3-1

 人事院に採用された。国家公務員だ。配属はここから更に遠く、キャリア程はげしくないだろうけど転勤もある。これでもう、そう頻繁にはこられない、ハズだ。なあはバイトもしてないし、家の小遣い程度では乗換の多い交通費がおいそれとだせるわけがない。両親にも兄夫婦にも、もう働きだしたから以前のようになあの面倒はみられない、高校の勉強は無理と、遠まわしに来させないように伝えた。


 合格発表から3月まで、ずっと嘘を重ねて、「卒業したら帰る」を翻したのは部屋を引き払う直前だった。両親は反故を嘆き、それでも認めてくれた。兄も驚きはしたが、優秀だと喜んでくれた。結花さんもすごいねと言ってくれたけれど、風紅ふうかの世話でそれどころではないようだった。


 なあは。


 詰って、詰って、罵って、―――傷ついていた。


 でも傷つけたのはなあが先だ。あたしは悪くない。

 悪くない。


 あたしが合同研修のあと正式配属になり、一般常識や特有の言い回しや人間関係やらを構築してるあいだに、なあの生活態度が悪化したそうだ。

 フラフラと帰ってこない。成績は墜落大破。まあ予測の範疇だ。あたしが放り出したんだから。


 騙した手前、なあと顔を合わせるのは嫌だった。落ち着くまで引き取ってくれないかと打診されたけど今のこちらはただのワンルームマンション。大学の時は古い2Kだったけど、今は利便性重視で駅近な分、狭い。住まわせる場所なんてない。だいたいここからじゃ、なあの高校は通えない。大学3年のとっっっっても忙しい時期に、なあの高校受験に付き合ったのだ。中退なんてされたら泣く。高校に受かって浮かれるなあを、自分の採用試験のために押し留めて、それでも合格後―――時期を誤魔化しながら―――は卒論もあるのに元の木阿弥になっていたのだ。




 頑なに断り続けていたのに、遂に折れた。折れざるを得なくなった。


 7月終わりの土曜日、学生は夏休み。公務員が9時5時なんて誰が言ったんだという日々の疲れを解消すべく爆睡していたあたしの部屋に、インターホンが響いた。


「結花さん。どうしたんです?」


 寝起きのあたしはかなりよれよれではあったが、実家でもそんな姿を見られているので迎え入れる。相変わらず綺麗な人だ。3児の母には見えない。

 結花さんは出した麦茶を一口含んだ後は、もぞもぞと目線を散らしていた。


「なあのことですか? あたしはもう、面倒みらんないって言いましたよね」

 せっかくの休みを邪魔されて、少しトゲのある声が出てしまった。うん、大人気ない。でもここは引けない。自分たちの子供のことは、親にがんばっていただきたい。


「ねえ舞生ちゃん、なあと、夏生と、『寝た』よね?」


 胃が下がる。


 鳩尾に突然石が現れて、内臓を圧迫する。あたしの顔色をどう読んだか、結花さんはいやらしい笑いを浮かべて重ねた。


「一緒にいるの見ればわかるよ、あの子の目が違うもの。ね、あの子、好き? かわいいでしょ、どうだった? うまくできた?」

「……母親が言うことじゃないと思いますよ」


「いいじゃない、あの子ホントに舞生ちゃんが好きなんだもの、子供の幸せを願っちゃいけない? ね、何が原因か知らないけど仲直りして欲しいの。舞生ちゃんが戻っておいでって言ってくれれば、すぐ帰ると思うの、ね、迎えに行ってくれない?」

「それは親の役目です」

「あの子は舞生ちゃんの方がいいわよ、あたしのことなんか、もう嫌いなんだわ」


 なにを言ってる。


「なあはずっとお義姉さんが好きですよ。あたしは代わりです。春菜達がかわいいのもわかりますけど、なあももっと構ってやってください」

「だって……」


 寂しげな、卑屈な、よくわからない影が差す。


「もうどうしていいか、わかんないんだもん……」


 そういう、

「放棄すること、言わないで。結花さん、もっとあの子を見て。お兄ちゃんと一緒に話し合って」


「言えない」


「なにがですか」


「直くんに軽蔑される」


「……どういうことですか?」


 話が見えない。忙しなく指を組み直し、麦茶のグラスをチラチラ余所目する結花さんにイライラする。この人なにしに来たんだろう。お兄ちゃんに言えないことなんて、あたしにだって言えないんじゃないか。


 じっと見つめていると、突然形相を変えて睨まれる。なにもかもあたしのせいだと言うように。続いた言葉に耳を疑う。


「どうせあたしが悪いのよね! だってしょうがないじゃない、あの子ほんの小さくて、まともな仕事じゃ働きにも行けなくて、預けるお金もなくて、すっごく困ってたんだもん!!


 お金ないってサイアクだよ、死んじゃうか、なあ捨てるかってぐるぐるして、そしたらあの子を貸してくれって! ね、死んじゃうよりいいじゃない? 『泣かなくていいこですね』って褒められて、嬉しくて、お金も手に入って、なあがいなければお店にも出れて、すごく楽になったんだもん! なあが嫌がったことなんて一度もない! あたしは悪くない!」


 ……よくわからない。支離滅裂だ。


「『貸す』ってなんですか」

「……貸すは貸すよ、レンタル。なあはかわいいでしょ、あの子が好きだって人、いっぱいいたのよ。人気者だったのよ。お金だって随分稼いだんだから。なあはあたしの自慢の子なの。ね、お願い、なあは舞生ちゃんが好きなの、舞生ちゃんも好きになってよ、あの子をしあわせにして」


 血が引く。奥歯が浮くような不快感に、ぐっと噛み締める。

 嫌だ。聞きたくない。連鎖する想像を止めたい。


「なあを……生け贄にしたんですね……!」


 一番、肝心なこと。結花さんは誤魔化して、でも、嫌でもわかった。


 なあは。


 結花さんの笑みは怯えと怒りをブレンドして、テーブルを越えてくる。

「なあを助けて。ひどいじゃない、あんなにあの子を夢中にさせておいて、なんで捨てたの?」


 それはあたしの役目じゃない。ひどいのは結花さんだ。……捨てたんじゃない。置いてきただけだ。なあには帰る場所がある。


「ね、なあを愛して。あの子に応えて。舞生ちゃんならできるわ」

「なにそれ……」


「なあは舞生ちゃんが好きなんだもの。あたし、直くんにしあわせにしてもらった。タイヘンだし、昔の方が楽だったのにって思うときもあるけど、春菜も風紅もかわいくて、直くんに拾われて、すごくうれしいの。しあわせなの。同じことを、舞生ちゃんがなあにしてくれれば、絶対いい」


「そんなのおかしい」

「だってしあわせになりたかったんだもん。だから直くんには言わないで。壊さないで」

「ずるい」

「舞生ちゃんは言わないよね、お義父さんやお義母さんを悲しませたりしないよね」

「ずるい」

「春菜や風紅を泣かせないよね。昔のなあみたいにさせたくないよね」

「ずるい」

「舞生ちゃんは賢いもの。一番いい方法だってわかってくれるよね」

「ずるい」

「舞生ちゃんがなあをしあわせにしてくれればいいの。一番でしょ。円満解決でしょ」


 ずるい。そんなこと、あたしに押しつけないで。責任とって、結花さんが救うべきだ。母親なんだから。


 ひとしきり喚いて、結花さんは帰っていった。長く秘めていた自分の罪を告解してすっきりして。

 罪をあたしに押しつけて。




 一日泣きすぎてぼんやりしたまま朝を迎えて、しょうがないのでなあの番号を呼び出す。


 何度もリダイヤルして、やっと寝ぼけたなあを捕まえた。今いる場所の住所はわからないというのでケータイのGPSの使い方を教え、電車を乗り継いでどうにか辿り着いた。


 やたら大きなマンションで、オートロックを抜けるとエントランスにはコンシェルジュデスクがあり、まるでホテルのようだ。エレベータで12Fまで昇り教えられた号室に辿り着くと全裸のなあが出てきた。引く。パンツくらい履け莫迦。


 しかも濃厚にセックス臭がする。慌てて上がると半開きの扉の向こうに半裸全裸の男女が6人ほど眠っている。もう昼だというのに。


「ああ、まおだ。ほんとにまおだ」

 後頭部に深呼吸するなあの吐息がかかって電撃をおこす。背中から回される腕を振り払って押しやった。


「シャワー浴びて、着替えてきなさい。外で待ってるから」

「ここで待ってればいいじゃん」


 首を捻るなあに「あの人達が起きてきたらこわい」と告げると、それ以上は推されなかった。


『なあ確保。今日はウチで引き取る。明日帰す』


 15分ほど待っている間に兄にメールして、上司に『昨日から高熱が出て下がらないので明日は休みます』とメールして―――有休もまだないのに―――、玄関を出てきたなあの手を引いてずんずん歩く。なんとか引いてた涙が今にも零れそうだ。


 ああ、連れて帰りたくない。強制送還したい。億劫だ。

 でも、そんなわけにいかないのは、あの部屋を見て、で、諦めた。


「まお怒ってるの? なんで?」

「バカ! もっと自分を大事にしてよ! あんなのおかしい!」

「だってまおじゃないなら誰だって一緒じゃん。彼女なんて面倒だし、みんなでわいわいするの楽しいし優しいよ。俺、上手だって褒められた」


 情けなくてどうしようもない。なんで? あたしが養育したのに、なんでこんな倫理観になっちゃったの?


「……とにかく、今日は家じゃなくてウチにきなさい。明日は病院行くからね」

「病院?」

「言い方悪いけど、どんな病気持ってるかわからないじゃない。1対1で付き合ったって、片方が初めてじゃなかったら可能性があるんだよ。複数でしかも彼女でもないなんて、どうかしてる」

「……?」

「性病!」

「あー、あー」

 ピンとこないのか、なあが小首を傾げる。


「ずっと大丈夫だったのに」


「…………」

 バカ過ぎて言葉も出ない。



 お腹が減ったと訴える子供を駅ビルのパスタ屋で黙らせ、自宅の玄関を跨いで安堵した。


「寝足んない、寝るー」

 了承を待たずに人のベッドに潜り込み、そのまますうすうと寝息をたて始めるなあ。


 もうやっつでも14でもない、大人の入り口に差し掛かって、だのに相変わらず寝顔はあどけなさと透明さが混在して、天使か妖精のようだ。とても16歳男子にする形容とは思えない。なのに中身は途轍もない莫迦で。


「どうしてこうなっちゃったんだろう……」


 自分の声が涙混じりでげんなりする。1Kの廊下にうずくまって、眦の熱が去るのを待った。



 日曜の午後は眠る子供を起こさないように、静かに、過ぎた。

 けれど、目を覚ました子供は悪魔だった。


 ベッドの脇をそおっと通ったつもりが、実は起きてたなあに服を引っ張られた。割と容赦なく引かれて受け身もとれずになあの上に崩れる。


「あ、ごめっ」

 絶対にあたしは悪くないのに謝罪が口をついてでて、そんなあたしを愉快そうに転がすなあ。ふんふんと鼻で耳元の髪を押しのけ、かぷりと耳朶にかみつかれる。まさか、また?


「ちょ、やだ! 昼間のこと、聞いてなかったの!? そんなどんな病気持ってるかわかんないような状態で触んないで!! もうホントに止めて。無理。なんであたしなの? 彼女が面倒ってなんなの? セックスができればいいの!? そんなふうに育てた憶えないよ……。もっとちゃんとしてよ……」


「あれは寝床のためだってば! まおが駄目で他の人も駄目ならどうすればいいのさ!」

「ひとりで寝なさいってば」

「なんだよ! できないからこうしてるんじゃないか! ホントにしたいのはまおとだけだよ、好きだからって言ってるじゃん! 好きな人とするのが『ちゃんと』『普通』だって、まおが言った! 間違えてない! なのにまおがちゃんとさせてくんないんだろ!?」


 一度は引いた涙がとたんに溢れ出す。


「あたしのせいみたく言わないでよ!! 根本的になあは間違ってる!」

「なにが!?」

「あたしとあんたは叔母と甥で、あんたは高校生で、16歳で、青少年保護育成条例に引っかかるの! 犯罪者はもうやだーッ!」


 もう泣き声混じりになってるあたしを灰色の目を見開いて首を傾げるなあ。


「犯罪者? 好き同士なのに? 血も繋がってないのに?」

「なにが『好き同士』。当然でしょおっ! 誰がそんなの信じるの。てゆーか、あたしが誘ったんでしょくらい言われる。見目のかわいい男の子を騙したんでしょくらい言われる」


 どこの誰がなあの言葉を鵜呑みにして、あたしが被害者だって認めてくれるというのか。男の子と言ったって、線の細い14歳だ。本気で嫌なら抵抗できただろうと言われれば逃げ場はない。そもそもこんなこと公にしたくない。あたしもなあも傷付く。家族全員が傷付いて、崩壊する。


「まおは俺のこと好きだよね?」

 呟いたなあに泣きながら笑ってしまう。


 好きに決まってる。でなきゃお義姉さんに泣きつかれたくらいで迎えに行ったりしない。流されてグダグダになってしまうって、わかってて。


「好きだよ。かわいいよ。でも忘れちゃったかな? いつか結婚して、出て行くって。言ったのになんでなあとすることになったのかな? なあとずっと一緒なんていられないよ。わかってるかな、叔母と甥って結婚できないよ。あたしがお父さん達を安心させたいって言った日の、その直後に、なんであんなことになったのかな? お父さんやお兄ちゃんがどう思うか、考えたことあるのかな?」


「いやだ……」


「なあは、そんなにあたしのこと好き? なんであのままじゃダメだったの? あたしたち、しあわせだったよね?」


「でも、やだ。まおはずっと、ぜんぶ、俺のじゃなきゃだめだ。約束したろ、ずっと一緒だって。まおが忘れてるのがいけないんだ、いやだ、まお、もういなくならないで」


 絶望ってこんな感じかしら。黒々と鬱々と、幕が落ちる。


「まお、ね、じゃあなにもしないならいい? 一緒に寝ていい?」

「あたしは床で寝る」


 夏だから、タオルケット1枚あれば充分だ。同じベッドなんて嫌。フローリングで身体ガチガチになるってわかってても、嫌。


「じゃあ俺も床で寝る。ひとりで寝るの、嫌だっつったろ。手だけでいいから、繋いで寝たい」

「なあはひとりに慣れなさいって、ずっと言われてるでしょ。同じ部屋ならいいじゃない」

「いやだ。まおはすぐ嘘ついていなくなる。ダメだ」

「……さっきまでひとりで寝てたくせに……」


 ふて腐れる中に必死さが瞬いて、あたしは折れる。

 バカはあたしだ。

 なあの病的な懇願に折れてしまう。

 流される自分が惨めで、愚かしくて。


 ―――会いたくなかった。




 検査の結果を聞くために、今週の水曜もなあはこちらにくることになった。保険証を持ってくるように念を押す。結構な金額がかかっている。正直全額立替は苦しい。


 少し残業して、帰ったら電気が点いている。ぎょっとしてシリンダーキーを回すと、なあが奥から出てきた。


「帰ってなかったの!?」


 兄達には説明しにくくて、診察代はあたしがだすつもりだった。前回自費で払った分の、返ってくる7割を置いたら家に帰るように言っておいたのに。


「なんともないって。心配かけてごめんね、反省してる」

 結果表をひらひらさせて殊勝な言葉を吐くなあに、警戒警報が止まらない。案の定、なあはそのまま玄関ドアにあたしを押しつける。

「なんともないからまおともできるよ。嬉しいな。いいよね」


 全然よくない。先週の諍いはそれが根本原因じゃない。


 けど、もう、反論はでてこない。いろんな感情は、凝って、下腹に沈んでいった。


 小さい頃から、あたしはお兄ちゃんのマネをして親の手伝いをする良い子だったし、ゲーム気分で万引きするような男の子達が大嫌いだったし、そんな子達が恐れつつも忍び込んでいた隣町の駅前界隈には興味がなかった。母親に「危ないから近寄っちゃダメ」と言われれば、近寄らない素直な子だった。


 結花さんがそこで働いていて、なあはそこで産まれて、そこの常識で育ったことを知らなかった。


 両親は知っていたから、兄たちの結婚に渋い顔をしていたのだ。そういうところで働いていた女の人が、うちのような薄利多売でとにかく身体を動かさなきゃいけないような仕事に馴染めるとも思えなくて。そして、あの町で産まれた子供たちがどれだけ教育水準が低くて粗野に育つものか、知っていたから。


 けれどお義姉さんは根気強い兄に支えられて、時々投げ出したり、癇癪を起こしつつも、2代目の嫁になっていった。なあも、アホでぼんやりしてるけど粗暴なところはなくて両親はこっそり安堵していたのだ。あたしが嫌がらずに勉強を教えてかわいがったので、なんとかなると踏んだのだろう。


 ならなかったよ。


 このこの笑みは生存戦略だ。


 先天的か後天的かなんて知らない。

 このこの元来の性格なんて、わからない。


 けど、環境下で、生きるため、大人に懐こくかわいがられる子になった。


 ひどいよお義姉さん。

 あたしは理解できない。ふたりがこわい。


 生活費の足しに、贅沢のために、このこが受けた仕打ちは、取り戻せない。想像つかないよ、幼稚園児や小学校低学年の男の子が添い寝で、寝るだけじゃなくて、お金をもらうなんて。


 かわいかったでしょう、8歳でだってあんな天使みたいだったから、幼かったらもっともっと。愛くるしい子だったでしょう。そんな子が自分の言うがままにいろんな、いろんなことを、




 ―――気持ち悪い。




 もうだめ。


 そういう世界がこんなに近くにあることがこわい。


 空嘔吐いて、涙が滲む。

 一週間食欲もなく眠れずに過ごして、安心して眠るには、なあを安心させなきゃダメなんだという結論に落ち着いた。


 なあをそんな世界に戻したくない。

 もう、結花さんの願望通りだ。


 でもそれってあたしが犠牲になれば留められるの? 救えるの?

 じゃああたしは?


 我慢しなきゃいけないの? こんなに、こんなに、嫌なのに、このこはちっとも気付かないのに、あたしばかりが沈黙すれば十全なの。


 捻れてる。こんなの《身喰い》だ。


 途方に暮れて、でも、わかってた。

 あたしはバカだ。


 デコルテに鼻を埋めるなあの頬を引き寄せて、初めてあたしからキスした。

「なあ、もうなんでも好きにするといいよ。そのかわり、学校にちゃんと行って、赤点取ったら出入り禁止。大学目指すなり就職するなりして。お兄ちゃん達を安心させてあげて。それだけはお願い」

「ホントに?」

「うん」


 口先の言葉なんていくらでも。身体でもなんでも好きなだけ持っていけばいいよ。もう嘘まみれで、どうにもならない。嘘も本当も見抜けないなあ。バカだねなあ。


「俺がんばるよ。まお大好き。ねえまおも」


 きれいな笑顔でねだられて、あたしは返す。オウムみたいに。

「うん、好きだよなあ。大好き」

 中身のない言葉を。


「あ、すげ、今ここにきた。心臓ギュッてした。もっと言って」

「好き、なあ、すき」

「ああ、ダメだ、たまんない」


 廊下に押し倒されて、キスが降りそそぐ。背中が痛い。性急な指が、それでも的確にうごめく。もう何度も何度も何度も嫌がるあたしをほぐしていた指だ。抵抗しなければどんどん高まる。


 なあ、ホント莫迦だなあ。


 涙が止まらない。


「なんで泣いてるの?」

「勝手に出るの。気にしないで。好きだよなあ」

「……うわ」


 一瞬すごい力で抱きかかえられて、このこの気持ちが伝わる。

 どれだけ歪んでたって、あたしのこと好きなんだね。

 なあ、かわいそうに。


 あたしは《好き》じゃないんだ。




 距離もあって、なあはそれほど頻繁には押しかけては来ず、家でも大人しくしてるらしい。なあは素直でいい子だ。夜は春菜や風紅が一緒らしい。特にふう。完全にお兄ちゃん子になってるそうだ。勉強は相変わらずらしいけど、あたしは兄夫婦の方針に口を出すつもりはない。塾でも予備校でもあちらで手を打てばいい。


 なあは大学には行かなかった。まあ、行けなかったし、高校が無事卒業できたことも驚きだったし、卒業前に就職先を決めたことも天変地異並の驚異だった。


「まおっちー、就職決まったよー。俺、モデルになったよー」

「はあ、ええっ?」


 恐れていた事態のひとつが現実になったらしい。


「スカウトとかで騙されてんじゃないでしょうね」

「違うよ、ガッコでセンセーに就職させてくれって言ったら事務所に応募しろって書類書かされた」

 まったく意味がわからない。そんな進路指導アリなのか商業高校。

「落ちたら資格取れって脅されてたけど受かったし、こないだ撮影会ってのにも行ったよ。母さんが浮かれてる」

「そう」


 兄夫婦が確認済みならまあいいだろう。いったいどれだけ仕事があるのか、生活できるのか不安になったが、そんな心配はあたしがすることではない。春菜も風紅もまだ小さいし、バイトしてると思えば、まあ。


「そんで、仕事の依頼があるからもっと出やすいところへ引っ越せって言われたんだよね。まお一緒にこない?」

 ここで2年通勤してるあたしに、なんでこんなことが言えるんだろう。


「忙しいから引越なんて無理。就職おめでとうなあ」

「ごほうびごほうびー」


 18にもなって、アングロサクソン系の血が入ってる割に幼さが残る顔で、なあが擦り寄ってくる。そのへんは3/4の日本人の勝利か。綺麗でかわいいなあ。


 なあを愛してと懇願された。

 こんなに綺麗でかわいくて、でも相変わらずあたしは愛せない。好きじゃない。ぜんぜん嫌いじゃないのに、好きなのに。閾値を超えない。


「すぐに辞めたりしちゃダメだよ。タイヘンだったら相談して。華やかさに溺れちゃ駄目」

「うん。俺、まおがいれば大丈夫だよ。ずっといてね」

「うん」


 上がる呼吸に会話は紛れた。

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