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中学生になったなあのモテっぷりはお兄ちゃんのメールから時々届いた。制服の威力は計り知れない。同級生よりも上級生、近所の高校生にも後をつけられたりしてるらしい。
とはいえ、なあのアホっぷりは健在だ。
遊びにきなよとは言ったけれど、こんなにしょっちゅうくるなんて。こちらが実家に帰るどころか週の半分は居座られてる気がする。こんなに頻繁にこちらに来ていて、もちろん学校にはまともに行ってない。義務教育は権利だから、行かない選択はもちろんある。けど、そんな選択しちゃダメだ。なあはホントにバカだ。
平日はできるだけ大学に費やして、週末は家の手伝いに戻るつもりだったあたしの予定表は完全に破壊され、木曜や金曜の夜に現れるなあの夕飯作りから始まって、すでに一セット用意された小中学教科書を駆使して週末は終日家庭教師状態、月曜か火曜には居座るなあを追い立てて帰らせる日々。
こちらが帰りたかったら早めに予告しておかないとなあが来てしまう。なんでや。
……まあね、理由はあるのだ。家族公認の。
なあは進学した途端、夜に帰ってこなくなった。以前から、独り寝ができないなあは家の中を
―――結果、眠らせてくれる人の家を渡り歩くようになってしまった。
笑顔のなあに頼まれたら、断れる人いないと思うよ……。
幸い、なのか、見た目が荒れたりヤンキーと連んだりはしていないので、出席日数がギリギリのうちは心配しつつも口を挟まないでいるとお母さんが溜め息交じりに零していた。今更じじばばと一緒に寝ていいから外に行くなとも言いにくいと。わかるよ、もう12歳だもん。むしろ1人部屋が与えられて喜ぶ年頃だと思う。
結局、どこか余所でフラフラされるよりいいと、あたしのうちが推奨されてるのだった。とゆーか、お義姉さんはすっかりそのつもりだ。
交通費もばっちり出されて、やめてください、ホント。こっちがふらっと出かけることすらままならない。
なあの土産兼貢ぎ物(家庭教師代ともいう)で食費を浮かせつつも、この状況はあまり楽しいものではない。
もひとつ。
ざらざら流れ出るなあの学力に涙を禁じ得ない。
「掛け算九九は教えたよね!?」
「半分覚えてる」
九九は半分覚えてたら全部わかるのだ。つまりなあは1/4しか覚えていない。……なんてこと。アホに見えないの困る……。
「もー、なんでそんなに覚える気ないの?」
英語も真似して喋るのはできても書いたり読んだりはできない。小学校でも教わってたハズのことが中学1年で全部抜けてるってどういうことなの。
「なんにも聞いてないから……?」
「聞いてなさいようっっ! ムナシくなるでしょおおお!?」
「まおの話は聞いてるよ、授業つまんない。何言ってるかわかんない」
学校の授業が、そもそも日本語が理解できなくて落ちこぼれる生徒って一定数いるんですって。うん、聞いたことあるよ。
…………ここにいた。
「ねえ、あのね? 今のとこ、お兄ちゃんの跡継ぐのはなあなんだよ、愛想は充分だけど、数字わかんないとお店潰れちゃうよ……?」
「春菜が継げばいいんじゃないかな?」
「なあはどうするの」
「手伝い?」
語尾を上げるな。不思議そうな顔するな。
いやでも、もう少し、身を入れて欲しい。費やされたあたしの時間が悲しい。
「じゃあ、どうしたらなあはもっと勉強するかな。学校もちゃんと行って欲しいんだけど」
「まおが帰ってきたらいいんじゃない?」
「ムチャ言わないでよ」
「帰ってくればいいのに」
……まさかそれが目的じゃないよね。
「あーもう。お野菜もいいけど、
「勉強しなくてもいいのに。まおといちゃいちゃできれば俺はいいよ?」
「よくないわぁ! お願いせめて中学2年までは身につけて? 社会科は常識の範疇だから! 理科はえーとリテラシーとかいってもわかんないよね、怪しい商品を仕入れないために、かなー」
「できなくてもなんとかなるよ」
「ならないから! じゃあせめて、あたしのためにがんばって。なあが少しでも賢くなったらあたしは嬉しい」
「がんばったらごほうびくれる?」
あたしの時間をこれだけ奪って、これ以上なにをくれというのか。
「なに欲しいの」
「いろいろ。いっぱい。全部」
なにを買わせるつもりだ。
「お金ないんですけど……」
「そんなのいらないよ、約束だよ」
「あたしで賄えるものなのね?」
「うん」
「じゃあ、約束。ちゃんと学校行って、ちゃんと勉強すること。出席日数と通知表、チェックするよ」
「ええ~、まおが教えてくれることだけしかやらないよ、範囲が広いよ」
「……じゃあそれで」
だいぶレベルが落ちたけどしょうがない。
「まったく、どうやって単位でてんの? あ、単位制じゃないか」
「どうにかなるよ」
ならないよ。
遊びに来た友達に発見されて、なあはついに学科でもマスコット扱いになった。ホントに年上受けがよくてもう。
なあは男女問わず、懐に入り込むのが上手い。あの笑顔で、するりと会話に入ってきて、甘える仕草でノックアウトだ。女の子はまだわかる。でもたいていの男子にも効き目があって、空恐ろしい。大学構内にもついてきて学食やら学部棟やらをウロウロすると、あちこちで餌付けされるようになった。明らかに義務教育課程なんだから追い出されるかと思いきや、「不登校児が積極的に学舎にくるのは上々である」という空気が出来上がってしまい、目眩がする。
なあの「なにやってるの?」の問いに顔を赤らめながら一所懸命説明する学生が「よくわかんないけど、すごいね」と
「まおー、風呂先に入ってって、父さんが」
「わかったー」
倉庫でダンボールをたたみながら返した。現れたなあも一緒にたたみだす。
「お店は?」
「もういいって。明日は休みだから最後の掃除してる。俺も先に上がっていいって」
「じゃあさっさと入ってくるか。今年の汚れー、今年のうちにー」
「一緒に入る?」
「アホなことを言うな。出たら声かけるから、部屋に戻っててね」
「うん」
ダンボールは任せてお風呂に向かう。春菜は起きてるとがんばってたけど、5歳児が年越しまで保つわけもなく、今はひとり夢の中へ。大人はこのあとやっと揃ってのんびり過ごす。1日は休んで、2日3日は時短営業。以前には初売りセールもやってみたけれど、パートさんは主婦がほとんどで確保が難しいし、デパートやショッピングモールの集客とはやっぱりレベルが違う。売上げもいいけどコストもかかるので、やめてしまった。そのかわり、コンビニより便利くらいの品揃えで時短営業に切り替えた。今ではもうお客さんもわかっているので、のんびりしたものだ。
家族が揃うお正月は貴重なので、大学の友達から初詣に誘われたけどそれは断った。
だらだらと年越し特有の生番組をみんなで眺めて、眠くなった人から消えていく。めっきりお酒の弱くなったお父さんが一番にダウン。お母さんとお義姉さんが続いて、あたしとお兄ちゃんがなあを挟んで進路の話、なあが逃げ出して解散した。
部屋に戻ると、先にいなくなったなあがなぜかいた。布団まで持ち込んで。
「もー、自分の部屋で寝なさいよー」
「だってまおがいるのに、そんなもったいないことできないよ。まおが一番いい。熟睡? できる」
……なんでこの子のこれ、治んないんだろう。
しかたなく、自分のベッドに腰掛ける。こういうのって、大きくなったら自然と無くなるっていうか、慣れるとか、男の子ならむしろイロイロよっしゃ! な状況になるんじゃないのか。
「じゃあさっき聞きそびれたけど、5教科以外はどうなの。さぼってないでしょうね」
「その話続くの……」
うえーという顔で床に敷いた布団に倒れるなあを追及すると、渋々答えが返ってきた。
それは予想外の。
「
略すな略すなおかしい。
「1回試すってなにを?」
「俺?」
…………。
「………………な、なっ!?」
真っ白になるというのを実体験した。
目の前できょとんとするなあの意味がわからない。
尾川先生? ちょっとセクハラパワハラ気味だったけど、なあと!? なにを? なにをだ!?
「でもさ、尾川先生ひどいんだよー、朝まで寝かせてくれるのも条件だったのにさ、すげー早くに追い出されてさ、まだ眠かったのに」
「や、待って、それ違う、そうじゃない」
「なにが?」
「気持ち悪い……」
うう、脳が否定する!
「なにが?」
先生が、とか、男同士で、とか、平気な顔のなおが。
違う、男同士でも別にいいんだ、好き同士なら。いややっぱよくない、このこ中学生だよ!?
しかも先生が生徒に単位盾に強要って、―――ううん、強要じゃないのかもしれない。
「それ……なあが持ち出したの…?」
「なにを? ああ、別にそれで済むなら持久走するよりよっぽど早いじゃん。一回だけだよって約束したし、先生初めてだったからそん」
「そんなこと、なにかと引き換えにしないで!!」
得意げななあの言葉をぶった切って叫ぶと、ビックリしたなあは口を開けたまま止まった。
「駄目だよ、なあ、そんな……。そういうのはね、もっとおとなになってから、好きなひとと、大事なときに、して。お願い」
口を閉じたなあはあたしをじっと見て、軽く首を傾けた。
「それが『普通』?」
「うん」
「わかった」
「約束できる?」
「うん、ぎゅってしてくれたら約束するよ」
いい歳してなに言ってんだという気持ちと、可哀想さがぐるぐるして、それでも抱きしめた。今はもうたいして身長差もなくて、わずかとはいえ胸が当たるのは気になったけど、それより約束させなくちゃって焦りでバクバクしていた。
「そういうの、他にもあるの?」
「まお、おこる」
「もう怒んないから教えて」
「音楽の実技、ナシにしてもらった」
「他には」
「そんだけ」
「そっか」
バクバク止まらない。震えそうになるのを、堪える。気持ち悪くて突き放したい、絶対離しちゃ駄目、ぐるぐるぐるぐる。
そんなこと、どこで覚えたの……? いつ? だってなあ13歳じゃない。なんでそんな慣れてるみたいな口調なの、眠ることの方が重要なの?
―――なあの外泊は、そういうことなの……?
女の子は気をつけなさい。
よく言われてた。
男の子もシャレにならないって、最近のニュース観て思ってた。
でも、こんなところに、こんなふうに。
全然変わらないのに。
出会った頃から、なあの愛くるしさは眩しくてドキドキして。
こんな子が弟みたいなの、すごくいい。
そう思ってた。
ぜんぜん、変わってないのに。
なあがこわい。
あんなことを聞いてから、なあがくるのを咎められなくなってしまった。
中学の先生たちには、2度目を求められたら「姉にばれたので」と断るように言い含めた。向こうだって危ない橋は渡りたくないだろう、そう願って。
両親にも、週1くらいはなあを引き取ってと頼んだ。渋られたけど、その気持ちはわかるけど、外には出したくない。お父さんは複雑みたいだけど、まだ春菜はお義姉さんべったりなのでじじばばのところでは寝てくれない。春菜がくるまではいいでしょと押し切ると唸りながらも頷いてくれた。なあは無邪気に喜んだので、お母さんは満更でもない様子。よかった。
なあの勉強は、とにかく地力を底上げすることに比重を置いた。学校の成績はもう置いといて、小学校レベルを蓄えるように繰り返す。友達にも頼んで、一緒に遊ぶときは時々クイズみたいに問題出して、正解できたら褒めたりお菓子あげたりしてもらった。なあのアホっぷりも「カワイイ~」とウケてるので、まあみんな協力してくれた。頭の残念な子だけど顔がいいと人生ホントに得だな……。情けないけどありがたい。おかげでだいぶ取り戻せたと思う。
夏休みが終わる頃には、国数英はかなり進めた。社会はお店の商品と絡めて地理を教えたり、歴史エピソードを披露することで点は増えた。線では繋がってないけどまあいい。理科は……理科、面白いんだけどなー。一番知的好奇心が満たされる教科なのになー。「わかることが増える」ことで、もっと好奇心を育んでほしい。歴史漫画とか科学漫画とかもチャレンジしたけど、そもそも興味がないので目が滑ってるのが丸わかりで諦めた。
でも、がんばってると思う。ごほうびタイムの甘えっぷりがハンパないけど、そこは我慢だ。高校入学までに中2レベルまで持っていきたい。……高校、行けるよね……?
なあの夏休み最後の週。相変わらず、やる気のないなあに高校受験の話を振ると「まおは卒業したら帰ってくるんだよね?」と逆に訊かれた。
「その予定。最近は公務員も競争率高いけど、試験だけならたぶんどうにかなる。あとは人数かなあ」
「絶対帰ってくるよね」
エアコンは弱めで、扇風機を回す部屋で寝転がりながらアイスを咥えるなあが手を伸ばしてくる。指を取り、くっと握ると反動をつけて身を起こす。
「まあ。うん」
「そしたらまた一緒だね」
「うーん、さっさと結婚したいとは思ってるんだけどねー。そうなったら家は出るからねー」
「どして?」
初めて聞いたという顔でなあがにじり寄る。
「お父さん達がいい歳だもん。お兄ちゃんとあたし、歳が離れてるでしょ。あたしは遅い子だから、もたもたしてたら60歳過ぎちゃう」
「ふうん?」
「はやく安心させてあげたいなあって。ヘンかな」
「ヘンじゃない、けど……」
なぜか不満そうななあに苦笑する。
「自分の分は弁えてるの。地元に戻って見合いかなんかで結婚して、仕事は続けるか辞めるかは相手の人の経済状況や性格によると思うけど、できれば辞めたくないな。考えてることもあるし。で、まあ、子供育ててって感じかな。公務員なら育休も充実してるし、9時5時で週休2日なら家のことも手伝えるしね」
「家の手伝い?」
「お兄ちゃんがヘルプって言うならね」
「まおはそうしたいの?」
なあの不機嫌な問いに肩をすくめる。
「だって『勉強』は
心の中で溜め息をつく。芸能界とか、顔だけで生きていけるとはとても思えない。礼儀作法とか謙虚とか学ぶ姿勢とか、たぶん必要。表は華やかだけど、裏はそうとう怖そうだ。ホントに家の手伝いで済めばいいけど。
にじり寄られて押し倒されて、しがみつかれて電気が眩しい。なあの栗毛が透けて光る。ソーダアイスを口許に伸ばされて、一口囓った。冷た甘い。
「なんで見合いなの。まおは俺好きでしょ」
「そういうのは付き合うのとは違うでしょ。そういうこと」
なかなか惨めになれる質問が飛ぶ。直球過ぎて泣ける。好き、かあ。大学でも特に出会わないんだよなあ。
「好きな人、ねえ……」
「他にいるの!?」
途端になあが狼狽えた声を上げた。がばっと身を起こしたので、なあの顔が影になる。その意外そうな顔に追い打ちをかけられる。
なんだ「他」って。えーえーいませんよ、どうせ。
「……いないよ…………」
さすがにこの歳になってどうかと思うが、あんまりトキメキとか、よくわからない。正直、文献読んでドキドキする方が理解できる。別にイケメン好きってわけでもないし、いい人なんていっぱいいるのに、ピンと来ない。なあがかわいかっこよすぎるから基準がおかしいんじゃないのと言われたこともあるが、そうじゃない。と、思う。思いたい。だってこのこバカだもん。
「まおは処女だよね」
「…………そういうことを口にしない」
教育がなってなさすぎる。お義姉さあん! あたしに丸投げしないでー!
「俺はまお好きだよ」
「はいはい、ありがと。あたしも好きだよ」
さすがにげんなりしておざなりに返す。スキンシップと同じくらい、こんなやりとりには慣れてしまった。お父さんやお兄ちゃんと同じ身内贔屓で好かれても、嬉しいけど嬉しくない。特段モテたいとかないけど。なんだろうなあ、こういうの。あたしちょっとおかしいかなあ。
しがみつかれながらちょっと己の恋愛経験の無さを省みていると、なあは食べ終えたアイスの棒をゴミ箱にシュートして、なにか探すようにきょろきょろした。
「何?」
「まあいいや、ベルトで」
「なにが?」
「あれ、うまくできないな」
「なにしてるの?」
あたしの手首をベルトで縛ろうとしてるけど、さすがにそんな硬いものじゃ結び目は作れなくてグルグル巻きだした。一番はしっこのベルト穴で止められて、手首が痛痒い。
「なにしてんの? こんなことしたって宿題放り出させないからねー。アイス食べ終わったんだから休憩時間は終わりだよ、外して、どいてー」
「どかないよ。まお、好きだ」
「うん?」
覗き込むなあの顔が楽しそうで、眉を顰めた。ふざけて誤魔化そうったってダメだ。なあの勉強苦手意識はホント根深い。
叱ろうとしたあたしの頬に、なあの頬ずりが落ちてくる。いつものことなのに、なぜか、背筋がぞわっとした。
なにこれ。
「なあ、なに、なんなの」
気づく。動けない。なあが馬乗りになっている。手首を縛られて、なあの腕が肩を掴んでて、目を細め何度も頬ずりしてくる。違う、いつもと違う。なにか。
「なにこれ、なにこれ!?」
「好きって言ったじゃん。なんかテキトーだから実力行使」
「なになに言って、待って、うそ、なにを」
実力行使なんて四文字熟語がなあから出てきたことに驚く。いやそこじゃない、そこじゃないぞあたし!
「まおの処女は俺がもらうんだー。今決めた」
半分予想して、全部信じられない。なに言ってるのこのこ。
「クラスの子がさ、最初は好きな人とするべきだって、マンガ貸してくれたよ」
「それはっ、あたしもっ、賛成だけど!」
お義姉さん!? なあクラスで浮いてるんじゃなかったの? なにマンガの貸し借りって!?
日頃から笑みの絶えないなあが、今は心から楽しげにあたしを押さえつける。頬に唇が落ちてきて、どうしていいかホントわからない。
「俺さー、最初なんてよく憶えてないし、それが大事ってよくわかんないなって思ってたけど、そうだよね、まおのは大事だよね。初めては特別なんでしょ? まおは俺が好き、他に好きな人はいない、俺はまおが好き。カンペキ」
ふんふんと鼻をこすりつけて、それから唇を舐められた。生暖かい感触にびくりとすると、なあは目を丸くして、それから細めてまた舐めた。
「止めて……」
掠れた、囁くような声しか出ない。
「キスは? したことある?」
「…………」
「やった、これがファーストキスだね。まおホントに奥手だね。ちょう嬉しい」
嬉しくない。楽しそうななあから目を逸らして、これ以上のことにならないように身を捩る。
「なあどいて。ふざけるのはもうお終い」
「ふざけてないし、これからだよ。聞いてた?」
グイッと肩を引かれて、正面に戻されたけれど、なあの顔を確認する前に唇を塞がれた。
「……! …………!!」
距離が近すぎて何も見えない。反論しようとしていたあたしは愚かにも口を開けたところだったので、なあは接触と同時に舌まで突っ込んできた。押し返そうにもぬるりとかわされて逆に刺激される。
うーわー、やだ。なにやだ、なんで? どうしてこうなってるの?
ぬちゃぬちゃと掻き混ぜられて、合間に上がった息が漏れて、涙が出てくる。
「まおかわいい。そうしてるとすげええろいよ。いつもと全然違う」
「ね……、もう止めて。なんで……」
「もおさあ、俺より頭いいのに、なんでわかんないの? 好きだって言ってるじゃん。ああ、すげ、くる。好きな人ってこういうことかあ」
あたしの上でブルリと震えて、なあはまた覆い被さる。細い子なのに、あたしがもがいても全然揺るがない。こわい。
縛られた腕を片手で押さえて、もう片方でTシャツの下を探られる。他人が肌を触る感触にビリビリして、鳥肌がたった。けどなあの掌はそんなことに頓着しないらしい。そのまま胸まできた。
「や……だ……」
「ぷにふわ。直接触ったの初めてだ。弾力気持ちいい。まおはどこも柔らかいのに、特別柔らかいね」
「ホントに……止めて。お願い。もういいでしょ」
「ぜんぜんまだだよ」
「なあ、お願い……」
「まおかわい過ぎる」
どういう回路でそうなるの。どう言えばわかってくれるの。
なあはまだ14歳で、中学生で、子供で。
こんなことしちゃダメだ。
―――違う、嫌だ、怖い、このこがこわい、こんなことできるこのこがこわい。言葉が通じない、気持ちも届かない、こ わ い 。
―――い
や
だ
あ
あ
あ。
あたしは初めてだったけど、なあが手慣れてるのはなんとなくわかった。
「あれ? うまく……あ、入った」
「ふ、ぐぅ……う、もうやあ……はぅっ」
痛い。キツい。気持ち悪い。
だのに気持ちのいいところを撫でられて、反射する。いろんなところが繋がっているのがわかる。経絡は科学的に証明されていないけど、本当にあるのかもしれない。
「まお好きだよ。あ、動いた。すげ。気持ちいいよまお。好きだよ。好き」
熱の籠もった吐息と共になあがすすめる。あたしはずっと目を閉じて、
目を閉じて、終わることばかり願っていた。
もう泊まりにきちゃ駄目。通告したのに、翌週もしれっとやってきた。
「入れないってば。帰んなさい」
「今まで何泊もしてるのに、急にしなくなったら父さん達怪しむと思うよ」
なんでこんなことばっかり頭が回るの……。放り出すわけにもいかず、しぶしぶドアを開ける。とたんに押さえつけられて恐れてた事態に襲われた。
「はー、すげえ、我慢してた。やっぱいい、まおかわいい。なんだっけ、生まれたての小鹿? だっけ?」
ガクガクと震える膝をどう解釈したのかその慣用句。
なあはぜんぜんゴツくない。屈強とか、対極だ。
だのにあたしは動けない。竦んで言葉が出ない。
なあの手は優しくて、どうにもならないところまでほぐされて制御できない声が上がる。
こんなことたいしたことじゃないと、なあが不思議そうにしていた意味が今ならわかる。気持ちなんてなくたって、刺激と反射で行き着く果てまで行けるのだ。
結局数日間、いいようにあしらわれて、年上の威厳もなにもあったもんじゃない。辛うじて、このままならお兄ちゃんに交通費停止の連絡をすると最後通牒を捻りだした。
「なあが勉強するの条件で来ていいことにしてるんだからね。こんなことばっかりするならもう塾通えって言う。もうなあなんて知らない」
「まお意地悪だ」
知るか。涙目になりながら宣言するあたしの声は笑っちゃうほどまったく届いてない。
どう反省したのか、単にこられなくなるのが嫌なだけか、なあはやってきてあたしを啼かせたあとは真面目に勉強するようになった。そして帰る前にあたしをくたくたにして「またくるね」と名残惜しそうに去って行く。
あたしの言うことを素直に聞くなあは、このことに関しては、なぜか一から十まで伝わらなかった。
なあは変わらない。
相変わらず勉強は低空飛行で、ふらふらしては女の子達に構われていた。キャラメルを貰ったり、散歩中の犬と戯れたり、連れてく(勝手についてくる)あたしの前でも愛想を振りまいている。あのふわりとした笑みで魅了する。
あんなかわいい弟羨ましいと言われる。そうだねと返す。でも弟だもんねと揶揄される。そうだねと苦笑する。なにもかも嘘。なあは高校受験をむかえ、どうにか中卒学歴は免れた。本人にとって重要かどうかはともかく、家族はほっとした。家の手伝いもよくするいい子だけど、問題行動も多い子でもある。なんとか真っ当に育って欲しいとみんなが願って、その期待はあたしの教師ぶりに向けられていた。どうにかクリアして、たぶん一番ほっとしたのはあたし。
あたしはなあとは違う意味で大人受けがいい。ゼミは楽しかったし、商売柄修学旅行くらいしかしたことがなかったからゼミ旅行も面白かった。一日中教授やポスドク先輩とディスカッションしたりしなかったり。あたしが識ってることなんて世界のほんの一欠片だ。居心地のいいゼミ室には公務員試験の勉時間も籠もった。
部屋に帰らない言い訳になったから。
国家公務員第一次試験、合格。
官庁訪問、面接、最終合格、内定。こっそりと、まあ、なあはあたしの就職活動など気にかけはしないけど、書類が視界に入らないように慎重に動く。
地方公務員で地元に採用されるつもりだった。町役場か隣の市役所。家に帰って、家から通って貯金して、土日はスーパーを手伝って。家を継ぐからと高校しか出なかったお兄ちゃんと違って、大学進学させてくれた。小売店の日々の売上げなんてそんなに大きいものじゃない。勤め人が寄り易いように遅くまで開けて、定休日は月2回。パートさんや少ないけど社員さんを抱えて、シフトが合わなければ家族が出て。ありがたいことに繁盛はしてるけど、けして裕福とは言えない家で、あたしが貰ったものは4年間の自由。大学は一人暮らしを認めるかわりに地元に帰る約束をした。だから、
―――だから。
帰りたかった。
そんな約束、わざわざしなくてもそのつもりだった。
駄目。
家には、地元には帰れない。
なあから逃げなきゃ。こんな状態で、あんな子のいる家に、帰れない。
祈りながら国家公務員試験を受けた。
なんでこんなことになったんだろう。
かわいい、なあ。
ただの甥っ子で、弟で、いればよかったのに。
なあのことを考えると身体が震える。
「採用試験が終わるまでもう来ないで」と必死にお願いした。なあは不満げで、でも「それ終わったら帰ってくんの?」と聞くから「うん」と返した。
大嘘だ。他の家族にも誰にも。あたしが受けるのは町役場じゃない。あたしの返事を聞いたなあは満面の笑顔で「待ってる」と抱き締めた。
落とされるキスを受けながら、今死にたい、と、思った。
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