第10話・黒い瞳

 小さな労働者劇団の中では人間関係は不必要に親密になるか、反発しあって疎遠になるかどちらかである。槇村が団員に名を連ねたプロレタリア劇団がそうだった。簡単に言えば済む用件が小難しい左翼用語を使って話され、何かというとよくわかっていないと小馬鹿にされた。少なくとも槇村には自分の拙い文学論がそのような扱いを受けていると感じられた。演技や技術、文学的な真実味より、何よりも思想が上と言われると黙ってしまう他なかった。

 劇団の仲間のたまり場となっていた事務局には大勢の役者や裏方、演出部に大道具と言ったスタッフがいたが、一番威張っているのは脚本と演出、そしてお世辞にも演技が上手いと言えない頭でっかちの役者だった。

 男達の議論は時に喧嘩にまで発展する。そんな時決まって爽やかな大あくびをするのがヒロイン女優の佐田芳子である。

「また難しい事言ってるのね。私には全然わからない。ちんぷんかんぷんだから眠くなるわ」

 男物のような白いブラウスにこれまたウールのスラックスを着こなして、煙草を指に挟んでがさつに階段に腰かける。彼女の服装はいつも男物のパンツスタイルで、色味も白か黒か灰色と尼僧のように禁欲的だったが、華奢な体つきにブラウスの上からでもわかる張りのある胸と豊満な腰は、男装故にかえってエロティックだった。

 槇村はほとんど劇団事務所に寝泊まりし、間近に公演があろうとなかろうと雑事一般をこなしていたので、劇団員の動向は大抵把握していた。空気のように劇団に居ながらそれとなく観察していると、佐田芳子は例え素顔でも劇団の女優の中で文句なく一番美しいし、上級学校は出ていないが読書家で古今の詩歌に通じた才女である。だが一つ酷く不利な特徴があった。それはほとんど病的なまでの男性恐怖症だった。

 普段でも男優や裏方と二人きりにならないように上手に立ち回っているし、稽古や舞台の本番で男優との濃い接触がある際は、舞台がはねた後でトイレに駆け込んでいる。

 他の団員には

「男の人と一緒だと緊張性でお腹の調子が悪くなる」

 と言っているが、槇村は知っていた。彼女はトイレで決まって吐いているのだ。外から嘔吐の音を聴くだけで見る事はなかったが、苦しそうに美しい顔をゆがませているという事は漏れ聞こえる嘆息や声でわかる。ただし口をゆすいで顔を洗って出てきた時はもうそんな素振りは見せない。いつもの爽やかで華やかな女性の顔である。

 実生活はとても地味で男の格好を好んでいたのはもちろん、いつもかかとの低い革靴にスラックスで、舞台衣装以外ではスカートは絶対に履かず和服も着ない。上着も男物の背広やコート、ワイシャツを愛用していた。繊細な感性を隠した男装の美人。それが槇村の佐田芳子に対する印象だった。


 いつも鼻の頭にしわを寄せ、汗を拭きながら眼鏡の下から自分を見ている。それが労働者劇団の清純派女優・佐田芳子からみた槇村良吉だった。お金の出し入れや当局への提出書類の作成、やたらと数多い郵便物の扱いを取りまとめる等の事務仕事を一手に引き受け、頭でっかちで現実世界との適応力に欠けるプロレタリア最前線の面々とは違っていた。

 ここに来る以前は出版社の事務屋、さらにその前は女のひも兼校閲業。さらに前は学生で、ある新聞記者の書生で内弟子だったという。いつも低姿勢で困ったような薄笑いを浮かべながらけして他人に意見に逆らわず、だが自分の仕事は押し通す。おまけに語学に優れ、翻訳劇の訳が間に合わない時は口述筆記でその場で訳し、書記が書き留めたものを自分で浄書し製本してしまう。上演許可がなかなか出ない翻訳劇の、デリケートな訳文の表現もお手の物で、やたらと煩雑で時間ばかり食う警察との一進一退のやり取りのあげく、槇村の即訳に救われた事も二度や三度ではなかった。

 鼠のように嗅ぎまわり、周囲の空気を読み取りながら劇団内のあらゆるところを走り回っている槇村を、佐田は小間使いのようだとしか思えなかった。だが彼がただの小心な雑用係ではないと思い知らされる出来事があった。

「佐田君、ちょっといいかな」

 次回上演予定の舞台稽古の後で声をかけてきた男がいる。ドイツに留学していたという帝大出のインテリ・主演男優杉本である。いつもドイツ語混じりの小難しい事を言って、他人との会話でも常に優位に立とうとするその青白い男が佐田は大嫌いだった。演技をしている時以外でも全身に絡みつくような視線を感じて、いつも嫌だ嫌だと思いつつ本読みに付き合っているが、他の役者達も暗に二人はできているとでも思っているのか、わざと彼らから離れてしまうのがまた気に食わない。そして何より男と二人きりになるのを佐田は嫌悪しているのだ。

 男優杉本は佐田を舞台袖に連れて行った。

「なあに杉本さん。今度の作品の事?」

 今度の演目はレフ・トルストイの「生ける屍」という、明治期に日本に入ったメロドラマである。妻を愛しすぎたが故に出奔し自殺する夫フョードル役に杉本、夫が死んだものと思い他の男と結婚する妻のリーザ役に佐田。貧しき者の啓蒙に力を入れている劇団にしては大衆的な思い切った演目だった。それだけにこの作品の上演に不満を持つ演出部やインテリ役者がいる事は佐田も知っていた。

「ああ。君はどう思うかい?今度のこの、歌舞伎か謡曲のような煽情的な演目を」

「どうって……私は満足しているわ。リーザのような状況のままに流されていく女はたくさん居ると思うもの」

「でもね、流されてそのまま受け身のままというのはいかんと僕は思うんだ。特に、君のような知的な芝居ができる女優にそんな事をやらせるのは、冒涜と言ってもいいくらいだ」

「杉本さんの仰る事が分からないけど、観客の女性達はリーザの戸惑いを見て我が身のように感じるのではないかしら」

「それでも僕は不満だ。振り回されるヒロインに君は似合わない」

「振り回す旦那様役の方が、何を仰っているのやら」

 台本と自分の顔を交互に見る杉本の鋭い目に、佐田は少しずつ距離をとった。

「君はリーザのような流される弱い女ではないはずだ。先日演出部の奴らと銀座で見た映画、同じトルストイ翁のアンナ・カレニナを覚えているよね」

「ええ。帰りに皆で洋食を頂いた時のね。楽しかったわ」

 佐田はそろそろこの場を離れたかった。杉本の目が自分の全身を値踏みするように見詰めている、その視線が耐え難く胃がむかむかする。

「君はああいう、ヒロインのアンナのような強い意志を持って行動する女にこそふさわしいんだよ。その鋭い瞳とか」

 杉本は急に台本を小脇に抱えたまま佐田の顔に手をやり、くいと自分に近づけた。瞬間、佐田はこみ上げる嘔吐に我慢できなくなった。急に咳こんだ彼女は、内臓を逆流してきたものを思い切り吐いた。杉本がよける間も有らばこそ、胃液とコーヒーと煙草のやにの混ざった吐瀉物が彼のワイシャツと上着にかかりそうになり、杉本はとっさにヒロインを思い切り突き飛ばした。床に転がされて嘔吐するヒロインに、杉本は踏んでしまったゴキブリを見るような目を向けた。

「あああ、服も床もドロドロじゃないか。君一体どうしたんだい」

「杉本さん、佐田さん、どうしたんですか」

「ああいいところに来た、槇村君。君このヒロインを介抱して床を綺麗にしておいてくれ」

「これは大変な……佐田さん大丈夫ですか」

 槇村は急いでブリキの洗面器に水をくみ、洗濯したての布巾と雑巾を持ってきた。

「俺はこれで帰るから。まったく危ないところだった。おちおち主役同士の演劇論議もできやしない」

 危うく汚れそうになった白い麻のワイシャツと薄手サージの上着を神経質に手で払いながら、杉本は急いでその場を去って行った。ドイツ製の靴の音が大きく響いた。

「佐田さん、もう大丈夫ですよ。嫌な奴は行っちまいましたよ」

 槇村は自分の寝泊まり用の毛布をヒロインにかけながら穏やかに声をかけた。

「しばらく静かにして。胃でもやられたみたいですね」

「ごめんね。たまにこうなるの」

「僕がこの場を掃除して片付けますから佐田さんは楽屋で休んでいたらいい。今あの辺には誰もいないし、中から鍵をかけておいて」

「ごめんなさいね。不運にも通りがかったばっかりに」

「いいえ。僕がもう少し早く来れば、佐田さんは苦しまなくて済んだのだと思います。男の人、苦手なんですよね」

「……」

「ずけずけと無神経な男が悪いんです。女性はデリケエトなのは当たり前ですから。立てますか?」

 ふらふらと立ち上がった佐田を槇村は支え、楽屋に横にならせて晒の布を何枚か渡した。

「これで服や顔をお拭きなさい。水はここに置きますから。僕が出たら鍵をかけるんですよ」

 楽屋の水差しと洗面器にも綺麗な水をはり、槇村は戸を閉めて舞台袖に戻った。自分のシャツにもズボンにも、佐田芳子の吐瀉物がべっとり付いている。その脇を主役の杉本や警官役、村の裁判官役等の男優達がどかどかと通って行く。

「おお槇村。酷い格好だな」

「お前も災難だな。厄介な掃除が増えちまって」

「我らがヒロインの具合はどうだ?」

「大丈夫みたいですよ。知り合いの医者に立ち寄ると言って帰りました」

「まさかつわりじゃないだろうな」

「そりゃないよ。あんな堅物な娘に限って」

「いいや分からんぞ。杉本君とホイホイ二人っきりになるような娘だ」

 男優達は大声でワハハと笑うと、じゃ頼むよと槇村に全てを丸投げして帰って行った。

 酔っ払いの後始末なら間宮リカの母親の世話で慣れている。あの気紛れな奥様もよく羽目を外して深酒しては吐いていた。槇村が雑巾を何度も絞り、吐瀉物でぬるぬると汚れた床をきれいにする間、劇場内はしんと静まり返っていた。

 佐田君は大丈夫だろうか。きゅっきゅっと擦り付けた指が鳴るほどにきれいに舞台袖の床を磨き上げた槇村は、雑巾をゆすいで裏の物干しに干すと、ヒロインが心配になって楽屋へ向かった。もうとっくに着替えて帰っただろう。そうしたら全館の点検をして自分も鍵をかけて帰ろう。

「佐田さん、まだいらっしゃいますか?」

 予想に反して楽屋の中から声がした。

「ええいます。ちょっと横になって休んでいました」

「帰れそうですか? 何なら車を呼びますが」

「大丈夫。市電で帰れると思うわ。でも服が」

「待ってください。衣装を持ってきましょうか」

「でも私は……」

「分かっています。佐田さんは普段は全くスカートをはかない。和服も着ない。『桜の園』のトロフィーモフの衣装が洗濯してあったはずです」

 槇村は衣裳部屋に行き、チェーホフの劇の衣装を探した。進歩的な大学生、青年の役衣装だが、白い立ち襟のシャツと細身のパンツと長靴、ただし上着はさすがに19世紀のヨーロッパスタイルで今の東京には奇妙だ。

「トロフィーモフをお持ちしました。小道具のベルトもついています。ズボン丈の長いのは捲ってください。上着は……」

「ありがとう。大丈夫よ。上着はカルメンのストールでも羽織って行くわ」

「じゃ、お出になる時は声をかけてください。僕は全館見回りしてきますので、佐田さんが出られたら僕も出て鍵を閉めます」

「送って下さる?槇村さん」

 ドアを閉めた楽屋の中から、着替えの衣擦れの音と共に佐田芳子の声が小さく響いた。

「貴方なら安全な気がするの。私、男の人を意識すると気分が悪くて我慢できなくなってしまうのだけど」

「男と見られない。光栄です」

 そういう意味じゃなくて、とあわてる佐田の声を槇村は苦笑しながら聞いていた。そう言われるのは慣れています。女から見くびられるのも慣れています。別に気を悪くなんかしませんからご安心を。

 槇村は自嘲的な笑みを浮かべながら、劇場内の戸締りと点検に向かった。


 それから槇村は佐田芳子の心許せる数少ない友人の一人になった。美しい佐田に頼られるのは悪い気はしないが、男優や演出部からは下僕のようだと笑われる。

 下僕。それがなんだ。男は永遠に美しい女の下僕なんだ。自分をあっさりと捨てた間宮未亡人を思い出しながら、槇村は呼ばれればハイとはせ参じ、劇団の裏方からも下っ端の役者からも軽く見られながら重宝がられる存在になって行った。

 笑うがいいさ。存分に。

 槇村はただ腰を低くしているのではなかった。彼には大学以来久しく忘れていた野心が生まれつつあった。始めはヒロインの佐田芳子を通じて見ていた『演劇』ではあるが、裏方として何本も関わり、舞台裏から全てを見て行くにつれ、もっと『演劇』そのものについて知りたい。そしていずれ自分も人々の心を動かす台本を書いて、役者達に演じてもらいたい、と思うようになっていた。

 帝都の新聞記者間宮道彦。その容赦なく権力の姿を炙り出すペンの力に魅了されて内弟子になった18歳の日々。その時の、自分も人々の苦しみや悲しみ、喜びを文章の力で切り取ってみたいという欲求が、忘れていた表現欲に小さな火を点けたのだ。槇村はアルバイトや劇団活動の忙しい合間に、日々目にし経験した人々の機微のスケッチを書きためて行った。

『俺の内なる劇を書きたい』

 夜中や明け方、少しの時間の空きをみてはプロットを書き留め、紙の切れっぱしにメモしては上に重ね貼りして、ストーリーを積み上げる。ヒロインはもちろん佐田芳子の当て書きだ。誰の目に触れなくともいいし、まして上演など考えない。ひたすら自分のための劇、妄想の舞台だった。だが書くからにはそこに「真実」がなくてはならない。九割がた虚構の世界であっても一割はお客が魂の真実だと感じる瞬間がほしい。言葉がほしい。

 槇村は慌ただしい日々の合間に、詩の空間から無理やり手繰り寄せるように言葉を編んでいった。ただ書いても書いても明るいものが書けないのには閉口した。佐田の魅力は悲しげな、存在の理不尽を体現するような役柄ばかりで発揮されるものではない。もっと元気な、隠しても漏れ出る生命力に溢れた明るさがあるのだ。違う。こんなものではない。槇村はうめき、頭を掻きむしりながら消しては書きを繰り返していた。


 チャンスは思わぬところから転がりこんできた。

 劇団代表でドイツに演劇留学していた土田が次回上演作と決め、翻訳までして警察に提出してお伺いを立てていた戯曲に、一度認可されたにも関わらずストップがかかったのだ。

 こういう事はよくある。前日になって場面の変更や台詞への介入、ストーリーの介入等まだ軽い方で、戯曲そのものへの疑問や否定等。

 中には余程台本を読み込んで深い理解を得ていないと出来ない質問もあって、台本部や演出部は感心仕切りになる事も多いが、団員は歯噛みして悔しがった。

 既に大道具も小道具も作り始め、稽古もある程度進んでいる。衣装プランもできているし、役者達によるチケットの手売りも進めている。

「なにかいい台本候補はないか」

 自分の渾身の翻訳を駄目出しされた土田代表は頭を抱えた。既に公演準備は進んでおり、警察にちょくちょくしょっ引かれながらもビラまきやポスター貼り(どちらも非合法だった)もやっている。

「そうだ槇村が何か」

 花形男優の杉本がふと思い出した。

「槇村君が何か新作を書いていたはずですよ」

「へえ彼が。初耳だな」

 演出部のインテリたちが顔を上げた。

「暇を見てはコツコツ書き溜めているホンが何本かあるそうです。先日飲みに行った帰りにちらりと聞きました」

「槇村って、掃除や客席の準備やもぎりをやっている、あの槇村?」

「一応演出部助手という事で雇っています」

「いや、でも彼は大学を辞める前は政治家専門の記者の助手だったんだ。師匠の死後女に溺れて路に迷ったらしいがな」

 演出部、俳優部の面々は狭い事務所で頭を突き合わせて思案していた。事務方いわく、俳優部のサラリーを切り詰めても、外部発注の大道具や小道具に賃金や材料費を不払いという事はできない。役者だって旗揚げ当初より随分給料は減っている。プロレタリア演劇の担い手としてはその方が格好がつくのかもしれないが、演技に精進するのにこれ以上アルバイトの為の時間を割く事はできない。今でも主役級の役者でさえ、他団に助演という形で出て収入を確保している有り様だ。無名の団員が書いた台本を、格安の原稿料で上演できれば、金銭的な損失は最小限で済む。

「誰か槇村の台本とやらを読んだ事のある奴いないか?」

「いつも持ち歩いているはずだから呼びましょう。奴は便所掃除をしていたはずです」

 呼び出され、掃除でしみだらけになった汗まみれのシャツに汗で滑る眼鏡を押さえた槇村は、自信なさげに事務室にやってきた。そして洗剤や手汗で汚れたノートブックを差し出した。

 タイトルは『百舌鳥の遊戯』


 深川の狭い路地を汚れた工場勤務の小僧のような上っ張りを羽織った男が二人、そっと歩いている。一人が手に下げた風呂敷包みの中には手鍋が包まれていて、中にはとろみのついた液体がなみなみと満たされていた。

 もう一人が先に立ってそそくさと歩き、人通りの切れた四つ辻の様子をうかがうと、もう一人が元来た道の後方をうかがう。

 下町の町工場、メッキや染め物のつんと鼻を突く溶剤、酸の匂い。濛々と上がる湯気に異臭を放ちどぎつい色の流れを見せるどぶ。

 その危うい渡し板の上に立って、独りの風呂敷包みを持った男が素早く包みをほどき地面に置くと、もう一人が服の中に仕込んだ刷毛をざぶりと漬け、角の電信柱と壁にばっと塗り、ポスターを貼っていく。

「お前ら勝手に何しとる!」

 休憩でもあろうか工場から出てきた工員が、大声を上げて叫ぶ。

「怪しい者ではありません。同じ労働者の演劇をしている者です。今度上演する……」

「うるさい! お前らみたいに文学だ演劇だとほっつき歩いて生活できているような奴らは、労働者だなんて言わねえんだよ! 何がプロレタリアだ、旦那衆が!」

「警察だ!」

 激しい締めつけで知られる築地警察の署員達が姿を見せると、あっという間に追ってきた。

「右に曲がると行き止まりだ。左に曲がって三差路を右に行け。そしたら大通りに出る」

 先程仲間じゃないと言い放った工員は、苦々し気に逃走路を教えてくれた。

「ありがとう!」

 二人が去ると、工員は警官達の目の前で、まだ糊の乾いていないポスターを破り去った。

「お前はあいつらの仲間か?」

 いつの間にか逃げる劇団員達を追う警官の数は増え、一人が工員に厳しく詰問した。

「とんでもない。俺はここの工場の主任ですが、いつも無断で張り紙を貼られて迷惑しているんでさあ」


「振り切ったか?」

「ええどうやら」

「今日のノルマには届かないが、この深川近辺も巡回のポリ公が厳しくなってきたな、今日はやめておこう」

「明日は河岸をかえますか」

「ああ。両国の方に足を延ばすか」

 服がべとべとだよ、二人の若者はシャツの腹や袖口、上っ張りにべっとりと着いた糊に閉口しながら顔を見合わせた。

 二人を追っていた築地警察は作家の小林多喜二を拷問死させた警察署として悪名高い。だが劇場のある場所柄、所轄の警察は築地になるのだ。捕まったら劇団庶務が釈放の陳情書を出してくれるだろうが、それまでの間歯の一本や二本折られるくらいの暴力は受けるだろう。

「顔は勘弁してほしいよなあ、少なくとも公演の間は」

 一人は槇村、もう一人は主演の男優・杉本だった。


 倉庫を改造した劇場の、レンガ造りの壁に沿って歩く男の手元で、じゃんじゃんと銅鑼が鳴らされる。満員の客を前にして『プロレタリア劇団定期公演・百舌鳥の遊戯』は上演された。


 幕が開き、そこは浅草を彷彿とさせる下町の路地だ。そして以前上演したメロドラマのセットを塗り替えたミルクホールが出現する。

 ヒロインの毬江は浅草でつるしの背広を売る二流古着屋の売り子。夜はミルクホールの女給として働いている。毬江に寄生する男・達郎は文士崩れの放蕩学生。その弟分の三郎と毬江のひもになっている。

 ある時借金が払えなくなり三人は美人局強盗を思いつく。第一の標的は毬江に色目を使う弁護士。弁護士宅に行った毬江は男を油断させる。隙を見て男二人が押し入り毬江を縛り上げて別室に監禁するふりをする。二人は包丁を持って弁護士を脅すが金はほとんど銀行に預けてあり、小馬鹿にする発言をされ弁護士を殺し、キリストの磔のようにドアに縛り付けて去る。


「急げ、衣装替え」

「転換、急いで」

 一幕と二幕の間に舞監や大道具、美術、メイクに演出家が舞台と楽屋を走り回る。毬江役の佐田は緊張でぶるぶる震えていた。幕が上がれば誰よりも毅然とした、ふてぶてしささえ感じさせる迫力を見せるが、楽屋裏では別人のように気弱で怯えているのが常だ。

「佐田さん、凄くよかったです。ありがとうございます」

 びっしりと舞台の割り付けが書き込まれた台本を手に、走り回りながら槇村が笑顔を見せた。

「俺は?」

 ポスター貼りの日以来少し親しくなった、ひも男達郎役の杉本は、不満げにわざと顔をしかめた。

「最高です。皆さんありがとうございます」

「二幕、1ベル鳴らすぞ!」

 ベルと言っても演出助手の銅鑼だ。

 サーッと裏方たちが袖に引っ込み、幕が上がった。


 二幕。

 急いで逃げた三人。

 毬絵は何食わぬ顔で仕事に通い、達郎も怪しまれないように大学に通い、家庭教師の職も見つけてくる。真面目な将来を誓い合った二人とその弟と、周囲の評判もよく全く怪しまれない。

 だが二人目のターゲットを狙う。二人目は日露戦争で富を得た成金の新興実業家。新興実業家の男に抱かれる毬絵の姿に分かってはいても逆上する達郎。だが同郷の男にその「訛り」を指摘され、同郷の者を殺すのかと罵られ、逆上し、めった刺しにしてしまう。そしてまた百舌鳥のはやにえのように、遺体をドアに括り付けて去る。

 逃げる三人だが、毬絵が店のマッチ箱に睡眠薬を隠し持った道具を落としてきてしまう。刑事、それを拾い上げ、捜査を始める。

 毬絵が留守番をする古着屋に刑事たちが来て、警察署にしょっ引いて行かれる。取り調べに対し、ぺらぺらと全て喋る毬絵。しばらくして通路を連れて行かれる達郎と三郎が毬絵を罵る声が聞こえる。

 毬絵は髪と化粧を整えながら

「ねえもういいでしょう、あたし帰っていいでしょう。全部話したわよ。いつになったら帰っていいの?」

 と無邪気に刑事に尋ねる


 幕が下りた。劇場内は窓が割れんばかりの、壁のレンガが崩れんばかりの拍手と足を踏み鳴らす音に覆われた。

 プロレタリア劇場には通俗的すぎやしないかと一部で危ぶまれた演目だが、インテリ層の心配は稀有に終わった。槇村が描いた『百舌鳥の遊戯』は劇団に久々の大入り袋と、インテリ思想家以外の客層をもたらした。それはつつましいその日払いの賃金を必死に貯めてチケットを買ってくれる労働者達であり、三河島や日本堤からわざわざ足を運び涙してくれる遊女達であり、日々不穏になっていく世相に心のざわつきを押さえられない事務労働者達であった。

 日頃劇団上層部が銀座のカフェーやバーで知り合いの作家や新聞の文芸記者、評論家達に頭を下げて引き取ってもらう、そういうチケットの客層ではなかった。

 だが、いつも公演のたびに観客席の最後尾に陣取って、労働者万歳、演劇万歳、ブロレタリア芸術万歳とシュプレキコールをあげるブントの思想強化の人員は来なかった。彼らにしてみればとんだお涙ちょうだい、歌舞伎や剣劇、大衆劇と違わない低俗な作品と言いたいのだろう。

 だが作品の評価は観客が決める。歴史が決める。そしてその日の公演は不入りが続いた劇団にとって久々の黒字公演だった。

「ありがとう槇村君、よくやってくれた」

 劇団の上層部は一も二もなく槇村の処女作の長期公演を決めた。プロレタリア演劇協会からの覚えもよく労働者の啓蒙に使うべしとの指示も来ていたのだ。


「へえ、面白そうな劇がかかっているんだ……」

 銀座通りの楽器店、十文字屋の伝言板。各地の音楽会のポスターが貼られている中に一枚、どう見ても場違いな演目の案内があった。

『百舌鳥の遊戯』

 『弁護士、実業家、無軌道な若者達は次々と大人達を殺めて行った。まるでノミをつぶすように。今日の鮮烈な若者像を映し出すプロレタリア劇場渾身の舞台』

 主と黒と白。ウイーンの表現主義のような鋭角的なデザインのポスターが、短く紹介された哀れ新派大悲劇のようなストーリーに不釣り合いで、妙に目に付く。

 舶来の楽器・マンドリンを試し弾きに来た美しい少年は、制帽の下で大きな深い目を輝かせた。金持ちの子弟が通う事で有名な名門中学の制服に身を包んだ少年は、傍らの和服の女中を振り返った。

「面白そうではございますが、ねえやはお勧めできません。坊ちゃまにはまだ早いかと」

「ちぇっ。みかねえはいつもそういうなあ。中学校の先生より厳しいよ」

 女をみかねえ、と甘えた声で呼んだ少年は、むくれた顔で帽子を深く被り直した。

「今日は楽器をお買い求めに来たのでございましょう。劇は観た所時間も遅めですから、お家に帰ってお父様とお母様にお伺いしてみましょう」

「はいはい」

 仕立てのいい詰襟の上着のポケットに手を突っ込み、坊ちゃまと呼ばれた少年は弦楽器のコーナーに向かった。


 少年の名は富士見レオ。旧制中学に通っている。日本人離れした手足の長さと首の長さ、明るい色の髪と彫りの深い小さな顔はロシアの血を引いた両親から受け継いだものだ。母からコーカサスとドイツ、父から白ロシアと日本の血を受け継いだ少年は、人形のように可愛らしい子供から独特のコスモポリタンな美貌の少年に成長していた。

 だが成長するにつれ、周囲の少年たちと『そり』が合わなくなってきたのは否めない。通っているのは小学校から一貫の超名門キリスト教系男子校だが、それでも武道やスポーツ、特に当時流行っていた中学野球に打ち込む他の少年達と、ヨーロッパ音楽を好み、同時に歌舞伎や能に興味を示すレオ少年は次第に距離が出来ていった。

 好きな音楽がベートーベンやモーツァルト、ブルックナーやブラームスという一派なら、まだ他にも愛好家の先輩もいたし学校内にグループもある。だがレオ少年が最初に聴いて感動し、以来打ち込んでいるのはそれよりはるか前、まだオーケストラ等誕生していない14世紀や15世紀、中世やルネサンス期の音楽だった。

 アルス・ノヴァ、ノートルダム楽派、吟遊詩人の音楽にルネサンスの荘厳な声楽曲。そしてリュートやマンドリンといった小型楽器の伴奏によるダウランド・ソング。そんな当時の上野の音楽学校にもないような音楽がレオ少年の心を占めていた。

 勿論長身と長い手足という恵まれた体躯を生かして、スポーツもそれなりに上手くこなしていたし、野球やテニスのグループからも誘われていたが、レオは断って好きな音楽を求め、銀座や日本橋のレコード屋を探し回った。彼が幼い頃から仕えているねえやの「みか」も一緒だった。乳母日傘というのは当時少しも珍しい事ではなかった。

「みかねえ、今日は四ツ谷に行ってみようよ」

 四ツ谷にはその年カトリックの大聖テレジア教会が建ち、パリ宣教区からの司祭や修道女の施設が整えられ、山の手の文教と宗教地区となりつつあった。

 省線の四ツ谷駅を降り、若木町の坂道を内藤新宿方面に上る途中の路地の奥に店を構える小さな古書店。そこに古い音楽関係の文献やレコード、楽譜を多く置いてあると、父の知り合いの音楽学校の教授が教えてくれたのだ。

 重い木戸を開けて入る制服姿の美少年と、和服の小柄なねえやの組み合わせに、店の奥の女主人はじろりと鋭い視線を送った。

「少年少女向けの本はないよ、ぼくちゃん」

「パレストリーナに関する文献とジョスカン・デ・プレの『ミサ・パンジェリングワ』を探しているんです。ここにならあると聞きました」

 レオ少年は流暢なドイツ語で答えた。店主が来日して長いドイツ人女性だと聞いていたからだ。母がロシア人とドイツ人の混血なので、家の中ではドイツ語が使われる事もある。おかげで日常会話で不自由しない程度に三か国語がしゃべれるのだ。

 女店主はほう、という軽く驚いた顔をして、穴のあくほど少年を見詰めた。少年は髪も肌も色素が薄く、明らかにヨーロッパの血が混じった顔をしている。女主人は彼を気に入った。

「古い宗教音楽が好きなのかい? 楽譜はあるにはあるが今の楽譜の表記じゃない。特別な読み方が必用だし、言葉も飾り文字のラテン語とフランス語だよ」

「見せてくれるんですね、頑張って勉強します」

 こちらにいらっしゃい、と女主人はレオを店の奥の希少書管理金庫に招いた。レオ少年の大股の長い脚の後ろを、ねえやのみかがちょこちょこと着いて行った。

 女主人に気に入られたレオは、すぐに店に出入りする外国人達と顔見知りになっていった。彼の通う学校は飯田橋から靖国神社方面に歩いて10分程。四ツ谷までは徒歩圏内だ。

 彼は学校の帰りに度々店に寄るようになった。混血という立場と特徴的な容貌のために級友や先輩達から目をつけられ、いじめというわけでないが他所者扱いされていた彼は、水を渇望する砂漠の植物のようだった。西洋の古楽や学問書に触れ、奥で愛好者のドイツ人やアメリカ人、チェコ人達と交わって円盤を蓄音機で聴く。そんな時間が楽しみになった。

 ある時、白い麻の瀟洒なスーツに身を包んだ、ソフト帽の紳士がやってきた。手にはリュートのケースを下げている。

「お久しぶりだね、片桐さん」

「いつもお美しいマダム・ブコウスキー。お久しぶりです。変わらず毅然とお美しい」

 彼は女主人が差し出して手を握り、掌に口づけしそうな勢いだった。レオは聞いていたギョーム・ド・マショーの古楽器曲が全く耳に入って来なくなった。

「おやそちらのダビデ像のような若者は?」

「最近よく来るお客さんでお友達。レオ君っていうんだよ」

「富士見レオといいます」

「ふうむ、君はまだ子供ですね」

 片桐と呼ばれた男は棚からリュートの楽譜集を取ると、鋭い目でレオ少年を眺めた。

「中学生です」

「ふむ、その歳で古い中世の音楽が好きになるなんて、なかなか奇特な感性をしているのですね」

「失礼な。坊ちゃまご用が済みましたら帰りましょう」

 いつもボディーガードのように側にいる「みかねえ」が喧騒な声を上げた。

「自分はこの近くのアトリエを構えて絵師をやっている、浮世の消費文化に貢献するしがない男ですよ。だが美しいものは徹底的に尊ぶ性質で。レオ君はこの楽器を知っていますか?」

「マンドリン……に似ていますね」

「当たらずも遠からず。これはリュートと言ってまあマンドリンの兄弟のような楽器です。武骨な形と淡い響きで近代楽器の発達の影で消えてしまったが。これを構えてみませんか? 」

 絵師がケースから出した武骨な弦楽器をはい、と嬉し気に少年は手にした。古書店の西向きの窓、その広い出窓に少年は腰を下ろした。

「マンドリンと弾き方はほぼ一緒です。弾いてごらんなさい」

「はい」

 少年がそっとつま弾くと、膨らんだ胴の共鳴部のボリュームからは想像もできない、小さく朴訥な音がした。西陽を心持ち避けるように顔を俯けると、長い前髪で白い顔に暖かな影が下りた。淡い黄色が入った波ガラスを通して、片膝に楽器を構え夢中でセレナードを奏でる少年は、フェルメールの絵画のように神々しく映った。みかねえはほうっと感嘆のため息をついた。

「見事です。君はまさしく神の作り給うた美の一員です。私の創作の相棒になってはくれませんか」

 何を言うんですかこの人は、ずうずうしい。ねえやは目を吊り上げて、この正体の知れぬ怪しい絵師から坊ちゃまを離そうとした。

「帰りましょう。レオ坊ちゃま」

「いや、みかねえ。僕はこの人の話に乗ってみようと思う。僕を」

 少年はそっとリュートを持ち主に渡し、忠実なねえやを振り返った。

「『あいのこ』の僕を奇妙だと言わなかった日本人は、君とこの絵師くらいなものだ」


 こうして富士見レオ少年は絵師片桐のアトリエの常連となった。富士見町にある学校と四ツ谷の片桐のアトリエは歩いて行ける距離だったので、中学が早く退けた日等少年は足繁く通い、不思議な西洋のガラクタや玩具、本、煙草に菓子等の散らかった室内の住民となった。

 片桐のアトリエには他にも何人かの良家の子女が出入りしているようだったが、不思議と彼らと出くわしたことはなかった。見た目はバラックのようなあばら家だったが中は丹念に作ったドライフラワーが天井から下がり、亜細亜のタペストリーや英国の紅茶、亜米利加のレコードやスイスのオルゴール、チョコレート。蓄音機の朝顔のようなスピーカーからはクラシックやワルツが流れ、その中でレオ少年はソファに寝転がってマルセル・プルーストや梶井基次郎の本を読んだり、やるせないフランス語の流行歌を聴いたりして過ごした。

 片桐は気ままに過ごす少年と会話を楽しみながらキャンバスに向かって筆を走らせ、時に素早くその姿をスケッチし、少年が飽きたと見るやパウンドケーキを切り、休憩にした。

「ティータイムです。紅茶にジャムを添えてもいいですが君はまだ未成年だからウォッカと共にお茶に入れる事はできないですよ」

 いつも影のように付き従うねえやにも、レディーがお先にと茶菓を振る舞う、片桐は実に楽しそうだった。

 少し先の陸軍駐屯地ではゲートルを巻き小銃を構えて警備にあたる兵士達が、否が応でも波高くなっていく世相を実感させるというのに、このアトリエの中は別世界だった。

「片桐さんは外国にいた事があるのですか?」

「なぜ?」

「いえ、我が家も父はロシア系だし、母はドイツとロシアの混血ですが、その二人より余程外国の暮らしぶりを再現している気がして」

「それは嬉しいね。私はドイツに居たんですよ。ずっと前にね」

「やはり絵の勉強ですか?」

「絵や文学……その他色々と、ね」

 片桐は薄く笑ってその話題を早々に打ち切った。

 時に少年とねえやと絵師は、外でお茶を喫する事もあった。片桐のお気に入りは赤坂紀尾井町の近く、迎賓館からほど近いティーハウスであった。

 生粋の紅茶専門店というよりは近くの教会のフランス人やドイツ人の神父、大使館の職員や文学者も訪れる、コーヒーとどっしりとしたケーキ、紅茶とロシアンクッキー、ウォッカやビールも美味しい店だった。

「おや片桐君。美しいお連れさんをご同伴ですか」

 緑の木々の下に並べられた白いテーブルで、三人が3段仕立てのティーセットを楽しんでいると、快活な声が降ってきた。

 3人が顔を上げると、仕立ての良い夏服に身を包み美しい日本人女性を伴った、鋭い目の西洋人が立っていた。

「おおゾルゲさん、貴方に昼の木立の下で会うなんて思いませんでしたよ。銀座のドイツビヤの店ならいざ知らず」

 片桐の言葉には少々の警戒と皮肉が混じっていた。ゾルゲの目が、夏の制服を着てティーカップを口元に運ぶ美少年・レオにぴたりと注がれていたからだ。その視線を受け止めながらレオは立ちあがり、少年らしくきびきびとした仕草で挨拶をした。

「はじめまして。富士見レオと申します」

「その制服は、〇〇中学ですね。こちらこそよろしく。新聞記者のリヒャルト・ゾルゲといいます」

 レオはゾルゲの背後の日本人女性にも丁寧に挨拶をした。二人の佇まいからいって妻というわけではなさそうだし、ゾルゲからの紹介もなかった。日本滞在中の恋人だろう、そうレオは読んでいた。

「間違いました、ゾルゲさん。初めましてじゃありませんでした。僕は貴方にお会いした事があるんですよ」

 レオはこの体格のいい鋭い目の紳士と知り合った以上、少しでも印象に残りたくなった。たちまちゾルゲの目が、友人の連れの可愛い子供を見る目ではなくなった。

「ほうそうなんですか。私の方には残念ながら記憶が……仕事がらお会いした人の名前と顔は忘れないのですが」

「お分かりにならないのも無理はありません。その時僕はまだ小さかったですし。でも貴方でしたよ、お会いしたのは」

「随分前、ですか。私は日本に来てまだ数年なのですが」

「6年位前の、麻布のお祭りの夜です。僕が落とした玩具を追いかけて、ここにいるねえやとはぐれて泣いている時、貴方が声をかけてくれた」

「そういえばそんな事もあったかな」

「僕は浴衣を着ていたはずです。まだチビで。貴方は『怪しい者じゃない。私はゾルゲというんだよ』と言っておいでだった」

 ゾルゲは嗚呼、と大仰に手を広げて、少年の顔を覗き込んだ。はっきりと思いだしたようだ。

「思い出しました。あの時のお人形のように可愛らしいお坊ちゃん。こんなに大きく立派な色男になったのか」

 そして新聞記者の名刺の裏にペンを走らせて言った。

「今度是非、私の家においでなさい。私は君にとっても興味が沸いたんだ。そこにいる片桐君と同じようにね。僕はドイツやアメリカ、上海と色んな所に赴任して、そこの本を買い、文化を学んできた。色々と面白い本があるから是非」

 名刺を受け取ると、そこはレオの自宅からとても近い、目と鼻の先の赤坂永坂町である。

「私はあと少し立ち寄る所があるが、3時間後には自宅に戻っている。何なら今日中に来てくれてもいいんだよ。ドイツの夕飯を御馳走しよう」

 そして日本女性と親しげに語らいながら去って行った。

「坊ちゃま、あの人は何となく危険な匂いが致します。行かれない方がいいと」

「僕もそう思うよ。君はまだ若すぎる。ゾルゲ君の毒に麻痺させられないとも限らない。君は若くて真っすぐ過ぎる」

 片桐も物憂げに、ティーハウスの中庭に目を遣りながら忠告した。

「僕は行ってみようと思う。せっかくお近づきになれたんだし、家のすぐ近くじゃないか。みかねえ、大丈夫だよ」

「坊ちゃま」

「分かったよ。僕一人で行ってくるよ。ちゃんと父母には言っておくから」

 その宵、まだ日の落ち切らない6時頃。永坂町の鳥居坂警察署正面。一戸建てのゾルゲの家の玄関に、学生服姿のレオ少年は立っていた。

 独りだった。


「おい槇村、何をきょろきょろしている」

『百舌鳥の遊戯』の最終日。

 開演5分前を告げるベル代わりの銅鑼の音が聞こえる。

 脚本の槇村良吉が劇場の客席出入り口近くに立ってお客達を眺めていると、劇団代表の土田がさりげなく近づき声をかけた。

「どうした。不安なのか?もう大楽だぞ」

「いえ、招待状を送った知り合いが来ていないかなと」

「珍しいな。誰に送ったんだ。親兄弟か?」

「作家の碧生蒼太郎氏と、翻訳家の間宮リカさん、他にも数人に」

「まさか券を同封したのか?」

 当時のプロレタリア劇団は今のように、また少し前の羽振りがよかった時代のように知り合いに進呈するほどの余裕はない。一般券より安い「労働者券」が存在し、その労働者券は各企業の労働組合や非合法のプロレタリア組織へ郵送される。共産党の隠れ蓑になっているグループにも送られた。その発送用の名簿こそ、特高警察が喉から手が出るほど欲しい物であり、度々劇団が踏み込まれ家探しされる理由でもあった。

「いえ、ご案内の手紙を出しただけです。まだ見えていませんが……」

「そうか、気を落とすな。そんなの当たり前の事だ。面と向かって『是非伺わせて頂きます』なんて言ってもその後音信不通だなんてのもよくあるんだ。俺もしょっちゅうある」

 今まで一顧だにされなかった、ただの掃除や下働き要員だと思われていたに違いない、ドイツ帰りの土田代表からやっと人間として認めてもらえた。

 自分は何一つ変わらないのに、変わっていくのは周囲なのだな。そうですね、と苦笑しながら土田を見送った槇村の目に、満員の観客席の最後尾の両隅に、帽子を被って佇む男達が映った。なるべく目立たないよう地味な会社員風の服装、だが周囲を威嚇するような剣呑な雰囲気を漂わせている、紛れもなく警察の、それも特高警察の猟犬達だ。最終公演にガサ入れをしようと企んでいることは明白だ。

 槇村が楽屋の役者やスタッフ達に知らせるべくドアの近くに移動すると、特高刑事達も目で追い、さりげなく移動する。槇村は移動はあきらめ、銅鑼を鳴らし終えて楽屋に戻ろうとする進行係に笑顔で話しかけた。表向きは煙草をせがむ仕草にしか見えないが、特高が来ているから名簿と重要書類は持ち出せるようにしておき、何時でも逃げられるようにしておく事と囁いた。

「これ、土田さんには内緒だよ。あの人煙草嫌いだからなあ」

 わざと明るく進行係を見送り、槇村はもらった煙草を胸ポケットにしまい、開幕を待った。


「ここですよ、片桐さん。急いで下さい」

「まあまあ碧生君、ゆったりと、大抵劇は幕が開いても初めに口上を述べたり、状況の説明が入るものだ」

「ヨーロッパのオペラでしたら序曲が5分程度入りますからね」

「そんなの、ここはプロの演劇集団ですよ。きっと手際よく進んでしまいますよ」

 築地の通りを急ぎ足で劇場に向かう三人の男達がいた。

 独りは実直そうな痩せた若い男、もう一人は瀟洒な身なりの遊び人風の男。もう一人は司祭の黒い上着と帽子を被った小柄な男だった。

 悪名高き築地警察の特高は、急いでプロレタリア劇場に入っていく3人を見逃さなかった。


 築地プロレタリア劇団の『百舌鳥の遊戯』最終日の公演は大成功だった。殺人を蚊を手で潰した程にも思わない女を演じた佐田が深々と頭を下げ、ひも男役の杉本と手を繋いで何度もカーテンコールに応じ、ステージに出てくると、熱狂した観客は拍手だけでは飽き足らずに足を踏み鳴らし、口々にシュプレキコールを上げ始めた。

 労働者万歳。怠惰な成金共に刃を突き付けろ。未来は庶民のものだ。虐げられた人々に勝利を。

「労働者万歳、プロット万歳。間抜けな警察どもを打擲せよ!」

 飛び交う檄と共に観客達はどんどんと足を踏み鳴らす、その音が薄いトタン屋根を打つ土砂降りのように聞こえた。

 槇村は特高の動きに目を光らせていた。

『まずいな……今にも動き出すぞ……』

「槇村君!」

 不意によく通る高い声が、ざわめきとシュプレキコールの中、耳に届いた。

「片桐さん、来てくれたんですね」

 槇村は一瞬緊張を忘れて振り返った。男三人が拍手をしながらこちらに向かってくる。書生当時から知り合いの絵師の片桐と、その仲間のカトリック神父。そしてもう一人は?

「見事な舞台でしたね。人間の無邪気な怖さがとてもよく表されている」

「私的にはもう少し美しい洒落た舞台美術の方が好みなんだが」

 あくまでも美にこだわる片桐を、痩せた若い男が嗜めた。

「片桐さん、精神的にも視覚的にも、リアリズムなんですから。あれが真実の姿でしょう」

「在りそうな衣装、現実から抜け出したような大道具と小道具でも、魂を映しているとは限りませんよ」

 片桐はそうかなあと首をひねる若い男を、前面に押し出した。

「槇村君。この人は間宮リカさんのパートナーの碧生君だ」

 槇村はぺこりとお辞儀をし、その様子をまじまじと見た。結核で除隊した元パイロット。きつい性格のリカお嬢さんと二人三脚で文筆に励んでいる若手文筆家。

「どうぞよろしく、槇村です」

「こちらこそ、碧生蒼太郎と言います。いや演劇を拝見するのはほぼ初めてでしたが、素晴らしいものですね。あんな世界を作り出せる人達を心から尊敬します」

 碧生と自己紹介した若い作家はキラキラ光る眼で槇村を見上げた。そうか、こういう目をする男がお嬢さんを射止めたのか……

 カーテンコールを終えた役者、スタッフ達が壇から降りて観客達と親しく交わっていた。観客達はお目当ての役者を囲み、口々に讃美を送っている。その輪の中にヒロインを演じた佐田のほっそりと美しい姿を槇村は見逃さなかった。

「佐田さん、お話終わったらこちらに来てください。お目にかけたい人がいるんです」

 佐田芳子がホッとした様に疲れた笑みを槇村に返した瞬間、舞台裏から大勢の入り乱れる足音と怒声、がちゃーんと物の壊れる音が響いた。

「警察だ!」

 舞台裏から舞台上へ逃れてきた役者がドーランも落とさず衣装のままで、踏み込んできた警官隊と立ち回りになっている。と同時に歓客席後部に二手に分かれていたポリ公達がざっと展開して観客席のドアを塞ぎ、客が逃げられないよう人の壁として立ちはだかった。バリケードである。ピーッと呼子が吹きならされ外に待機していた応援の警官隊が押し寄せてくる。舞台裏から侵入してきた警官達も、棒を振り回しながら群衆に襲い掛かった。ここはプロレタリア劇団、つまり当事者も観客も「その筋の」問題ありの人物だけと官憲は踏んでいるのだ。

 観客達も役者もスタッフも、全員入り乱れて我先に逃げようと警官隊と押し問答になった。人の波に巻き込まれ、槇村達も流されていた。

「我々も自力で逃げる。君も一緒に」

 人波にもみくちゃにされながら、碧生達が一つだけ開いたドアに走りつつ手を差し伸べるが、槇村は首を振った。

「気をつけて! 」

 そしてヒロインの佐田芳子を探して群衆の中に戻って行った。


「佐田君! 佐田君、槇村です!」

 逃げ惑う人にぶつかり、はたかれ、足を踏まれながら槇村は女優を探した。

「槇村さん!」

 客席から舞台に上がる低い階段の下から、白い手が見えた。槇村は階段の下へ滑り込んだ。組上げられた舞台の床板の下に、佐田芳子は逃げ込んでいた。ほとんど這いつくばるように体を低くし、美しい白い顔には埃や蜘蛛の巣が付いている。

「いい所見つけましたね。奥に潜んで逃げましょう」

「でも楽屋もトイレットも、裏口も全部塞がれているわ」

「ここは時間の経過を待ちます。何時間かやり過ごして、便所の窓から逃げましょう」

 佐田と槇村は舞台の下に置いてある、余った角材や板の後ろに隠れ、ムッとする埃混じりの空気に耐え、足音が静まるのを待った。

 警官隊と客の怒号は次第に外に向かい、上官の

「逃がすな! 片っ端からひっとらえてぶちこめ! 」

という蛮声が轟く。

 二人の頭上、舞台の上はまだどかどかと荒々しく走り回る警官達の靴の音が聞こえている。二人は一層息を潜め、気配を消して小さく材木の影に隠れていた。

 不意に階段の下から手持ち電灯が差し込まれ、舞台下を照らされた。

「どうだ」

「いない。蜘蛛の巣だらけで破られた形跡もない」

 そうか。流石に逃げたか。残党は。楽屋や便所や天井裏を探した方が良さそうだな。

 数人の警官の会話が聞こえ、足音は去って行った。槇村と佐田はなお数時間舞台の床下に留まり、夜半過ぎにそろそろと動き出した。

 もう辺りは静まり、少し離れた築地警察署方面から時折り罵声が響いてくる。片や通りを隔てた築地本願寺や、さらに離れた聖路加病院、外国人居留区方面は静寂に包まれている。

 ずるずると這いつくばり、少しずつ舞台下から出てきた槇村と佐田は、荒らされ尽くした楽屋を避け、裏のごみ置き場から外へ出た。

 楽屋も事務室も、照明室も舞台袖も、全部地震か台風の後のように事務機も机もひっくり返され、書きかけの台本や舞台の設計図、演出プランの原稿等が散乱し、その上を大勢の警官が踏み荒らしたのか、汚れた足跡が無数に着いていた。他の物は持ち去られたのか、ガリ版も印刷機も無く、奥の金庫も消えている。何よりも大事な労働者券配布用の名簿は、誰か持ち出せたのだろうか。

 この日のガサ入れが本気のものであったのは、後にここ築地の劇団だけでなく、新宿や中野、落合や本郷で劇を上演していた劇団が、皆一斉に踏み込まれ、しょっ引かれた事で分かる。

 特高は、コミンテルンの下部組織になりつつあるプロレタリア演劇団体に、警戒を一気に強めたのだった。

 二人は髪や衣服に着いた蜘蛛の巣やほこりを丁寧に払い、なるべく目立たないよう路地を歩いた。築地の道は原則アメリカの都市部のように直線に交わっている。

 そして特高の範囲が及びにくい区域も存在する。それが英国国教会系のチャペルを持つ聖路加病院と、その周囲の米英人の居住地区である。

 二人は天婦羅屋や小料理屋の並ぶ路地を壁に沿って静かに進み、大通りを一気に走り抜けて病院の敷地に入った。広い庭には英国風の花壇や針葉樹の森が作られ、小さな牧師館もある。

 二人は牧師館に併設されたチャペルに駆け込み、祭壇前の会衆席のベンチにじっと身を潜めた。当時教会は常に開かれ、夜中に緊急の懺悔の必用が生じた人達の要請に応じていた。なるべく静かに入ったはずなのに、牧師夫妻が物音に気付き、何事かとチャペルに入ってきた。まだドーランを落としていない女優の顔と、眼鏡をかけた青白い台本作家の二人連れに、牧師夫妻はすぐに、先程警察が追い回していたプロレタリア集団の一員と気付いたらしく、急いでチャペルのドアに鍵をかけ棟続きの牧師館へ入れてくれた。

「貴女達は役者さんですね。夕方大勢の若者達がこの辺りにも逃げてきて、警察官達に殴られ、連れて行かれました。怪我はないですか?」

 もし怪我をしていたのならここは病院ですから、こっそりと治療も受けられますよ。

 英領シンガポールから来たという白人の牧師夫妻は二人を手厚くもてなし、チーズとパンとお茶を淹れてくれた。子供達が起き出さないよう物音に気をつけながら、牧師夫人は分厚いカーテンの隙間からちらちらと表をうかがう。

「もう大丈夫なようですけど、万が一があるからここで一晩泊まって行ってもいいのですよ」

「いいえ、ご迷惑がかかると思いますし、外国の人が巻き込まれると、日本人よりも厄介な事になるでしょうから……」

 槇村が固辞し、仲間と何とか連絡を取るからと出て行こうとした。

「それではこれを着て行きなさい」

 牧師夫妻は自分達の服を貸してくれた。着替えた二人は礼を言い、そっと外に出ると隅田川に沿って逃げようかと相談を始めた。夜半過ぎの築地湊町の路上である。渡しの舟小屋は既に閉まり、船着き場には徹夜で見張る官憲の姿もある。

「こんな夜中に誰から逃げているの?お兄さん達」

 夜の静寂を破って若い男の声がした。ぎくりと二人が振り返ると、旧制中学の詰襟を着たエドワード・バーン・ジョーンズの絵のような少年が立っていた。夜目にも白く浮かぶ肌色と、何歳か分からないような、幼さと大人びた鋭さが入り混じる顔つき。日本人離れした長身。

「もしかしたらお兄さん達、特高に追われているんでしょう。助けてあげようか」

 レフと名乗る少年は手をあげて、やや離れて止めてあった黒いフォード車を呼んだ。

「ねえやと二人で家に帰る途中だったんだ。こんな遅くに聖路加のチャプレンの家からお兄さん達が出てきたから、きっとただの懺悔希望者じゃないだろうと思ってね」

 少年は人懐こく眉を下げて微笑んだかと思うと、運転手が下りて開けてくれたドアに、まず佐田芳子を案内した。ついで槇村。最後に自分。ねえやと言われた女性は静かに助手席に座っている。

「うちは麻布更科町だけど、お兄さん達はどこか降りたい所はある?そこまでお乗せ致しますよ」

 ではお言葉に甘えて、と不安がる佐田芳子を制して槇村は答えた。

「四ツ谷に。省線四ツ谷から新宿通りの方に入って、四ツ谷舟町に」

「オーケー。ではそこに」

 運転手付きの黒いフォードは静かに発進した。


 夜半過ぎの築地、三原橋、そして現在は眠らない街銀座もネオンはすっかり消えて建物を漆黒が包んでいる。黒のフォード車は対向車もない道を八重洲の方に向かい、またそこから四ツ谷に向かう道をとった。

 それにしてもこの少年は、ねえやと一緒とは言えどうして夜更けに、家から離れた所にいたのだろう。

「助けてくれてありがとう。でも君に迷惑がかからないか心配です」

「大丈夫だと思います。僕も周囲と特高の動きには十分注意を払っていましたから」

 彼は『レフ』と名乗った。築地の奥の料亭で、ドイツ人の新聞記者と文学や語学や西洋のあれこれの話をしていて遅くなってしまったのだという。

 料亭の名を聴いて槇村は驚いた。築地の奥座敷、隅田川の河畔に立つ旧華族の夏の別荘を改築した、敷居も格式も高い、一般市民には想像もできない高級店なのだ。それこそ政治家が経済人を、あるいは外国のプレスを接待するために使う、広大な日本庭園と幾つもの離れを持った、超高級料亭である。

 プロレタリア劇団に関係する者は恐らく誰も、その丹念に設えられた大きな門から中をのぞき込む事すらできない。

 なぜこんな子供がその店に?

「僕はもうすぐ中学を辞めるんです。外国に留学する予定なんですよ」

 父と母からドイツとロシアの血を受け継いだというベルニーニの彫刻のような美貌の少年は、後部座席で息を潜める槇村と佐田をちっとも怪しまなかった。築地の小劇場というものがどういう団体によって運営される劇場で、またどういう経緯で特高に追われるのか、熟知しているような落ち着きぶりだ。そして槇村達の事も一切余計な詮索をしない。訊けばもうすぐドイツ、大連、そしてウラジオストックを経てモスクワに行くのだという。

 モスクワ。 かの革命国家ソビエトの首都、労働者と市民によって建てられた平等な国の都。共産党やプロレタリア同盟の仲間たちが憧れてやまない国ではないか。

「モスクワには既に日本の知識人も大勢いて、コミンテルンという民族平等の組織に就いているのですよ。そしてかの国にはアジア人の為の国際的な大学も作られていて、広大な彼の国の亜細亜の砂漠地域、大草原の遊牧民、雪山の中の少数民族、そんな人達まで学ぶ事ができて、国のため、己の為の知識を磨くことができるのです。ドイツ大使館に出入りしている記者に聴きました」

「いいですねえ。私達の劇団の団長も先日ドイツ留学から帰って来たのですよ。うらやましい」

「ドイツにはソビエトでの留学や生活をお世話してくれる組織が出来上がっているらしいです。帝大の医学博士や文学者、経済学者等の名士が名を連ねているのですよ。そういう情報も教えてもらいました」

 国崎定洞、片山潜、パリに学ぶ勝野金政、そしてモスクワに居る山本懸蔵。革命的組織と繋がる伝説的な学者たちの名前が次々と少年の口から出ると、槇村と佐田は嬉しくなっていった。自分達の未来が繋がる微かな道が、ここに見つかったのかもしれない。この狭く抑圧された日本ではなく、世界の仲間達と手を結ぶ事のできる道が。

 蜘蛛の巣と埃の中で、特高に怯え隠れていた二人には、この裕福で不思議な少年の言葉が眩しく心に飛び込んできた。

「ここで結構です」

 市ヶ谷を越え四谷見附に差し掛かったところで、槇村は車を止めてもらった。

「本当に有難うございます。助かりました。何もお返しできない上に遠回りさせてしまって」

「いえ構いませんよ」

「ご家族に君が叱られるのではありませんか?」

「両親は美術品の買い付けに倫敦と巴里に行っているので、このねえやが唯一の身近な家族のようなものです。それに演劇の世界の話、色々面白かったです」

「ではまたいずれ」

「僕も留学先で貴方に再会できたら素敵なんだけどなあ。もし気が向いたらこちらにご連絡ください。船便の手配や渡航先の家とか、お手伝いできると思いますよ」

 少年は一枚の紙を槇村に渡した。そこには自宅の住所でも、ゾルゲの住所でもない、とある大学近くの事務所の名が記してあった。

 それでは、お気をつけて。

 レフと名乗った少年は車を出させた。

 槇村と佐田は乏しい街灯の下に立ってその黒いフォード車を見送った。

「坊ちゃま、レフだなんて名乗って、可笑しいですわ」

「仕方ないだろうみかねえ。あの人達はどう見てもお利口さんじゃないんだもの。あんな簡単な餌に目をキラキラさせて尻尾を振ってさ。もうしばらくしたらあちらから食いついてくるよ」

 レフと名乗った富士見レオ少年は、彫りの深い顔に唇の片端をあげて微笑み、後部座席にゆったりと足を延ばして座り直した。その姿は少年というよりいっぱしの男だ。

 さて帰ろうか、さすがにちょっと眠いよと、詰襟のお坊ちゃまは車のスピードアップを命じた。


 少年の車から降りた槇村と佐田は、新坂通りを少し入った路地裏でしばし逡巡した。

 絵師片桐を通して知ったリカお嬢さんと文士碧生の新居は、ここより少し離れた奥まった路地だ。その住所に招待状を送ったのだから間違いない。だが問題は劇場で特高刑事と劇団員、観客の大混乱の中はぐれてしまった碧生達が無事帰って来ているかだった。絵師片桐も湯浅神父もふらりと通りがかった客ではない。がっつりプロレタリア運動と関わっている自分の招待客だ。身柄を拘束されたとしたら簡単な尋問程度では済まないだろう。そんな碧生の借家を頼って行くのは危険過ぎる。だったらどうするか。

「佐田さん、私が若い頃お世話になっていた新聞記者のお宅に、匿ってもらえるようお願いに行きます」

「分かりました」

 連続公演を終え、本当だったら新橋か銀座で仲間と祝杯でも挙げているところなのに大捕物に巻き込まれ、主演女優の佐田芳子は見るからに疲れ切っていた。ドーランがまだらに剥げた顔にくっきりとクマが浮いているし、空腹と眠気で足元もおぼつかない。謎の少年の車で逃げ切った、という安心感ががっくりと気力を奪っていったらしい。

「この新坂通りを入って、細い石段の脇の家です」

 槇村は佐田の体を支え、よろよろと歩きだした。

「未亡人がお一人でお住まいなのですが、多分今でもそこにいると思います。もう少しですから頑張って」

 何年か前まで過ごした四ツ谷の街並みは、当時と全く変わっていなかった。更に槇村が大学に入学して書生として住み着いた頃からも変わっていない。間宮邸は、大通りから複雑な石の階段を幾度も曲がり、小料理屋や小さな洋食店、表には漬け魚屋や乾物屋が立ち並ぶ奥にひっそりと佇んでいる。

 この石段で、まだ小さかったリカお嬢さんとヨハネ坊ちゃんが、近所の子らとケイドロや靴隠しをして遊んでいたっけ。三つ編みのおさげにきちんとワンピースを着た幼いリカと、体が弱く年上の子らの路上遊びを眺めてばかりいたヨハネ少年の姿が、石段に鮮やかに浮かんだ。

 トントン、夜のしじまを破らないように、槇村は細心の注意を払って間宮家の戸を叩いた。返事をしばし待つ間も、再びトントンと叩く際も、槇村と佐田は周囲の路地と家々の窓に人影がないか注視していた。

 玄関の戸の向こうに白い浴衣姿が現れた。小柄な姿はかつて愛し抜いた奥様だ。

「どなた?」

 昔のままの、酒焼けしたかすれ声が微かに帰ってきた。

「槇村です。以前書生としてお世話になっていた」

 あら、と驚く様子が玄関のガラスの向こうから伝わった。

「槇村君、どうしたのこんな夜中に」

「女性と二人で追われているのです。お願いですから朝まで置いてください」

 事情は聴かないでください。そう槇村は言いたかったが、それを言う間もなく間宮夫人は急いで玄関を開けてくれた。

「早くお入りなさい。鍵を閉めるから。このまま真っ直ぐ入って二階へお行き。槇村君のいた部屋は空いているから」

 この時間に追われているというだけで、一般市民なら敬遠しそうなところだが、黙って受け入れてくれるところに、槇村は間宮夫人の変わらない無鉄砲さを感じて懐かしくなった。

 槇村と佐田は急な階段を上り、幾つも小さな書生部屋のある二階の、一番手前の部屋に身を置いた。

「ひとまずここに居れば安心です、佐田さん」

「あのご婦人は本当に大丈夫なんですか?」

「間宮夫人は性格は破天荒ですが、信頼できる芯の通った方です。だてに新聞記者の未亡人ではないですよ」

 トントン、と階段を途中まで上る音がした。

「槇村君、ちょっといいかな」

「はい! 」

 途端に叱られたように姿勢を正し、槇村は部屋の障子戸を開けた。小柄な間宮夫人が灯りを手に、階段を半分上ってきた。

「これ、娘のリカが残していったものだけど、お嬢ちゃんのお召し替えにどうかなと思ってさ」

「あ、ありがとうございます」

「ありがとうございます」

 佐田も出てきて、階段の途中から着替えを受け取った。逃亡中という事で気を遣ってかサマーセーターにスラックス。女にしては背の高いリカのものだから、佐田にも多分合うだろう。

「それとね。たらいにお湯を沸かしたから降りてきて手と顔くらい洗いなさい」

 何から何までありがとうございます。

 槇村と佐田はペコペコ頭を下げた。間宮夫人、自分といる時と性格が変わったか? 槇村は別れ際のヒステリックで高圧的な下着姿を思い出し、時の経過を実感した。

 言葉に甘えて顔と手と髪を湯で洗い、固く絞った布で体も拭き二人はそれぞれ着替えた。槇村には死んだ恩師の服があてがわれたが、20年近くしまい込まれていた下着とワイシャツは、ほのかに埃と黴の匂いがした。いつでも逃げられるように寝巻や浴衣ではなく外出にも怪しまれない服を貸してくれるなど、間宮夫人は事情をよく理解している。

 軽食を頂いた槇村と佐田は狭い空き部屋の畳に離れて寝転んだ。一旦横になると全身の疲労感がどっと出て、地球の重力が何倍にもなったように体が重く、動けなくなってしまった。それほど疲れ切った一日だった。だが自分達はとにもかくにも逃げ切った。他の仲間は、招待して巻き込んでしまった碧生、片桐、湯浅神父は。特高に捕まって所轄の築地警察などにしょっ引かれたらただでは済まないだろう。なにせそこは彼のプロレタリア作家、小林多喜二を拷問死させた警察なのだ。

「朝になったらここを出ましょう。家が官憲の捜索を受けていないかは疑問ですが……」

「分かりました」

「それまでゆっくり体を休めましょう。大丈夫です。僕は貴女に近づいたりしませんから」

「いえ、そんなに気を遣ってくれなくても大丈夫ですよ。私、貴方だけは大丈夫なんです」

「男として見ていないからですよ。ある意味光栄です、男だなんて厄介なだけです」


 畳も陽に焼けた狭い部屋の両端に二人は寝ころび、目をつぶって休もうと試みた。だが瞼の裏に自分達に襲い掛かる官憲の群れと、雪崩を打って逃げだし自分達をもみくちゃにする群衆の脅威が蘇ってきて眠れないのだ。身体は疲労困憊なのに、神経が高ぶって休まらない。そっと様子をうかがうと、横になって自分を見つめる佐田も眠れないようだった。

「お互い眠れませんね」

「はい」

 槇村の問いに佐田は素直に答えた。まったくとんだ一日だ。二人は苦笑した。明日以降劇団は存在しているのだろうか。

「佐田さん、僕は多分自分の下宿には帰りません。劇団が生きのびようがこれでつぶされようが、一区切りだと思えました」

「下宿に帰らないって、ここにお世話になるの?」

「いえ、そこまで厚かましいことはできません。僕はソビエトに行きたいんです」

「ソビエト!」

「ええ。そこで演劇を一から勉強したいんです。劇を書く、書いたものを人が演じるという事について」

「日本ではやらないということ?」

「日本では……もうおっつけできなくなると思います。新しい考え方や試みなんかは、片っ端から潰されていく。そんな風になっていく予感がします」

 二人は顔を見合わせて思った。劇団のすぐ近くの築地警察署内で殺された先輩作家、小林多喜二の事を。

 日本に表現の未来はない。学ぼうとしても学べなくなる。過去の模倣と焼き直しだけやっていれば安心、という世界になる。

 槇村はそう訴えた。

「もうなっていますよね。この今も、刻一刻と」

「佐田さんも感じますか?」

「ええ。見上げた空がどんどん蓋をされていくような、そんな空気が」

 槇村が日本を出たいと思ったのは今急に、というわけではなかった。ドイツ帰りの団長・土田が学んで来た海外の進んだ演劇理論、役者の訓練法、劇的なアプローチ。それら全てが槇村の演劇欲を書きたてた。特に当時既に伝説的なプロットの同士で俳優として有名だった佐野碩が滞在しているというソビエト演劇の身体表現とその訓練法に惹かれていた。日本の労働者演劇界では雲の上の人である彼も、日本での共産党弾圧の後ドイツに渡り、現地の日本人による「反帝グループ」の手引きでソビエトに渡って学んでいるという。

「佐野先生のお名前なら聞いたことがあるわ。帝大法学部から労働者のための演劇に入って、日本プロレタリア劇場同盟の中心になられた方よ」

「モスクワにはね、外国からやってきた労働者や学生、共産主義を学びたいものが無料で学べる大学があるんだ。外国人専用の、寮も食事も完備された大学だよ。そこには既に日本人の同士も何人か行っているっていうじゃないか」

 槇村の目が生き生きと輝いてきた。身体は逃げ回って体は疲れ切り、さっきまでは心も沈んでいたのだが、車の中で少年から聞いた福音を思い出したのだ。

「労働者を弾圧する天皇の警察も、神の兵隊もいないんだ。男も女も皆平等で、勉強も労働も昇進の機会も等しく与えられるし家事も半々だっていうんだよ、彼の国は」

「そんな素晴らしい情報……槇村さんは誰に聞いたの?」

「さっき助けてくれた混血の金持ちの少年さ。君は疲れ切って眠っていたから知らないだろうけど、彼は色々と外国の日本人やコミンテルンの人間にルートを持っているらしい」

「あのロシアやドイツの血が入っているという、綺麗な子ね。でも彼はまだまだ子供よ」

「子供でもいいさ。彼は近々ドイツに留学に行き、そこからソビエトに入るという。そうしたら我々にも情報を送ってくれるってさ」

 槇村は元来人を疑う事を知らない、無邪気な性格の漢だった。自分を助けてくれたという一点だけで、夜中に築地に佇んでいた、制服を着たほんの子供の中学生を信じる気持ちになった。

「モスクワには素晴らしい劇場とコーチたちが揃っている。日本みたいな、あっぱれ新派大悲劇の辛気臭い台詞の調子で、お客を泣かせてなんぼの芝居とは違う。言葉を超越した、体で聴衆に訴える方法ができているんだ。それを学びに行く。機会を逃すつもりはないよ。かの名演出家メイエルホリドに学ぶ事もできるかもしれない」

「男も女も分け隔てのない社会……素晴らしいわね」

 佐田はそんな事があるはずがない、と言わんばかりに力なく呟いた。

「私は男が嫌だから……自分が弱い女だって思い知らされるのはとても嫌だから、そういう世界があったとしたら素晴らしいと思うわ」

 槇村は何も聞かなかった。ここまで送ってくれた少年の自家用車の中で、疲れて眠ってしまった呟いていた小さな声を聴いたからだ。

 やめて、お父さん、やめて、言うこと聞くから、怖いからやめて。

 そう彼女は苦しげな寝言を言っていた。彼女の事情を察するにはそれだけで充分だった。

「たとえ誇張が入っているとしても、この日本よりはずっとましですよ。行きましょう、佐田さん」

 佐田は何を言っているんだろうという目で槇村を見返した。

「僕は男としてじゃなく、人間として君の傍に居ますから。逃亡しましょう」


 槇村は佐田を守ろうと心深く決めた。

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