第1章 ①

                

 その三階建ての雑居ビルは繁華街と住宅街の中間辺りに建っていた。あまりに小さく、みすぼらしく、人が住んでいるとはおおよそ信じられない。看板はなにもなく、事情を知らぬ者にとっては不気味以外の言葉が見付からないだろう。時刻は夜十一時。ビルの一階には灯りが灯されていた。応接間――ソファーにテーブルと椅子があるだけの簡素な室内で、仕事から帰ってきたばかりの魔女・フレデリカは欠伸を噛み殺していた。

「つまらない仕事でしたわね」

 彼女の独り言に返事があった。それも、怒った口調のソプラノボイスで。

「油断していると、いつか足元をすくわれますよ」

 フレデリカは首だけを後ろに曲げ、頬を掻いた。そこに立っていたのは、黒のワンピースの上に白いエプロンドレスを重ね着した十歳もいかないであろう少女だった。真夏を連想させるような黄色みかかったオレンジ色の髪は頭の後ろで左右一本ずつ纏めている。瞳は漆黒であり、眉は若干太めであった。猫あるいは別の小動物か。なんとも愛くるしい姿である。彼女の名はマリオン・デーライト。魔操銃士のお世話係である。

「あら、油断なんてしていませんわ。正直な感想を言ったまで」

 マリオンは眉を寄せ、嘆息した。フレデリカの横まで移動すると、両手で持っていたお盆から右手を放し、上に乗っていた湯気の上るカップをテーブルに置く。鼻孔に届く甘い香りに、魔操銃士は頬を緩めた。

「ご注文通り、蜂蜜入りのホットミルクです」

「ええ、ありがとう」

 一口飲み、フレデリカはほっと息をついた。蜂蜜の甘みが温かい牛乳のまろやかさと混ぜ合わさり、とても美味しい。仕事があった日の寝る前にこれを飲むのが女のルールであった。マリオンが微苦笑し、テーブルを挟んで対面するようにソファーへ座る。

「怪我はしていないようですね。いくつかの薬草をブレンドしていたのに」

「この程度の敵で負傷するようでは魔操銃士なんて名乗れませんわ。ああ、そういえばマリオン。この指輪の解読をして欲しいのですけれど、お願いしますわね。特段急ぎの用ではございませんので」

 胸元に挟んでいた指輪をフレデリカはマリオンに投げた。空でキャッチした少女は目をわずかに見開く。

「これが違法術具ですか? それにしては怪しい臭いなんてしませんけど」

「いいえ。売り手が落とした術具でしょう。それほど魔術的価値があるとは思えませんし、暇な時にでも済ましておきなさい」

「はあ。では、明日中にでも解読しておきます」

 よろしい、とフレデリカはまたホットミルクに口をつけた。マリオンは指輪をテーブルに置き、主の姿を、頬杖をついて眺める。

「不思議ですね。あなたがこんな仕事をしているなんて」

 フレデリカが魔操銃士を日本で始めて三年が経過した。その間、この小さな従者はずっとずっと主の傍にいた。ずっとだ。ゆえに、本人だからこそ気が付かないことも深く知っている。幼いのは外見だけだ。マリオンは老獪な笑みを浮かべ、言う。

「血と才が全ての魔術の世界において、努力と根性だけで不可能を打破したのは貴女だけです。少なくとも、私が見てきた中ではね。……そろそろ、家に帰ったらどうですか? 今なら、奥様もお許しになると思いますけど」

 マリオンの助言に、フレデリカはカップの中身が空になるまで一言も告げなかった。

「あの人は許すも許さないも関係ありませんの。だって、初めから私に無関心なのですから」

 最も有名な機関に《ランドグリーズ魔術師連合(ウィザーズ・ユニオン)》という、千三百七十六の魔術系統と十八万四千九十一の結社を束ね、魔法使い総人口約4千万人の内九割が加盟している、世界最大の魔術互助組合が存在する。

 ラズベリー家は、その中でも十指に入る高名な魔術家であり、代々続くラズベリーの魔術結社スカーレット・サークルは一万三千近くの結社を従えている。

 補足するなら、なにも、《ランドグリーズ魔術師連合(ウィザーズ・ユニオン)》は一つ一つの結社と契約しているのではなく、幾つかの結社を束ねる、さらに大きな結社と契約を結んでいるのだ。よって、《スカーレット・サークル》と契約を結ぶと他一万三千分と結んだことになる。

 取り分け、フレデリカの姉・フランカは近代魔術師内では随一の実力を誇る。反面、妹である彼女は魔力総量が低く、魔術師としては欠陥品だ。銃器で火力を補っているのが良い例である。戦闘としては効率重視の素晴らしい閃きだが、古い仕来りを重んじる魔術師とっては異端なのだ。

 少女が視線を落とした机の上には、革製のホルスターに納められている回転式拳銃が置かれてあった。

 GP‐100。全長約二百四十四ミリ、重量千百四十グラム。装弾数は計六発。撃鉄が起きていない状態からでも撃てるダブルアクション機構とトランスファーバー(射撃時以外で撃針が雷管を叩かないようにする仕組み)の安全装置を組みこんでいる。

銃身とフレームは肉厚に作られているわりに、部分によってはシャープさも感じられる。

「今日もお疲れ様でしたわ」

 少女がこの銃器を選んだのは、威力の高いマグナム弾が撃てる事と、回転式拳銃のメカニズムがシンプルだからだ。実際、この相棒は今日まで故障一つなく自分の無茶につき合ってくれた。これからもずっと使っていくだろう。

 フレデリカはおもむろに銃を引き抜き、撃鉄を起こした。そして、引き金を絞る。

ガチッと、撃鉄が落ちた。しかし、銃口からはなにも射出されない。弾薬は全て外してあった。フレデリカは何度か同じ動作を繰り返す。

 片手でも撃鉄を起こすのはなんら苦にならない。引き金も軽かった。

使いやすくなるように改造したのである。

 暫くして、女は銃をテーブルのホルスターに戻した。それまで、マリオンはずっと彼女の傍にいてくれた。

「マリオンこそ、どうして私の傍にいるのですか? フランカお姉様に着いて行けば、将来を約束されましたのに。デーライト家はラズベリー家の当主に代々と仕えてきたではありませんか」

 フレデリカが何気なく言うと、マリオンの表情に影が射した。沈鬱な面持ちで下唇を噛む。

「……私を人として扱ってくれたのはフレデリカ様だけでした。あんなところ、もう二度と戻りたくありません。私が使えるのはこの世でただ一人、貴女だけです。冗談でも、そのようなことは言わないでください」

「ごめんなさい、マリオン」

「わ、わかればいいのです。さ、もう寝ましょう。夜更かしは肌の天敵ですわ」

 立ち上がり、空になったカップをお盆に戻してマリオンが奥の部屋に戻ろうとしたとき、

「……マリオン」

フレデリカは右手を伸ばし、少女の腕を掴んだ。何事かと従者が振り向き、

「――ひゃっ!?」

 マリオンの柔らかそうな頬に、フレデリカの唇が触れた。少女の顔が紅潮し、湯気が出そうだった。

 フレデリカが立ち上がり、ウインクして応接間を去る。向かう先は己の部屋だ。

「ご褒美ですわ。次は、唇かもしれませんわね」

「ば、馬鹿なことをしないでください!」

 マリオンの激昂にも振り向かず、フレデリカは応接間の扉を開けるのだった。

                 ◇

 棚にカップをしまい、マリオンは頬に手を当てた。すると、また顔に熱が集まってくる。ぶんぶんと何度も首を振り、荒くなった呼吸を整える。少女の主――フレデリカは面白半分で過度なスキンシップをとることが多々ある。後ろから抱きついたり、一緒に風呂に入るのを強要したり枚挙に遑がない。

「まったく、こっちのことも考えてほしいものです。……やめてほしくはありませんけど」

 実を言えば嬉しいのだ。自分を唯一〝人〟として接してくれるフレデリカには感謝しても仕切れない。だからこそ、彼女に着いて行くと決めたのだから。といっても、やはりスキンシップが照れ臭い。嬉しい、好きだ、けど恥ずかしい。色々な感情が溶け合って、脳がおかしく鳴りそうだった。

 弾けそうな心を抑えるように、マリオンは下唇を噛んだ。顔を両手で包み、目をきつく閉じる。目蓋の裏に映るのは無論、フレデリカの姿。

「私がお仕えしないで、誰が貴女様を支えるというのですか」

 一人誓う。胸に刻みつけるように呟く。

 マリオンの居場所は〝ここ〟なのだ。

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