10 月と故郷
「ねぇ、人類が何と戦っているか知っている?」
図書室で、セラがおもむろに尋ねた。
その日、僕たちはそれぞれに紙の本を読んでいて、彼女は真っ黒な表紙の本を開いたまま、ひとり言のようにそう尋ねた。
「わからない。人類は何と戦っているんだろうね?」
「それじゃあ、人類が月で暮らしていたって知っている?」
「月って――夜空に浮かんでいる、あの月?」
僕は、いきなり話題が変わったこと驚きながらも、彼女の話について行こうと会話にしがみついた。
セラの会話はいつだって大きく飛び跳ねるウサギみたいで、あっちに行ったり、こっちに行ったりする。だけど、そこには彼女なりの意味と理由があって、彼女は自分の考えをまとめて答えを出すために、思いついたことを片っ端から口にする。
「そうよ。月には地球には無いエネルギーがあって、人類はそれを求めて月に向ったの。初めは月への進出も上手く行っていて、たくさんの人類が月で暮らし始めたんだけど――何かが原因で失敗して、人類は月で暮らすことを止めてしまったんですって」
「そうなんだ。人類ってすごいね。あんな空高くにある月まで行けるなんて。でも、どうやって月まで行くんだろう?」
「宇宙に登るための塔や階段をつくったみたいよ」
「ええっ、塔に階段? それって、どうやって上るんだろう? 僕たちでさえ、ものすごく疲れそうなのに」
「そうね。でも、きっと人類だから疲れない方法があるんだわ。それでね、私、考えたの」
「考えたって何を?」
「人類が戦っている敵についてよ。もう忘れたの?」
セラは、僕が会話の出発点を見失っていることに気づいて、目をじろりと細めて指摘した。
「そうだった。で、人類の敵って?」
「宇宙人よ」
「宇宙人?」
僕は、その驚愕の答えを聞いて素っ頓狂な声を上げてしまった。
「ええ。たぶん、月で暮らしている時に人類は宇宙人から攻撃を受けたのよ。それで月の進出が失敗して地球に帰ってきたんだけど、今度は宇宙人は地球に攻撃を仕掛けてきたのよ。それで、宇宙人から人類を守るために私たちを生みだしたんだと思うわ」
「なるほどね」
僕は一応の辻褄は合うなあと頷いた。
「宇宙人を全滅させて地球から追いだしちゃえば、私たちも、きっともう戦わなくて済むようになるわね」
「そうしたら、僕たちが存在している理由がなくなるんじゃないかな? 僕たちは人類を守るために――敵と戦うために製造されたんだよ」
僕は不安になって尋ねた。
「バカね。そうしたら人類は、きっと私たちに新しい役目をくれるわよ。人類には職業っていうのがあって、人類同士で貢献し合うためにたくさんの役割を与え合っているんだから」
「職業?」
「そう。例えば、私たちが毎朝食べている色々なパンがあるでしょう? あれだって、パン屋さんがつくってくれているのよ。ああ、私もパン屋さんになりたいなあ。人類のために、毎朝おいしいパンを焼いてあげるの。食パンとか、バゲットとか、クロワッサンとか。胡桃やレーズンを練り込んだパンもいいわね。私たちがパン屋になったら、きっと世界で一番おいしいパン屋さんになれると思うなあ」
「えー。僕はパン屋さんよりもカレー屋さんが良いよ。僕はカレーが大好きなんだ」
僕がそう言うと、セラは不機嫌そうに頬を膨らませた。
「まぁ、いいわ。あなたは好きな職業につけばいいわよ。職業の選択の自由はあるんだから。それが人類のセカイなんだもの」
僕はそんな他愛もない話をしながら、直ぐ先に迫った第二回目の『出荷』について考えた。
今度も、僕たちは――
僕とセラは、この『第六チャペル』に一緒に帰って来られるだろうか?
セラは、すでに人類の敵を殲滅した後のことを考えていたけれど、僕にはそんな先のことを考える余裕はなかった。
ただ、人類からもらったこの
それは、まるで続きの無い物語みたいなもの。
真っ白なページが延々と続くだけの本。
僕たちにとって未来とはそう言うものだった。
僕以外の子供たちも同じだったと思う。
僕たちは、戦場で敵と戦うことしか考えられなかった。
第二回の『出荷』が近づくにつれて、僕たちの感情は興奮し、高揚し、早く戦場に立って人類の敵と戦うことが――人類の未来に貢献できることが待ち遠しくなっていった。iリンクを通じて至るところで感情タグを発しながら、戦場での振る舞いや戦い方を想像し、僕たちは期待で胸を膨らませる。
だけど、僕たちは誰一人として人類の敵を知らなかった。
セラ以外、誰もその敵の姿形について想像したりはしなかった。
敵は敵で――僕たちは、それを黒い塊のようななにかだと認識していた。まるでブラックホールのように大きな黒い穴のような何かだと。それか、埃やゴミといった汚れの固まったようななにか。
得体の知れない、ぐちゃぐちゃでどろどろでぶよぶよのなにか。
未知の敵。
想像を絶するような黒い塊。
それが、敵。
でも、セラに人類の敵は宇宙人だと聞かされて、僕は月を見上げるたびに――そこに敵がいて、月のもっと向こう側から敵が来るのだと考えるようになった。
でも、それでも敵の姿は分らなかった。
「ねぇ、人類には
セラが、おもむろに質問を続ける。
「故郷?」
「そう。祖国ともいうらしいのよ。つまり、帰るべき場所みたいな感じかしら? 私たちで言うところの『第六チャペル』みたいなものね」
「へぇ、人類もチャペルで暮らしてるんだ」
僕がそう言うと、セラはくすくすと笑った。
そして、両手で僕の頬をつまんで優しく引っ張った。パンをこねるようにむにむにと僕の頬で遊ぶ。それは、ものすごく心地の良い悪戯だった。
「バカね。人類はもっと素敵なところで暮らしているわよ。だって、私たちたくさんの『ヒューマイド・ドローン』が、一生懸命に守っているのよ? きっと、そこはものすごく素敵なセカイで――理想郷みたいなところなんだわ」
セラは図書室の窓から見える広い庭と、青々と生い茂った広い森を切なそうに眺めた。
まるで、その先に人類のセカイが――
理想郷が広がっているみたいに。
「ああ、一度でいいから行ってみたいわ。人類の故郷に――きっとこんな素敵な場所だと思うなあ」
そう言うと、セラは静かに歌いだした。
うさぎ追いし かの山
こぶな釣りし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき 故郷
その歌声を、人類の故郷に向けた思いを――
僕は一生忘れないだろうと思った。
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