第11話 ちぎれ雲の流れるところ

 ドンドンドン

 早朝の静けさを破るガラス戸を激しく叩く音に、槇村と佐田の目は醒めた。

 特高か!警戒のため服を着たまま横になっていた二人はがばっと身を起こした。昨夜の逃亡劇の後ようやく眠りに落ちたのが明け方で、神経はまだ昂ったままだ。

「はいはいはい、誰よ、うるさいわねえ」

 間宮未亡人のいかにも眠そうな、のんびりとした声と共に階下で動き出す気配。そして不意に廊下でがちゃーんと激しい物音がした。

 薄く戸を開けて見ると、アルミの水汲み柄杓が階下から投げ込まれ、転がっていた。寝ていると思しき二人に知らせるために、未亡人が投げ上げたものに違いない。

 槇村と佐田はそそくさと身なりを整え、枕元の靴を引き寄せた。

「おかあさん、いるんでしょ。いつまでも寝てないでよ」

 イライラした若い女の声が響く。

「分かったわよ、大声出しなさんな、みっともない」

 未亡人が玄関の鍵と突っ張り棒を外すと、けたたましい音を立てて戸が開き若い女が飛び込んできた。化粧っ気もなく目を吊り上げた間宮リカだった。

「あらお嬢さん随分早いじゃない、何か御用?」

「ご用じゃないわよ。ちょっと奥に入らせて」

 やや声を潜め、リカはずんずんと奥の茶の間に入った。明らかに何かを警戒している。彼女は昨夜芝居の後散り散りになった作家達の一人、碧生蒼太郎のパートナーだ。彼が特高にでも捕まったのだろうか。

「槇村さん……」

 佐田が心配そうに階下をうかがう。

「静かに。話が聞こえてきますよ」


 母と娘は玄関から茶の間に移った。もちろんきちんと玄関の鍵は閉めてある。

「で、どうしたのこんなに早く」

 茶卓を挟んで向かい合う二人の女は鋭い目を交わし合った。母はしどけない寝巻の浴衣姿、娘は手縫いのワンピースである。

「昨夜から今朝にかけて、そちらに変った人達が来なかった?」

「変った人達って、別に。誰も来ないけど」

「警察とか……特高とか」

「来ないわねえ。惣菜屋の集金人くらいしか来ないわ」

「本当ね」

「嘘ついてどうするのよ。何かあったの? 」

 リカはほうっと一息ついた。つ、と立って自分で湯のみに水をくみ、持ってきた。この母が茶など出す女でないことは十分承知だ。それに自分は客ではない。

「この家にいた書生の槇村さんって覚えてる?貴女の愛人だった人よね」

「ああ、学生さんね。確かに居たわねえ」

「その人、今は舞台作家になって劇団に入ってるらしいの」

「あらあらご立派」

「茶化さないで。それで、昨晩彼の書いた劇の公演があって、碧生先生は招待を受けて出かけたの。片桐さんと湯浅神父と一緒にね。そこで特高と一悶着あって」

「あらあ……」

 間宮未亡人はそこで初め事情が分かったという顔をした。

「で、貴女の相方さんが捕まっちゃったの?」

「まさか。それだったら私がこうして出歩いたりできないわ。芝居がはねた瞬間に特高がなだれ込んできたけど、碧生さん達は皆逃げ切った。随分遅くに帰っていらしたわ」

「よかったわねえ」

 槇村と佐田もホッとした。お客も大勢しょっ引かれ碧生達はどうなったか気にかかっていたのだ。

「ともかく、その特高が問題視してる芝居の作者が、貴女がずっと下僕にして飼育していた槇村さんって事。そして今は取り締まりの対象になっているっていうのを耳に入れたくて」

「あらあらお優しいのねリカちゃんったら。心配してくれて可愛い」

 母の能天気な様子に娘はため息をついて立ち上がった。

「関係ないならいいけど、お母さんも気をつけなさいよ」

「わかった」

 リカは美しい顔をしかめながら帰って行った。相変わらずこちらの言う事にちゃんと答えてくれない母だ。だがその母が、自分がいたその家に二人を匿っている事は気が付かなかった。


 朝になり四ツ谷舟町の小路にも行き交う人の姿が目立つようになった頃、佐田と槇村はお礼を言って間宮家を辞した。二人はひとまず槇村のぼろぼろの下宿へ向かおうとしたが、静かな住宅地のそこかしこに、明らかに異質な空気を醸しながら佇んでいる人影を見た。訓練された犬のように近所をうろつく、特高警察とその協力者である事はすぐに分かった。槇村は遠くからその姿を見るや踵を返した。

 佐田の一人暮らしの下宿も同様だった。白昼の街中に影のように移動する男達。佐田と槇村は着の身着のままで町に放逐されてしまった。

 劇団の他の仲間は無事だろうか。団長や主演男優の杉本に連絡を取ろうと思っても、下手に動く事はできない。

 あの楽屋の荒され方だと、取り締まりは一過性のものではなく、劇団の上部組織まで根絶やしにしようと睨まれての結果だ。

 困り果てた二人は、昨夜交わした碧生や湯浅との会話を手掛かりに、目白のサナトリウムに向かった。

 レフ少年にもらった名刺の住所にも内心魅かれたが、まだ正体がわからない。確かに話は素晴らしいが槇村は彼を警戒し、直接家を訪れるのはためらった。


 街を行く屈強な背広の男達に怯え、警官の姿を見ては避けながら市電に乗った佐田と槇村は、江戸川橋から目白の坂を上った。市電の目白から雑司が谷や女学校の前を通って坂を下りる路もあったが、少しでも近い方を選んだのだ。

 目白の丘の上のカトリック教会のすぐ脇に、英国の田舎の邸宅風のサナトリウムはある。槇村はその存在を文芸誌で読んで知っていた。随筆家の医師・徳永の経営で作家・碧生蒼太郎も療養していた理想的な施設。粗い写真ではあったが教会の尖塔を背景にのびのびと過ごす患者達の暮らしぶりが紹介されていたのを覚えていた。

 官憲から追われたどり着いてみると、目白台の丘の天辺で、その辺りでは最も空の青に近く、いい風が吹き抜ける。なるほど胸を病む人の療養には格好の環境だ。

 初夏から梅雨寒に入りつつあったこの日、サナトリウムの門から外壁にはぐるりとつる薔薇が白いつぼみを房につけ、今まさに咲こうとしている。紫色のライラックや、中の建物の茶色い屋根に届きそうな程すらりと伸び、艶やかな紅い花房を幾つも着けるマロニエの大木。

 せせこましい自分の下宿の周囲や築地の劇場周りの物々しさとは別世界だ。自分達のいる世界とはレベルが違う。碧生蒼太郎はこんな別天地で療養生活を送っていたのか。

 キャリアは比べ物にならないが、同じ物書きとして槇村は嫉妬を覚えた。

 その碧生はもう退院して間宮リカと暮らしているはず。突然自分のような、施設と縁遠い者が押しかけても追い返されるかもしれない。槇村はしばし考えた。

「まずは教会に行きましょう、佐田さん」

「え なぜ教会に。 貴方はクリスチャンだったの?」

「違いますよ。いきなりの訪問より知っている人を介して、まずは僕らを紹介してもらったほうがいいでしょう」


 目白司教座聖堂の受付に問い合わせると、堂主の男は二人の切羽詰まった様子に怪訝な顔をしたが、すぐに湯浅神父を呼んでくれた。

 その様子から危急の懺悔希望者とでも思われたに違いない。

「あなた達は運がいいですよ。神父様は最近とてもお忙しく、教会や隣の療養所に居ない事が多いのです。どこか遠くへお出かけらしくて」

 口が軽い堂主はどうやら退屈していたらしい。

 ややあって悠然と歩いてきた神父は教会受付で待つ二人に驚き、無事逃げのびたことを祝福した。

「観劇に行って思いがけない活劇の当事者になるとは、私も想像しませんでしたよ。日頃この坂道で足腰を鍛えておいてよかった」

「碧生先生や片桐さんも一緒に逃げおおせたのですか?」

「ええ。三人とも何とか。碧生さんは急に激しい運動をしたのと、もみあいになって少し殴られたので大事をとって休んでいますが」

 槇村はぎり、と歯を噛みしめた。今朝がた間宮夫人の元へやってきたリカの剣幕が理解できた。

「事情は承知しました。奥様共々私の方からも院長に口添えしましょう。病院内に二人で働ける職は幾らでもあるでしょう」

 神父は二人を促し立ち上がった。壁に取り付けられた大きな十字架が無言で威圧してくるようだ。


 サナトリウムの院長、徳永医師は逃れてきた佐田と槇村を歓迎した。二人の所属を既に湯浅神父に聴いていたのか、プロレタリア団体の名前を出しても平気だった。

「気鋭の美人女優と脚本家の二人、というのがまたいいではないですか。それこそ人生。人生はどこに転がっていくかわからない、それもまた楽し、ですよ」

 世相がきな臭くなりつつあろうと変わらない、飄々とした口調で二人を迎えると、即住み込みで雇ってくれた。制服を与えられ、住み込み者用の2人部屋があてがわれた。

 院内の仕事は数え切れないほどあった。看護師や医師の手助け、建物の手入れ、患者の日常の世話。通常の病院や療養所より職員数が多く勤務体制に余裕があるとはいえ、現代のように機械化が進んでいない昭和初期である。人の手は幾らあっても足りなかった。

 今まで花形女優として過ごしてきた佐田が果たして無事やって行けるのだろうか。槇村は密かに心配したが、その憂いは不必要だった。

 病人の移動介助に洗髪介助、着替え、ベッドのシーツ替えに汚れものの始末や身体清拭。掃除や洗濯や食事の支度と補助。

 数限りない療養所内の仕事を佐田は生き生きとこなしていた。

「もっと使えない奴だと思っていました?でも私、専業役者になるまでは色々やってきたから」

 控室に戻って同僚の職員と談笑しながら、佐田芳子は美しい素顔にやや荒れた手を当てがって笑った。役者として自分を追い込み、作中の「誰か」として生きている時より伸びやかな表情だ。

 一方槇村はというと、彼も将来の生真面目さを発揮して黙々と働いていた。元来病人の世話は力仕事である。わがままな未亡人の下僕として長年お仕えしてきた槇村には、男だからという余計なプライドやごり押しはなかった。

 糞尿に汚れた下半身の清拭も、患者の喀血の後始末も眉一つ動かさず黙々とやってのける槇村は、貴重な働き手として職員の信頼を集めていたが、彼には唯一気がかりな点があった。間宮記者の子息、間宮ヨハネがここに入院しているという事である。


 18歳からずっと間宮家に住み込んでいた槇村は、ヨハネの事を生まれる前から知っていた。彼は生まれつき体が弱く、ひんひんと力なく泣いてばかりで女中や母である間宮夫人を困らせていた。いつも年上の姉のリカが前面に立って弟を守っていた。

 サナトリウムに落ち着いた事をそのリカと碧生に知らせようか、槇村は逡巡した。劇団やプロットの仲間も大勢身柄を拘束され行方が分からない現在、散り散りになってしまったままの自分達を心配しているかもしれない。だが佐田芳子は必要ないと首を振った。

「あなたがお世話になっていた記者先生の奥様が、きっと娘さんのお耳に入れるわ。今下手に人づてで連絡を取ろうとするのは危ないわ」

 彼女は間宮未亡人の事を信用していないのか、とその口調で槇村は感じた。


 しばらく日が経ちサナトリウムの作業にもすっかり慣れ、元からいる職員と区別がつかない程馴染んだ槇村は、中庭の設備の手入れをしていた。

 木材と真鍮で作られた手の込んだ細工のベンチやテーブル、噴水や像を磨き、細かにひび割れや傷や腐食がないかチェックし補修する。演劇の裏方として大道具の手配や舞台の設営をこなしていた槇村には、それは大変でも何でもない楽な仕事で、おまけに期限も決まっていないのでのんびりしていた。

 傷んだ部分を交換し同じ形に削り出し、鑢をかけて滑らかにしてペンキを塗る。体の弱った患者がひっかき傷などで危険な菌に感染しないよう、大理石の庭石も置物も、歯ブラシと磨き粉で念入りにこすり、水で流した後磨きをかける。

 穏やかな日の光と軽く吹き渡る風。花壇の薔薇やユリの周りには蜜蜂や蝶が飛び交い患者達が寛いでいる。槇村は上京して初めてと言っていい程平安な時間を過ごしていた。

「あの、少し手を貸してもらえますか」

 修理した庭置きの縁台に鑢をかける槇村に、ラベンダーの茂みの奥から呼びかける声。少年だ。

「この段差が乗り越えられなくて。ちょっと押してください」

 工具を置き手を拭きながら向かうと、車いすに乗った少年が困った顔で、車輪を回そうと難儀していた。

「坊ちゃん無理なさいますな。今お手伝いしますよ」

 少年は明るい顔を槇村に向けた。小づくりな輪郭と目鼻立ちに、やや斜視気味な大きな目、車いすの背に凭れた体が少しかしいでいる。間宮記者の遺児ヨハネだ。間違いない。槇村は直感で分かった。

「ここは段差だからいつもは通らないんです。車輪がつっかえっちゃうのは覚えていたから。でも今日はこのラベンダーの花の中に入ってみたくて、つい入りこんじゃった」

「いいんです。今は私がいますから。ちょっとガタンとしますよ」

 槇村は少年の車いすを押し、石畳のやや鋭い段差を乗り越えた。そして知った。少年は小柄なのではない。椅子に座りひざ掛けをかけた脛が驚くほど長い。

 結核が骨にまわって背骨が縮んでいるから小さく見えるのだ。

「ありがとう。もう大丈夫です」

「もしかして君は、間宮ヨハネ君?」

 土とニスの着いた作業着に手ぬぐいを首にかけた庭男から話しかけられ、ヨハネ少年は当惑した。白目勝ちの瞳をややしかめて、誰だろうと見つめる、その表情がかつて愛した間宮未亡人、ヨハネの母親にそっくりで、槇村の心は波立った。

「僕の名前を知ってるの?」

「はい。私は貴方が生まれる前から知ってます。昔坊ちゃんのお父さんの、書生をしていたんです。四ツ谷の御宅に住み込みで働いていました」

「ええ?」

 ヨハネは驚いて目を見張った。

「新しい職員の人ですよね。夫婦で住み込みで入ったという……本当ですか? お父さんを知ってるんですか?」

 目を輝かせるヨハネは父を知らない。父親は彼が生まれる前に急死していたからだ。書生で、間宮一家の傍近くにいた槇村はよく覚えていた。

「お父さんって僕に似てますか?よくお母さんそっくりとは言われるんですけど。頭のいい人だったんでしょ、そうでしょう」

 ヨハネは目を輝かせて矢継ぎ早に質問する。姉や母親に聴いても言葉を濁すばかりで満足に答えてくれないからだ。

 実際ヨハネは母親にばかり似ていた。大きな斜視気味の目や肌の色、ふとした仕草、顔つき。

 だが軽く癖のある髪質や髪の色、上向きにややそっくり返った鼻の形は自分に似ていた。間宮記者とはあまり似ていない。

「男の子は母親に似ると言いますからね、坊ちゃん。だからお姉さんはお父様そっくりでしょう」

「そう言われるんですよね。でも父は写真もあまり残っていないし、姉さんも仕事とお酒のお付き合いでいつも家に居なかったというし、父の話って聞けないんですよ」

 槇村はうなずいた。確かに鞄持ちである自分達書生より精力的に外に出て動き回っていたし、酒席でも一番飲んで大騒ぎしていた。気性も激しく笑ったり泣いたり怒ったり、とても忙しい人だった。姉のリカの気性の激しさは確実に父親に似ているが、この『息子』はどうだろうか。

「お父様は……そう、仰る通りとても頭のいい人で、新聞社の中でも一目置かれ、皆記事を書いてもらいたがりましたよ。そして書いた文章は見事で、先生が書いた日は新聞がよく売れました」

「わあ、素晴らしいですね。頭のいい父親なんて素敵です。お姉さんにその才能が行ったんだなあ」

 ヨハネは嬉しそうに笑った。その表情はますます槇村本人に似ている気がした。もっとも彼自身笑いを忘れて久しいが。

「だからとても忙しかったのです。先生は政治家の不正や醜聞を鋭く暴く記事を書いていましたから、取材中は家族が狙われないように新聞社に泊まりこんだり。我々弟子も身辺警備のために一緒に着いていましたが」

「なんかワクワクするなあ。自分のお父さんが戦う人だったなんて、憧れます。僕はこんなに体が弱いから」

「先生は弱い者の味方だったんですよ。不正でごまかした金を蓄財し、私利私欲で公金をくすねるような政治家や経営者を断固許しませんでした」

 いつの間にか槇村も間宮記者について語るのに熱を帯びてきた。あの頃は記者に心酔し、彼の行く所どこにでもついて行った。それこそ芸者の所へも娼婦の所へも。そして嫉妬した奥様に当てつけもかねて誘惑された。男女の機微も駆け引きも、何も知らない18歳の小僧だった自分が。そこから盲目的に溺れて行ったのは自分の責任だ。

「槇村さんに逢えてよかった。家族は誰もこんなに教えてくれません。仕事をしている父の事なんて、誰も知らないから。でも家より社会の事の方に関心があったのかなあ」

 例えそうだったとしても僕は父の事が一層好きになりましたよ。よくは知らないけど、ずっと憧れだったんですよ。屈託なく笑うヨハネ少年は、感謝のまなざしで槇村を見上げる。

 私の子だ。否定しようもなく私の子だ。槇村は冷たい汗が背中を流れた。

「そんな事はありません、ヨハネ坊ちゃん」

 槇村は力強く否定した。彼は思い出していた。大きくなっていく妻のお腹を愛おしそうに触りながら、リカと歳の離れた弟になるなあ、年取ってからできた子は可愛いというがどれだけ可愛いのかなと相好を崩す先生の姿を。強がりの間宮記者は酒が入らないと愛情表現が上手くできなかったが、酔っぱらって嫌がられながらも長女のリカを傍に置きたがった。

 正直な、人間臭い、愛すべき先生だった。

「間宮先生は……ご家族を本当に大事にされていました。お忙しい中でもお母様やお姉さんを本当に愛しておられて」

 ワクワクと自分を笑顔で見上げるヨハネに、槇村は笑いかけた。やっとの思いで口の端を持ち上げ、ヨハネの目を見て思った。この瞬間俺たちは同じ顔をしているに違いない、と。

「お父さんは、ヨハネ君がお腹の中にいる時から、とっても可愛がっておいででした。元気に出ておいで、生まれてきたら一緒に色んな所に行って、沢山本を読もう。本だけはいっぱい持っているからね、と。お腹の中の貴方に三国志演義や西遊記、イギリス倫敦塔の怪奇話等読んで聞かせておられました。本当に、貴方が生まれるのをどれだけ楽しみにしておられたか」

「ありがとう。それを聴きたかったんだ」

 遠くで槇村を呼ぶ声がした。庭園整備の班長だ。

「では私は行きますね。坊ちゃん、お体が少しずつでもよくなりますように」

「うん。よくなるよ」

 ヨハネ少年の嬉しそうな笑顔を、槇村はこれ以上見ていられなかった。逃げるように整備小屋に戻るとホッとした。

 以来槇村は、患者となるべく接しない仕事を選ぶようになった。例えきつくても汚れ仕事でも彼にはその方が楽だった。サナトリウムで働く日々は至極平穏で、佐田芳子も同僚の女性達と仲良く交わりながら、穏やかな日々を過ごしていた。プロレタリア革命も、労働者の権利闘争も、青年同盟もシュプレキコールも、ここでは遠い事のように思えた。

 

 同じ年1936年の7月。戦争の火の手がスペインから上がった。

 王政から共和制に移行したばかり、共産主義勢力がデモを起こす不安定な政治情勢に乗じて、追放先のカナリア諸島から本国の反乱将校に呼応し脱出した軍人、フランシスコ・フランコがスペイン本土に攻め上った。彼こそ後の独裁者、フランコ将軍である。

 碧生蒼太郎の過敏な神経は内戦を我が事のように生々しくとらえ、心痛めた。そしてミカエル湯浅神父もまた、内戦の様子をかなり細かい経緯まで知っていた。大新聞社の特派員や従軍記者すら足元にも及ばない程の情報を耳にする事ができた。なぜか。

 神父の情報源は教会だった。彼の所属する修道会は中世以来の歴史を持ち、世界中にネットワークを持っている。カスティーリヤやアンダルシア、ガリシアやナヴァラなどスペイン各地の聖職者達が本国から、またイギリス人やフランス人の宣教師が自分達の植民地から情報を流しているのだ。

 カトリック教会は最初から反共和党フランコ支持を打ち出し、フランコも教会を尊重する旨を公表した。だが実際は戦闘の中でフランコ軍も教会を砲撃対象にしている。

「教会は安心しきっています。冗談ではない。対共産主義を第一にするあまりもう一人の真の悪魔、ファシスト・フランコを見るまいとしているのです」

 目白台の教会の小聖堂で湯浅は呟いた。一緒にいるのは絵師・片桐である。彼はパリとベルリンに留学経験があり、当時の友人から欧州の目に見える変化を書いた手紙が送られている。人形や菓子、楽譜に巧妙に隠して送られるそれらの手紙は船便なので日数はかかったが、ヨーロッパの人々が何に怯え、若者達が何に心を挫かれ、そしていかに暴力で心が奪われていったかを伝えてくる。

 湯浅神父は珍しく熱っぽく語った。

「ただし人心掌握で言うならば、もう一方の悪魔の方がずっと長けています。ユダヤ人を迫害し追放し、財産を没収して財源に充て、公共事業を起こし雇用を生み、人々にパンと肉と安定を与えて安心させる」

「それはどこの甘い悪魔ですか?」

 片桐が尋ねた。

「貴方もよくご存じの国、ドイツです」

「ドイツ……共産党の仲間達からはそういった情報は来ていません」

「貴方達コミンテルン派の人々こそ人心に寄り添っていない。ソビエトの方ばかり向いている。私に言わせると神と教会を否定するスターリンと、もう一方の悪魔は同じ人種です」

「ナチス党の『総統』の事ですか?」

「そう。フューラー・アドルフ・ヒトラーです。彼は間違いなくスペインをはじめヨーロッパ全土を狙います」

 送られてきた原書の「我が闘争」も片桐は読んでいた。湯浅と片桐は地球の反対側のヨーロッパの戦いがやがて悪魔達を勇気づけ、世界に悪魔の触手が伸びる事を恐れた。だがもう一方の悪魔・スターリンがソビエトの内部で何を行っているかは伝わってこなかった。教会の情報網も、革命後に徹底的に破壊されたロシア正教ネットワークまでは繋がっていなかったのである。


 五月の終わり。梅雨時にはまだ早い初夏の東京市は萌え出る新緑と花の季節である。四ツ谷は省線の土手の緑もこぼれんばかりで光と空の青を映して微妙な重なり合いを見せていた。

 絵師・片桐はこの季節を愛していた。東京市が日本が一年の中で最も美しく輝く日。だがその晴天は時として俄かに雲が低く垂れこめ、雨が叩き付けることもある。その日はそんな天候で、外出時に紳士の嗜みとして持ち歩いているこうもり傘が役にたった。しばらく足が遠のいていた四ツ谷の古書店に顔を出そうと、彼は坂道を歩いた。

 片桐が重いドアを開けると、古書店の女主人大柄なドイツ婦人のマダム・ブコウスキーは、変わらず不機嫌そうな表情で本の整理をしていた。

「ああ雨の湿気が入るから早く閉めておくれ。コウモリはドアの脇に置くんだよ」

 傘をさしていたとはいえ裾や肩や背中が濡れたマント姿の片桐を、マダムは険しい目で見た。片桐は素直に傘を置き、脱いだマントを裏返して丸め、手持ちの風呂敷に包んだ。仕方がない。この店にある西洋の古書や楽譜・楽器は一点物が多いし、ここでしか扱っていない希少な物品も多いのだ。

「マダム、盛況ですね。本の入荷も多いようでなにより」

 店の奥のバックヤードに整然と並んでいる入荷したての西洋の書物に片桐は食指が動いた。

 客は彼の他に数人。全員が西洋人、いや黒い帽子を被り髭を伸ばしたユダヤ教のレヴィと思われる老人もいる。

「このごろ引っ越しをする西洋人家族からの引き取りが多くて。急に本国に帰る人が増えたみたいでね」

 マダムはさりげなく両手を腰の後ろに回し、縛られた振りをして見せた。特高の国外退去命令か……片桐は納得した。来月行われるというドイツ・ベルリンオリンピックの次の開催地は東京が名乗りを上げているという。それを理由に共産主義分子が紛れ込まないようにする為か、外国人には特に監視の目が厳しくなっている。

 貴方のお気に入りの坊っちゃまも来ているよ、とマダムが言った。間口は狭いがウナギの寝床のように縦に細長い店の、バックヤードに通じる手前にテーブルを置いて、明るい色の髪と瞳の少年が勉強をしていた。ドイツ語の原書を読み帳面に書き写しては消して、また書く。そのやや離れた奥にきちんと控えているのは、着物姿の忠実な子守係「みかねえ」だ。

「富士見君、お久しぶり」

「こんにちは、片桐さん」

 ノートを広げたままレオ少年は立ち上がった。少し見ないだけなのに背が伸びてめっきり大人びた容姿になっている。

「試験はどうだった?」

「まあまあです。語学と理科と数学だけはいつも満点なのですが、読み方と綴り方がどうも苦手で」

 学校の定期考査があるといい、レオ少年は片桐のアトリエから足が遠のいていた。数学は常に正しい解がありその説き方の道筋もあるのに国語はそれがない。あらゆる事が正解にも不正解にもなる。それが苦手なのだと話すレオ少年はドイツとロシアの血を引くからだろうか、中学生なのに日本の大学生より余程大人びて見える。ふと片桐は気がついた。どこか違和感があると思った一因は富士見レオ少年の服装だ。平日の昼前だというのに彼は中学の制服でなく、白いワイシャツに背広を着ているのだ。

「今日は学校はなかったのですか」

「学校は試験の後ずっとお休みしているんです。授業の中身も先生も友人も、皆つまらないし息が詰まります」

「おやおや、大人顔負けの繊細なアンテナを持っているんですね」

「片桐さんもお気づきでしょう。帝都の叛乱からこっち押さえつけられるような、見張られているような雰囲気を。僕は外国人だから尚更です」

「坊ちゃま」

 みかねえが他の客に素早く目を走らせ、嗜めた。どこで誰が何の為に聞き耳を立てているか分からないご時世だ。

 マダム・ブコウスキーは話を聞いていないふりをして、さりげなく片桐に頷いてみせた。今店内にいる人物は心配ないという事だ。恐らく皆マダムの息がかかったコミンテルンの関係者なのだろう。

「はいはいわかってますよ、みかねえ」

 困ったような笑顔で子守係を黙らせると、レオは意味ありげに片桐に近づいた。

「実は留学の準備をしているのです。まずはドイツへ。あそこは今オリンピックの準備で勢いが盛んな国ですし、色々な国の人が来る。その先は……決まっていませんが」

 彼はソビエトに行きたいのではないか。ふと片桐はそう思った。

「そうですか。ちょっと若すぎるような気もするが、ご両親もヨーロッパにいらっしゃるのでしたか」

「はい。目下パリに、商売の美術品の買い付けに」

「では丁度いいですね。ドイツの後はフランスに行かれるといいです。あそこも実に雑多な、面白い人達が集まる国です」

「そこも候補の一つです。とにかく日本に居たのでは僕は潰されてしまいそうで。片桐さんも若い頃留学されたからわかるでしょう」

 片桐はうなずいた。自分も碧生もリカも湯浅も。多少嗅覚のあるものならば誰もが感じる緩やかな恐怖だ。

「良い見識です。戻って来た君の成長を楽しみにしています」

 美しい少年は、ありがとうと片桐に近づいた。

「久々に、僕の画を描いていただけませんか? 見ての通りどんどん背が伸びるので、遊学後に片桐さんにお目にかかる時は全く違う容貌になっているかもしれない」

「わかりました。描きましょう、少年の貴方の現在を」

 そしてレオの背後にちらりと目を走らせながら耳元に囁いた

「その時はこちらの保護者様はご遠慮いただきたいものです」

 二人の男は顔を見合わせて微笑み、みかねえは憮然とした。


 数日後、レオは片桐のアトリエの前に立った。四ツ谷の小さな家が密集する路地裏に佇む、外壁のペンキもはげかけた年季の入った小さな一軒家。大震災以前から建っているという古屋だ。屋根のトタンも変色し、外観もあばら家そのもので、近所の子供達からはお化けが出ると噂されているが、レオ少年は知っている。一歩中に入ればこの空気の痛い帝都とは別世界が待っているという事を。

 6月に入ったばかり、夏の上着を脱ぎきちんと腕にかけて、少年はドアをノックした。

「どうぞ」

 片桐の声が中から返ってくる。いつもの如く鍵は開いていた。モデルの少年少女達が出入りしやすいように、また近所の大人達からよからぬ疑いをかけられないように、鍵はかけない主義なのだ。

 いつもの軽い挨拶をして、レオ少年はアトリエに入った。


 変っていない。何一つ変わっていない。様々な少年少女がモデルとして出入りしているはずなのに、片桐のアトリエの中に置かれた物の趣味や配置は、その子供達の好みを超越した様に全く変わらない。幼いリカがモデルをしていた昭和初期から時が止まったようだ。レオは足を踏み入れた時から、ここでの自分は外と全く違う時間軸に生きていると感じていた。

「暑いですね。水出しの紅茶を作っておきましたよ。まずは喉を潤して」

「その前に手を洗わせてください」

 洗面所でざぶざぶと手と顔を洗うと、壁のフックに沢山掛かっている西洋のタオルで拭く。この舶来のタオルも一流のホテルで外国人相手に使われているランクだ。家の外からは分からない片桐の豊かな暮らしぶりがうかがえた。その資金の出どころは? 絵師としての収入だけとはレオには考え難かった。

 先刻氷屋から届けられた氷をかいて水出しの紅茶を注ぐ。アイスティーというアメリカの暑い地域で作られるお茶の出し方ですよ、と片桐は教えてくれた。

「へえ綺麗なものですね。我が家は珈琲が多くて紅茶は滅多に出ませんから、こんな綺麗な赤褐色だと思わなかった」

 波打った肌のグラスを眼の高さに掲げて陽に透かし、お茶の透き通った色味を楽しむ少年を、片桐はささっと描きとめた。

「もう始まっているんですか」

「そうですよ。君はいつも通り好きにお過ごしなさい。こちらが勝手に描きますから」

「以前のようにおしゃべりしながらでもよろしいですか?」

「ええ。どうぞお好きに。私も普通にしています」


 窓を閉めた「アトリエ」は日差しが薄い紗のカーテンを通して入り込み、初夏とは言えテーブル上の本のページが黄ばんでしまう程光でいっぱいだ。覗きにくる近所の人たちを嫌がり、片桐はモデルを呼んだ時は常に窓を閉めておく。ドアは鍵をかけないのに、とレオは少し可笑しくなった。当然カーテンはひらりともそよかず、その熱気に彼は辟易した。

「ちょっとはしたない事をしていいですか?」

「どうぞどうぞ」

「すみません、暑いので」

 白いシャツの上からボタンをはずし、詰まった襟元を大きく広げてレオはほっと一息ついた。

 楊柳の夏の下着は薄手で、少年の意外と逞しい首や肩の骨と、

ぴんと張った筋、くっきりと輪郭を持った筋肉を際立たせる。

「失礼。外から面白がって覗かれると困るので、窓は閉めています。そのスペイン土産の扇をお使いなさい」

 氷のお茶をもう一杯持ってきましょう。そういって波打ったグラスを受け取ると、片桐は奥の台所に引っ込んだ。

 レオはシャツをすっかり脱ぐと椅子に掛け、目をつぶった。少年らしくない顔は何事かをじっと考えて居る。

「どうぞ。私は水ものは飲まないたちなので、遠慮なく」

 ありがとうございます、とグラスを受け取りごくごくと飲む、その首の筋と骨のくぼみの陰影は明らかに日本人少年の骨格とは違う奥行きを見せていた。

 片桐はじっと少年を見詰め、次々とページをめくってはスケッチを重ねてゆく。

 時に立ってレコード盤を交換し、少年を飽きさせないように工夫する。少年はピアノ曲が気に入ったようだ。それもスペインの作曲家、グラナドスやファリャと言った民族色の濃い曲を好んだ。

「だって人の声は録音で聴くと色あせてしまうし、バイオリンもそうです。お爺さんのような音になる。ピアノだけはレコードで聴いても古びた感じがしない」

 スペイン舞曲集にゴイェスカス、エマヌエル・ファリャならアンダルシア幻想曲や火祭りの踊り。本来は中世ヨーロッパの古い音楽が彼の好みだと知る片桐は、レオ少年の変化が意外に感じられた。

 彼は挑発するような視線で片桐を見返した。

「スペインは世界の耳目を集めていますからね。僕も聴き始めたのですが、泥臭いかと思っていたらそうじゃない。素晴らしく洗練された熱情です」

 そして、スペインびいきの湯浅神父を片桐さんもご存知でしょう、と言葉を続けた。

「彼もきっとこの手のスペイン民族主義が好きですよ。そしていずれパブロ・カザルスというチェロ弾きに注目する事になるでしょう。これはただの勘ですが」

 この子はなぜ湯浅神父を知っているのだろう。片桐がスケッチの手を止め尋ねようとした時、レオ少年は低い声で呟いた。

「僕は来月にはヨーロッパへ渡ります。両親が受け入れ態勢を整えたというから。そしてゆくゆくはソビエトに向かうつもりです」

「そうですか、まだ危ない気もするが君ならきっと上手にやって行けるだろうし、心配はしません。ただ」

「ただ?」

 レオは素早く視線を上げた。

「気を付けるに越した事はない。特にお付き合いする人に。貴方の顔は西洋人にもアジア人にも見える実に個性的な風貌です。一目で人の記憶に残る。目をつけられやすい。そしてゾルゲとは手を切って離れなさい」

 富士見レオと片桐絵師はしばらく互いに睨み合っていた。先にふふんと鼻で笑ったのはレオ少年の方だった。彼は脱いだシャツに手を伸ばしながら言い放った。

「貴方こそゾルゲさんとは繋がりを断った方が身の為ですよ、どうせ必要な情報は別ルートで得られるようになったんでしょう? 片桐さん」

 レオはもう笑っていなかった。スケッチ帖に鉛筆を走らせる片桐の指も、止まった。冷たい緊張が二人の間を走った。


 トントントン、と三回のノック音が響き、二人の張りつめた空気を壊した。どうぞ、という片桐の声を待たずに勢いよくドアが開いた。

「片桐さん、嬉しいお知らせを持ってきました! 」

「碧生さんの新刊の詩画集が出たんですよ。とても素敵なので一番にお見せしたくて」

 無邪気な顔の碧生蒼太郎と、パートナーの間宮リカだ。悪戯坊主のように目を輝かせ満面の笑みで飛び込んできた二人は、片桐と対峙する裸の若者を見て硬直した。

「すみません、来客中に失礼しました! 」

「また改めて来ます。あ、この詩画集だけは置いて行きます。どうぞ」

 そして来た時と同じように、バタバタと鳩の様に帰って行った。

 富士見レオは白いシャツに袖を通し、ゆっくりとボタンを留めながら呟いた。

「あれが今を時めく浪漫の塊のような碧生蒼太郎先生と、間宮リカさんてすね。なるほど可愛らしい人達だ。片桐さん」

「ええ、彼らには是非あのままで居てほしいものです」

 スケッチはもう充分されたでしょう、帰ります、とレオは学生かばんを手に取った。そして

「ああそうだ忘れるところでした」

中の帳面のページの間から、一通の茶封筒を取り出し、片桐に渡した。

「これを槇村さんと佐田さんに。ソビエトのウラジオストック行きの船の切符です。二枚あります」

 どうぞ確認してください、とレオ少年は挑発的に笑った。

「……君は彼らを知っているのですか? それにこんな物を入手できるまで、君はゾルゲさんと近しくなったのですか?」

 片桐が鋭い目で少年を睨んだ。いつも飄々と真面目なのかふざけているのか分からない彼にしては大変珍しい事だ。

「違いますよ。ドイツのコミンテルンに居るお友達から、ですよ」

 では、と富士見レオ少年は出て行った。後には青いコリアンダーの葉のような、彼の汗の匂いが残されていた。


 片桐は目白のサナトリウムを尋ね、槇村と佐田に『ドイツの友人』から譲り受けたとチケットを渡した。

 槇村は驚きまた喜び、サナトリウムで更に働き小金を貯めた後、船で日本を離れた。敦賀港からウラジオストックまで定期船が出ている。彼はもらった切符でそれに乗った。内縁の妻の佐田芳子も一緒だった。


 1936年(昭和11年)8月1日。盛夏の時期にベルリン・オリンピックは始まった。日本からも占領下の朝鮮半島からも大勢の男女選手団と監督及びコーチ陣が参加し、新聞社は記者、技術者、ラジオスタッフを派遣した。

 ドイツと日本の時差の関係上、日本で放映される決勝および準決勝のラジオ実況は早朝と夜中に集中したが、それでも国民はラジオにかじりつき、がりがりとした雑音の中聞こえてくるアナウンサーの言葉に現地の様子を思い描いて熱中した。

 また、遠いドイツの地でカメラマンが撮った写真は新聞の一面を飾った。飛行機によるフィルムの輸送、そして当時まだ不安定であった画像伝送・ファクシミリが効果を発揮したイベントでもあった。中でも大阪毎日新聞および東京日日新聞(現・東京毎日新聞)と大阪朝日新聞の報道合戦は熱を帯び、記者の筆と国際電話による取材のネタの面白さで国民を大いに興奮させた。

 碧生蒼太郎と間宮リカも例外ではなく、臨月の大きなおなかを抱えた隣家の柘植さやと一緒にラジオや新聞を楽しんだ。

 産み月を9月に控えたさやのお腹の中では、中国北方に派兵されたまま帰らない夫・柘植一等兵の子供が健やかに育っていた。浴衣の帯をせり上げるほどに大きくなったお腹はふんわりとまろやかな膨れ具合で、周囲からは『女腹』と目され、きっと元気な女の子ですよと言われていた。またオリンピックのラジオに熱中するあまり、きっとお転婆な女の子になるだろうと碧生達と笑い合った。


「いや暑い暑い。今年の夏はまた格段に暑いですね。そちらの文士先生とマダム……とマドモワゼルのご機嫌は如何ですかな」

 そうぼやきながら碧生家の玄関を訪れた湯浅神父が、見たところ一番暑苦しい。黒い僧服の上着に、中の立ち襟のシャツは太い喉元までびっしりとホック留めしてある。つば広の黒い帽子を被っている姿はフランスの田舎の司祭のようだ。

 さやはどっさり採れたキュウリを台所に座って塩もみにし、碧生とリカは机上の原稿用紙に向かってそれぞれうんうん唸っている。

「ああいらっしゃい神父様。ごらんのとおり寝不足がたたって仕事になりません。深夜早朝のラジオはだめですね」

「今日こそ寝ないと、と思っているのに放送が始まるとついつい最後まで聞いてしまうんです」

「この作家さん達は夜に私が帰った後も、遅くまで布団の中でラジオを聴いているんですよ。子供みたいです」

 さやが立って冷たい井戸水を汲もうとしたところを、リカが止めた。

「私がやりますから、さやさんは座っていてくださいな」

 湯浅は目を細めてさやのせりだしたお腹を眺め、十字を切って祝福した。そして、信徒からの頂き物ですが、夏場の滋養の為に召し上がってくださいと、甘いコンデンスミルクの缶を何個も出してくれた。

「わあ、ありがとうございます」

 冷蔵庫が普及していないこの時代、腐敗しにくく保存がきく練乳は重宝された。さやとリカはミルクの缶を手に笑顔を見せた。

「助かります。さやさんもそうですが、むしろこちらの先生の方が一層栄養を取らなくてはならないのに、食が細くて」

「それしょうがないですよ」

 苦笑する碧生の玄関に、片桐がふらりと姿を現した。気温と湿気に負けず白麻のスーツを着こなす、相変わらず洒落者だ。

「日本中大興奮ですね、オリンピックという世界のお祭りで」

「はい。片桐さんも湯浅神父も聴かれますでしょう?」

「まあ時節に乗り遅れない程度にはラジオや新聞も。でもあまり好かないですね、この熱狂は」

 こちら御土産です、と片桐が差し出したのは麦芽水飴の瓶。冬は湯で溶いて飴湯にし、夏場は生姜を絞り込んで冷やし飴としていただく素である。期せずして来客の二人共が甘い物を持参したのにリカとさやは笑ってしまった。どれだけ甘党だと思われているのか。

「え?」

 だが顔を上げた碧生蒼太郎はピクリとも笑わなかった。

「私もです。碧生先生、この熱狂とドイツの大会運営と根回しの完璧さには裏がある。そう思います」

 湯浅神父の言葉に蒼太郎は慌てて開け放した窓や戸を閉めた。どこで誰が聴いているかわからない。治安維持法の怖さを彼は知っていた。

「ご婦人達、ちょっと聴かない振りをしていてくださいね」

 柔らかく微笑んだ湯浅神父は、碧生が全ての戸締りを終えると一転声を潜ませた。

「今のドイツの党首は油断がならない。彼が反対派を暴力と暗殺で沈黙させて、選挙で勝ったのをご存知ですか?」

「はい。何となくは聴いた事が」

「ではそのヒットラーの書いた本『我が闘争』を読まれた事は?」

「あります。ありますがなにぶん文章があまり上手ではないような」

「でしょうね。あの悪文は翻訳家泣かせでしょう。何を言っているのかさっぱりわからない。私はドイツ語の原本で読みました。分かることは、実に危険だという事です」

 会話に加わった片桐も声を潜めた。

「ヒトラーが率いるドイツのナチス党は優生思想の権化です。一部の、優れていると自分達が見なした者以外、他の民族はゴミか動物以下だと断罪している。西ヨーロッパのアーリア人だけが優れているとする思想です。日本人を始めとする東洋人等未開の地の獣扱いです」

「そんな馬鹿な、ドイツは協力国ですし優れた文化の担い手です」

「純真無垢な碧生先生。世の中には涼しい顔で悪を行なって、蚊を潰す程にも心に留めない人が大勢いるんです。彼もその一人だと私は見ています。私だけではない。世界中に広がる聖職者の組織が、そう彼を観察しています」

「ユダヤ人、スラブ人、アジア人。黒人。ジプシー達。共通点が分かりますか? 彼らが忌み嫌い存在価値がないと決めつけている民族です」

「え、でもオリンピックでドイツにはユダヤ人選手も居るし、本国で差別されているアメリカやイギリスの黒人選手にもわけ隔てなく接しているそうですが」

「それが彼のたくらみです。世界にドイツを無害な国、共産主義に対抗する前線の先兵と印象付けるための画策です。油断させてユダヤ人達を国内に留めて、一気に彼らの財産を没収し国外追放にする、もしくは著名な研究者なら身代金を要求して外国の研究団体に引き取りを迫る。大方そんなところでしょう。狡猾なものです」

「片桐さん、そんな事誰が知って流しているんですか?」

「それは言えません。聞かない方が君と、パートナーと、マダム柘植の為です。ですが知っておいてください。ドイツはいずれ確実に世界に本当の姿を見せます。今ドイツに多大な投資をして工場を沢山誘致しているアメリカも、その時は何かしらの行動をとるでしょう。その時我が日本はどちらに着くかです」

 湯浅神父も静かにうなずいた。彼らは何を知っているのか。この日本にいる自分は何故何も知らないのか。碧生は自分が全く無力な者に思えてきた。

「お金が根源だ。悪銭こそが世界を動かし人々を走らせるのですよ。とはいえささやかな金と贅沢と自由は大層いいものですがね」

 片桐はあまり深く考えないで、でも目を見開いて、逃げ足を鍛えておきなさい、と笑った。


 アメリカ。霞ケ浦の航空学校に降り立った空の英雄チャールズ・リンドバーグの国。

 ドイツ。騎士と黒い森と中世の伝説の国。

 そして日本。

 碧生は煩悶した。自分には一体何ができるのか。体も弱く空も飛べない、一本のペンを持てるだけの自分に。碧生先生、とリカに声をかけられるまで、蒼太郎はちゃぶ台の前に座って考え込んでいた。いつの間に片桐と湯浅が帰ったのかも分からなかった。


 数日後、碧生の元に一件の原稿依頼が舞い込んだ。いつもの暁星社からではない初めての出版社で、どうやら碧生の元飛行学生という経歴を知って依頼してきたようだ。掲載誌の名前は聞いた事があった。新聞に好戦的な、勇ましい見出しをつけて宣伝してある文芸誌である。純粋な美一辺倒で基本的に好きに書かせてくれる暁星社の方針に慣れていた碧生には少々面喰らう依頼主であった。

 それでも仕事は仕事だし、自分の思いを文章にして人々に届けるのは素晴らしい事だ。そう思って彼は依頼を受けた。受けたからには全力で書く。自分の持てるイメージを全て注いで書くのが読者に対する礼儀だ。

 だが、碧生は珍しく苦戦した。空の素晴らしさを訴えたい事に変わりはない。だが今、無邪気な憧れや純粋な気持ちよさや美的感覚だけでは表現しきれない、釈然としないものを感じるのだ。

 空は美しい。始めて教官の元で練習機の操縦桿を握り、エンジンをふかして滑走路を走った事をよく覚えている。練習場脇の森が、緑が、教官の機首上げの指示で碧生の操舵の元、あっという間に眼下になった。その感動は今でも生き生きと心に浮かぶ。見る間に自分の前後左右、上下も青い絹のような空間に変わる。からくり箱の中に投げ出される感じだ。そこを低く唸るエンジン音と教官の叱咤激励、風が導いてくれる。あんな興奮は地上では絶対に味わえない。

 しかし、碧生は書き進めながらそこに恐怖を盛り込んだ。湯浅神父からもたらされたヨーロッパの沈鬱な空気。自国の国民に機銃をむける飛行機。先の大戦では海を渡って他国の民の上に爆弾を落としていった飛行機。そして今、オリンピックという輝かしい式典の中、ヨーロッパの乾いた青い空は国のイデオロギーによって隔てられ、政党や国家の旗で覆われていく。空の美しさと地上の人間達の劫、そして不遜。碧生にしては珍しく辛口の文章が出来上がった。

 期限ぎりぎりに郵送した原稿は、訂正の指示だらけの校正紙と一緒に送り返された。碧生の家にはわざわざ編集者が来て、苦笑して言った。

「お願いしますよ、先方、ここのページを買い取った広告主ですが、かんかんなんですよ。元若鷲として空を飛んだ碧生さんの経歴を見てお願いした原稿ですから」

 この文章技術も学もない若僧作家が馬脚を現し始めたか。編集者の顔は遠回しにそう言っていた。一般文芸誌では多くの作家が大学を出て、もしくは旧制高校から進んだ後に中退して作家として活動している。飛行学校出身は碧生だけだ。

「もっと勇壮な事を書いてほしいんですよ、碧生さんには。まだ若いんですし、元軍人らしく」

 そういって書き直しを命じて去って行った。


「碧生先生?」

 リカに声をかけられるまで、蒼太郎は駄目出しされた原稿を机に放りだしてボーっとしていた。

「ああごめんなさい。今日の食事の当番は僕だったね。よし、海軍名物のカレーライスにしてみるか」

 リカは心配そうに覗き込んだ。

「私はこのままの方がいいと思うけど、これで受け付けられなかったの? 」

「ああ。こんな厭戦的な文章はだめらしい。もっと勇壮な内容にしてくれと言われたよ」

「まあ、でもそれでは直すというより新たに書き下ろさなければ」

「それもそうなのだけど、俺にはこうとしか思えないからなあ、今『空』について書いてくれと言われると」

 結局気が進まず、急に体調が悪化したと口実にして、蒼太郎は依頼原稿を断った。元軍人である自分が期待されている事と、心のままに素直に「書きたい」もののずれを、蒼太郎は感じ始めていた。これが、芥川龍之介が遺書で言っていた「将来に対する唯ぼんやりした不安」というものか。その悩みを打ち明けられるのは間宮リカだけだった。

 結構な額を提示されていた原稿料は幻と消えた。

「しょうがない。節約の為に大豆のカレーにしましょう」

「イギリス料理のようで、むしろ素敵かもしれないわね」

 笑顔で返し、薬味に手製のラッキョウ漬けを出してくるリカは、このところ生き生きしている。彼女も小説を書き始めたのだ。こちらは子供の生活に即した、いわゆる少女小説だった。自分が四ツ谷荒木町で過ごした子供時代の元気な、また大人のしつけの厳しい毎日。上級生や馴染みの大学生に対する淡い憧れ、子供同士のすれ違いの慌ただしい日々。そんな都会っ子のリカならではの生き生きした描写の読み物は、児童誌に掲載、子供向けの出版社から発売され、それなりに好評を博して売れていた。むしろリカの収入の方が碧生を上回る時もあった。


 リカは少しばかり申し訳なさを感じていた。妥協の出来ない碧生は自分の書きたい物と求められている物、世相のギャップに悩み、そんな素振りは見せないが心の底からもがいている。それに対して自分はある意味安全な「子供向け文学」に逃げてしまっている。碧生と知り合った頃はもっともっと尖った感性を前面に出して、作家や世間に挑戦するような批評を書いていた。その時の鋭い未熟さを、自分達はお互いに愛したのではないか。

 貴女は子供の心に届く美しい文章を書く才能がある。僕の価値は時局で左右される。仕方がないよ、と穏やかに笑いラッキョウの甘酢にむせる碧生を、リカは複雑な思いで見ていた。


 二人は心から結ばれた恋人であり同士だったが、入籍はしていなかった。

 自分の両親、とりわけ母親を見て育ったリカが、結婚というものに若干恐れを抱いていたのと、碧生の心持だった。

 出来れば結婚したい。きちんと法律の上でも夫婦になって暮らしたい。

 だが碧生は思った。病弱な自分の妻になるより自由な身で居た方が、リカの為になるのではないかと。

「結核もちの作家の妻」に縛り付けられる事で彼女の未来が閉ざされてしまうのは避けたい。

 碧生は、今は小康状態を保って活動しているとはいえ、自分が天寿を全うできるとは思っていなかった。

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