第4章 ⑦
無人の街をフレデリカは駆け抜けていた。月と街灯のせいか地面に落ちている小石まではっきりと視認できる。代わりに、敵から暗闇に紛れて姿を眩ますのは困難だった。狭い路地裏から抜け出し、古い街並みが残る商店街の大通りに出ると、後ろから声が届いた。
「いつまで鬼ごっこをする気だ。時間の無駄である」
先の身体強化魔術は消費しつくした。一方、マリーベルは戦闘開始から十分以上が経過しているというのに魔術を維持したまま追いかけてくる。無尽蔵の体力を誇る獣を相手にしているかのようだった。足を止めて銃を使っても倒せない。何度も道を変えながら距離を詰ませないようにするのがせいぜいだった。
相手に言葉を返す余裕もなく、フレデリカは乱れた呼吸を直そうと懸命に呼吸を繰り返す。そして、十七度目となる路地裏に入り、USPを構える。当然、マリーベルが追ってきた。しかし、その右足が地面から数センチの高さに張られたワイヤーを踏む。そして、狭い道に爆音が轟いた。音速超過の速度で、灼熱の爆風が辺りに充満する。上手くトラップが作動したことに、離れて身を潜めていた魔女はぐっと拳を固く握った。余波をうけてなびく髪を片手で押えながら爆心地をじっと観察する。
これが、国広から受け取った武器の一つ、手榴弾である。一口に手榴弾と言っても色々な種類があるのだが、フレデリカがトラップに使ったのは米軍から秘密裏に売り捌かれた、秒速二千メートル、摂氏の千二百度の爆風によって敵を倒す代物だ。直撃して、無傷でいられる人間などいないだろう。それが、魔術師であっても。
――マリーベルが二流程度の魔術師なら。
朦々と立ち込めていた煙が内側から霧散した。飛び出したのは無傷のマリーベルだ。馬鹿な。あの一瞬で防御魔術を展開したというのか。戦慄するフレデリカは暴れる胸郭に構わず、USPの引き金を何度も絞った。だが、シルバーチップは尽く、剣士の剣と鎧に防がれる。インナー部分に当たればどうにかなるだろうものの、剣士は弾丸の軌道を予測しきっている。とうとう撃ち尽くし、スライドが戻らなくなった。
慌てて新しい弾倉を取り出すも、安全に交換させてくれるほどマリーベルは優しくない。剣士が瞬く間に距離を詰める。フレデリカは身を捻って下段からの剣をかわす、腰が引き千切れそうになるほどの無理な動き方だった。だが、身体が縦に真っ二つになるよりは遥かにマシだっただろう。狭い場所だったのが剣士の動きを限定してくれた結果かもしれない。
「今のが奥の手か?」
「いえいえ。そんなことはありませんのよ?」
冗談っぽく言うが、本気の一撃だった。高位の魔術師が攻撃魔術を防御するときは、大抵が相手の魔力を感知し、有効な防御魔術を形成する。フランカとレイルの攻防が良い例だろう。
ゆえに、魔力を使用しない手榴弾のトラップは有効打を与える予定だったのだ。箒に乗った、一番の機動力を持つマリオンに設置してもらった十三の罠。上手く路地裏に誘いこみ、一撃を加える筈だったのに。
鎧自体が強力な術具なのだろう。こちらが念入りに準備していたのだ。相手が剣一本で戦場に赴くはずもない。
「なら、汝の本気を私に見せてみろ!」
「言われ、なくても!」
剣士の舞い思わせる剣技をフレデリカは紙一重でかわす。ここが狭い空間だとは露とも感じさせないほど刃が精密に軌跡を描く。
無用なオブジェとかしたUSPを投げつけ、半秒稼ぐ。こちらの首へ攻めるはずだった剣がポリマーフレームのボディを砕き、地面に叩き落とした。
少女は先の戦い同様に刀で相手する。だが、受け流すことに全神経を集中させないといけない綱渡りのような剣技に、真っ向から叩きつける剛剣は相性最悪だ。こちらは防戦一方だというのに。マリーベルは一撃でも入れれば勝てる。フレデリカは傷を癒す魔術を使えない。ここで《アーガリスト》を消費し尽せばそれこそジリ貧だからだ。
右斜め前から旋回してくる剣を、フレデリカは刀の腹で相手の力を利用しながら流す。そのまま攻勢に出ようとして後方に下がった。マリーベルの反応速度は雷が意思を持っているようなものである。基本スペックで、少女は負けてしまう。身体は火照り、裸身になりたいぐらいだというのに、心臓の鼓動は加速する一方だというのに、心の震えは止まってくれない。魔女は、剣士が〝怖い〟のだ。
疲労は身体を、恐怖は心を縛る。そして――隙が生まれる。
左右から交互に襲ってくる剣技がリズムを変えた。右から左へ刃が動くかに見えた。しかし、フレデリカが半秒先の攻撃に対処しようと刀を振った場所には剣がなかった。マリーベルの身体が地面すれすれまで折られている。急激なブレーキから急加速する剣は槍の如く少女の右肩へ吸い込まれた。
「あ、ぁああ!?」
回避など間に合わなかった。肩口を深く斬られ、血が噴き出す。魂を削れるような激痛に意識がとびかけた。刀を左手に預け《アーガリスト》を発動させる。
「コード、く、G2。エルセル!」
ストック二つ分消費して、身体の治癒を開始する。切れた筋肉繊維が再び手を取り合って繋がり合うような感触に、総毛だった。これで残る魔術は一度きり。それも、治癒はすぐに終わってくれない。少なくとも、マリーベルとの戦闘中には。
だが、結局は意味がなかったのかもしれない。
「呑気に治療させてやると思ったか?」
腹部に杭を打たれたような衝撃が走り、肺の中の空気を根こそぎ奪われた。三メートル以上跳ね飛ばされて悶絶する。折れた肋骨が肉に刺さり、激痛に歯がかちかちと鳴りだす。なんて愚か。傷の治療などあと回しにして距離をとるべきだった。いつもの冷静な判断力なら絶対にしない悪手だった。
「お前の負けである。ラズベリーの魔女よ。実に、お前は強かった」
マリーベルは距離をつめなかった。まるで、もう勝敗は決していると言外に告げるように。地面に額を擦りつけるように倒れたフレデリカは、怒りで脳が沸騰しそうだった。
「私は、まだ、負けていません」
「そうだな。しかし、それは私が止めをさしていないからだ」
冷酷な判断が下されても、フレデリカは左手を動かすのを止めない。太股のホルスターから、長年の相棒をスタームルガー、GP‐100を引き抜く。悴んでしまったかのようにぎこちない指をなんとか動かし、撃鉄を起こした。銃口を向けられたマリーベルは呆れたような、憐れんだような目をした。
「戦う真似事をしても無駄というのがわからないのか? いや、もう正しい判断能力もないか。フレデリカよ。私を銃程度で倒せると思っているのか? 私なら、軌道が容易に読める。その口からしか出ないとわかっていれば、防ぐのは容易い」
「いいえ。貴女の負けは決定しました」
それは無謀とも傲慢ともとれる言葉だった。USPも手榴弾も効かない。もう手詰まりのはずだからだ。
しかし、フレデリカの人差指に力がこもる。さすがのマリーベルも剣を構え直し、弾丸の対処をしようとした。
「いきますわよ」
フレデリカは引き金を絞った。
一発の銃声が、闇夜を抉ったのだ。
絹の裂けるような少女の悲鳴。それは、フレデリカではなかった。マリーベルが、右耳を片手で押さえて、顔を苦渋と激痛に歪ませていた。手の隙間から、ぽたぽたと鮮血が零れている。一発なら避けられただろう弾丸。ただし、少女が撃ったのは散弾銃弾(リードショットカートリッジ)と呼ばれる特殊弾薬だった。プラスチックカプセルに包まれた小粒の鉛が数十の群れとなり、剣士の顔、右半分を襲ったのだ。
魔術師が研鑽を積むように、銃器も進化する。一つの銃口から射出されるのが一発の弾丸だけとは限らない。
「油断するからですわ。銃程度と甘く見ないでください」
それは、最初で最後の隙。攻撃をぶち込めるラストチャンス。拳銃にはまだ、五発の弾薬が残っている。だが、二キロの張力しかない引き金がとてつもなく重かった。
私の身体。お願いですから耐えてくださいな。
霞む視界。ポンコツの身体に残りの全てを注ぐ。
大きく息を吸い、歯を食いしばる。
今、轟雷が吠える。一発、二発、三発、四発、五発。立て続けに三五七マグナムが鎧に守られていない腹部の一か所に立て続けに撃ちこまれる。マズルフラッシュがマリーベルとフレデリカの間隙を明るく照らす。住む世界が違うと引き離すように。
そして、
「……くっ」
身体強化もない、それも両手ではなく片手でホットロードされた三五七マグナム弾を全弾撃ち尽くした反動の対価は、一時的な握力の低下だ。硬直した筋肉がグリップに引っかかったまま、フレデリカの命令を無視して沈黙する。朦々と立ち込める白い煙の先にいる敵が暗い笑みを浮かべるのを見て、戦慄する。まさか、あれを耐えたというのか? 内臓は大部分を損傷し、立つことさえ死に等しい苦しみだというのに。
「まだだ。まだ私は戦えるぞ!」
剣士が駆ける。フレデリカは動けない。鋼の殺意が振り下ろされ――、
「ああぁああああ!」
少女もまた、《氷華の月》を抜いた。萎えた左手ではなく、右手で。筋肉繊維がぶちぶちと切れる痛みに、意識の大半を摩耗しながらも、白刃が月光を反射して煌めき、真っ向から剣士の刃を迎え討つ、最後の仕上げとばかりに《アーガリスト》の光が弾ける。一瞬だけ身体強化の魔術を構成する。
澄んだ金属音が一つ鳴る。そして、
「えっ……」
マリーベルの手から剣が零れた。剣士が、空っぽになった自分の手に視線を落とし、愕然とする。痛みで魔術を失った女と、身体強化を発動できた少女。最後の最後は、奇策ではなく、純粋な力勝負だった。
渾身の一振りだったのだろう。マリーベルが体勢を立て直せずにいた。いや、その顔にはもう戦意はない。
フレデリカの刃が、マリーベルの胸の中央へと埋め込まれた。
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