なあのはなし
たぶん最初は母より年上の、中絶した人とか養護施設に置きっぱなしで会いに行けないって人が一晩だけ慰めにって感じだったみたいです。あと、若い母を助けてくれたんだと思います。俺自身はその頃は記憶ないんですけど、もう少し大きくなった頃、そんな感じのことを言われました。
少し大きくなると女の人だけじゃなくなりました。さっきの人たちのような、父親になり損ねた人もいました。そういう人はおもちゃとかお菓子とか一緒に買いに行ったり、ファミレスで夕飯を食べたりもしました。ママとかお父さんとか呼んで欲しいって頼まれたことも多かったです。『おしばいなのよ』って母は笑ってました。『このうちに帰ってくるまで、なあはよその子になるの。でも帰ってきたらなあとママのホントの家族に戻るの。おもしろいでしょ?』。
母が楽しそうだったので俺もがんばりました。いろんな人の子供になって、いい子ねって褒められて、褒められる俺を母が褒めるので嬉しかったし誇らしかった。ふたりだけの家族だから支え合っていこうね、がんばろうねって、母は俺を抱きしめてよく言いました。
―――俺は今でもそれがそんなに変なことだって思えてないんです。
だけど貸し出される人には何人か、男でも女でも関係なくて、まあ、今はわかるけど……性虐待っていうんですよね、軽いのからキツいのまでいました。怪我したときは母が猛烈に怒ってそいつらにはその後は貸し出されることはなくなったんですけど家の近くで待ち伏せされたりはあったかな。しょうがないんで母にばれないように、痛いのは俺もイヤだから前みたいのはナシって条件で時々会ったりしました。でもだいたい突然連絡がなくなったから、その後は知らないです。母に内緒のお小遣いがなくなったのは痛かったかな。
母ですか、恨み、ですか。うーん、あんまり……。てゆうか、こうして話してて、なんだかなあとはさすがに思うんですけど、これが春菜や風紅―――妹たちですね―――だったら胃が沸騰するんですけど、俺はあんまり……酷い目にあったって気がしてなくて……俺やっぱりおかしいですかね。母が喜んでくれたことや、お客さんが優しかったのがどっちかっていうと印象に残ってて……後ろめたさとか……ああ、お客さんはあったでしょうね、お芝居じゃないときには避けられたりすることもあったから。でもそういうときは別のお芝居か、ホントの親子のときなんで、別に俺も気にしたりしませんでした。
うん、嫌いじゃないですね。ちょっと考えなしのところが春菜とか父さんを悲しませるからやめて欲しいなって思いますけど、基本的には家族を大事にする人ですから。そうだな、最優先が自分の感情なんじゃないかな。母さんの中では矛盾がないんだと思います。これは父さんが言ってました。俺もそうなんだと思います。
母と父が結婚して、貸し出しはなくなりました。俺は『普通』の暮らしに放り込まれて、とりあえずお芝居をしました。これがずっと続くらしいとは聞いてましたけど、実感はあんまり湧かなかったし、母が誰にも言っちゃダメよとウインクしたので、秘密を守る競争みたいなものだと―――そうですね、母はそういう人です。俺は長いこと、ほんとうに長いこと、気づかなかったんです。舞生に、俺の嫌がることはしないって言われたときも、怪我させられるようなお芝居はないんだと嬉しかったくらいで。
舞生は―――。
俺はどこで間違えたんだろう。まおがいやだって言うのがよくわからなかった。AVなんかだとそんなもんだし、あれもお芝居の一種だと思ってたのかな……いや、今そう思っただけです。まおは優しかったから……怒られたりもしたけどいつも許してくれたから……本気で嫌がってるわけじゃないんだってきっと……思い込んでた。まおはなんだって受け入れてくれるって……。まおは本当に途中からお芝居になっちゃったんです。俺が芝居を辞めた後も、むしろそこから? あんな、あんな顔させるつもりなんてなかった。俺がまおを好きなのって、そんなに駄目なんですか。まおだって他の人のことなんか気にも留めないのに……俺知ってます、大学の時にまおのこと好きな奴がいたの。まおはちっとも気がつかなかった。
まおは俺を見てて、俺以上の奴なんていなかった。
これ、思い込みなんですか。ストーカーみたいな? 俺は……でも……まおが……
その日は昼からずっとその人と遊びに行くんだと説明された。テーマパークは初めてで、もちろんとても楽しかった。次の日の朝、その人の車でアパートの前まで送ってもらうと母が門扉の前で手を振っていた。母は夏生と交代するように車内へ移り、封筒を受け取って出てきた。
よかった。ママにほめられる。
「なあ、楽しかった?」
母をみれば、答えはわかった。
「うん」
「よかった! じゃあこれからも、時々おでかけできるかな?」
「うん」
「なあはほんといい子! なあかわいいっ!」
ぎゅうと抱き締められ、満足する。母が喜んで、うれしい。
今までのように夜だけのお芝居じゃなくて、昼間も誰かと出かけるのだ。芝居の時間が長くなるのはがんばる時間が長くなるということで、母は自分にそれができると期待している。夏生は認められた思いで母を抱き返す。
ぼくがママをたすけるんだ。ほんとうのかぞくだから。おしばいじゃない、ぼくのママ。
夏生は母の笑顔が好きだ。気持ちが悪いことでも多少の痛みも、報酬を持って帰る夏生を抱きしめる母の為なら無視できた。それに芝居相手はだいたいがやさしく、夏生が要望に応えるととても褒めて撫でてくれた。お芝居だから誰だってパパにもママにもなる。夏生を違う名前で呼ぶ人もいる。女の子の格好をする日もある。お芝居を一所懸命こなせば、満足した相手は母にも感謝する。そして夏生は褒められる。母が頬を摘まんで、いっぱいキスして、抱きしめてくれる。それは祝福の時間だ。その時間のために、夏生は努力する。
ある日は自宅に戻ったとたん、足がもつれて框で転んだ。
「なあ!?」
よろりと床にへたり込んだ自分を抱え上げ、猛然と和室に連れ込む母。服を脱がされる。白い薬を1錠飲まされ、塗り薬をあちこちに塗られてパジャマに着替え、布団に運ばれた。
うとうとしながら、母が電話口で怒鳴るのが聞こえた。
「話が違う! 二度とあんたには出さない!」
よかった。いたくてつらいのはもうないんだ。
眠気にぼんやりしつつも母の言葉に安堵する。今までも少しぐらいの痛みは我慢していたけど、今日の相手はとても楽しそうに針を刺したり紐で縛ってきたりして大変だった。苦しいのは嫌だ。ヘンな味のものを舐めさせられたりしても、かわいいねって撫でてくれる人のほうがいい。
夏生が眠りから醒めると母が自分を抱き締めていて、身じろぎに気づいて頭を撫でた。
「ごめんねなあ。イヤなことがあったらちゃんと言うのよ」
「うん」
ホントはほかのひとのところにいくのはぜんぶイヤだ。でもそうしたほうが、ママはきげんがいい。
夏生はまたうとうとしながら、母の手が髪を撫でる感触を堪能した。
撫でる手は舞生のものだ。
舞生は母ではないのに、なにも引き替えなくても、お芝居でなくても、夏生を抱き締めて撫でてくれる。母より怒りっぽいけど、夏生が好きだと全身で教えてくれる。
(まおはきっとほんとうのかぞくなんだ。だからおしばいはいらない。とうさんもじいちゃんもばあちゃんも、おれがおしばいがんばらなくてもなでてくれる。だいすきだ。いままでのおきゃくさんとぜんぜんちがう)
「まお好き」
「あたしも好きだよ、なあ」
破綻を知った。舞生の愛情を疑ったことなどなく、愛し愛されているのだと。舞生が嫌がったのは叔母と甥という関係性と未成年だった自分のことで、おだやかであたたかい半同棲の暮らしは至福の時だったはずなのに。舞生が腕の中で微睡む姿は何よりも夏生を安心させたのに。
人生で初めての結婚式に、夏生は違和感を覚えた。新郎新婦にではない。舞生だ。上杉と
あんな笑顔を、もう何年も見ていない。落ち着かない心地のまま引き出物を下げて舞生の家に向かう。一刻も早くこの違和感を払拭したいと夏生は足を速めた。
「あれ? こっちに来たの」
少し困ったような、でも微かに笑顔で、迎えられる。
そうだ、この顔だ。ずっとこんな顔をしている。いつから?
「ねえまお。もしかして今、しあわせじゃ、ない、の?」
瞬間、目を見開いて、それからとろけるような笑顔になった。見たいと思った顔は、予想外の言葉から引き出された。
裏切られたと信じられないが交互に渦巻く。
夏生は嘘ばかりだと舞生が微笑む。自分が見ているのは自分だけだと。
舞生は夏生から去った。「さよなら」とあの優しかった手を振って。
夏生は混乱していた。舞生の言葉がなんの偽りもないとどこかで納得しながらも、理解を放棄した。代わりの場所を探すのも面倒になって半月ほど事務所のソファーを根城にしていたが、ついに社長に追い出された。夏生の1LDKは最近結婚した上杉の2LDKと同じマンションだ。夏生の部屋に連行するよう厳命された上杉は、きちんと夏生を送り届けた。そして自分のフロアには向かわずに夏生の冷蔵庫を開けた。
「おい、なんにも入ってねえぞ。スライスチーズ? しかも賞味期限切れてるし」
「だってここで暮らしてないですもん」
「コドモみたいな拗ね方すんなや。しょうがねえな、下でなんか買ってくるから待ってろよ。お前ビールでいいか?」
「グレープフルーツ」
「サワーな。ちくしょ、社長に経費請求してやる」
ぼやきつつも面倒見のいい上杉は10分ほどで戻ってきた。おにぎりとホットスナックとサワーを夏生の前に並べ、自分はラガーとショートケーキを広げる。苦いものと甘いものを交互に食べるのがいいんだと上杉は毎回主張するが、毎回奇異な組み合わせだと夏生は思う。そうして黙々と杯を空け、気がつくと結構な数の空き缶がテーブルを占拠している。寝不足も祟ってセーブできない。事務所で寝る理由を問われ、ついするりと安眠スペースを失ったことを話してしまう。
ずっと好きなひとに裏切られた。まおだけは俺を捨てないって信じてたのに。
酔っ払った夏生の言葉に上杉は首を捻った。
「むしろお前に特定の人がいたことに驚いたね」
上杉は生チョコをつまみ、不思議そうに続ける。
「あんだけ遊び歩いてて、捨てられたもなにもないもんだ」
「遊んでったって、楽しいことなんてなにもしてない」
「女のほうは目がハートマークじゃねーか」
「そんなん知りませんよ。俺のせいじゃない」
「お前はアホだ」
「…………」
不満げに首を振る夏生を上杉がどつく。
「そやってなあ、フラフラしてっから置いてかれんだよ。もっとまじめに向き合えばよかったんだよ」
「俺はずっとまおしかいらないって言ってます。フラフラなんてしてない。いつだって逃げるのはまおだ。―――そうだ」
実は何度も置いていかれた。
その度絶望して、拗ねて、
でも我慢できなくて追いかけた。
まおは泣きながら戻ってくれたから。
夏生の言葉に上杉が眉を顰める。
「お前なあ、なんで泣いてんのかわかってんのか?」
「わかんないけど、訊いたって気にしないでって言われたらもう方法ないし」
「いやさ、じゃあなんで他の奴らと寝てんだよ。それバレてるからだろ。夏生は基本いい奴だし、win-winならいいかと目を瞑ってたけど、それでひとりをつなぎ止められないって文句言うならお前がおかしい」
「だってまおは引っ越せないって言うから。職場の近くがいいって。俺だって社長の紹介でなきゃこのマンション選ばなかったし、ホントは2人で暮らしたい。そしたら他のひとと面倒な手続きなしで眠れる。いいな上杉さんは。奥さんがいて」
「はあ?」
「こっちだって大変なんですから。セックスしなくてただ寝てくれるひとって、めったにいないんですよ。わかります? 昔ほど細こくもないから男でも大丈夫かなって思ったら、なんかどっちもいける派がやたら多いし。なんにもしない約束で家行って、なにもしないで済むのなんて勝率5割切るし。すっごい疲れてて人肌だけ恋しい女のひととか、男に絶対興味ない男とか紹介してください、むしろもう上杉さん一緒に寝てくださいよ」
「新婚になにゆってんだ俺ァそんな趣味ねえ」
「別にセックスしようなんて言ってない。ベッドが一緒でなくてもいいです、同じ部屋にいてくれれば。夜ひとりなのが嫌なだけだ。でも女の子といるとセックスすることになっちゃう」
「……そりゃそーだろ」
夏生の顔で、自室に連れ込むならヤル気満々だろ、と上杉は内心で続ける。
「上杉さんなら俺にそういう興味ないよね?」
「まーねーな! むしろ無理! 後輩としてはかわいがってるつもりだがお前をそういう目では見らんねえ」
「うん」
うれしそうに、ふわりとほほえむ夏生にそれが駄目なんじゃねーのとこめかみを揉む。
(そうそう、この邪気のない幼さがコロッといかせるんだよな)
なにしろ上杉の妻も夏生を気に入っている。もちろんかわいがってという意味だ。夏生は警戒心を起こさせない。するりと入ってきて、居場所をつくる。柚木は人慣れした野良猫みたいと評した。
「じゃあなにか? お前は遊びで浮気してんじゃなくて、その女に会えないとき用の寝床探しであちこちついていってんのか!」
「そう言ってます」
「言ってねーよ」
前からちょっと頭悪いなとは思っていたけれど、順序立てて説明できない夏生に舌打ちする。訊かれたことに答えてるだけではこちらには伝わらないのだが。
「どういうことだよ、まさかひとりで寝らんねえとかマジで言ってんのか」
「それもう聞き飽きたし。じゃあ治す方法教えてくれよって思います。……俺よくわかんねーんだ。なんでおかしいって言われるのか。おかしいかなあ? みんなだってそう言ってるのに。ひとりは寂しい、ひとりはいやだって、歌でもなんでも。あれは嘘なんですか?」
「嘘っつーか……。嘘ではねえよ、だけどだからっていっつも誰かといられるわけじゃないだろ。みんな我慢して、慣れたり、忘れたりしてんだ」
「ホントに? みんな?」
「言っとくけどな、世の中にはひとり大好きひとり暮らし最高ー! な人間もごまんといるからな」
「嘘だあ」
「ウチのかみさんその口だぞ」
「まじですか!? 柚木さん上杉さんとすげえ仲良しなのに!」
「それとこれとは別なの。だから柚木がひとりでいたいときは俺はパチンコ行くの」
「はあ……」
よほど衝撃だったのか、酔いの醒めた顔を向ける。
「あのな、お前がそのまおさん?ちに行ってねえときはその人がどうしてるか知らんけど、お前とは違うんだぞ。会えた時だけなんもかんもその人に預けてぐーすか寝てるのはどうかと思うぞ」
「そんなこと言われたって……。俺だって何度かはチャレンジしましたよ。でも、こう、胸がドキドキして苦しくて、耳がキーンてなって呼吸が辛くなって……起きれば、眠いけど、苦しいのはなくなって。みんなホントにあんなの我慢して慣れてるの? 慣れるんですか、アレ」
「はあ? ちょっと待て、寂しいってココロの問題じゃねえの?」
「え? 一緒じゃないんですか? 違うの?」
やばい、違う。
上杉の酔いが引いた。脳内に危険信号が響く。これは違う。そんな症状聞いたことがない。
夏生にとっても首を捻る反応だ。
「お前それ、いつからなの?」
上杉の問いに眉を顰める。
「さあ? 気づいたときにはいろんな人と寝てたから……。誰もいないときは起きてたと思う……たぶん。母さんは夜の仕事だったから明け方戻ってくるの待って寝たり? 実家にいた頃は最初はまおがいてくれたし、その間はセックスはしなかったけど、まおが出てってからは外で探したりしたかな。まおは大学行くまではずっと一緒だったんだ。あのまま一緒にいてくれればよかったのに」
「ちょっと待て。今重大なコクハクがされたぞ」
「?」
上杉の烏龍ハイがかつんとテーブルに置かれる。
「待て待て、『まおはしなかった』ってのは他の人間は、―――つかぬことを訊くが、親の再婚て何年前だ? お前幾つだ?」
「再婚じゃないですよ、どっちも初婚で、春菜が14歳だから、14年前? 俺はやっつです」
「んんん? まおさんはセックスしなかったって言うがな、やっつ相手じゃ普通だろうが」
「でも俺はしてたけど。あ、されてたってイミですか? そうか、してたとは言わないですよね。そう、だからむしろなんにもしないまおは不思議だった。寝る前にしないでぐっすり眠れるってすごいなって思ってた。もしかして他の人より若いからかなって」
……あー、訊きたくねえ。首の後ろをひっかくように項垂れるが、上杉にもうすうす察せた。
「他のって」
「母さんの紹介で会ったおじさんやおばさんです。あーでも今思えばお兄さんお姉さんもいたな。抱っこして寝るだけのひともいたけど、だいたい何かしらしてた、されてた? んじゃないかな。たまに、怪我する時があって、母さんがすごい剣幕で『もう貸さない!』って電話したりしてたな。何回かそんなのもあったけど、だいたいはみんなかわいがってくれる人達でしたよ」
「おわー、あーあーあーちっくしょっ」
「あ、でも、俺もまおんちが『普通』だってのはしばらくしてわかりましたよ。春菜が産まれて、大きくなって、春菜が金稼ぐ必要がないのは父さん達見ててわかったし。お芝居の日はおもちゃとか買ってもらえていいこともあったけど、母さんと離れてるのはやっぱり寂しかったし、こいつはずっと家にいられていいなあって思ってました。それが普通なんだなあって。じいさんやばあさんと寝ることはあっても、家族じゃないひとと寝ることないんだなあって」
上杉としても夏生の自重を促すはずが予想外の話を聞いてしまった。頭を抱えたまま必死に言葉を探る。
「まおさんってさー、それ知ってるのか? その、母子家庭時代のこと」
「こんな風に話したことはないかな? でも知ってると思う。捨てられた日にそれっぽいこと言われた」
ああ、それは、捨てられたんじゃなくて、しんどくなっちゃったのかもな。
上杉の理解は、しかし口には出せなかった。どちらが夏生にとってマシなのかわからなかったからだ。
「お前に必要なのはさ、まおさんじゃなくてカウンセラーだと思うよ……」
「なんで?」
「お前がそうである限り、まおさんは戻ってこねーだろうから」
治ったって、戻ってこねえかもしんねえけど。心で握りつぶす要素は膨らむばかり。だが希望を持たせてやりたかった。どんな形にしろ、夏生はもう上杉の半はん身内みうちだ。かわいがって面倒を見る範囲に居場所を得ている。こちらの助言を素直に飲み込む夏生が不憫で助けてやりたかった。
「そうって?」
「お前は幼児虐待に遭ったんだ。根っこが不安定すぎて、まおさんは支えきれなかったんだ。お前がも少しマシに立てれば、まおさんも楽になるだろ」
「そうなんですか?」
そういうことにしておけ。お前はその歪みを彼女に押しつけて、折ったんだ。逃げ出したんじゃない、脱落したんだ。
お前がそうさせた。
―――今は口には出せない。
夏生をかわいそうだと思う。
こいつは一途かもしれないが、表現がおかしい。DV男となんら変わらねえ。それがわかってない。
「じゃあ、上杉さんが『まともになった』って言えば、まおは戻ってくるかな」
「……約束はしねえ。けど、希望はある」
たぶんない。あって欲しい。でもその女性に懇願するのは無理だ。14年、夏生に付き添ったその人の心中を慮れば。
「わかった、病院行ってみる」
「……紹介してやる。柚木んち、あいつはSEだけど実は医者一族だかんな。式見たろ? 肩身狭っめーの。ま、アテもあるだろ」
「あれ? 商売繁盛?」
「違うっての。俺ァ心配してるっつの」
「アリガトウゴザイマアス先輩」
上杉経由で紹介された心療内科とカウンセリング室で、促されて当時を語る。自分では憶えていないことも多い。記憶にある母の言葉や、他の客から聞いた話から更に過去を訪ねる。
不眠対策に処方された睡眠導入剤と睡眠薬は、うまくいくときといかないときがあって、なかなか安定せず、翌日に仕事がある日は使うことを諦めた。そういう日は上杉が寝床を自室に用意してくれた。柚木や上杉と夕飯を囲む機会が増え、柚木の出産後もそれは続いた。夏生の通院が定期になった頃に女の子が生まれたのだ。凜りんと名付けられ、いつのまにか夏生も子育て要員に駆り出された。
「なっちゃんおむつ上手! ウチの子になってえ~」
柚木の快哉に上杉が膨れるが「哲っちゃんなにもかもヘタなんだもん」と切り捨てられていた。
「初めてなんだからしょうがないだろ、こいつなんて妹2人だぞ」
「あたしだって初めてだよ! そんな言い訳がたつと思ってんならおむつとミルクと夕飯買ってきて!」
すごすごと出て行く上杉を笑顔で見送る。
「でも柚木さんはすごく『お母さん』だ。初めてなのに不思議だな」
「不思議だね。あたしも思う。お腹にいたときもいろいろ思ってたけど、目の前にいるとこの子しか見えなくなるなあ」
「ここんちは赤ちゃんの匂いだね。玄関開けるたびにやっとしちゃうんだよな。俺赤ちゃん好きかも」
「男の子では珍しいんじゃない? やっぱ慣れてるからかな。哲っちゃんなんかカワイイカワイイ言うくせに抱くときはヒヤヒヤしてるもん。なっちゃんは手慣れてるよね」
「そだね、平気。確かにふうの時はけっこう見てたしな。ぽわーっとして、いくらでも見てられる。なんかね、しあわせじゃん。赤ちゃんがいて、お母さんがいて、お父さんがいる」
「ん」
「柚木さん、おかあさんのにおいだ」
「そう?」
「赤ちゃんの匂いとお母さんの匂いは、似てるけど少し違うよね……嗅いでいい?」
「え、んん、いいよ」
夏生はソファから立ち上がると、カーペットの上に座っている柚木の横に座り直して肩に額を載せた。
柚木は少し緊張して、しかしじっと待った。
「……ありがと柚木さん。いいな、お前、柚木さんがお母さんだぞ」
まだ首の据わっていない、やっとくしゃりとした皺が顔から減りつつある凜の、小さな親指を摘まんで夏生がやさしく囁く。
「俺も上杉さんもいない日は大変だろうけど、オフの日はなるたけ手伝いますからね」
「んもー、なっちゃんマジいい子だようー。ヨロシク!」
「ははっ」
父からLINEが来たのは年末を控えた12月半ば、簡潔な文面で母が姿をくらましたことと妹たちの面倒を見て欲しいという要請だった。幸い今の仕事は明日までで、しばらく時間が空く。夏生は社長に戻りの日を確認して実家へ向かった。
母の家出は父にとって想定内だったようだ。呼ばれて帰ったものの、慌ててるのは祖母だけ、祖父は無視に近い怒り、父は平静だった。
(まあおとなはいいや)
心配だった春菜と風紅は。風紅は抱きついてきて、少しぐすぐすしただけだ。春菜は風紅が膝の上で寝てしまった後、睨むように呟いた。
「なあ
「なにを?」
「お母さんのこと」
「今回のことは知らないよ。父さんからLINEが来て初めて知ったし」
「そうじゃなくて」
春菜が台所のイスに横座りになり、背もたれを右脇に挟んで、目線をさ迷わせる。
「お母さんて、男にだらしないって言われてるって」
「ああ」
ひがみに近い噂として、それは昔からあった。半分嘘で、半分本当だ。母は男性にチヤホヤされるのが好きで、そのためにいい顔を振りまく。けれど貢がれたい側なのだ。だからだらしないのとは違うかもしれない。
「お店のお客さん、『それみたことか』って感じなの。『いつかやると思った』『2代目も嫁さんに逃げられちゃあねえ、覇気が足りないねえ』とか。楽しそうに。店の中で。そんなの、丸聞こえじゃん。
もおやだぁ。お母さんも、こんな田舎も。出て行きたい。あたしの顔なんて知らない人のとこへ行きたい」
「どしたの」
「あたし、お母さんに、似てる……」
「……ああ」
そうかもなあと納得する。もっと小さい頃はなんとも思わなかったが、確かに最近は母に似てきた。
「顔に罪はないよ。春菜は春菜だよ」
「そんなの詭弁だ」
「春菜は難しい言葉使うな……」
「なあ兄のばか」
「バカなのは否定しないけど、春菜が好きだぞ。ほら、春菜もおいで」
風紅を片足に移して、空いたほうに春菜を呼ぶ。
「あのさ、中学生の妹にぎゅうとか、普通しないよ」
「まおも同じこと言ってたよ。でもしたいからする。ほら」
夏生が再度手招きすると、春菜は少し恥ずかしそうにしながらも寄ってきて、ちょこんと太腿に腰掛けた。夏生は遠慮せず抱き寄せて、頬を重ねた。
「母さんは、ちょっと善悪がズレてるかもな。でも俺も父さんもじいちゃん達も、春菜が母さんに似てるからって嫌いになったりしないよ」
「あたしが嫌なんだよ……」
「ごめんな、助けてやれなくて。春菜が大人になる頃までにはお金貯めとくから、どうしても嫌だったら整形って手もあるからな」
「え、そこまでは考えてな……」
よほど驚いたのか、春菜が仰け反ったけれど、夏生は微笑んで引き戻した。
「バカだけど、頼れるようにはなるから」
「なあ兄、ごめん」
「そこは『好き』って言って欲しいなあ」
「……すっごい不思議なんだけど、なんで日本生まれ日本育ちで見た目だけのなんちゃってクォーターなのにそんな外国チックなのかな……?」
「まおも同じこと言ってたなー」
「またそれだし」
フラッシュバックで飛び起きる。
夏生が治療を始めて1年。少し前からこの症状が追加された。睡眠薬が使えない日はこれがあるので、そういう夜は柚木と凜は付き添わないようにした。上杉がついてくれるのすら申し訳ないが、上杉は気にするなと一蹴した。
「お前をやっつの子供だと思うことにする。ほら、こいよ」
8歳は夏生が『お芝居』から解放された歳だ。なんとか笑いを浮かべてもぞりと這うように上杉の布団に潜り込む。ガチガチと歯の根を鳴らす夏生を、上杉の手がぽんぽんと背中を叩き、夏生は歯を食いしばったまま深呼吸した。
「あー、こんなごつい8歳児いねえ……」
「はは。上杉さん、いいひとだ」
「今更」
夏生の鼓動がゆっくりになり、汗が引いていく。
「俺、ホントにこんなんするのがよかったのかな。気持ちばっかり辛くなってくんだけど……」
悪化しているようにしか見えない状況に、上杉も一瞬詰まる。
「お前は迷うな。言われたんだろ、治療途中ではこういうことが起きるって。俺が言い出したことだ。とことん付き合う」
「うえすぎさんおとこまえだなあ……」
ははっと、息切れたような笑いが夏生から上がる。上杉と柚木も付け焼き刃で心理療法を勉強したが、半端な手出しはクリニックの治療を妨げる。辛そうな夏生を助けてやりたいが、やめようとは言えなかった。結局どう接するのが一番いいのかはわからない。だが寄る辺ない子供に拠り所が必要なのは治療を始める前から―――夏生がもつ懐こい愛想から逆算できた。
「お父さんとっちゃって、凜ちゃんに悪いな……」
「柚木と凜には起きてるときかまってやってくれよ。柚木もお前のことは気にしてんだ」
「不思議だな……」
「ん?」
「まおも、父さんも、上杉さんたちもどこで習ったのかな。俺はどうして知らなかったのかな……学校、真面目に行けば教わったのかな……」
「お前もちゃんとやさしいよ。でなきゃ凜が懐かねえだろ」
「そうかな……。でも……まおに……謝んなきゃ……」
「謝んな」
「上杉さん? なんで?」
「謝るのは『で、どうする? 許す?』って相手に委ねる行為だ。まおさんってのはいいひとなんだろ。そういうひとが謝られて許さないでいられるか? そこは置いとけ。触れんな」
「でもそれ……」
「いいんだ。人付き合いなんてのはなあ、なあなあで流すって匠の技があるんだよ」
「たくみ……」
「寝ろ。罪悪感はほっとけ。お前はお前のこと考えてろ。どっちにしろそんなんじゃまおさんには会えねーぞ」
「そだね……」
夏生の呼吸が一旦浅くなり、やがて深くゆっくりになる。上杉は小さい子供の父親の目で夏生を見つめる。たぶんタイミングなのだ。独身の頃だったらここまで親身にはならなかっただろう。凜がいるから。自分の子をこんな目には遭わせないと誓う。上杉と柚木にとって、夏生は叩き台なのだ。凜が大事だから夏生を助ける。
『まおがいた!』
上杉のアイフォンに、シンガポールの夏生からLINEがきた。文面にぎょっとする。
『だめだ、離れたくない。俺、まおの家に行くよ。治療途中だけど、アレはばれないようにがんばる』
アレとはフラッシュバックのことだろう。夏生が言うには具体的な映像等ではなく、恐怖や強い嘔吐感が突然湧き起こるそうだ。ここ半年ほど苦悶する夏生に付き添った上杉には時期尚早と感じられた。
だが引き留めることはできないだろう。夏生がどれだけ《まお》のために努力していたかを間近で見た者としては。それがどれだけ独りよがりな理由でも。
『まさかそんなことがあるとはな。よかったな。無茶はするなよ』
そう返した。
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