晶」

「あと一時間半。おれの誕生日。人でなしの慈ちゃん。去年も帰ってこなかった。二年分。ねえ」

 まるで意味の通らない言葉の羅列でも、慈には晶の云いたいことがわかる。

「ねえっ!」

 晶に二の腕を掴まれた慈は、わかった、ととうとう根負けした。いますぐ停められるところを探すから、頼むから腕を揺すらないで。

 晶はまだ自分が幼いこどものつもりでいるのだろうか、と慈は思った。あの大きな掌にいま以上にしがみつかれでもしたら、ハンドルを取られて交通事故だ。

 幹線道路から路地へと左折し、さらに細い道を少し進んで見つけたコンビニの前の駐車場に車を停めた。混み合う時間でもないだろうし、文句も云われまい。なにか云われたら飲物のひとつでも買えばいいのだ。

「慈ちゃん、こっち見て」

 ハンドルに凭れ、ため息をついた慈の腕を晶が掴んだ。わかった、と慈は上体を捻るようにして晶と向かい合う。

「慈ちゃん、おれに云うことあるよね」

 晶の眼差しは、慈の迷いを見透かすように鋭い。慈は思わず腹の奥に力を込めた。まるで猟銃の音に怯え、走り出さんとする野うさぎのように。

 なんでわたしが怯えなくちゃならないんだ、とは思ったが、反射で構えに入る身体は抑えようもなかった。

「誕生日、おめでとう?」

「なんで疑問形?」

「おめでとう、晶」

 うん、と可愛らしく頷くでもなく、ありがとう、と笑うでもなく、やけに研ぎ澄まされた無表情で、わかってる、慈ちゃん、と晶は云った。

「なにが」

「これって貸しだからね」

 はあ、と慈は頓狂な声を上げた。ギリギリではあるけれど、誕生日当日にちゃんとおめでとうを云ったわたしにいったいなんのペナルティだ。

「晶、意味がわからないんだけど」

「それとも去年のぶんから全部足しておく?」

 晶、と慈は地の底を這うような声を出した。女性にしては声の低い慈は、喋るだけで相対する者を威圧できるという、あまり可愛くない特技を持っている。

 だが、このときばかりはその技のキレもいまひとつだったようだ。晶は慈のドスの効いた声音になどびくともせずに先を続けた。

「明日は一日付き合ってもらうからね。写真も撮ってもらうし、あとは服でも一緒に買いに行ってもらおうかな」

 晶、と名前を呼ぶばかりでちっとも返事らしい返事を寄越さない慈に、晶は見せつけるように笑ってみせた。――居心地が悪そうだねえ、慈ちゃん。

 窓ガラスの結露を拭いながら慈を待っているあいだじゅう、晶はずっと考え続けていた。

 おれは、いったい、どうしたいんだろう。

 これからもずっといままでのまま、お隣のボクちゃんでいるつもりなのか。

 慈との距離を嘆きながら、ときどきお情けでも恵んでもらうつもりなのか。

 そしていつか、慈が完全に離れていってしまったそのあとで、恨み言のひとつでも呟くつもりなのか。

 ――好きだったのに、と。

 なんだそりゃ、と晶は思った。なんだ、その、くだらない自己陶酔は。

 好きなら好きと、そう云えばいいんじゃないか。

 そうだよ、と晶は窓ガラスにぐっと掌を押しつけた。冷たさが痛みに変わり、そのうちなにも感じなくなった。そうだよ、こんなふうになにも感じることができなくなってしまう前に、云えばいいんだ。

 ――好きだ、って。

 でもまあ、そんな簡単にはいかないよね、と腹を据えた者に特有の冷静さを手に入れた晶はゆっくりと考えはじめた。

 だてに長く近くにいたわけじゃない。慈の考えそうなことはだいたいわかる。

 おれが素直に好きだなんて云ったところで、笑い飛ばされるのがせいぜいだろう。聞かなかったことにするか、もしくは、好きの意味を考えもせずに、ありがとう、とにっこり笑って答えるか、だ。

 慈ちゃんはおれのことを男だなんて思っていないからな。

 考えるだけで涙が出そうだ。けど、それが紛れもない事実だろう。――ここは黙って耐えろ、おれ。

 晶は指先でコツコツと窓を叩いた。

 今日じゃなかったとしても、慈ちゃんは必ず帰ってくる。そしておれに会いに来る。理由なんかなくても、そうする。誕生日はごめんね、と無意味な謝罪をして、うちでごはんを食べて、笑いながら帰っていく。

 そうはさせるか、と晶は思ったのだった。いつもどおりになんかさせてたまるか。いつもどおりに、笑って逃げられてたまるか。

 おれは慈ちゃんを捕まえる。絶対に逃がさない。

 そして思ったよりも早く、慈は帰ってきた。晶の覚悟などなにも知らずに、のこのこと。

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