第3章 ⑤

 フレデリカはリビングのソファーで横になっていた。平衡感覚が消失し、天地の区別がつかない。それほど、動揺し、激怒し、悲愴し、自嘲していた。両腕を交差し、その隙間から漏れる天井の光は目蓋に遮られる。音は遠く、もうなにもしたくない。

 結局、駄目だった。半端者に待っているのは首を吊ることぐらいなものだ。自分がなにをしたというのか。罪だというのなら、魔術の才能もない自分がラズベリー家に生まれたのが罪だったのだろう。マリーベルが悪なら、躊躇わずに撃てた。だというのに、いざ蓋を引っ繰り返せば、彼女も犠牲者だったのではないか。彼女はなにも悪くない。先代の罪を擦りつけられ、見世物にされる。彼女はいったい、どれだけのモノを奪われたのだろう。

 ライラは頼って欲しいと言ってくれたのに。マリオンはずっと傍にいてくれると誓ってくれたのに。

「私はなんて無力ですの……」

 今の彼女に、なにができる?

 答えてくれる者が一人だけいた。

「ねえ、フレデリカ」

 対面するソファーに座っているのはフランカだった。フレデリカは顔を上げようとしない。

「お姉様は、私に嘘をついて、マリーベルと戦わせるつもりだったのですね」

 剣士を罪人として、フレデリカの罪の意識を消す。フランカの沈黙が、真実だと語っていた。

「それで、私が肯定すると想っているのですか?」

「だって、それしか貴女を救う方法が」

 フランカは祖母に逆らうことはできない。絶対的な権力の差だ。それでも、姉は妹を助けようとした。せめて、戦意を削がないようにした。レイルが真実を告げた今では、すべて無駄になってしまったが。

 少女は姉を罵倒するつもりはない。代わりに、一言を以ってフランカの心を砕く。

「私、お姉様のこと嫌いです」

 フランカが小さく息を飲む音が聞こえた。続いて、立ち上がる音。遠ざかる足音。ドアが開き、閉まる音。フレデリカは気だるげに上半身を起こした。もう姉の姿はどこにもない。これでいい。もう戦う意志はない。あとはマリーベルが痛みもなく首を両断してくれるだろう。

 なら、嫌われたまま死のう。少女は、五つの誕生日に姉から貰った《アーガリスト》を愛おしげに撫でる。毎日かかさず掃除し、これまでの仕事で幾度となく助けられた。あなたが立派な魔術師になれますように、と祝福してもらった大切な指輪だ。

「ごめんなさいお姉様。私は落ちこぼれですの。貴女の未来のためにこの命が使えるのなら、それも運命です。……けど、困りましたわ。ライラに迷惑がかかるようでは意味がありません」

「なんの意味がないって?」

 またドアが開く音。聞きなれた足音。ライラが大股でこちらへと詰め寄る。

「ライラ。そんなに怖い顔をしてどうしたのですか?」

「あんた。マリーベルと戦わない気じゃないでしょうね?」

「ええ、そのつもりで――っ!」

 少女の頬に鋭い痛みが走る。平手打ちされたのだと理解したのは、涙目になったライラが叫んだ後だった。

「ふざけるな!」

 ライラの一喝に身を竦める。これほどまでに怒りを顕わにした友を見た事がなかった。熱をおびた頬を押さえ、呆然とするフレデリカへ少女が感情をぶつける。それは激怒であり悲痛だった。

「じゃあ、大人しく殺されるっていうの? そんなの私が許さない! フレデリカはこんなところで死んじゃいけないんだ。どうしてあんたが殺されないといけないの? だって、あんたはなにも悪くないじゃない! だから、諦めないでよ。私が、絶対に、あんたを守ってみせる」

 少女は愕然とした。罵倒を予想していたからだ。アプリコット家が窮地に立たされたのはフレデリカがライラをここに呼んでしまったからだ。ゆえに、彼女にはもうフレデリカを守る義理なんてないはずなのに。どうして。どうして、守ってくれると言ってくれるのだろう。マリーベルを殺すしか方法がないからだろうか。

 しかし、ライラの想いにアプリコット家の損得などはじめから関係なかったのだとフレデリカは思い知らされる。

「ねえ、覚えてる? 私とあんたが初めて会った日のこと。四年も経ったけど、私は昨日のことみたいに思い出せる。あのときの私は自分の力を過信していた。生まれ持った才能にかまけてろくな修行もしなかった。だって、なにも努力しなくても、私よりもずっと弱い魔術師が沢山いるんだもん」

 血の滲むような、文字通り死ぬほどの鍛錬をしても、天才にはかなわない。魔術師の血統とは、そういうものだ。アプリコット家のライラと凡流の魔術師では、天地の差があっただろう。

「それで、たまたま仕事が同じだったフレデリカと出会った。……ごめんね。あのとき、酷いこと言っちゃって。私、最低だった。他の人を見下して、自分は偉いんだぞって慢心していた」

 フレデリカは微苦笑する。なんだ、ライラはそんなことを気にしていたのか、と。強烈すぎる言葉だったから少女もよく覚えている。彼女は嘲るように言ったのだ『あなたみたいな落ちこぼれが魔術師になれるわけないじゃない。さっさと家に帰れ』と。

「奴隷商人と魔術結社が取引する洋館に二人で乗り込んだのですよね。もっとも、貴女が先走って真正面から向かってしまったのですけど」

「……私は知らなかった。戦場の空気を。人を傷付けるのはどういうことかを。害する敵っていうのはどういうものかを。あそこにいた魔術師は個々でなら私に敵わない。けど、あいつらは集団だった。陣形による戦術化された魔術に、私は出鼻をくじかれた。強引に攻め込もうとしたけど、ろくに内部地図も読んでなかったから、すぐに翻弄されてさ。それでも、私は戦うのをやめようとしなかった」

 フレデリカは見ていた。ライラの放った風の矢が、男の首を抉ったのを。間欠泉のように噴き出す鮮血。くるくると男は回って倒れた。新鮮な肉塊を前にして、少女は悲鳴を上げた。

「心が耐え切れなかった。杖を投げ捨てて、叫んで、膝からくずおれて。私には人を殺す覚悟がなかった。敵が前にいるのに、もうなにも考えられなかった。世界が揺れているような感覚だったな」

しかし、幼子のように泣き喚く少女の手を、フレデリカが握ったのだ。

「あんたは足手まといにしかならない私を助けてくれた。それだけじゃない。銃器と《アーガリスト》を使って、敵を次々と倒していった。すごかったなー。あのときのフレデリカは。それでさ、私の頬っぺた叩いて言ってくれたよね。魔術師なら、魔術師らしく戦えって」

「それで、貴女は冷静さを取り戻したのですよね。ライラの助力がなければ、敵を仕留めきれませんでしたわ」

それから、たびたび会って話をした。友になるには、そう時間はかからなかった。

「フレデリカと会っていなかったら、私は死んでいたし、本当の魔術師っていうのはどういうものかを知らなかった。だから、私はすっごく感謝している。ありがとう、フレデリカ。今度は、私が助ける番だよ。マリーベルからだって、機関からだって、私が守ってみせる」

 胸の奥から込み上げてきた熱に、鼻の奥がつーんと痛くなった。涙腺が緩み、視界が滲む。猛烈に恥ずかしくなって、フレデリカは腕で顔を拭った。なんて愚か。絶望するには、まだ早すぎるではないか。

 友が傍にいる。それだけで、まだ戦えるではないか。

「ありがとう、ライラ」

 すると、ライラが頬を赤く染めた。何故だろう。ひどく慌てた様子である。

「え、えっと、私はただ昔の借りを返したいだけだし、そのお礼とか別にいらないし。それよか、叩いてごめん。痛かったよね。私の頬っぺたも叩いていいから、むしろ殴って!」

「ちょ、顔を近付けさせないでください! それに、これでおあいこですわ。ああもう、だから顔を近付けないでください! これではまるで口付けでも迫るようではありませ、ひゃ!?」

 こちらの腰に両腕を回すライラの両肩を、フレデリカが渾身の力で押し退ける。互いの唇の距離は五センチもなかった。そして、さらに事態は急変する。

「お嬢様! 私はどんなことがあってもお嬢様の傍、に……」

 マリオンがリビングに一歩足を踏み入れたと同時に能面になった。ライラとフレデリカが弾かれるようにお互いを押し退け、愛想笑い。

「あのー、マリオン? これは違いますのよ」

「お嬢様。なんなら私は外出しますので存分に楽しんでくださいませ」

「だから違うのー!」

 これより、二回目の言い訳大会が始まる。

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