5-1

 なあと再会して半年後、同じ公務員赴任組で彼氏のできた曙さんを置いて予定通り帰国した。「結局話が合う人間が身近になっちゃうんすね」と口調だけは悔しそうに、顔はにやけてた曙さんはかわいくて微笑ましくて、辛そうだった長谷さんも表情筋ゆるみまくりの曙さんもそれが恋なのだと教えてくれる。そしてぜんぜん羨ましくない自分に呆れる。ほんとに自分を理解してなかったんだなあ。早まって結婚しなくてよかった。相手がかわいそうすぎる。東間さんごめんなさい。しあわせですか。しあわせになっててください。


 住むところはとりあえずなあの家にした。正式に住むかは迷いつつ。とりあえず拠点がないと部屋が探せないという理由を自分に言い訳する。


 3年間のひとりはあたしの癒しだった。それなのに、なあがたった3日いただけで団欒への願望が甦ってしまった。ひとりはよかったけれど、結局得意じゃないんだろう。けど。


「ねえ、部屋が別でもとかなんとか言ってなかったっけ」


 なあの1LDKでダンボールとスーツケースを展開しながら問うと、ばつの悪げな笑みが返ってきた。こんな間取りでどうやって距離を置くのさ。


「えーと、引っ越すのはぜんぜんかまわないよ。まおの好きな路線に住んでもらってぜんぜんいいです」

「ああそう……。とりあえず、布団は買いたいんだけど。ベッドで一緒はやだ」


 そこ、すっごい悲しそうな顔するな。なあが言ったくせに。


「今晩だけ! お願い! なんにもしないから!」

「あたし疲れてんだけど……」

「大丈夫、俺今日は睡眠薬飲める日だから、はしっこで大人しく寝ます。まおは好きに寝て」

「睡眠薬? ちょっと、そんなのどこで手に入れたの」


 睡眠導入剤は市販してるけど、睡眠薬なんて売ってないはずだ。


「え? 病院だよ?」

「どっか悪いの?」

「あー、メンタルクリニック通ってるから。あのね、ベッドというか、寝るとこは別々にするよ。俺薬が飲めない日はうなされたり飛び起きるから、たぶんうるさいんじゃないかな。まおに迷惑はかけないから」


「…………」


「そういう日は上杉さんちに行くから大丈夫」

「『上杉さん』には迷惑かけてるんじゃない」

「あー、えー、うーん」


 この顔は知ってる。なんて説明していいかわからないんだ。悪気のない顔に逆に不安になる。


「そんなん聞いたらむしろ別々にできないじゃない。上杉さんって同じマンションなんでしょ? ご挨拶に伺わなきゃ」


「まおに会うの楽しみって言ってたよ! 片づけたら行く? あのね、凛がかわいいんだよ! ぱよぱよでかけまわって転ぶんだよ! もー春菜とふう思い出す!」

「娘さん? 何歳?」

「2歳過ぎたとこ。あー柚木さん次は男の子産まないかなあ。男の赤ちゃん欲しいなあ。俺あんま見たことないんだよなあ。したらまたおむつ替えがんばっちゃうのに。あっ、引っ越したら無理か!?」


 なんだかキラキラエキサイトするなあにぼんやり。……なんかまじめな話をしてた記憶があるんだけどまあいいか。


「おむつ替えなんて手伝ったの?」

「うん。他にもいろいろ。すごいいいひとたちだから、まおも仲良くなれるよ」

「そうね」




 挨拶だけしてすぐ帰るつもりだったあたしとなあは引き留められ、帰ってきて早々は大変だろうと夕飯をごちそうになった。本当に気さくでいい人たちだった。和食はあっちでも外食産業が参入してたし―――大戸屋とかさぼてんとか―――、日本人会のパーティーでも時々食べたのだけれど、ノーマルな家庭料理は久々で沁みた。


 奥さんがなあをつれて凛ちゃんの夜散歩とやらに出た後、上杉さんから詳しい話を聞かされた。聞かされた、なんて言ったら語弊があるだろう。でも聞きたかったかというと難しい。なあがなにを思って病院通いなんて始めたのか、それが今どういう状況なのか、なあ自身がどうしたいのか迷ってることとか、説明される。


 ……暗澹たる気持ちに襲われる。初めて、寝られないなあの症状を知った。知らなかった。訊いたこともなかった。「ひとりでなんとかしなさい」って、あたし達はそれしか言わなかった。


 ―――なんでそういうことをちゃんと言わないの!


 逆ギレに近い憤りは怒りじゃなくて。ああ。そうしたらもっと早く、もっと深刻な話だってみんな理解できたのに。


「俺は正直舞生さんがあいつの側にいてくれるのは、あいつの治療にとってはマイナスだろうなって思ってます。独り寝の訓練の方も。だけど『間違ってるけど幸せな記憶』を『正しく辛い過去』に置き換えなおして、そこからまた『受け容れて依存しない地盤を手に入れる』作業に移行するのは端で見てるだけでも混乱するんです。少しでも楽にしてやりたいと思えば、原動力になったあなたが戻ってくれることが望ましい。けど、それは舞生さんにとっては元の木阿弥なんじゃないかと俺たち夫婦は危惧してるんです」


「……難しいです。夏生をどこまで信じていいかわからない……。そもそも『信じて』ここにいるかというと、ちょっと違う気もします。もう一度夏生に裏切られたら、ここにはいられない……。あのこががんばってることなら、願いをかなえてやりたい。だけどあたしの望みとはどうしても噛み合わないんです。こんなにお世話になってて不躾なお願いなんですが、夏生をこれからもよろしくお願いします」


 あたしのできなかったことをしていただいて、


「感謝してます」


 なあの症状以外のことは省かれてたけど、どう考えても上杉家の負担が大きい。申し訳なさとありがたさともっと早く出会っていればという思いが交錯する。


 そんなわたしに上杉さんが眉をハの字にして笑った。


「柚木は助かってると思いますよ。凛がね、夏生といると超機嫌いいんですよ。柚木も今、時短勤務なんですけどそれでも残業入っちまうんでね、夏生がオフ日に保育園のお迎えを手伝ってくれてまして、そうすっとなんでか他の子も大歓迎でね。まあ、よそのお母さんにも歓迎されてますけどね、ま、それは俺もですけどね! あいつ赤ん坊にまで好かれやがる。なんか通じるもんがあるんですかねえ」


「うちの姪っ子たちもなあにべったりでしたね。年上受けもやたらいいこなんですけど、下もそんなだとは」


「だから尚更、あいつが間違ってる気がしなくて」


 にこやかなまま、落とされた溜め息にはっとする。それからは、なあたちが帰ってくるまで当たり障りのない会話でつないだ。





 ベッドは無理矢理寝室に突っ込んだ。ダブルを買い直すのは気が向かず、シングルをふたつ並べる。シンガポールの時と同じだが、部屋の広さが段違いだ。日本住宅狭い。まじ狭い。


 なあが言ったように、薬を飲めない夜―――翌日に仕事がある夜は時々悲鳴がこぼれた。平気な夜もある。


「まおがきてから減ってる気がする」

「気のせいじゃない?」


 あたしの喉元に額をあててなあが笑う。ひきつった呼吸で。抱いたなあの背中をさする。足を絡めて温める。結局耐えるなあを見てられなくてこちらに引き寄せてしまった。なあの計画通りかというと、たぶんあんまり考えてなかったんじゃないかって気がする。「もっとバシッと大人になった俺を見てもらうハズだったのに」とか言われてもナンヤソレだ。たぶんなあには一生無理じゃないかな。


 同居してから初の診察日、休みを取ってついていった。治療方針の再確認と一緒に暮らす注意点、推進策を訊くためだ。危険量は出していないけど、睡眠薬より睡眠導入剤をメインに使うように指導される。あたしがいることでなあの安心が上がるなら、確かに眠剤で済ませても確率は上がるだろう。睡眠薬に頼りすぎると「それがないと眠れない」というよけいな観念がつくかもしれないし。ただし、なあについては眠剤で様子見てダメなら睡眠薬、という手順を踏むのがめんどくさかっただけのようだ。治す気あるのか。


「いやだって、上杉さんが寝てる横でごそごそあーでもないこーでもないってやるの悪いじゃん」


「あれ、まともなご意見。てか、薬が飲めない日だけの話じゃなかったの」


「うーん、薬で寝た場合、どんな反応するのかしばらく見てもらった。ぱーっと寝られるならひとりでも大丈夫じゃん。こういうの飲んだことなかったから、飲んでも効かなかったりするのかわからなくて」


「あー、んー」


「効いてくるまではやっぱり横になってると苦しいから、ギリギリまで起きてたりするけど、そのあとは割とストンと落ちてるっぽい。眠剤はこのギリギリの山過ぎちゃうと結局寝られなかったりして、でも次の日すっげー眠かったりして、使いにくい」


「なるほど。でもあたしがいるならギリギリまで起きてなくてもいいわけだね」


「まお愛してます」


「そうね。一応訊くけど、そういう反応はお医者さんには言ったんだよね」


「うわあドスルー。うん。薬換えてもらったりもしたけどあんま変わんなかった」


「ふむ」


「まお愛してます」


「ふうん?」


「なんで語尾上がったんだろう……」




 なあが閉まらないクローゼットの前で溜め息をついた。


「やっぱり引越しないと駄目かな」

「服、溢れてるねえ」


 なあの服は撮影用でいらなくなったものが多い。普段もおしゃれにしてろという社長命令だそうだ。以前はあたしの家とこの部屋で分散していたし、あたしの家はそもそもあたしのだ。部屋数が足りない。


「まおさあ、服の趣味変わった?」

「ああ」


 帰国時に荷物を減らすためにいくつか曙さんにあげてきたけど、ブランド服はそれなりに使えるので持って帰ってきたのだ。日本では裏方事務でそんなに機会はないけど、あちらでは表の裏方に駆り出されることも多々あって、見栄えのいい服は必須だった。


「日本の服は通販もできなくて、あっちの年1で開催されるグレートシンガポールっていうバーゲンでたっかいブランド物を安く買い揃えたりしたからなあ。日本は安くてかわいくてそこそこの品質が保証されてて安心する……。どうもローカルの服は安かろう悪かろうかつ趣味あわない、だし、ブランドのおしゃれTシャツなんてバカみたいな金額で買えなかったし。だいたいアースカラーが服のバリエーションに存在しないなんて聞いてないよ」


「へー」


「南国だからかなあ。原色率高い」

「へーへー」

「靴もたいへんだった……」

「帰ってきて買って送ればよかったのに」

「帰っても家に帰んなかったらお母さん噴火しちゃう」

「帰ればよかったのに」

「あんたに会いたくなかった」

「ゴメンナサイ」

「あと結花さん」

「ますますゴメンナサイ」

「忙しいって言っとけばどうにかなったからね」

「そういえばまだ家に顔出してないよね」

「…………さすがにそろそろ帰んなきゃなあ……」

「俺も一度顔出そうかな。眠剤効けばなんとかなるし。ふうがこわい」

「こわい?」


 呪いのスタンプが綿々と貼られたLINEを見せられる。


「アレー、こんな子だっけ」

「ふうはちょっと俺に似ちゃったかなー」

「うわあ」


 それはこわい。




 翌週の週末に、実家に顔を出す。なあと一緒にするかは迷ったものの、仕事の都合でここしかなかった。

 久々の実家にさすがに敷居が高い。家の玄関でなく、裏に回って店の搬入口から事務室に向かう。


「あれっ、舞生ちゃん! なあ兄も! めっずらしい~。おじいちゃんなら商工会行っちゃったから夜まで戻らないよ」


 ノックしてドアを開けると、手前の机でノートパソコンを叩いていた女の子が振り向いた。


「春菜? うわあ、大人になってる! うわ、やばい、ホントに帰ってきてなかった……お母さんに怒られる」


 春菜は結花さん似の大人びた美人になってる。これはまた。確かに。ウチの遺伝子がんばらなくていいとこだけども、うわー。違うのは、結花さんはふわふわ系美人だけどこちらはしゅっとした空気を纏っているところ。その春菜はニヤッと笑って前髪を留めていたピンを外した。


「まあね、もう高2だよ。5年ぶりくらいじゃない? おばあちゃんは家にいるよー」

「店には出てないの?」


「んーん、出てるよ。お客さんとしゃべるのがストレス解消なんじゃない。でも長時間はね。朝から昼まで」

「そっか」


「春菜、ふうは?」

 なあがぴょこんと右手を挙げると春菜は肩を竦めた。


「友達と遊びに行ってる。でもなあ兄が帰ってるって知ったら怒るだろうなあ。2人してなんで連ア絡ポなし?」

「え、と、電話で先に怒られて、家でまた怒られるのヤダなあーって……」

「舞生ちゃんそれ大人の言い訳じゃない……」

「俺もふうに怒られるのは1回がいいなって……」

「なにやってんの……?」


 で、まあ、予定通りお母さんに怒られて。たぶん夜帰ってくるお父さんにも怒られる。ああ。ホント、いい大人なのにね! そしてなあも帰ってきた風紅にべったり取り憑かれて怒られていた。あの背後霊のような姿には見覚えがある。うわー。風紅ってホントになあに似ちゃったんだ……。


「あれね、なあ兄が甘やかしすぎたせいだよ。『ふうはなあ兄のお姫さまなの!』が口癖だったんだから」


 春菜の囁きに絶句する。なるほど。末っ子愛されオーラ全開のかわいいでしょアピールが眩しいわ。すごいなこの子。


 できれば日帰りしようと図っていたのだけれど、やはりというか、引き留められて1泊していくことになった。あまりなあの寝てる―――寝られない―――姿を見られたくないのだけど。なあと一緒に寝たいと主張する風紅を宥めて客間に2人分の枕を並べさせてもらう。あたしの部屋は物置になっていて、なあの部屋は春菜の部屋になっていたので。


 で。


 お母さんの「結婚しなさい」攻撃に遭った。いや、まあね、昔話してた予定とはずいぶん変わっちゃったからしょうがないんだけどね、帰ってこない娘が心配なのもわかりますけどね。


「女の子がそんなに仕事がんばったってしょうがないじゃない。もうそろそろ32でしょう? 結婚しなさいよ。誰かいい人いないの?」


 ワーオ。


 ああ、ウチのオヤはこういうことを言うタイプだったのか。家に近寄らなかった代償は、意識の乖離。

 あたしも、以前は漠然とそう思ってた。刷り込みとかいうほどでないけど。家庭教育ってこういうことだ。


シンガポールかの国の学生達が脳裏をかすめる。


 日本でいうところの保守的な家長制度がないわけじゃない。けど、高等教育を受けられた女子の就職先は男子と同等で、一定層から上は性差が感じられなかった。むしろ親世代が子供にかける英才教育は男女共に過熱の一途だ。


 もちろん、層下は様々だ。日本のほうが全体への基礎教育は成し得てるように見えたし、エリートを優遇して全体の底上げを狙う方針では零れる子ども達だって多数でる。あの国はミドル層が少ないのだ。


 でも、あたしは高等教育を受けた女子だ。


 その費用を出したのは両親なのに、自らそれを無にする発言がでる愛情が、噛み合わない。


 へんなの。


 以前はこんなこと思わなかった。だから変わったのはあたし。


 結局、一番の乖離は「恋愛も結婚もするつもりが一切ないあたし」だ。トキメキのない自分を適当にどっかで手を打たなきゃとか思ってる場合じゃなかった。もっと早く、恋をしなくても普通と気がつけば。理解のための対話をもっと前からしていたら変わっていただろうか。あたしはあまりにも両親が夢見るような娘像に同意してしまっていた。だから今更お母さん達に納得してくれと言えない。


 ごめんねお母さん、お父さん。ただの駄目な娘だって思っててください。


 心の中でだけ謝って、笑って流して反論はしなかった。

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