5-2
「好きだ。すごく好きだ。こうしてると一番安心する」
同じ部屋で、違うベッドで、並んで眠る暮らしも1年が過ぎた。結局引越はしないまま、狭さに慣れてしまった。なあはしょっちゅうこうして物理のあたしを確かめにくるけど、眠るときはきちんと自分の布団に入る。あえて就寝時間をずらしてひとりにしても、動悸で眠れない日はずいぶん減った。
今日もなあは寝転がってスマホをいじるあたしの背中にピタリと貼り付いて、そんな言葉を囁く。
でもあたしは返さない。口先だけの嘘はもういらないと、他ならぬなあが言ったから。お腹に回された手を、軽く撫でた。しばらくそうして、満足すると離れてゆく。
はずなのに、今日は溜め息が伴った。
「どうしたの。なんかヤなことでもあった?」
「ううん。違うんだ」
「そう?」
じゃあまあ放っておこう。スマホに視線を戻してニュースを読んでいると、再び溜め息が降ってきた。
「ねえ、なに」
「……ごめん。今日、ダメみたいだ。足んない。したい」
「は」
それは「セックスしたい」ってことだよね? 約束を、大前提を反故するつもりか。
「協定を破るつもり?」
「ホントごめん、なんか、もう」
なあの腰が持て余したように動く。普段もこの時間にこの違和感は当たるけれど、そんな無条件反射にいちいち目くじら立ててたらお互い疲れてしまうのだし、無視していた。今日のなあは無視できないらしい。
「まおはやっぱりできない? 無理?」
……わからない。
なあの腕を少し拡げて、くるりと向き合う。なあの目には困惑と欲望が渦巻いてて、途方に暮れているのが伝わる。
「やってみないとわかんない。でも、駄目だったとして、途中で止められる?」
「大丈夫だよ、昔とは違うから」
「我慢できないってたった今言われたんだけどね……」
「あれっ?」
ホントだ、と目を丸くするなあに笑ってしまう。なあの首に腕を回して再び距離をゼロにする。なあの力が強くなった。震えそうになるのを、奥歯を噛み締めてこらえる。
「キス、して、いい?」
「……うん」
粘膜って敏感だ。刺激に跳ねるとなあの充血したものも跳ねた。もう何年もなかった感触。懐かしい違和感。―――ああ。
なあの手が素肌に触れると、粟立つ。でもそれは
ただし、今、この恐怖感が先に立つのは、愛のないセックスで構築されたのか、もともとだったのか。……愛はなかったろ。なあの好きはぜんぜんあたしを見てなかった。愛なんかなかった。そんなものを何年も。それでもなあと別れる直前までは、こんなに過剰に怯えがくることはなかった。あの頃よりずっと向かい合って触れ合ってるのに。
なあは掌全体で撫で回して感触を確かめながら、指先で繊細に愛撫する。すごく気を遣われてるのを感じる。それはとてもうれしい。のに。けど。
こわい。
あたしは、この『こわい』気持ちから抜け出せるんだろうか。優しくされたら上書きできるんだろうか。同じ相手でも。
なあがゆっくりと、あたしの熱を上げてゆく。呼吸が細かくなる。
そうやって、触れられる面積を拡げていって、
慣れるだろうか。
慣れなきゃいけないんだろうか、こんなこと。
ないものはあげられない。せめて身体だけでもあげられたらこのこは充足するんだろうか。
誰ともセックスしなくたって、楽しく生きられる。
恋愛しなくたって、結婚しなくたって。
でもそれをとてもとても欲しい人が、世の中にはいるのだ。
なあは優しい。以前も優しかったけれど、私の反応を確かめながら―――怯えを見張りながら―――そっと触れる。
そこに触れられた時も、一瞬血が引いたけど、なあはなだめるようにゆっくりほぐしていく。
そんなにゆっくりと時間をかけて。なあは。
「まお、挿れるよ」
低く、焦りを含む声音で、告げた。
奥歯が鳴る。喉がつれる。あてがわれた瞬間、蹴飛ばしていた。
驚いて顔を見合わせたのは2人とも。
「ああ、もう……最低だ。なあ、ごめん……お腹大丈夫?」
お腹か胸か。蹴飛ばした場所すらわからない。ああ。できないなら始めなきゃよかったんだ。
「平気、びっくりしただけ。俺こそごめん、やっぱり無理させたんだね」
「無理っていうか……無理なんだね」
気まずくて手を伸ばすこともできない。
でも、こんな状況で、あたしは酷い。蹴れた自分に安堵していて。
もう嫌だったら拒絶できるんだ。
抵抗できる。萎縮せずに。
―――でもそれはなあが諦めてくれたから。
ああ、酷いな。なんて勝手。
直前の切羽詰まったなあは
「いいよ、なあが謝るようなことしてない」
「でも、たぶん、俺だよね」
「それも今となってはわかんないな。なあのこと、ぜんぜん嫌じゃないのに、できないんだなあ」
セックスなんて、
「愛が無くたってしてるひといっぱいいるのに」
「えっ!?」
「いたでしょ」
「え、あ、そうか、むしろいっぱいいるね、そっか、なんか考えすぎた」
できるものだ。愛なんてなくたって性欲があれば。なあはそんなのいっぱいしてるし、
でももうできない。
あの頃の思考停止していた自分から解放されて、考える時間ができて。
「なあには悪いけど、まあいいや」
「その、もしなんだったら、俺の行ってる病院行く?」
「いいや。別に治す必要ないんだし」
「あー」
なあはそうか、と合点して、そうか……とうなだれた。その頬に手を伸ばす。あたしから触れなくちゃ。
「ごめんね」
「それこそ謝ることじゃないでしょ……。じゃあまあ中途半端なこれ、どうにかしてくる」
ゴムを外しながら肩を竦めたなあに、閃きが口を衝いた。
「ひとりでしてみて。見てみたい。お腹に出すの、してみて」
あたしの提案に、なあが口をあんぐりする。ぱくんと閉じてから、えーとと目を泳がせた。
「飛び散るからお勧めしないよ」
「そうなんだ。じゃあいつも通りでいいから」
ティッシュは用意して、あたしに跨がったまま、してもらう。
時々目が合って。
「ちょっとだけ、お腹にだすね」
なあがサービスしてくれた。
後始末しながら「俺、これ以上変なクセついたらどうしよう」と、なさけない苦笑いを浮かべるのでつられて笑う。
「ごめんごめん、もう言わない」
なんか不思議だな。これは普通気持ちのいいこと。見てる分には全然平気だった。なのにこれが出入りすることを想像すると悪寒が走る。いったいどこに怖がる要素があるのかさっぱりわからないのに。こんなに優しいなあなのに。
「抱きしめても大丈夫?」
「うん」
ベッドの上で膝立ちになって裸のまま抱き合って、あごや二の腕、胸の座り、組み合うところを探してできるだけ密着して、そうして深く、なあは息を吐いた。
「これができるならセックスでなくていい。まおに無理させてまた遠くへ行かれるの困る。あれはいやだ。ごめん、もうしない。しないから、時々これさせて」
しなやかで薄く筋肉のついた皮膚はさらりとしっとりと溶け合って、泣くつもりなかったのに滲んで零れた。
これが気持ちよくて、これ以上が怖いなんて、どうかしてる。
わたしの欲しいかたちがよりにもよって元凶からもたらされて、なんてシニカル。
わたしを剥がないで、削らないで、抉らないで。
だけどぬくもりは欲しい。
ひとりは好きでも平気じゃない。あたたかい世界にいたい。
狡い。酷い。
でもきっとあたしはこういう人間で、なあがこういう人間なのと同じくらい折れ曲がってる。
もういいや。たぶん、なあの
これでいい。《正しい道》なんて、もういらない。
10代のあたしがなあにあげたかった安寧はこれなんだ。
あの頃のあたし達にあったもの。一度は失ったけど、でも。
あたしはなあに恋はしていない。でもこうやって、抱き合って、温めあえるのは好き。だってなあとはもう何年もこうしてきて、もうなんの違和感もない。ここまでなら。
なあがセックスを望むなら、他でしてくればいい。恋になるならそれでもいい。それを覚悟して選べるくらいに、なあはおとなになった。なあの中身は見た目に追いついて、戦略だった笑みは穏やかに定着した。
……本当はもう、あたしがいなくても大丈夫。あたしでなくても平気だったんだから。
なあが他の人を選べるならそれはとても喜ばしいこと。あたしはまたひとりでやっていけばいい。赴任時代と同じ。
―――平気じゃなくても、我慢する。我慢してみせる。甲斐がある。大事な人にしあわせになって欲しい。しあわせでいて欲しい。あたしがあげられるのはここまで。
「あたしはもう、一生分したんじゃないかな」
「えっ誰と!?」
「なあとだよ。他に誰がいるの」
「……びっくりした」
裸のまま寝転がり、手足を絡めて笑いあう。
「そんな、まおまで『しいたけ食べ過ぎた』みたいな話」
「なにそれ」
「ふうがね、幼稚園通う前にやたらしいたけ食べたがって、欲しがるままにあげてたらある日ぱたりと食べなくなってね」
「へえ」
「今じゃ薄ーい切れ端も嫌がる始末。不思議だね。容量一杯なんだって」
「普通は段々嫌いなものが減ってくのにね」
くだらなくて実のない、あたたかい会話。
「俺は一生分の9割はしたんじゃないかな。キャリア長いし」
「まだ1割残ってるんだ」
「俺とまおは違うもん」
「……うん」
「まおとしたいなあって思ってる。できたらいいなあ、ある日突然俺のこと好きになってくれないかなあって思ってる」
「うん」
「でもここにいてくれることのが大事なんだ」
「うん」
違う、という言葉が沁みる。そう、違うのだ。それがわかってくれてるのがうれしい。
なあと暮らして1年。希望も拒絶もぜんぶ赤裸々にすりあわせてきた。したいこと、許容できること、できないこと。くっきりとラインを引いて確かめて。それは。
重ならないけど、一緒にいられる。
「……ねえ、なあ。あのね。あたしもいっぱいもらってるからね」
なあは黙ってあたしを引き寄せた。
あたしは幼くて、なあのおかしさに気づけなかった。でももう中学生じゃない。なあも語る言葉を持った。
だから、一緒に歩いていける。
「ねえ、あたしが引っ越すことになったら、なあどうする?」
なあがビクリと振り向いた。……あー、ごめん。
「ごめん、置いてかない、そうじゃない、そうじゃなくて、以前から出してた異動願いが受理されて、仕事の内容次第では勤務地が変わるかもしれないからさ」
「どこに?」
「うーん。全国? あのね、あたしは人事院の人材局ってとこで人材育成とか研修、派遣研修なんかを担当してるのね。なあとシンガポールで会ったのもあっちに出張所があったからなの。育成って言っても民間企業との交換研修とか国内外の大学院へ研究員として在席させたり、どっちかっていうとキャリアアップなんだけど、公務員って中央だけじゃないでしょ。もちろんここに優秀な人がいてくれないと国が傾くんだけど、あたしはもっと根元の公務員を支えたいなって」
「根元って、昔言ってた地方公務員のこと? 町役場の」
「ちょっと違う。
地方公務員の中でも非常勤に該当する人達でね、民生委員や児童委員さんっていう、役所に在席するんじゃなくて地域をぐるぐるまわる人。この人達が、結花さんみたいに小さい子を抱えて仕事もできずに食い詰めてる人を発見して助ける役目を負ってるの。福祉委員さんって役も地域によるけどあってね、でも実はぜんぶボランティアなんだ。児童相談所の職員でやっとなあの言う地方公務員になるよ。
でも民生さんたちは正規の公務員じゃないから、経費は支給できてるけど本人たちの持ち出しも多いし、小さい子やその親のケアだけじゃなくて、障害者や高齢者の見回りや相談も業務内容で、やることホント多いの。
こんなのボランティアで引き受けてくれるのって、すごい善意の人。守秘義務もあるし逆恨みもあるし、大変なのに皆さんすごく真剣に取り組んでくれてる。
ここまではわかった?」
「うん? うん」
「でも、ね、本当はさ、もっと専門職が必要なんだよ。子供の虐待、障害のこと、認知症の高齢者、ぜんぶ違うことでしょ。しかも公務員の弊害に任期ってのがあるから児童相談所ですら情報が蓄積されないの。どれも半端で、こぼれ落ちてる。
ボランティアさんは現役時代に専門でみっちり働いてた人も多いのに、いいように頼ってるだけじゃ続かないよ。なあだって、聞いてて『大変だなあ、自分はなりたくないなあ』って思うでしょ。
今、民生委員はなり手が非常に減ってる。そのせいで大がかりな詐欺が横行してニュースになるような事件もあったよ。
あたし自身がボランティアに行くのも、そりゃ、いいよ。でもひとりの力じゃ駄目。あたしはなあすら助けられなかった。あの頃、もっと大人で、なあの異常に気がつく専門家が、いてくれればよかった。あたしの家族はみんな愛情が一番だって思ってた。大きくなれば自然と治るって軽く見てた。
もうそんな、素人考えでなあみたいな子、増やしたくないよ。だから今いる場所から少しでも手を、糸でも、伸ばしたい。あたしね、昔のなあにしてあげられなかったことを、あの頃のなあにしてあげたい。あたしにとっての相模さんや、なあにとっての上杉センパイみたいな偶然じゃなくて、必至の助ける人を増やしたい。
その助ける人を、ここを、もっときちんとした権限を持つ特別職公務員にするべきだって意見があたしたちの中にあって、あたしは
「うん、わかったよ。すごくいいよ。そうして。俺がもっと早くまおに出会いたかったように、出会える奴を増やしてやって。上杉さんは頼れるしいい人だけど、まおがいたから俺は『普通』になりたいって思ったよ。まおは自分じゃ駄目だったって言うけど、そんなの。全然だ。昔の俺を助けて。傷なんて、無い方がいいに決まってる」
「うん。がんばるね」
わかりやすくお金がかかる政策なんて、財務省から反対くらうばかり。それでも、
なあみたいな子をつくらない。なあ達を護るために。あなたたちに尽くす。
なあと抱き合って、ほおずりして、安堵する。あったかくて、しあわせだ。
なあをあいしてる。心から。
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