過剰な環状の愛情
機乃遙
過剰な感情の愛情
彼女が死んだ。ついさっきのことだ。ついさっき、僕のガールフレンドは血を流して死んだ。心臓からどくどくと鮮血を流して。その血はとても暖かくて、彼女の体を抱き留める僕にまで流れ落ちた。血は、僕の体にも滴った。シャツのスミまで染み渡って、それから落ちた。流れ落ちるそのたびに、僕の悲しみは増え続けていった。そして悲哀と同時に、なぜだかそれから立ち上がらなければならないという想いがわき上がってきたのだ。
彼女が死に至る理由は、いくつもあった。
まず第一に、彼女は僕よりも年上だったんだ。まあ、これはかなり長い目で見た場合の理由になるかもしれないけれど。僕と彼女が出会ったのは、僕が十八歳で、彼女が二十六歳の時だった。女性は長生きだと言うけれど、僕と彼女は八歳差。八年という差は、小さいようで大きい。もし僕らが長くまで生きたら、彼女の方が早く死んだかもしれない。だけど、それは今のこととは関係ない。だって彼女は、二十九で死んだのだから。
ほかにも彼女が死に至る理由はいくつもある。例えば彼女はへヴィスモーカーだった。ドが付くほどのへヴィスモーカーだ。
彼女の好きな銘柄はラッキーストライクだった。僕はタバコを吸いはしないけれど、彼女がそうだったから、多少の覚えはある。彼女はラッキーストライクを「これは天国に一番近いタバコなんだよ」と言いながら吸っていた。ピアニッシモとか、弱いのは吸ってられないとか何とか言って。ピアニッシモっていうのは、確か女性用の弱い、細いタバコだ。むかし彼女が僕に吸わせようとしたのを覚えている。
僕は別にタバコが吸えないわけじゃない。きっと、吸おうとすれば吸えるんだと思う。ただ吸わないだけだ。
そう言っていると、ある日彼女がピアニッシモを買ってきた。
彼女はいつも黒の革ジャン――それはライダースジャケットなんだけど――を着ていた。下はスキニージーンズで、いつもお尻の形がよく出ていた。彼女は僕よりも少し背が高いんだけど、そのぷりんとしたお尻がチャーミングで、時折すりすりと触ってやると怒られた。まあ、そこがまたかわいいんだけど。彼女は強がりだから、そういう素を見せた時がすごくかわいいんだな。
と、話がそれた。ともかくある日、彼女は革ジャンのポケットから黒く細長い、モノリスみたいなパッケージのタバコを取り出したんだ。そうしてそれを僕に突き出すと、無理矢理受け取らせた。それから今度は無言でオイルライターなんかを出して、僕の方をみたんだ。
「シガーキスをしよう」
彼女は言った。
僕は初め、そのシガーキスってのが何かよくわからなかった。そんなわけで小首を傾げていると、見かねた彼女がピアニッシモを一本取り出し、口移しで僕にくわえさせたんだ。
こういうときは、彼女ってばいつも大胆なんだよ。まるでポッキーゲームでもするみたいに、僕の口にピアニッシモをくわえさせたんだ。そのときの彼女のおちょぼ口ったら、まるで僕のイチモツをくわえたときみたいだった。いや、ほんとにそうだったんだ。
彼女は普段から寡黙で、しかも勝ち気だった。だから人が近寄ることもない。美人だから「綺麗だな」なんて思いつつ通り過ぎるやつはいるかもしれないけど、それ以上の関係になろうなんて思う奴はいやしない。彼女の側もそんな感じで、誰かと深い関わりは避けたい。極力一人で、静かに、黙っていたい。そんな性格なんだ。だから他人の、それも好きな男のモノをくわえる時なんで、顔から火がでるみたいな状況なんだ。ベッドの上とかなんて、リードするとか言っておきながらずっとそんな感じでイキっぱなしなんだよ。
だから、そんな突然大胆になる彼女に僕は驚いたんだけど、そうするのは彼女が僕を愛しているって証拠だから、僕はそれを受け入れたんだ。
彼女は僕にピアニッシモをくわえさせると、今度は自分のラッキーストライクをくわえた。それで何をしたかというと、オイルライターでもってラキストに火をつけて、その火を僕のピアニッシモに押し当てたんだな。
僕のくわえてたピアニッシモに火がついて、すぐに煙が口の中に広がってきた。僕は別にタバコが嫌いなわけじゃないんだけどさ、突然煙が出てきたもんだから、思わずむせちゃったんだよ。それでピアニッシモも机の上に落としちゃって。彼女がすぐに消したから火事にはならなかったんだけど。僕と言えば変なところに煙が入ったのか、げえげえとむせちまったんだ。そりゃもう、小一時間ゲッホゲッホとだよ。
彼女はそれを見て笑ったんだ。
「だめだな。それじゃキミは、肺ガンで早死には出来ない」って。
彼女は僕のことを、いつも「キミ」と呼んだ。年下だからか、それとも彼女が姉御肌だからか、僕のことを下に見ているんだ。
でも、そんな彼女の虚勢を張った姿勢が僕は好きだった。そして、そんな彼女の生き急いでいる感じが、何よりも彼女の死をもたらしたのかもしれないけれど。
まあ、ともかく彼女は僕より年上で、勝ち気な姉御肌で、へヴィスモーカーで。でもまあ、時々見せるかわいいところがとても僕の心をつついてくるんだ。
でも、実際のところそれと彼女との死は、直接の関係は無かったんだ。じゃあ、何が彼女を殺したか。直接的なことを言えば、そいつは四十過ぎの酔っぱらいオヤジだった。間接的なことを言えば、そのオヤジが乗っていた車で。もっと間接的なことを言えば、そのとき――つまり、そのオヤジと彼女が交通事故を起こして、その結果彼女は死んじまったということなのだけれど――彼女が乗っていたバイク。そして、それを買って上げた僕が殺したのだ。
彼女はバイクが趣味だった。さっきライダースジャケットを着てるっていったけど、彼女がレザージャケットを好んで着ているのは、そういう理由からなんだ。いつも黒のライダースに――彼女は黒が好きなんだ――黒のスキニージーンズをはいて、黒のバイクにまたがる。そいつは、中型のフルカウルのバイクだった。
彼女はバイクの免許しか持ってないんだ。まあ、彼女の仕事はウェイトレスなんだけど、出勤するときは決まってバイク。中免しか持ってないんだな。四輪の免許なんて取ろうとすらしない。私にはこれで十分だ。これが私の愛車だ。そんなことを言って、彼女は黒のバイクを撫でた。まるで、愛馬の美しい毛並みを撫でる女騎士のように。
ああ、そういえば彼女、騎乗位が好きだった。だから彼女がバイクに乗っていると、なんだか彼女とつながっているみたいで気分が良かった。
それでも、彼女と二人乗りしているときとの気持ちよさに比べれば、かなわないかな。
僕が免許を取ったのは、結局二十歳を過ぎてからだった。それまでは、彼女のバイクに一緒に乗ってたんだ。もちろん僕は免許を持ってないから運転できない。彼女が前で、僕が後ろだ。
バイクにまたがるとき、彼女はいつも綺麗だった。サラサラの黒髪を、マットブラックのヘルメットに押し込む。うなじがちょっぴり見えてセクシー。それから、レザージャケットのジッパーをしめるんだ。すると上着がぴっちり彼女の体に這うように閉じていくんだ。それがスキニージーンズと相まって、彼女の美しい体を黒い蝋で覆ったようになる。それはとても美しい。名匠の作った陶器でも見ているような気分なんだ。
さっきも言ったけど、彼女は僕より背が高かった。なんでもクォーターだとかで、西洋人の血が混じっているらしいんだ。だから背が高くて足が長くて。胸はそこまでだけど、ともかく全身をライダー仕様に変えた彼女は、芸術品並の美しさを持っていたんだ。
二人乗りをするとき、僕はそんな彼女の後ろに座る。すべすべの彼女に体を合わせ、僕と彼女との距離をゼロにする。腕は彼女のおなかのあたりに回す。女性のおなかってすごくスベスベで、しかもヘソのクレヴァスがすごく心地良いんだ。あそこに手を這わせると、ものすごく興奮する。しかも彼女の体臭が直に匂うものだから、とても気分がいいんだ。まさに彼女と一体になってる気分。セックスなんかより心地良い。
僕はよく彼女と二人で夜のハイウェイをドライブした。道が空いていると、彼女はアクセルを全開にする。それで右手をあげて、ぐっとグーサインをしてみせるんだ。寡黙な彼女は――というか、ヘルメット被ってるから声なんて聞こえないんだけど――いつも照れ隠しにグーサインをするんだよ。そして、僕はそれに微笑みかける。でもきっとヘルメットのせいで見えないから、代わりに彼女の体をぎゅっとするんだ。
そして時折、そのぎゅっとするのに彼女が答えてくれるときがある。彼女は、さっきグーサインをした右手を僕の手に這わせ、そのまま手を彼女の胸にまで持って行くのだ。彼女も、僕も、そのときが興奮の最高潮だった。だから僕らはやめられなかったんだ。
あるとき彼女が、僕にこう言った。
「ねえ、今のバイク。小さくない……」
それは、とても小さな声だった。いつも勝ち気な彼女には似合わない、うわずった声。
彼女がその言葉を発したのは、ちょうど僕らが二人で食卓を囲んでいた時だった。食卓と言っても、小さな円卓で、床に腰をおろしているだけなんだけど。確かそのときの夕食は、彼女の作ったカレーだったかな。不良っぽそうに見えて、結構料理が上手いんだよ彼女。一人暮らしの期間が長かったとかで、料理には明るいんだ。
で、そんなスパイスのいい匂いを嗅ぎながら、彼女はその言葉を口にしたんだ。よく見れば彼女の手には、二つの書類があった。一つは自動車学校の見積書で、もう一つはバイクの見積書だった。バイクと言っても、中古だけど。それでも大型のバイクだったから、結構値が張るものだった。
「大型免許、取ろうと思うんだ」と彼女。
そのときの彼女の赤面具合ときたら、初めて二人で交わったときより、よっぽど完熟してたんだ。全く熟れて、本当に良い顔をしていたんだ。甘酸っぱそうに、僕の方をみた。
それはまるで、本格的に同棲を始めたカップルが、今までのシングルサイズのベッドからダブルサイズの購入を見当してみるみたいなものだったんだ。彼女にとっては。だから前にも言ったけど、彼女は妙なところで大胆なんだ。この大型免許を取りたいと言ったときも、要は僕ともっとくっついていたい。そのために良いベッドを買おうよ、とでも言ってるようなものだったんだ。
でも、今思えば僕は、その問いかけに首を縦に振るんじゃなかった。あのとき、首を横に振っていたら、彼女は死んでなかったのかもしれない。
彼女が交通事故に遭ったのは、大型バイクを買って納車された、その晩のことだった。僕は、つきあい始めてから三年のプレゼントということで、彼女のバイクにいくらかカンパすることにしたんだ。彼女のバイト代だけじゃ、とても買える代物では無かったからね。まあ、かといって僕も学生身分だったから、稼げるお金には限界がある。それに自動車学校に払うお金もあるし。それで結局、二人でお金を出し合って、二人のバイクを買うことにしたんだ。僕と彼女との、二人きりの動く愛の巣、というわけだ。
でも、それが彼女を殺したんだ。
彼女の告白から半年ほどして、ようやくバイクが納車された。免許自体はもっと早く取れたのだけど、いかんせんバイク代が集まらなかったのだ。
そうして届けられたバイクは、彼女のお望み通りの真っ黒い大型バイクだった。マットブラックに仕上げられたボディ、フルカウルに力強いLEDライトの双眼。しなやかな獅子の如き車体は、人工の構造体と、有機物のような美しさを兼ね備えていた。尻尾のように後ろから出たマフラーは鏡のように光り輝いていた。
彼女はそれを一目散に受け取ると、ひたすらになで回した。僕はなんだかそのとき、ジェラシィのようなモノを感じた。本来、僕と彼女とが愛し合う為の「場」が、彼女に愛されている。それはお互いよりも、その行為自体を愛しているかのような、なんだか僕への愛が冷めてしまったのでは、という疑念に駆られたのだ。独りよがりな愛。彼女への愛。それがひょんなことから疑惑に変わる。
そんなことを思わなければ、彼女は死ななかったのかも。
そう思うことも出来る。だが、結局そんなモノでは変わらなかったのだ。
納車されたのは、夕方の頃だった。もう陽も沈みかけてきたころだ。外は暗くなっているし、僕は「早くご飯にしよう」と彼女を誘った。
なのに彼女は「もうちょっと」と言って、新しい恋人に気を取られているみたいにバイクをなで回したのだ。
そうして挙げ句、彼女は僕にこう言った。
「ちょっと、試し乗りしてくる」と。
「もう暗いから止めた方がいいよ」
僕はもっともらしくそう答えたが、しかし実のところ彼女に帰ってきて欲しかっただけなのかもしれない。
「大丈夫だって、夜道ならいつも二人で走ってるじゃない」
「じゃあ、僕もついて行くよ」
「ダメ。まだ私は、コイツを完全に信用したわけじゃ無いからね。それまで、キミを乗せるなんて出来ないよ」
「……もう知らない」
僕はそういって、フラットの中へ戻っていった。
彼女だけが、フラットのガレージに残された。
僕はやっぱり、恋人を奪われた気分になっていたのだ。それでやけっぱちになって、結局彼女を殺してしまった。
あのあと、彼女は一人試運転に向かい、そして、死んだのだ。
彼女の死を知ったのは、一通の電話からだった。それは警察でも、事故を起こした相手からでもなく、彼女からだった。彼女は死の間際、最後の力を振り絞って、僕に電話をかけたのだ。
そのとき彼女の行方を追っていた僕は、外にいた。そう遠くに行ってはいないとは思っていたが、バイクと徒歩では圧倒的に不利だ。ぜえぜえ息を切らして歩道に立ち尽くしていると、携帯が鳴った。そして、彼女からの電話がそれだった。
僕は大急ぎで電話に出た。
「ねえ、いまどこにいるの!?」と僕。
彼女は僕の声を完全に無視して、
「……やっぱり、キミを乗せなくて良かったよ」
そう言い残して、電話から口を離したのだった。
そうしてまもなく、僕は頭の中身が真っ白になった。何もかもが空っぽになった。愛する彼女が死んだのだから。
*
ちょうどアノ現象と、それにアイツと出会ったのも彼女が死んだときだった。僕はもう、なにも信じられなくなって、ただ赤く染まった彼女の体を抱きしめていた。もうそれしかすることがなくて。気づけば救急隊員に引きはがされていたけど、それでも僕は、彼女とつながっていたかったんだ。
僕の意識はひどく遠のいていた。彼女との日々が忘却の彼方へと追いやられ、僕の意識はそれを追うようにして肉体から遠ざかっていった。だけれど彼が現れて、僕は唐突に肉体の意識を感じざるを得なくなったのだ。
それは、僕の時計だった。いつもはめている腕時計だ。父親から譲り受けたもので、僕の大学進学祝いだった。
時計はふつうの時計だった。そのはずだった。なのにそれは時計の針をリュウズで合わせるみたいにぐーるぐると回り始めて、僕の目をそこへ集中させた。そいつは、まるでトンボを誘い落とす為に指を回すみたいだった。
やがて時計は、僕の方をちらと見るようにして針をゆるめ、そして止まり、言った。この表現はおかしく聞こえるかもしれないけれど、確かに彼が言ったのだ。彼、というのは難しいけれど。彼という言葉は、彼女という意味も含むと聞いたことがあったので、仮に彼と呼称する。
その彼、は僕にこう言った。
「時を巻き戻したいか?」
僕はそれを聞いて、おもわず「は?」と喉の奥から呆れきった声を出した。
ああ、なるほど、僕は錯乱状態にあるんだ。
そのときは、そう思うと納得が出来た。時計が急にグルグル回り始めて、挙げ句しゃべったのだ。そんなこと、幻覚以外に考えられるか。
きっと、僕が彼女の死を受け止められないが為に生み出した虚像だろう。そうに違いない。
僕はそう思ったのだけれど、けれど錯乱状態っていうのは、まるで酒に酔ったときみたいなものなんだ。それも、酔いに酔って意識も吹き飛んでるころじゃなくて、意識ははっきりしているのに、気持ちだけが先走りしている。あのときみたいなもの。意識上では、それが間違いだとわかっているのに、体が独りでに動き出す。そして、考えもしないことを矢継ぎ早に口走るのだ。
「戻せるなら、そりゃ戻したいともさ」
僕は言った。意図せずしてこぼれた言葉だった。
「よかろう。ただし、条件がある」
「なんだよ、早く教えろよ。僕は、彼女を殺したくないんだ」
「焦るでない。……簡単だ、時を遡れるのは、一人につき三回まで。それだけの掟だ。古来より、人の欲望をかなえる願いは、三回までやり直しがきくものと決まっている。そういうことだ」
「それなら、早く戻してくれ。彼女がバイクに乗って出てく、その前だ。僕は、彼女を止めなきゃいけない!」
「わかった。いいだろう。時間を巻き戻そう」
そういうと、白い空間の中に、小鳥の翼のようなモノがあふれてきた。白い翼。それは羽毛布団のごとく僕をくるむと、そのままどこか遠くへと誘っていった。
*
気が付くと、目の前に彼女がいた。ちょうど夕方、日の暮れたころ。危ないからという僕の制止を振り切る、その直前のことだった。
僕はこのとき、どういうことが起きているのか、全くわからなかった。彼女は生きているのだ。事故でさっき、目の前で死んでいたはずなのに。
僕の時計は、夕暮れ時の五時過ぎをさしていた。彼女が死んだ夜中ではない。
フラットの玄関口に二人。僕と、彼女。時間は巻き戻ったのだ。信じられなかった。これは彼女たちが仕向けたドッキリじゃないのか? そう考えもした。だけど、それにしては手が込みすぎている。
じゃあ、もしも時を戻せたのなら。それは、彼女を生かす千載一遇のチャンスだ。
僕は、もはや論理的な観念やなんぞは捨て払って、ただ彼女に幸せでいて欲しい。僕と一緒にいて欲しい。そういう願いで、動いていた。それは先ほどの酔いみたいなもので、想いよりも先にそれに干渉を受けた体のほうが動いていた。言うなれば、愛が僕を突き動かしたのだ。
僕は彼女を抱きしめていた。気が付くと彼女の黒髪は僕のすぐ目の前にあって、シャンプーのかおりが鼻孔をくすぐる。彼女の髪はサラサラで、しかもいいにおいがするんだ。ロングヘア時々ポニーテールの彼女の髪が、僕は大好きだった。
僕は彼女の頭にキスをした。彼女の方が身長は高いんだけど、彼女は玄関の下の段にいたから、ちょうど頭一つぶんぐらい僕よりも低かった。
ちゅーっと髪にキス。聞くところによれば、西洋ではこれが最上級の愛を示すとかなんとか。僕は彼女への愛を示せただろうか。
長いキスが終わると、彼女が顔を上げた。彼女の顔は真っ赤だった。前も言ったけど、彼女は時折大胆なくせして、いつもは恥ずかしがり屋だ。白い顔を真っ赤にさせて、彼女は切れ長の瞳で僕をみた。
「甘えん坊のかまってちゃんが。私がバイクに奪われるとでも思ったの?」
言って、彼女は頬を紅潮させたまま瞳を閉じた。
そして、唇をむっと出す。彼女は、キスが好きだった。何より、長くて優しいキスが。大人のキスは好きじゃないらしい。だから僕は、彼女の期待に応えた。彼女の唇に優しく、長いキスをしたんだ。
正直、時間を飛ぶという摩訶不思議な、それも一瞬の出来事以降、僕の記憶は判然としていない。特に、この彼女とのキス以降は。
僕の朦朧とした意識が正しければ、きっと僕らは夜通しで盛り合ったんだと思う。セミダブルのベッドで。きっと。彼女のスイッチが入って、それが切れるまで。一度入ると止まらないんだよ彼女ってば。そういうところだけは大胆。
ただ問題は、その翌日。ようやく時間を飛んだという意識がハッキリしてきた頃のことだった。
朝起きると、ベッドが冷たかった。僕は寝相が悪いのでしょっちゅうタオルケットを投げ飛ばすのだけど、その日は綺麗にかけられていた。だから、おかしいなと思った。
眠くて目を開けるのがつらかったから、僕は手探りでベッドを探した。彼女を捜すため、ベッドをまさぐった。しかしあったのは彼女の残した温もりと残り香だけで、その彼女自身というのはどこにもいやしなかった。
僕は温もりだけを掌中に収めると、握りしめた残り香を吸い、そして目覚めた。
耳を澄ませる。シャワーを浴びているのかもしれない、そう思ったからだ。でも水滴の音は聞こえない。フラットの中はすごく静かで、しんとしている。時刻は朝六時。いつもなら、彼女はまだ寝ている時間だ。
僕は怖くなって、そして次の瞬間、携帯のアラームに気が付いた。
それは、アラームでは無かったのだけど。
つまりそれは、彼女からの電話だった。言い換えれば、あの「キミを乗せなくて良かった」だったのだ。
*
時間は巻き戻る。時計の針が回る。だが、僕の頭は呆然とし、止まっていた。
白い空間が再び僕を満たした。それは、僕が望んだからだ。僕が、再び彼との邂逅を望んだから。
きっと僕はそのとき、不敵な笑みを浮かべて、ゆらゆらと不安定な海草のように立っていただろう。
「ふざけるな」
僕はためらいなく、それだけを口にする。
「何が、だ」と彼。
「彼女が死んだじゃないか。ふざけるな!」
「私は時間を巻き戻すだけだ。それ以外に力はない」
「でも、彼女は夜のツーリングに行かなかった。事故は免れたはずだろう?」
「歴史の強制力。次元の摩訶不思議。彼女の死は、この次元での確定事項なのやもしれんな」
「どういうことだよ。説明しろよ。どうすれば彼女を救えるんだよ。どうすれば彼女は僕のもとにとどまってくれるんだよ!」
僕が叫ぶと、声はやがて白い空間に飲まれ、消えた。反響することもなく。
彼は答えなかった。代わりに、
「さあ、二回目だ」と僕に告げたのである。
ぼくは舌打ちし、焦燥に駆られながらも、彼女を救い出す方法を考えた。
あの晩、試運転にいかせなくてもダメだった。じゃあ、ほかに何が出来る。そもそも、彼女からアノ大型バイクを奪ってしまうか?
そう思った僕は、半年前の夕方を彼に伝えた。
*
そしてまた、僕の意識は酔ったような感じになりながらも、時を越えた。今度は半年前。夕方、フラットの食卓。テーブルの上には夕飯が並んでいて、それを挟んだ向こうに彼女がいる。
食事は、彼女お手製のカレーだった。あのときと、まさしく同じだ、
そんな日に、彼女は例の告白をしたのだ。大型バイクを買ってもいい、という彼女なりの大胆発言。僕は今、それをくい止める為にここへきた。
それにしても、目眩というか、眠気のようなものがした。まるで時差ボケみたいで、確かに思えば、僕は先ほどからいろんな時間を行き来していた。意識が時差ボケを起こすと、こんなことになるのだろうか。
僕はそう思いながら、あの時を待った。お総菜の唐揚げでご飯をほおばりながら。そして、ついに彼女は決心し、あの紙を見せつけたのだ。
「ねえ、今のバイク小さくない……」
「小さくない」
僕は、見計らったようなタイミングで彼女の意見を一蹴した。
彼女は面食らったような顔をした。無理も無かったと思う。僕が彼女の問いに返答したスピードってのは、それはもう最速のインディアンも、スラストSSCも、ブラックバードもびっくりなものだったから。さすがに光は黙りを決め込んでたけどもさ。
「……どういうこと、ダメなの?」
彼女は訝るような目で言った。
僕をたしなめるときは、いつもこういう目つきだった。嫌いじゃないんだけど、むしろ好きな目つきなんだけど、このときばかりはして欲しくなかった。僕は、彼女の命の方が大事なんだから。
「ダメだ」と僕。
「どうして? その……だって……私だって、キミと……」
彼女が頬を赤らめる。だけど、僕は彼女が顔から火が出るまで頬を紅潮させるのを止めなかった。
僕は箸から手を起き、代わりに食卓の向こうの彼女の頬に触れる。とても熱かった。
「僕はもっと、近くにいたいんだ」彼女なら、わかると思った。僕の言いたいことが。「僕は、ずっとそばにいたいんだ」
けれども彼女は、ただただ顔から火が出るきりだった。
澄まし顔の、いつもの彼女はもういなかった。そうしてあとはさっきの通りだ。彼女は僕にキスを求めてきた。これはきっと、彼女なりの照れ隠しなんだと思う。顔が真っ赤だし、すごく大胆になるもんだから、ぜんぜん隠れてないんだけどさ。
それで結局、また僕らはその晩も一つになったんだ。今度は前より小さいベッドだったけど。
*
それで彼女が生きていて、また僕の隣でほほえんでいたら良かった。いつもみたいなぎこちない笑みで。上手く笑えないからって、そっぽ向いてグーサインするような彼女。その姿が見れれば良かった。
半年後のことだ。
彼女が死んだ。
死因は、交通事故だった。
バイト帰り、酔った男の車に巻き込まれ、即死したそうだった。
そくはもう、半年経ったころには「彼」のことなんてすっかり忘れてて、あれは悪い夢だったとぐらいにしか思ってなかった。だけど、彼女が死んだその日になってようやく僕は気づいたのだ。あれは、夢なんかじゃないって。
彼女は、また死んだ。ある人は僕を薄情者と呼ぶかもしれないけれど、僕はあまり彼女の死に驚かなかった。二度あることは三度ある、とでも内心思っていたんだろうか。でも、彼女の死が受け入れられない事実であることに変わりは無かった。
そして、数えて三度目になる彼との邂逅。白い空間がまた僕を満たし、親父からもらった時計が針を戻し始める。
「久しぶりだな」と彼。
「ああ、半年ぶりかな」と僕。
ある人は僕を薄情だと罵るだろう。だけど、僕の心は渇いていたんだ。あと一回の巻き戻し。それで彼女が救えるのか。どうすれば救えるのか。土壇場になると人はあわてるものだけど、僕は何故か冷静だった。彼女を愛していたから。彼女に、僕のそばにいて欲しいから。
「お前の時間なら、そうだな、半年ぶりだ。……それで、これが最後のチャンスだ。それは、お前もわかっているだろう?」
「わかっているよ。だから、考えさせてくれ。僕は、どうやってでも彼女を殺させはしない。殺しはしない。そうさせたくないんだ」
「いいだろう。この空間に時間という概念はない。お前は、心行くまで頭の中で救出計画を思い浮かべることが出来る。実行に移せるのは、もう一度きりだがな。では、首を長くして待とう」
「は、どこに首があるんだよ」
僕はそういうと、その白い空間に腰を下ろした。
そこは不思議なもので、無重力の中にいるみたいだった。息は出来るのに、水中にいるみたいなんだよ。だから僕は座ったり、あぐらをかいたり、寝そべったりとかして、彼女の救出方法を考えた。そして、悩みに悩んだ。
試運転を止めさせてもだめだった。新しいバイクそのものを消してもだめだった。じゃあ、どうすればいい? そもそも彼女のバイク趣味をなくすか? いや、それでは彼女は彼女じゃない。それに、歩行者だって事故に巻き込まれる。安全は確約されない。
じゃあ、どうすればいい?
僕はそんなことを一晩中考えた。この空間は本当に時間なんて概念はなくて、白いだけだから、時の移ろいなんてわからないんだけど。ともかくほんと一晩中、ひいては一日じゅう考えてたんだ。それで、彼が様子を見にやってきた。
「考えは浮かんだか?」
「……多少は」
「というと?」
「……いや、ほんとのことを言うと、何もわからない。でも、僕は彼女を生かしたいんだ」
「それならいくらでも方法はあるだろう」
「……例えば何だよ。言ってみろよ」
僕はもうやけくそだった。こんな奇妙キテレツな現象の中で、もっともイカレた喋る時計なんぞに助言を求めたのだから。
彼は、少ししてからこう答えた。
「あるさ。お前が、死ねばいいんだ。彼女と出会う前に」
「……どういうことだ」
「お前は言ったはずだ。彼女を生かしたい、と。その場合、お前が彼女と出会うこと無く、この世から消えるという方法がある、と言っているんだ」
「それで彼女が助けるという保証はどこにある」
「さて」
「さてじゃない! 僕は、彼女を殺したくないんだ!」
「違うだろう、彼女を誰かに奪われたくないだけだろう」
とたん、僕の心臓がドクンと大きく拍動した。
「例えばあのバイク。例えば天国。あるいは、ほかの男。あの女が、自分の物でなくなるのが怖いんだ。違うか?」
「違う……僕は、彼女を愛している」
「じゃあ、覚悟を決めるしか無いんじゃないか?」
時計が不敵な笑みを浮かべた、ような気がした。
僕は顔を伏せって、その時計が視界に映らないようにした。この、時間の流れていない瞬間が、なんと愛おしいことか。この時間では、彼女は死んではいない。存在すらしていないけれど。それはまるで、
僕は泣きじゃくり、物にあたり――物と言っても時計を投げただけだ――、そして目を伏せた。だがやがて、僕のなかに一つの考えが浮かんだのだ。
僕は投げ捨てた時計を見た。彼女の死。その悲しみと怒りに任せて投げつけた時計は、傷一つ無い純銀の姿で、白い床に横たわっていた。
「……一つ聞いていいか」と僕。
「なんだ」
「お前、一人につき三回って、そういったよな?」
*
彼女が死んだ。それはついさっきのことでもあるし、これから起きることでもある。
僕と彼女がつきあい始めたのは、三年前の十一月のことだった。彼女の誕生日は十一月にあるんだけど、僕はその日に告白したんだ。
彼女との出会いを話せば長い。ウェイトレスだった彼女と出会って、それから僕らは、今に至るまで結構な時間を要したのだから。
僕が彼女の誕生日に告白したのは、ひとえに彼女の趣味故にだった。彼女は自分でも認めるほどのロマンチストだったのだ。ニヒルでリアリストなフリをしているけど、その実彼女はすごくロマンチストなんだよ。だから僕は、誕生日に、花束とともに彼女に告白することにしたんだ。
そうだ。僕が三度目に飛んだ時間というのは、その時間だった。
僕は花束を持って、いつもよりめかし込んで、彼女とのデートに向かった。デートといっても、食事としか言ってない。まだこのときは、彼女にしてみれば僕は「年下の後輩くん」ぐらいにしか思ってなかったのだろう。
今日はそんな僕が、彼女のボーイフレンドに変わった日。僕は駅前で僕を待つ彼女に、スーツ姿で現れるのだ。そして、花束を渡す。さながらドラマのように。彼女は顔を真っ赤にして、口先では「恥ずかしい、なにしてんの」とか言うけど、 その実すごい喜んでる。嬉しくて、今にも僕にキスしようとする。それで、結局そのあとの食事ってのはすぐにすませて、僕らは夜のドライブに向かうんだ。
僕は、その時間にいた。花束を持って。
駅の前にはもう彼女がいた。彼女は駐車場の脇で、愛車の黒のバイクを止め、それに背をもたれている。
僕が駅から花束を持って出てくると、彼女はすぐに僕と目を合わせ、そして反らした。きっと恥ずかしかったのだろう。僕はいろんな人の注目を買っていた。スーツに花束。いかにもな格好をした男がそこにいるのだから。
僕は改札を出ると、彼女の前に立った。彼女は目を伏せたまま、僕と顔を合わせようとしなかった。
「キミ、なんて恥ずかしい格好してんの」と彼女。
顔を真っ赤にし、周囲の視線から逃れようとしている。
だけど僕は、そのすべてを無視して、彼女に向けて言ったのだ。
「ねえ、聞いて欲しいんだ」と、僕は花束を持ち上げる。「僕は、あなたを愛しています」
そして、持ち上げた花束から、一つ、また一つと極彩色の花びらが落ちていった。残された茎も足下へ転げ落ち、白い包装紙だけが残される。いや、そうじゃない。包装紙の中央、花の中に残された鋼の塊。
そうだ。僕は、花束の中に包丁を隠していたのだ。
「僕は、あなたを愛している。あなたは、僕を愛していますか?」
「……キミ、なに言ってるの……」
「愛しているなら、僕の言うことを聞いて欲しいんだ」
それから、僕は包丁を持ったまま、左腕にはめた腕時計を外した。僕をこの時間まで巻き戻らせた、あの時計だ。
「まず、この時計をはめて欲しいんだ。お願い。僕を愛しているのなら」
「……なにそれ、新手の告白? ちょっと、よくわからないんだけど」
「そうだね。告白だよ。僕は、あなたが好きなんだ。あなたもそうなら、僕の時計をはめて」
言って、僕は銀の時計を彼女に差し出す。
彼女は一瞬ためらったけど、少ししてそれをはめた。
僕はそれを認めると、嬉しくてたまらなかった。やっぱり、彼女は僕を愛していたんだ。彼女は、僕のことが一番なんだ。
そう思うと、僕は躊躇無しに計画を実行に移せた。
そうだ。僕は、包丁を僕の首に刺したんだ。
愛しているなら、また会おうね。
過剰な環状の愛情 機乃遙 @jehuty1120
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