第2章 ⑨

「ごめん。やっぱ私無理」

 弱気になって引き返そうとしたライラの首根っこをフレデリカが掴んだ。無論、逃げないようにするためである。別にいてもいなくても交渉するのは彼女なのだが、途中で帰る態度が気に入らなかったのだ。

「今更、退くなんて許しませんわよ」

 現在、フレデリカ達がいる場所は、古き良き時代の料亭や旅館を想わせる見事な日本屋敷だった。庭には立派な松の木がならび、池の中には錦鯉まで泳いでいた。あれを数匹売るだけで一戸建てが買える値段だろう。かこん、と鳴る獅子脅しにライラがびくりと肩を反応させる。

「だって、ここってさ……あれでしょ」

 その一室は二十畳もの広さを誇る。真ん中辺りで横に並び、高級そうなふかふかの座布団の上に正座している魔術師二人がいる。なんともミスマッチな組み合わせだ。開けられた襖のむこうに広がる庭がとても遠い。クーラーはないのだが、庭の方から入りこむ風がなんとも涼しげだった。

「静かにしていなさい」

 蝉の声が先ほどから一向に鳴り止まない。ミンミンミンと耳障りな音を奏でている。あれが交尾の為の音と知ったときには、あの昆虫の雄はなんとまあ情熱的なのだろうか、と土の中に潜っていた数年を想いつつフレデリカは感心したものだった。

 香るイ草の匂いは外国人を癒してはくれないのか、ライラはずっとおどおどしていた。目の前の足の短い机には緑茶と和菓子が準備されていたが、手を付けていない。フレデリカはお茶を一口啜っただけだった。

「いったい、いつまで待たせるのですか?」

 フレデリカの声に反応したのは、壁際に立ったまま待機していた黒スーツの男勢。その内の一人だった。三十代後半だろうか。角刈りで、右頬に大きな切り傷がある。

「もう少しで来るかと思いやす。どうかもう少しの信望を。……ところで、その隣の方はどなたで?」

 男勢の視線が集中し、ライラはさらに身を縮こませる

「私の友人です。名はライラ・D・アプリコット。こちら側の人間ですわ」

 場の空気はひどくぴりぴりしていた。それでも、フレデリカは小揺るぎもしない。まるで、この場を支配するのは己だと態度で示すかのように。

「ですが、今回はつき添いですので御安心を。それとも、この子がドンパチをする人間に見えますか? 私が彼女をここに連れて来た意味を、あなた方はきちんと御理解しているのですか?」

 すると、廊下側から酒と煙草に喉を焼かれた男の笑い声が聞こえたのだ。

「あっはっはっは。喧嘩にしにきたんじゃねえって言いたいんだろう。なんだ、お前に友達がいたのかい。そいつは安心したな。おい、お前ら、もう下がって良いぞ。これは俺とコイツの商談だからな」

 その男の年齢は六十代後半だろうか。濃い藍色の着流し姿で、背筋はぴんと伸びている。髪は白髪交じりでオールバックにしていた。細い身体ながらも、弱々しげな印象はない。むしろ、獰猛な虎が目の前にいるようなプレッシャーを受ける。彼の名は東郷国広。俗に暴力団と言われる組織、轟斬組の組長である。ここはヤクザの屋敷だったのだ。男はフレデリカ達と対面するようにテーブルを挟んで胡坐を掻き、こちらへと右手を伸ばした。

「お久しぶりです。お元気でしたか?」

 フレデリカが臆せずに握り返すと、国広は破顔一笑した。そして、表情を一転させ、ここから出ることを躊躇っている男達にきつい口調で言う。

「お前ら、俺を子供相手に大人数で囲む卑怯者にしてえのか」

 男勢が血相を変えて我先にと部屋から出る。その後、国広の分のお茶と菓子を出しにきた着物姿の若い女性が来ただけで、この和室にいるのは三人だけとなった。

「それでなんの用だい。また武器が欲しいってか?」

「ええ。リストはここに書いてありますわ」

 フレデリカがスカートのポケットから取り出した紙切れを受け取り、目を通した国広が機水かしい顔をした。

「ほう。これまた物騒な。どっかの組織でも潰そうっていうのかい?」

「……まあ、潰すには潰しますが、魔術絡みですので」

 魔術の単語にライラが高速でフレデリカの方へ首を曲げた。魔術の世界とは関係ない人物に魔術の話をするのは御法度であるからだ。しかし、国広は訝しがることはせず、お茶を啜っただけだった。

「まーた〝そっち側〟か。あんまりこの街で暴れてくれるなよ」

「え、フレデリカ、この人って」

 逆に訝しがるライラへフレデリカがあっけらかんと答えた。

「国広は元魔術師ですわよ」

「え、えええええ!? じゃあ、ここ。結社なの?」

「なんだ、お前。この子になにも伝えてなかったのか? ライラちゃんって言ったかな。俺は三十年前まで神道系の魔術結社で働いていたんだ。もっとも、入社して半年も経たずに逃げて、こっち側に来ちまったがな。あっはっはっはっは。そこら辺の話は長くなるから省くけどよ。フレデリカとは前に色々あってな、たまに協力してやるんだ」

 魔術の才を持っていようとも魔術の世界に馴染めぬ人間は多々いる。機関では、そのような人間が結社を抜けても五月蠅くは言わない。もちろん、魔術の情報を悪用しようとすれば問答無用で罰するだろうが。

 ライラは知らないが、数年前にフレデリカはとある違法術具の商談を潰そうとした。その場所が、轟斬組とは敵対している暴力団が経営する地下カジノであり、国広の部下が玉砕覚悟で相手の親玉を討ちとろうとしていたのだ。

 すると、違法術具を買おうとしていた親玉がすでに撃たれていた。濃い緑のドレスを来た少女に。その後、やれヒットマンが出た! 敵がこっちにもいるぞ! あれは轟斬組の連中だ! と一悶着も二悶着もあり、国広はフレデリカと出会うこととなる。

「あんときは驚いたなー。なんか懐かしい感覚がすると思ったらよ、魔術師が銃を持っているんだからよ。まさか、俺を消そうと結社が殺し屋でも雇ったんじゃないかって肝を冷やしたぜ」

「貴方の商売の全てを肯定しているつもりはありませんが、私は違法魔術絡み専用の魔操銃士ですので。それで、どうですの? できれば今日中に用意して欲しいのですが」

「ああ、任せておけ。これぐらいならすぐに用意できる」

「では、お願いしますわね」

 国広が部屋を出たちょうど、ライラが呼吸を忘れていたかのように大きく息を吐いた。菓子を竹の楊枝で食べるフレデリカへと苦言を漏らす。

「どうして教えてくれなかったのさ。私、無茶苦茶緊張したんだよ」

「国広が元魔術師と知っているのは、この屋敷では私だけですわ。フレデリカ・ラズベリーは魔術師としてこの屋敷に訪れたではなく、若いヒットマンとして参じたのです。貴女がなにか余計なことを言わないようにするためですわ」

 実際問題、国広に魔術師の流儀は通用しない。フレデリカは金を払い、男は銃器を売る。それだけだ。

「あなたもお菓子をいただきなさい。残すのは失礼ですわよ」

「私、ちょっとトイレに行って――っ!」

 立ち上がろうとしたライラが小さく悲鳴を上げて横に倒れた。陸に上がった魚のように口を閉開し、しかめっ面と泣き顔と困惑顔が綯い交ぜになった複雑な表情をする。目には涙さえ滲んでいた。

「あ、足、痺れ、フレデリカ、これ、毒」

「正座に慣れぬ者は足を痺れさせる。当然ですわ。暫くすると治りますから我慢しなさい」

 呆れたようにフレデリカが言うと、ライラが喘ぐように爆弾を落とした。

「だ、だめぇ。で、出ちゃう、漏れちゃうよぉ」

「ちょ、駄目ですわよ。我慢しなさい! こんなところでそんなことすれば、大恥にも程がありますわよ」

 若い娘。それも結社の首領が失禁したとなれば魂に刻みこまれる恥辱となるだろう。友の心に傷をつけないために、フレデリカはライラの足を掴み、指圧マッサージのようにぐりぐりと足裏を揉んだ。激痛が駆け廻ったのだろう。少女の背中がびくんと大きく痙攣した。

「あ、ああ、ひゃう!? だめ、そん、な、あん、ことしたら漏れ」

「こういうときは血の巡りを元に戻すのが先決ですわ。ほら、暴れないでください!」

「そ、ひょんなこといったって~!」

 その後、ライラはなんとか漏らさずに済んだ。しかし、戻ってきた国広は『どうして、こっちの嬢ちゃんは顔を真っ赤にしているんだろう』と頭を悩ませた。

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