第1章 ⑨

 フレデリカが呪文を唱える数分前、ライラは胃の底が裏返るような嘔吐感を必死に堪えていた。だが、口を物理的に押さえても精神まではどうにもできない。顔色は蒼白になり、術式など思考から霧散していた。

 彼女は戦闘経験が豊富である。幼少の頃から厳しい鍛錬を積み、現在は結社を切り盛りし、数々のトラブルを鎮火してきた。しかし、ライラの自信は粉々に打ち砕かれる。マリーベルは男を殺した。見てしまった。惨たらしい死体を目に焼き付けてしまった。恐怖が彼女の心を蝕み、足が竦む。フレデリカがマリーベルと会話しているのがまるで耳に入らなかった。

これから、あの女と戦うというのか? 勝てるのか? ライラは杖を上手く握れず、落としそうになる。

 そのとき、

「コードF2。リエクト!」

 凛とした声に、ライラの意識が現世に戻る。そして、視界の前方を覆い尽くす霧。フレデリカが踵を返し、こちらの腕を掴んだ。

「逃げますわよ!」

 耳元で囁かれ、ライラは無我夢中で足を振った。後方で爆音と斬撃音が重なり合い、戦いは終わっていないのだとこちらを睨みつけていた。

 それでも、二人は走る、走る、走る。逃げるために。

「疑似生命による私達のダミーを造りつつ、私の住居までむかいますよ。それで異存は?」

「な、なんにもない!」

 ぶんぶんと首を振ったライラは、また人混みの増えた通りを走りながら思う。

 私はいったい、なにに巻き込まれたのだろうと。

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