第3章 ⑧

 ちょうど千回の素振りを終えたフレデリカは玉のような汗の浮かぶ額を乱暴に右腕で拭った。目に染みて、ちょっと痛い。身体はすっかり温まっていた。少女は、左手で握られた《氷華の月》の刀身へ視線を落とし、唇の端をわずかに吊りあげる。

「掌握しましたわよ」

 素振りの後半からフレデリカは目を閉じていた。それでもなお、鋼刃の軌跡はぶれなかった。剣へ生涯を費やした者からすればたった千振り。時間にして二時間足らずで女は刀の重さ、速度、間合いを自分のものにした。少女に魔術の才はなくとも、こと戦闘に関しては希代の才を誇る。

「お嬢様。調子はいかがですか?」

 マリオンはフレデリカへとタオルを渡す。少女は、刀を鞘に戻し、作業台に置いた。受け取ったタオルで顔を拭き、ふうと息をつく。

「ええ、気に入りましたわ。これなら問題ないでしょう」

「そうですか。それは幸いです」

 マリオンが安心したように胸に手を当てた。フレデリカはタオルを首にかけ、机の方へと首を曲げる。椅子の座ったまま、友が居眠りをしていた。机に顔をうつ伏せ、すやすやと寝息を立てている。

「まったく、呑気ですこと」

 ライラは術具の調整をしていたのだが、どうやら完了したらしい。このままの姿勢で眠れば身体に悪いだろうとフレデリカは友をベッドに運ぼうとして――背中に柔らかい感触。小さな手が、腰の辺りに回される。バランスを崩しかけた少女が何事かと首を曲げると、マリオンが悲痛な顔をしてこちらに抱きついていた。

「お嬢様……お嬢さまあぁ」

 マリオンの嗚咽に、フレデリカは口を閉じる。長い付き合いだ。なにを思っているかなど手にとるようにわかる。矛盾しているようだが、従者は主が戦場に赴くのがたまらなく辛いのだ。それこそ、半身が引き裂かれるように。

 女が銃を握り、魔術の世界に生きる以上、その命は短命だ。人間は脆い。それこそ、鉛弾一発で死に至る。英雄の道を選んだギリシャ神話の英雄アキレウスがたった一本の矢で命を失ったように。フレデリカは魔術を捨てて長命を得ても、なにも嬉しくない。だからこそ、指輪を嵌め、研鑽を費やした。それは、マリオンも知っている。ずっと傍で見てきたのだから。

 ゆえに、感情の二律違反がマリオンの心を襲うのだろう。

「マリオン。私が負けたところ見たことがありますか?」

「いいえ。けど、傷ついたところは数え切れないほど見てきました」

「あれは最初のうちでしょう。今の私が昔のように頼りない存在に見えますか?」

「いいえ。けど、今も昔もずっと変わらず、私はお嬢様のことが大切です」

 背中越しに、マリオンの嗚咽が伝わる。フレデリカの腹の芯が痛くなる、熱くなる。

「マリオン。腕を放して私の正面に回りなさい」

 従者は主の命に忠実だった。ゆっくりとした足取りでマリオンがフレデリカの前に立つ。その顔は涙で濡れていた。

 天井の光が反射し、真珠のような涙をフレデリカは人差し指で拭った。そして、ぎゅっと抱き締める。マリオンが『ふぇ』と小さく悲鳴を上げた。

「約束しましょう、マリオン・デーライト。私は必ず勝ちます。そして、必ず帰ってきます。ですから、あなたは家で待っていなさい。なーんにも、心配しなくてよろしいですのよ。そうですわね、ホットミルクでも準備していてくださいね」

 慈母のように穏やかな微笑みにマリオンが瞳をまた潤ませる。頬を滑り、顎に伝い、熱い滴がフレデリカの胸へ落ちた。

「お嬢様が約束を破らないことは重々承知しています。けれど、ホットミルクは準備できません」

「? 牛乳なら冷蔵庫にありましたけど」

 言葉の齟齬にフレデリカが眉を潜めると、マリオンが胸に顎を乗せてはっきりと言ったのだ。

「私も戦います」

 その言葉の意味を理解し、フレデリカは驚愕の叫びをあげるのだった。

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