4-1
シンガポールは小さな国だ。国土の狭いここは、日本よりもっと高く高く空へ背伸びして、発展している。土地の高さは賃料に反映して、民間企業の駐在員が中心部のコンドミニアムに居を構えているのに対して、公務員のあたし達は市街地から少し離れたベッドタウン、
もともとあたしは人材局で研修を担当する部署のひとつにいたので、仕事はここでもその延長だ。シンガポールは東南アジアのハブ国としてちょうどいい。緊急対応で駆けつけるのに時差もほぼなく時間もそうかからない。
「つまりは現地調整係よ。雑用係ともいうから、連れ回すよ~」
隣の席であり、ルームメイトでもある
部署の違いはあれどこちらでは少数でまわしてるので情報の共有は大事で、2人で顔を合わせるとつい仕事の話になってしまうのがいいやら悪いやら。
まあルームメイトといっても玄関とダイニングが一緒なだけで、その奥は鍵もかかるし部屋も複数あるしシャワールームもトイレもそれぞれについてるからほとんど一人暮らしと同じだ。
長谷さんは同じ人材局でも部署が違ったのでそれまで知らなかったけれど、他の人の話によると優秀な女性らしい。けれど本人は「結婚して辞めたい」と日々ぼやいている。あー、ね。優秀な人はその優秀さでなおさら忙しいのだよね。それだけでなくて、遠恋してる相手が日本にいるものの、なんだか様子がおかしいらしい。長谷さんはあまり愚痴ったりしないけど、気持ちが傾いでる時は部屋から出てこないのでなんとなくわかるようになった。
日本での仕事は
姉妹都市提携している自治体のサポートやそこから現地交流にやってくる職員の受け入れの手配、また国公立の学術機関から技術交流目的で研修にくる教師、学生のサポート。中には高校や高専と短期の交換留学を行うケースもある。学生そのものは対象外なのだけど、教員は公務員なのでリベートや過度な接待や不正行為がなされていないか監督するのだ。現地お目付役である。まあ鬱陶しいだろうね。そのかわり前例の無い対応について比較的早く処理できるのはあたし達がいるからだ。本国の所属学校から都道府県の教育委員会を通して文部科学省を経て、なんて決議を取っていたらこの国では置いていかれる。
今までは自分が技術者ではないのでピンと来なかったが、工学系技術職の人種と話す機会が増えて、日本が科学技術を誇っているのが過去の栄光なんだとしみじみ納得した。技術が劣っているわけではないけど、老化している。こちらのスピードは熱が感じられるほど即時決断。初代首相の偉功がまだまだ輝くこの国は、後進だからこそ、最新のシステムを取り入れデジタル決済が進み、硬直した日本の上意下達とは段違いだ。
金融も、これはあまりあたし達が立ち入ることはないけれど、国が元締めで、でも割と国民側が無茶しなければリターンが見込める安定上昇中の投資が見込める。鼻の利く人はむしろ、ここではハイリターンをすでに手にして、次の投資国を探している状態だ。お金持ちってすごいね。世界が違いすぎて憧れすらでない。『バブル』を言葉しか知らなかったけど、ここへ来て実感した。
なので財務省絡みではたまに引っぱり出されることもあるけど、その時はシンガポール1国にというよりアジア各国での出張所扱いにされている。
他にも様々な公的機関から多様な目的で出張してくる方々の迎え入れ係となる。現地サポートくらい民間の旅行会社に任せれば済みそうだが、とにかく内部情報を出したくないということのようだ。たいした情報でもないと思うけれども。昔に比べれば随分民間委託も増えているという話だけれど、海外というのがネックらしい。
それでもあたしの任期が切れる3年後には話が変わっている可能性はある。なにしろ駐在費が高い。公務員はお金持ちみたいなイメージが世間にはあるようだけど、実際には備品交換は渋いし予算なんてどんどん削られている。日本の職場なんてつつましい暮らしでしたとも。物価が違うから単純比較はできないけども、こちらの暮らしは更に質素だ。
質素だけれど、そこはかとない貧乏暮らしには慣れているので苦はない。実家が裕福でなかったのがこんなところで役に立つ。
家。短い連絡はしても、日本には帰らない。飛行機でたったの7時間半、けれどたったの3年間。戻りたくなかった。思い出したくなかった。毎日思い馳せた。
あの家が好きで、結婚しても近所に住んで、たまに家業の手伝いに行ったりしたかったあたしが、家に寄りつかなくなり、結婚もせず、仕事に助けられている。
みんながみんな思い描いたようには生きられないのだと、最近は納得できるようになった。
人には抗えない事情が押し寄せて、選択肢はその数よりもタイムリミットで選別せざるをえない。
なあはどうしてるだろう。元気だろうか、ひとりでがんばれているだろうか、厭世からずぶずぶと怠惰な暮らしに流れているんだろうか。考えたくないけれど、思考は流れる。
経済発展中のこの国で、エリート層の学生たちに目を見張る日本の指導者を案内しながら、子供だったあのこが向かい合ってドリルを解く姿がちらつく。学習意欲できらきらと瞳を輝かせる学生との違い。
シンガポールはとても美しくて治安も良くて日本より安心して夜歩きできるくらいだけど、それでもやっぱり貧民層がある。近隣国からの出稼ぎや流民。この経済成長の負の側面。駆け上がる発展の、置いていかれるもの。
そして日本にも、ある。斜陽の国の、始めに転げ落ちるもの。
なあが育ったのはそういう環境だった。
ひとりになって、観光気分が終わって慣れない文化に必死になって、なんとかルーティンができあがって、やっとゆっくり眠れる日々を手に入れて、ようやく。
なあとあたしの関係を省みる時間ができた。
街での本が手に入りにくい環境のかわりにITインフラは充実したこの国で、虐待についてぽつりぽつりと学習する。Amazonも比較的まともに動くので日本語の本を配送してもらう。ネグレクトや、性虐待、児童売春、ギャング化する子供達を学ぶ。なあは母親には愛されていたけど、あんなの虐待と同じだ。大人に利用され使い捨てられる子供達の、義兄弟の結束を結ぶ破滅的な交友になあの執着を見る。縋る者同士で溺れる関係に自分たちがだぶる。
お義姉さんがひとりで訪ねてきたあの日から、思考停止してきた。目の前のなあから逃げることも向き合うこともできずに誤魔化していた。このまま目を閉じていくのだと。
だけど結局、あたしはあのこの重みに耐えきれなかった。諦められると思った自分を諦めきれなかった。えぐられる喪失が寒くて。
だから逃げたことを後悔はしていない。のに、痛みは走る。
助けられなかった。一緒に沈みたくなかった。
あたしは悪くない。
あんなふうに、勝手に、人を縛る子を赦せない。
―――悪くなかったら逃げていいの? 結花さんみたいに? いや、結花さんは狡い。あたしは違う。あんな酷いことしてない。―――あんなに傷つけておいて?
囁きは消えない。
「どうすればよかったの」
考える余裕は長らく涸れてた涙を連れ戻して、それはとても億劫で、だのに慣れてしまった。そのうちまた涙は止まった。それでも考える事は止めない。
小さな部屋の中で。
あたしとなあが抱えていた秘密は、重すぎて。
なにもかも公にして、外へ投げ出せばよかったのか。
偶然とはいえ、秘密を共有することになった相模さんには頭が上がらない。詳しくは知られてないけど、なあの異常性は気がついてるだろう。相模さんは私の赴任より早く異動になってしまって他部署の人になってしまった。へんに特別な人になってしまったから心細くはあったけれども、縋ることはできない。いい機会だったと思う。
こちらへ来て知ったこと。思ったより、日本人は日本人で固まっている。
初の海外でワクワクしていたあたしは拍子抜けだったのだけど、最初の観光気分期間を過ぎたら納得した。遊びに来るならともかく、一緒に仕事するとなると、考え方の違いが如実に表れる。それでも仕事は目的が一緒だからなんとかなる。むしろ楽しくやれる。けど、プライベートまで一緒にいたいかというと、うーん、という。
いいとか悪いとか、差別とかじゃなくて、こう、趣味の合わない人と無理して会話することに意義がない、って感じ。
情報収集も兼ねて日本人会には加入したけど、民間の駐在員は裕福な人が多くてちょっと話が合わない。いいなあ、物価差額の補助がたくさん出る企業は。しかも独身女性の赴任は民間でも少なくて、夫の話や子供の学習環境の話題はもう黙って聞いてるしかできない。それ自体は知らない世界のことで新鮮だったけど、毎週末毎に聞きたいものでもない。
そう、駐在員で独身女性というのは珍しいのだ。
独身男性はもちろん比じゃない。
長谷さんは同業とも民間とも積極的に遊びに行っていて、それは一応合コンとかではないのだけれど、なんだかもやっとすることがある。よくわからない。楽しそうな長谷さんは別に自棄な感じはせず、だけど彼氏からのメールで落ちこんだりする姿にギャップがあってどうとらえたらいいのかわからない。ただし、何も言わないのが一番なのは確実なので触れない。
そんな長谷さんに誘われて飲み会程度ならと時々つきあったところ、なんと直接誘われる機会もやってきた。それもそこそこの頻度で。言っちゃ悪いけど、選択肢が少ないからってその辺で手を打とうっていうのはどうかと思う。
ただ、もう誰にも―――なあにも―――面倒な詰問をされないのだからと食事や観光に付き合った。それなりに楽しくて、そして。
なんだかとっても面倒くさくて、途中で飽きてしまうのだ。失礼な話だ。だから1対1(イチイチ)の食事は2回目以降を付き合うのをやめた。ツマラナイ期待を持たせたら悪い。
半年もすると、自然にひとりで過ごすことが増えた。せっかくなので近隣国の観光にまわる。いろんな子供達を見る。ひとりの辛さはあまり感じない。むしろうれしい。たぶん、ずっと、なあがいたから。
ひとりという開放感、人恋しさを宥めてベッドに潜り込む寂しさ、今まで無くて、ついに手に入れたもの。
―――あたし、ひとりが好きなんだなあ。
人付き合いが苦手だと思ったことはない。接客業は身に染みついてて、職場で人間関係に惑うというのもない。けど、時計の針の音だけが微かに聞こえる静寂。過去を省みる時間。
泣こうが煩悶しようが涙が涸れようが、
平穏が、あった。
隣のドアが跳ねるような音を出して、まだパソコンを開いていたあたしはダイニングを覗いた。長谷さんが冷蔵庫を開けたところだった。
「長谷さん? あれ、今から飲むんですか?」
左手の深緑の缶が庫内灯を反射する。返答はなく、立ったままバロンを呷るので慌てる。長谷さんは普段から結構飲むけど、バロンはビールの中でもけっこうキツい。こんなふうに飲んだら悪酔いしかねない。
―――ああ、正式にダメになったのかな。遂に。
なんとかテーブルに誘導しておつまみを皿にあける。あたしが聞いてどうなるものでもないけど、聞きますよという体勢でタイガーのプルタブを引いた。しばらく何も発せられることなく、向かい合って缶をすする。
「いいな、実里さんは揺るがなくて。わたし、もう……。こんな風に押しつぶされるの、嫌。なす術なくておろおろするだけ。バカみたい。みっともない」
「長谷さんは普段がしっかりしてるから余計そう感じるんですよ。私なんて仕事あたふたしてるだけで手一杯ですもん」
「ううん、実里さんは……ひとりで平気なタイプでしょう。わたしももっとそうありたかった。あのひとが遠くなってこんなに心が持ってかれてすごく寒い。こんなのない。いっそ誰のことも好きにならない人間ならよかった。左右されず、揺るがず、自信持って」
「そんなひといないですよ」
あたしの相槌に、長谷さんは首を捻った。
「実里さん、そうじゃないの?」
え?
「わたし、てっきり……。あ、ごめんね、嫌味とかじゃないの、飄々としてていいなって……。ほら、最初の頃飲み会に連れ回したじゃない。櫻井さんとか野本さんとか結構合ってそうだったのに、誘われるの面倒臭いなって言ってたからそもそもそういう気がないんだなって」
「あー、だから女子会しか呼ばれなくなったんですね」
「そう。実際は女子会も恋バナには愛想笑いっぽかったからそっちもやめちゃったけどね。だらだら会だけ」
「いや、ありがたかったですけど……うわ私、人付き合いダメダメじゃないですか」
「そうは思わないよ。あのね、友達にいるの。男の人で、どうしても女の子と付き合うのが煩わしい以外にならなくて、でもご両親から早く結婚して孫の顔見せろ、30超えて独身なんておかしいって責められてる人。別にゲイでもないのよ? 単純に、恋愛に興味がないの。でもご両親には伝わらないの。すごく大変そうで、困ってた。なんとなく実里さんも、なんとなく、全然日本に帰らないとことか、その人と似てるなって思ってて……。なんかごめんね」
「いいえ、なるほどなって、今腑に落ちたとこです」
「え、それはそれでまずかったかな」
「長谷さんが気にするとこじゃないですよ。なるほどなあ……。この際だから訊いちゃいますね。長谷さんは、彼氏の人が好きなんですね」
「ふふ……。好き、とか、なんか久しぶり。そうだね、付き合いが長くてよく言う『空気みたいな』ってなってたけど、やっぱり空気じゃない。伝え合うものだよ。反響して反射する。そこにいるの。言葉が、熱が、還ってくる……巡る……そういう……。比翼でなくてもいい。でも隣にいて欲しい……。声を返して欲しい。どうしよう、わたし、こんなに彼が必要だなんて知らなかった……」
ああ。
これが、恋を、誰かを愛した人の言葉なのか。欠損に泣く長谷さんが遠い。
あたしには想像がつかない。なあにえぐられたのとは、きっと全然似てない。
「もう駄目なんですか」
「駄目みたい……カメラは繋いでくれないし、メールは意味不明だし」
「その人じゃないとダメなんですか」
「わからないわ……。いつか癒えたら、次へいけるかもしれない。でも今は駄目。無理……」
「じゃあ、あと半年、任期満了までがんばりましょう。癒えるかもしれないし、どうしても無理なら日本でちゃんと顔を合わせて再開するか終わりにするか話し合ったらどうですか」
俯いた長谷さんからクスリと笑いが漏れる。まあ、やっぱりね。
「そんなスマートにいかないでしょうね。逃げ回る人を追いかけるのは精神力がいるから……。たぶん向こうはもう、充分追いかけられたと思ってるでしょうね」
「そうですか」
あたしの助言なんて所詮こんなものだ。だから人の恋バナは愛想笑いするしかないのだ。あるあるの共感もできず、建設的かなという案はたいてい的外れだ。
わかった。
東間さんと会っていた頃も、彼を「愛して」はいなかった。それはわかってた。ドキドキだってしていない。見合いだから、好ましいというだけでいいと思っていた。そのうちそういう気持ちが芽生えるのだと漠然と。けど、たぶん、そうじゃない。
あたしは誰にもそういう感情が持てない人間のようだ。
家のことが遠くなり、自分だけの未来を考えると、結婚に何の期待も無いことがはっきりとわかった。デートはそれなりに楽しくても、その先のお付き合いに「面倒」という感情しか持てない。自分がどこかおかしいのか、まだ出会うべき人間に出会ってないだけじゃないかと煩悶もしたけれど、結婚どころか交際ですら食指がうごかない。「それなりに楽しい」の上を求められるのが絶望的に苦痛になる。
そういうことなのか。
仲のいい両親を持って、愛情過多な兄を見て、自分もああいう家庭を作るのだと思っていた。信じて、信仰していたと言ってもいい。大きくなったら結婚して、子供を産んでと、漠然と。
ほわほわとした《家庭像》はあるのに。
あたしは誰にも恋ができない。
なあに、あんな形で抉られたから、トラウマになっているのかとも考えたこともある。けど、もっと前から。あんな、あんな「どうしてでも手に入れて誰にも渡さない焦燥」を目の前で見てきて、いまここでこんなに仕事ができる優秀な人がたったひとりの喪失によれよれになる姿を目の当たりにして、ぜんぜん共感できない。あたしには、《好き》が理解できてない。
そして人類にはそういう人種がいるってこと、やっと知った。おかしいなって思ってたことが腑に落ちた。あたしが変なんじゃない。他にいるならあたしだけじゃない。
揺らぐし左右されるし自信なんてないけど。
凪いだまま、生きていきたい。
やっとわかった。あたしの希望はそこにあった。
なあが今でも好きだ。
でもなあじゃなきゃダメだなんて気持ち、どこにもない。
誰にも。でもそれは。
―――あたしがおかしいんじゃ、ない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます