3-2

 地元で見合いは諦めたけれど、ホントはさっさと結婚する予定だったんですよね。そんな話を職場でしたら、「私の友人を紹介しようか」と上司の相模さがみさんに声をかけられた。真面目に結婚相手を探してるので、真面目な実里なら紹介できると。相模さん自身は二児の母親だが、同い年のそのひとは独身なのだそうだ。歳はだいぶ上になるけれど、いい話だと受けた。


「もうおじさんだけどいいの?」

「特にいやとかないです。年の離れた兄がいるからかもしれません。ブラコン気味なのかも」


 結局大学でもなにもなかったし。入院入局後も同期のそんな話がちらほら流れてきたけれど、あたし自身は特になにも。なあの相手だけで必死だったとも言えるけど、人からなにもアクションがないのはつまりそういうことだ。むしろなあの判断基準がおかしい。


「なら逆にいいのかな?」

「はい、よろしくお願いします」

「しかし、そんなに若いのに結婚したいものかね。珍しいね、仕事辞めたいんじゃないよね?」

「違います、辞めません辞めません!」

「そりゃよかった。君1人採用するのに使った費用がやっと回収できた頃なんだから、がっつり働いてよー」

「辞めませんよ、これからって時に。昔からの夢だったんです。いろいろ違っちゃったけど、早く結婚して両親を安心させたくて」


 相模さんにへんな顔をされた。


「結婚願望とは違くない?」

「そうですか?」

「きょうび結婚て誰かのためにするものじゃないよ。それが失敗したとき尚更後悔が大きいでしょう。まあ、あいつなら後悔も少ないと思うからいっか。じゃあ、席用意するね。いつが空いてるかな」

「週末はだいたいいつでも。残業なかったら、平日でもいいですよ」

「それは管理職わたしへの当てつけか。まあ向こうも帰りには無理だから、週末かな」

「はい」


 親には黙っていようかと悩んだけれど、もし本当に結婚となってから年齢に驚かれるのもなんなので軽く伝えることにした。浮いた話ひとつない娘にやきもきしてる母よ、安心材料にしてください。ただし兄家族には言わないようにと釘を刺す。破談するかもしれないしとごまかしたが、なあに知られないためだ。一緒に暮らしてないとはいえ、結花さんから流れる危険性がある。


 なあの仕事は曜日があんまり関係なくて、割と節操なく引き受けてるらしくそれなりに忙しそうだ。実年齢より幼さが残るなあは、見せてもらったカタログでは甘さがより引き立てられ、身内ながら写真写りの良さに感心する。モデル業につくには身長がそんなに高くないから、大ブレイクはしなさそう―――そこまで大きな仕事はこなさそう―――だけど、しばらくはやっていけそうだった。


 なあは、うちに来れば相変わらず甘えたなのだけど、働き始めたことで自信のようなものが現れてきた気がする。学生の頃の、ふわふわ感がうすれてきた。


 やっとここまできたなあ。


 ゴロゴロと懐いてくるなあを褒めながら、あたしは逃げ出す準備に入る。




 東間とうまさんとの初顔合わせは、3人でちょっといいランチになった。日に焼けて少しふくよかな、笑顔の柔らかな穏やかな人だった。笑うと目尻に皺がよって、それがまた人柄の良さを顕していた。


 2人だけの初デートは科学博物館と東京国立博物館。科博は兄に連れられて来て以来で懐かしかった。風洞実験や大きな電気コイルに思わず歓声を上げ、笑われた。東博は日本史にそれほど造詣のないあたしでも知ってる展示が多く、それでいて東間さんの裏解説は初耳なものばかりで、充実した時間になった。大学時代、延々と教授達の知識の泉からトンデモまで浸っていた気持ちが甦る。仕事絡みで得る知識とは違う、役には立たなくても新しい世界を浴びることが楽しい。


「海外でひとりでいると、つい趣味に情熱をかけ過ぎてしまってね」

 苦笑気味に語る東間さんはとても好ましいと思う。


「こんなとこ連れてきて、若い女の子じゃつまらないかなとも思ったんだけど」

「そんなことないです。すごい楽しかった。ありがとうございます。就職してからこういうところから遠ざかっていたの、忘れてました。いいですね、博物館デート」


 一日中歩き回って、ヘトヘトだったけど夕飯も話が尽きなくて、駅で別れる時にも名残惜しさをお互い感じているのが伝わった。



「まお、最近機嫌いい?」

「そう?」

「うん、なんか笑ってる。まおかわいいから、笑ってるのいいよ」


 なあみたいな子に言われても複雑だ。あたしよりずっとかわいい。あたしの顔は素朴とかあっさりと言うんだと思う。


「なあも最近楽しそうだよ。仕事、ちょっと不安だったけど、合ってたんだね、よかった」

「うん、向いてるみたいだ。カメラの人もメイクの人もすごい面白い。俺なんだけど俺じゃないみたいで、すげーってなるよ」

「あは」


 事務所の先輩がチャイルドモデル出身で一度挫折した話とか社長の仕事選びが節操ないとか、学生時代が嘘のように他の人のことが話題に出る。うれしい。本当はこの気持ちを家族みんなで分かち合いたい。だけどなあと家族の前にいるのは苦しくて、結花さんがなにか言い出すのが怖くて、もう帰省は極力避けるようになってしまった。あたしが帰るより、なあがひとりで帰ったほうがお店の売上げに貢献できるし、春菜も風紅もなあが帰るのを楽しみにしている。お母さんの催促は来るけれど、濁して流して見ぬ振りをした。なんであたしが後ろめたいのか納得はいかない。途方に暮れるけれども、きっと後少し辛抱すれば。


 3年、この茶番につき合った。


 もういいでしょう、お義姉さん。愛せなかったけど、なあはもうひとりでやっていける。会社の先輩や社長さんのことを楽しげに語るなあは、しあわせになれたと思うんです。



 だからもう、解放して。この呪縛から。





 3度目のデートで続けるかの結論を出す。なんとなく、そんな空気がお互いあった。別に正式なお見合いじゃないけど、礼儀だとそのへんだろう。


 今日も国立新美術館とサントリー美術館を堪能して、美術と生活と保管と文化についてをいったりきたりとりとめなく話題が続く。広めのタヴェルナでクラフトビールとピザを片手に宗教や経済や政治に利用されながらもしたたかに美を紡ぐ人類の行く末まで飛んで、一段落した。


 落ち着くなあ。相模さんにとっても居心地のいい友達なんだろうなあ。

 ふと、横切った思考が口を突く。


「もしかして、相模さんのことが好きでした?」

「そういうことは気がついても言わないのがマナーじゃないかな」

「ご、ごめんなさい……」

 慌てて口を押さえたけど、今更だ。耳が熱い。


「昔の話だよ。相模が相模じゃなかった頃のね。ちゃんと告白しなかったばっかりにちゃんと振られなくて、ずるずる引っ張って、やっと諦めたのに今度は独身を理由に長い海外出張にだされて、こんな歳になってしまって」


 苦笑ぎみに語る東間さんにつられて笑ってしまう。笑い話にできるのはいいことだ。この人はいいひとだ。穏やかな空気に和やかな気持ちになる。


 そう、昔から地味で真面目だけが取り柄の自分に相応なのは、こういう穏やかな大人だ。なあのような、自分本位で察せなくていいかげんな子供には疲れた。相模さんの目は正しい。このまま付き合って、結婚するなら、きっと仲睦まじいほのぼの家族が作れるだろう。


「それで、舞生さんはいいのかな」

「仕事は辞めませんが、大丈夫ですか」


 海外赴任で妻が残るのはできるのだろうか。

 たった3年前だ。あんなに必死に、みんなを裏切ってまで手に入れた職を、手放すなんてできない。


「相模の部下って紹介された時点で覚悟の上だよ。それに、妻同伴でないと白い目で見られるっていうのは一部の国で、治安が悪い国ではそうしてる人も多いよ。奥さんもだけど、子供も心配だから」

「ああ」

 そうなのか。


「そして商機というのは、後者に多い」

「つまり、そういう赴任が多いんですね」

「そういうことだね。だから僕もしばらく日本でゆっくりしたいよ。―――相模から、15も下の女の子っていわれて、うおっマジか、しかし正直若者のスピードにはついていけないんじゃ……と思ったけど、舞生さんはおとなしくて利発的で、話してて楽しいよ」


 褒められてるのかなんだか微妙なラインだけど。まあ、わかる。たぶん、地味だってことだ。


 でも東間さんの目は優しげに弓を描いていて、目尻の皺は笑いジワで。

 ―――今日はこのまま、一緒にいることになるんだろうか。実感はわかないけど。いい歳した大人が手も繋がないような交際で済むわけもない。

 少しの沈黙が下がって、お互い同じことを考えたのがわかる。


「まいったな、僕はこのとおり、あんまり女の子をリードしたことがないんだ」


 思わず笑ってしまったけど、それが東間さんのユーモアだともわかる。穏やかで優しい人。

 あたしはしあわせになるだろうか。このひとに愛されるだろうか。愛するんだろうか。燃えるような恋愛なんてしなくていい。憧れたこともない。ただ昔、思い描いたような―――



「まお!!」





 そんな莫迦な。


「あんたみたいなおっさんにまおはやらないから。まおは俺のものだよ」


 店内が静まり返る。厨房でする揚げ物の音がここまで聞こえた。


「なんでここに!? お母さん喋ったの!?」


 結花さんだ。根拠はないけど直感が叫ぶ。


「まおのスマホに追跡アプリ仕込んである。彼氏が浮気性で困ってる子が教えてくれたやつ」

 一瞬、目の前が真っ暗になる。心の底から意味不明だ。いつのまに、なんのために。ストーカーか。


「君は?」

 おっさん呼ばわりされたにもかかわらず東間さんは穏やかに訊ねた。


「あんたなんかよりずーっとまおを知ってる人間だよ。一緒に暮らしてたんだからな」

 勝ち誇ったようななあに眩暈がとまらない。


「弟さん?」

「甥っ子です! なあ! 失礼でしょ!?」

「まおの全部を知ってるのは俺だけだ。あんあん泣かすのも俺だけだ。あんたなんかにやらない。全部全部俺のだ」

「ヘンな言い方しないで!」

「ダメだ! 勝手に結婚するとか、そんなの許さない。まおは俺のだよ。約束したよ、誰にもやるもんか!」

「!? 離して!」


 茫然とするあたしの腕を掴んでなあが走り出す。引き摺られて足がもつれる。転びそうなあたしに、それでもなあの歩みは停まらない。カバンも上着も置いてきてしまって、取りに戻ることもできない。


「まおバカじゃないの! なんで見合いなんてしてんだよ! なに勝手なことしてんだよ!」


 路地で足を止めたなあが、へたり込むあたしをビル壁に追い込む。


「なあこそ……なんなの……なんの権利があって、あたしの邪魔するの……」

 形式ばってこそないが、上司のセッティングだ。こんなかたちで放り出していいわけない。


「わかってないのはまおだ。なんで俺のこと放り出すの? ずっと仲良くしようねって言ったじゃんか。母さんが忙しくてもあたしがいるでしょって言ったのまおじゃないか!!」


 そんな、昔の、子供が子供を慰める言葉がなんだというのだ。


「そんな、ことで、」


「全部くれるってまおが言ったんだ! まおは俺のこと好きじゃなきゃ駄目だ!! なんでだよ、なんでいつも置いてくんだよ、イミわかんねえよ!!」

「あたしだって、説明したじゃない、なあとは結婚できないって、あたしにはあたしの人生設計があるって」

「まおはおかしいよ、言ってることムチャクチャだよ」

「なあの好きにすればって言ったよね、なんであたしがあたしの好きにしちゃいけないの?」


 おかしいのはなあだ。14歳が8歳にあげると言ったのは、そのときなあが持ってなかったもので、全部なんてただの比喩だ。そんなもの根拠に、何年も何年も、同じ問答を繰り返して。


「全部俺のだよ。まおがくれたんだ。勝手に逃げるのは許さない」


 上背も伸びて、以前よりしっかりした身体つきになったなあに、あたしが勝てるわけがない。

 財布も定期もスマホもなくて電車賃が出せないあたしの分までなあが切符を買い、あたしの部屋まで連行される。なぜか鍵を持ってるなあに、でも驚きもなかった。


 好きだと譫言のように繰り返すなあにあんあん泣かされた。





 もうやだ。



 1日軟禁され、さすがに出勤はもぎとった。どんよりと、いつもと違うカバンにかろうじて用意できた予備の荷物を入れて寝こけるなあを置いて家を出る。東間さんは当然、コトの次第を相模さんに伝えただろう。相模さんになにを言われるだろうか。スマホすら置いてきたカバンのなかで、メールも電話も受けられなかった。


 叱責を受けるのは予測のうちだ。できる限り早く登局して、早く相模さんを捕まえなければ。謝らなければ。


 その思考は読まれていたようだ。ほぼ同時にロッカー室に現れた相模さんにそのまま小会議室に呼ばれる。

 ふたつ並んだ長机に、相模さんが下げていた紙袋からあたしのカバンを載せる。血が引く。なんで相模さんがこれを。


「なんかずいぶん面白い話が聞けたんだけど、どういうことかな?」

「大変申し訳ありません。あの子ちょっとおかしいんです。兄嫁の連れ子なんですけど、もう何を考えてるのか……東間さんにもずいぶん失礼なことをしてしまって……」


「甥っ子だって? かなり若い子じゃないかって話だけど、いくつ?」


「……今、19です」


「で、してるの?」


「したくなんてないです! 嫌なんです! せっかく、やっと離れられると、なんで邪魔されて……」


 もう駄目だ。昂ぶって言わなくていいことまで口走ってしまった。こんなお堅い職場で15も上の相模さんに取り返しのつかないことを。


 ガタガタと震えが走るのを止められない。


「ねえ大丈夫?」

 大丈夫じゃない。答えられず俯く。歯の根が合わない。


「実里さん、ちょっと座ろうか。カバン置いて、私の手、握って。吸って、吐いて、吸って、吐いて」


 強引に繋がれた手の、震えが止まらないから、相模さんはあたしの膝頭でゆっくりリズムをとりながら呼吸を支配する。

 強く握られた手はやがて軽く包まれ、リズムはなだめるように余韻を残す。


 震えは止まった。涙が止まったのはそれから数十分経ってから。

 ―――お母さんみたいなマネをさせてしまった。

 申し訳なくて恥ずかしい。



「んー、ざっくりまとめると、もっと前に肉体関係になって、何度か逃げ出したものの諦めて、今回は結婚して逃げ切ろうとしたのにバレて追いつかれたってとこ? 一体いくつの時の話?」

「…………」

「ここまで言ったら全部言いなよ。私も顔を潰されたわけだし」

「……私が20歳であの子は14歳でした」


 14歳。いまでも目眩がする。あたしがなあと出会った歳だ。自分がその歳に、あんなことしようと思ったことなかった。行為は知っていたけれど、我が事とは思えてなかった。いつかの未来の、ぼんやりした話だった。なのになあは8歳にして、いつかあたしを『全部』手に入れるつもりでいたのだ。その手段を知っていたから。


 なあのことになると、涙が溢れて止まらなくなる。なんであんなふうに育っちゃったんだろう。あのこが不憫だ。あのこはおかしい。土台がおかしいことに気づかないまま、愛情と常識を上乗せしたって崩れて当然だ。しかもあのこは莫迦なのだ。


「……すいません、職場で泣くなんて……」

 もう辞めます。相模さんを直視できずに俯いて呟くと、「ああ、ねえ」と返された。


「気持ちはわかるよ。恥ずかしいし、立場ないよね。とはいえ、職務上のミスでもないし、私的な紹介だし、他の誰も知らないんだから、辞めなくてもいいかなあ。東間には私から断っとくから」

「そんな」

「断るでしょ? そんな瘤付きで東間と付き合われたらこっちが困る」

「申し訳ありません……」


「しっかし14歳って……ウチの上の子12歳だけど、とてもそんなこと考えられないわ~。ただのゲームバカで奇声上げて転げ回ってる猿よあの子」

「……私が誘ったって思わないんですか」


「実里さんが? ないない、一昨日の話も聞いてるし、もう3年も見てるし、今だって逃げられなくて泣いてるんでしょ? こんな真面目な子が裏では子供にちょっかい出す変態だなんて思わないわー」


 違う涙がどっと溢れた。まさか職場の上司に理解を示されるとは思ってもみなかった。12歳の親に気持ち悪いと言われてもおかしくないのに。柔らかい眼差しにもう何も言えない。


 涙で歪む視界で、相模さんが困ったように笑った。


「実里さんはその子が捨てられないのね」





 あの時、あの瞬間、世界がひっくり返るくらい憎めれば良かったのに。





 そのとおりだ。なあがかわいい。かわいそう。こわい。憎悪よりも恐怖が、恐怖より憐憫がぐるぐると渦巻いて、足を取られて全力で逃げ出せなかった。


 あのこがかわいい。


 あのこがもっと、まともな愛情表現ができる子だったら。

 状況や立場をよく考えて、自分を受け入れてもらうために努力する子だったら。


 あんな一方的に都合よく押し付けて、あたしがどう思うか気にもかけないで、思い込んで。なあはあたしを好きだといいながら、あたしのことなど見ていない。


 そんなの、どんなかたちだって応えられない。


 だけどそんなふうにしか考えられないなあが不憫で捨てられないのだ。


「でもそれ、どこまでつきあうの? いや、実里さんがいいならいいんだけど、いいとは思ってないんだよね?」

「わかりません……」


 あのこを掬い上げることもできずに引きずられて、自分の気持ちもぐちゃぐちゃで。遂に他の人まで巻き込んで。


「あたしが莫迦でした。覚悟が足りませんでした。こんなので、東間さんに迷惑かけて。東間さんはいいひとです。あたしなんかよりもっといいひとが見つかります」


「実里さんは自分のこと地味だっていうけど、私から見たら君は充分いい子だしかわいらしいよ。東間もそうとう気に入ってたんだけどねえ」

 勝てそうにないって言ってたから、と相模さんは肩をすくめた。



 東間さんとはもう会わないと伝えると、なあは見るからに安堵して、「やっぱりまおはまおだ」と頬ずりされた。なんでこんな言葉が信じられるんだろう。昨日の今日で。いや嘘じゃないけど。


 そう、このこはどんなときもあたしを信じる。疑わない。疑心暗鬼で殴ったりしない。無理矢理連れ戻された一昨日だって、どれ程怒っていたかしれないのに、痛みを伴うようなことは一切無くて。痛かったのなんて初めの数回だけ。ずっとなあは優しい。あたしが望んでないことをするというだけ。











 職場の先輩が結婚するそうで、なあは初めての招待にウキウキしていた。お兄ちゃん達の時はあまり覚えていないらしい。まあ8歳の男の子じゃそんなものか。袱紗の使い方、御祝儀の渡し方や神前式の作法、披露宴の振る舞いやテーブルマナーを叩き込んで、職場で手配したというスーツで出かけていった。細身ななあにすっきりと沿った細めのストライプが入った濃淡のあるグレーはなあの瞳の色とおそろいだった。


 だのに、引き出物を下げて帰ってきたなあはへんな顔をしていた。


「ただいままお」

「あれ? こっちに来たの。おかえり。いいお式だった?」


「うん。上杉うえすぎさんすっげー幸せそうだった。にっこにっこしてあんな上杉さん初めて見た」

「へえ。なあの話だと割と俺様っぽいイメージだったのに」

「嫁さんは同い年のひとで、高校の同級生だって」

「じゃあながいお付き合いなんだねえ」

「えーと、2年前の同窓会で再会したって言ってた……ような」

「ああ」


 酔いのせいか、少しバランスの悪いなあから上着をはぎ取る。ハンガーに掛けようとして引き留められた。掴まれた上腕を軸に振り返る。



「ねえまお。あのさ、あの……。もしかして今、しあわせじゃ、ない、の?」




 初めて。


 なあが現実を見た。




 口許がほころぶ。


「うはあ……よかった。自分で気がついたんだね」

 あたしの笑みに怪訝な表情を浮かべたなあは、続いた言葉に青ざめた。上着をかかえたまま、掴まれた腕からなあの手を外す。


「長かったな。でも一生気がつかないかと思ってた」

「なんだよそれ、なんでだよ」


 狼狽えてまた、今度は両腕を掴んでくる。自分が当てたくせに、慄いて焦るなあがおかしい。


「当然じゃん。なんで強姦された相手と半同棲なんて暮らしでしあわせだと思うの。ちょっと考えればわかるでしょ」


 強姦という言葉が強烈だったのか、青ざめたなあは首を振った。バカな子。7年前よりちょっとだけ成長したなあに7年前の行為をなんて言うのか叩きつけた。


「もういいよね。好きだなんて嘘ばっかり。なあが大事なのは自分だけでしょう? あたしは自分を蔑ろにするの、疲れたよ。もう解放して。それとも、嫌? 口先だけの言葉でも欲しい?」

「口先……、だけ」

「なあが好きだよ。全然嫌いじゃないよ。だけどね、なあはあたしの言葉、聞いてない。あたしがいつ『好き』だって言った?」


 微妙なニュアンス。それはちゃんと聞き分けられるものだ。目を見て、表情を見て、あたしを見ていれば。


 なあは自分しか見ていない。

 見てなかった。


「まおだって、じゃあなんで」

 焦りと苛立ちを含んだ声色に、ほほえみ返す。


「好きならムリヤリしていいの? あたしは嫌だって、嫌だって何度も言ったのに」


「……」

 怯んで、傷ついた顔で、あたしを見下ろすなあ。


「でももういいよ。こんなのたいしたことじゃない。そうでしょ。なあもそう思ったんでしょ。ちっちゃいとき」


「なんで知って……?」


「自分で言ってたよ。詳しい話は別口だけど。だからね、なあ、好きだけど、もう終わり。なあが気付いたなら、付き合う必要ないよね。あたしは今、なあと同じ目に遭ってるの」


「そんな、だって、違」


「ちょうどね、海外転勤が決まったの。また騙し討ちで引っ越すことになるかなって心配してたけど、ちょうどよかった。さよなら、なあ。もうしばらくこのうちにはいるけど、向こうに行くときは全部処分するから、なあも自分のものは持ち帰って」


 さよなら。

 打ちひしがれて、声もないなあ。かわいそうだな。


 ―――あたしはもう、傷つけてばかりだ。


 なあが、産まれたときからあたしの弟だったらよかったのに。お兄ちゃんみたいにかわいがって、いっぱい大事にして、お姉ちゃんと結婚するって言われて家族とは結婚できないって打ちひしがれてそんなこと無かったようにある日姉ちゃんうざいって言いだすような反抗期がきたらよかったのに。


 好きだよ、なあ。


 でも、なあの望むまおにはなれない。





 なあと離れるために、相模さんが提案したのは海外転勤だった。相模さんの推薦のほかに、TOEICの提出や面接、テストを受けて合格をもぎとっていた。クリアした今は事前プログラム学習や研修や各種申請作業。今の家を引き払って、荷物を送る。なあの荷物は取りにくるようにLINEしたけど、返事がなかったので宅配便した。




 ひとりだ―――自由だ。


 日本より暖かい空気の中で、伸びをした。

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