第2章 ③
ライラ・D・アプリコットは硬直するフレデリカを押し退けた。間に割って入るようにレイルの前に立つ。杖はすでに収めていた。敵ならともかく、この女に逆らうのは好ましくない。代わり、強気な瞳をつくる。
「こんな時間になにか御用事ですか?」
レイルの表情はごく自然体、穏やかだった。しかし、その形の良い唇か発せられた言葉に、ライラは衝撃を受ける。
「大変だったでしょう。《レイジング・ハート》随一の剣技はどうだったかしら?」
どくん、とライラの心臓の鼓動が跳ね上がる。マリーベルのことはマリオン以外の誰にも告げていない。レイルが知っているなんてありえないのだ。最悪の事実を予想しかけ、杖をしまったことを後悔した。
「なんで、それを知っているんですか? まさか、あのマリーベルって女は貴女の差し金なんじゃ」
「違う違う。私はこの街を管理する副長なんだから、わざわざフレデリカを潰すような真似をするはずないでしょ。ほーら、そんなに怖い顔をしたら駄目よー。スマイルは大切にしないと」
その余裕のある態度にライラは歯ぎしりした。フレデリカが機関に魔操銃士の仕事を任せてもらうまで、どれほどの苦難があったか。科学の産物である銃器で魔術師を殺す。いくら犯罪者といえども同胞。凝り固まった考えに縛られた上層部のプライドが許さなかった。
だからこそ、女は日本にまで来なければいけなかった。《ランドグリーズ魔術師連合(ウィザーズ・ユニオン)》にとって、西洋魔術の影響力がほとんどなく、神道と仏教の盛んな極東の島国のさらに小さい地方都市など重箱の隅のようなものだ。体の良い厄介払いである。これから、女がどれほどの功績を積もうが、結社を持つことはできないし、魔術の総本山である英国で仕事を貰えることはないだろう。
レイルはフレデリカを邪魔者として認識している《ランドグリーズ魔術師連合(ウィザーズ・ユニオン)》の監視役でもある。どんな手を使って陥れようとしているかわかったものではない。
ライラの表情は強張ったままだった。アプリコット家次期頭首の肩書きがあろうとも、この街に限り、副長の方が強い権限を持つ。夕食前にフレデリカが言った通り、彼女には結社を背負う義務がある。責任がある。感情に任せて行動するのは愚直の極みだ。
「どういうシナリオなんですか?」
震える声で言ったのはライラではなかった。マリオンが胸元に両手を当て、気丈に顔を上げていた。まるで、主には指一本触れさせないぞ、とレイルに訴えるように。彼女もまた、フレデリカを守りたいのだ。
「あら、ただの女中が私に質問するの?」
睨みつけられてはいない。ただ、目を合わせられただけだ。それだけで、マリオンが小さく悲鳴を上げた。今、どれほどの恐怖に苦しんでいるのだろうか。今、どれほどの勇気を振り絞っているのだろうか。
「さ、先ほど《レイジング・ハート》について、調べ、ました。マリーベルは首領と唱えたそうですかありえません。なぜ、何故なら、数週間前に、その結社は存続不可能なほどにまで壊滅させられたからです。事件の真相までは解明できませんでしたが、どうして、結社を失った魔術師がフレデリカお嬢様を襲うのですか? あの高度な結界の張られた指輪の正体はいったい、なんなのですか?」
先ほどとはライラ達が出前をとっていた最中だろう。マリオンは白いエプロンをぎゅっと強く握る。
しかし、マリオンの虚勢はレイルの中傷で粉々に打ち砕かれる。スーツを着た女は、嘲るような笑みで唇を歪め、少女を見下ろしながら言った。
「フレデリカお嬢様ねー。落ちこぼれの魔術師モドキにどうして従ってるの? 弱みでも握られたの? それとも同性愛者(レズビアン)かしら。毎日ご主人様の慰め者にでもなってるの? オナニー大好きで股も濡れちゃう? おっきなお嬢様のおっぱいをおしゃぶりしているかなー? ……私の前でさ、喋らないでくれる。人間の形した失敗作の声を聞くだけで耳が腐りそう」
ライラの感情が怒り一色に染め上げられて――銃声。立て続けに六発分の咆哮が女の鼓膜を叩いた。そして、真横を一陣の刃風が駆け抜ける。
「……どういうつもり?」
その場から一歩も動いていないレイルの喉元へ、大型ナイフの切っ先が数ミリ手前まで肉薄していた。冷たい刃と対照的に、烈火の怒りを燃え上がらせたフレデリカがマリオンとは正反対の意味で声を震わしながら言う。
「私を卑下するのは一向に構いません。けれど、私の、大切な、従者を、侮辱、するのは、許さねえですわよ!!」
不味い、とライラは血相を変える。こんなことをして、ただで済むはずがない。弁解のしようもない。魔操銃士の資格を奪われでもしたら。しかし、女の危惧を余所にレイルは頭の高さまで両手を上げた。
「正確無比な早撃ちに芸術的な体術。やっぱり、惜しいわね」
フレデリカとライラが訝しんでいると、レイルは一歩下がって踵を返した。扉を開けて外へと出て行ってしまう。
「二日後よ。負けたら承知しないから」
それだけ言って、レイルは闇の街へと消えていった。
「た、助かったー」
ライラがほっと胸をなで下ろす。緊張の糸から解放され、指先が小刻みに痙攣しだした。固く拳を握って誤魔化すと、マリオンが膝からくずおれてしまった。女はすぐに少女の背中を支える。真冬の外に放り出されたかのように、華奢な身体は震えているままだった。一方、フレデリカはレイルの右肩、肘、腕、手首、手の甲、指先に着弾したはずのシルバーチップが押し潰され、床に落ちているのを凝視していた。
「ちょっと、フレデリカ。私の声聞こえている? ちょっと、ねーってば」
再三にわたって声をかけると、ようやくフレデリカがこちらへと振り向いた。その表情に怒りはなく、今にも泣き出しそうだった。GP‐100とナイフをホルスターに戻し、女はマリオンの前で片膝をついた。
「マリオン。よく、頑張りましたわね」
「お嬢様。私、私は……」
目尻に涙を溜め、しゃっくりを上げるマリオンをフレデリカは母が最愛の子にするように抱き締めた。ライラでは少女を支えられない。ラズベリー家にかせられた契約と呪いを知らないからだ。ゆえに、少女を支えられるのは痛みを共有した女だけ。
胸に顔を埋め、マリオンが声を押し殺して泣く。少女の頭を、フレデリカは黙って撫でた。ライラは先にダイニングへと戻る。
「味噌汁。もう冷えちゃったなー」
夕食がまだ終わっていない。
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