第9話・ヤコブの梯子

 昭和11年1月15日、ロンドンで行われていた第二回海軍軍縮会議から不満を抱えた日本が脱退し、諸外国との緊張は静かに高まりつつあったが、国民はまだその事を知らなかった。日本国民と内務の眼は2月26日早朝からの帝都の雪の叛乱に注がれていた。


 3月初め。間宮リカは珍しく勤務先の女学校の調理実習室に立っていた。イギリスに長く駐留していた役人の妻である栄養学の先生から、栄養豊富な菓子の作り方を習ったのだ。

 新鮮な卵としぼりたての牛乳、そしてたっぷり砂糖と少しの赤砂糖。何粒かのキャラメルで作る「ぷでぃんぐ」という菓子。

「消化が良くて滋養たっぷりだから病人にはとてもいいのよ」

というマダム先生の言葉に惹かれ、リカは思わず

「あの、作り方を教えてください」

と尋ねた。長期入院中の弟に食べさせたい、と先生には言ったが、

「お付き合いしている作家先生の為ね」

 見透かされてリカは慌てた。

 卵と砂糖をすり混ぜてぬるめに温めた牛乳を注ぐ。よく混ぜたら、大きめのカフェオレカップか湯のみの底にキャラメルを二粒、包み紙を剥いて置く。卵と牛乳の混合液を静かに注ぎ、湯気の上がった蒸し器で「す」が入らないように弱火で10分蒸す。自然に冷まして生暖かいまま食べてもいいし、氷水で冷たく冷やして食べてもいい。

「正式な作り方ではないけれど、砂糖を焦がして作るカラメルソースは私達日本人にはちょっと苦いし、このキャラメルで代用してみたのよ。最後に溶け残ったキャラメルをおまけみたいにいただくのもいいものだし」

 西洋暮らしの長い長身の「マダム先生」は、上品に笑いながら慣れないリカに親切に教えてくれた。ご指導と努力の甲斐あって美味しくできたはずだ。間宮リカはすっかり冷めた湯飲み入りの「ぷでぃんぐ」を菓子箱に入れて風呂敷に包み、意気揚々と女学校を出た。

 点々と卵の汚れのついた割烹着は脱いで、珍しく絣の着物に可愛らしい帯を文庫に締めた。子供の頃から洋装が多かったリカにとって着物は窮屈だった。当時の女性にしては背が高く骨格がしっかりして手足も長い彼女の体型には、あまりしっくりこないのだ。少なくとも本人はそう思い込んでいた。

 髪形にしてもそうだ。パーマをあてて髷に結いあげるのが当時の長い髪の女のお約束のようなものだったが、彼女はそれは嫌いだった。いつも真っ直ぐな長い髪を二つのお下げに編み、背中で一つに結わえるか、邪魔になるときは頭の周りにぐるぐると巻きつけ、ピンで留めていた。家に帰ってその編んだ髪を解き、自然のウエーブを背中に波打たせるのが一番楽で好きだった。片桐は彼女を絵に描く時いつもその髪形をさせた。

「そうしていると憂いに満ちた、精神的な顔に映りますよ」

「あら、それじゃいつもは精神が顔に反映されていないという事なのね。残念だわ」

 リカはわざとそう言って反発してきた。男には『可愛げがない』と思われたかった。特に文士碧生蒼太郎には。


「碧生先生。間宮です」

 ドアをノックする前に髪を整え、白いおでこに乱れた前髪を撫でつけた。襟元をかき寄せ白い半襟をきちんとそろえる。箱に入れた「ぷでぃんぐ」は傾けず、慎重に持ってきた。

「入らないでください」

 思いがけず冷たい返事が返って来た。

「ご迷惑ですか?」

「いえ、そうじゃなくて。風邪をひいているのです」

 そう答える碧生の声は成程かすれている。リカは構わずドアを開けた。

 ベッドに伏せっているのかと思いきや、碧生蒼太郎は綿ネルの寝巻の上にどてらを羽織り机に向かっていた。驚いて顔を上げたその頬は軽くこけ、顎が尖り尚更細くなっている。元々細面で華奢なつくりの碧生の顔は、少し熱が出たり体調を乱しただけで面やつれしてしまうのだ。若き文筆家は23歳になっていた。

「ごめんなさい。本当にお病気でいらしたのですね」

「元々ただの病人ですよ、僕は」

 碧生は苦笑した。

「ともかく書けなくて、締め切りを延ばすために仮病を使っているうちに本当に風邪を引くとは。自分でも笑ってしまいますよ」

「こちらの食事は召し上がっていますか?」

「あまり。書くのに集中しているとつい食べるのを忘れてしまうんです。そんな気になれなくて」

「じゃ、これもお気に召さないかもしれませんけど……」

「何ですか?」

 碧生の声は明らかに警戒していた。彼女の弟ヨハネからも姉が料理下手だという話は聞いていた。家事はいつも『ねえや』がやっていたという。その警戒感がリカをいらっとさせた。

「学校の同僚に訊いて作ってみたんですが……」

 リカは、書きかけの原稿用紙や丸めた紙ごみにまみれていない机の隅に、持参のものを出してみた。有田焼の湯飲みに入った薄い卵色のブルブルと揺れる半固形の食べ物。

「茶わん蒸しですか?」

 碧生は無邪気に尋ねた。確かに見た目は違いない。しかし幾ら何でも出汁の匂いと「ばにら」と呼ぶ香料の甘い匂いの違いは分かるだろう。葱も銀杏も椎茸も入っていないではないか。

「西洋の、卵で作った菓子です。卵と牛乳とお砂糖で作りました」

 憮然としたリカの説明に碧生は明らかにまずい、という顔になった。

「ああ、そうなんですか……自分西洋の嗜好品の事は知らなくて」

「私もイギリス帰りの方から聞いて初めて作ってみたんです。柔らかくてするんと喉を通るから、風邪をひいている今は良いんじゃないかしら」

「じゃ遠慮なくいただこうかな」

 当初の警戒した表情から一転し、碧生は素直に顔をほころばせた。もっと強固に要らないと拒まれるのを予想し身構えていてたリカは拍子抜けした。


「お茶入れましょうか」

 受け皿にぷでぃんぐの器を置き大きめの木の匙を添えた見た目は、なるほど茶わん蒸しそのものだ。碧生氏を責めることはできないな。リカは軽くため息をつきつつ、散らかった蒼太郎の机の上から彼の湯飲みを探した。

「ああ、ありがとうございます。自室には急須も茶葉もないので食堂からもらってくるんです」

「不便じゃないですか?」

「そうですか? あまり感じないですよ」

 リカは入所者の夕食準備に忙しい食堂へ茶をもらいに行った。大きめの急須にたっぷりと入れて部屋に戻ると、蒼太郎はまじまじと茶わん蒸し姿のぷでぃんぐを眺めていた。

「どうしたんですか?」

「いや、よく見ると美しいなと思って。淡い黄色の色といい……」

 やっぱり作家だ。私のような凡人の翻訳家の卵とは見る所が違うんだわ。リカはついでに洗ってきた湯飲みにお茶を注いだ。

「あ、美味しいですよ。甘くて」

 おそるおそる少し口に入れてみた碧生はぱっと顔をほころばせた。

「こういう味なんですね。いやいいですよ、これ。ちょっぴり見直しました」

「ぷでぃんぐを?」

「貴女を」

「ちょっぴりですか」

 ああまた可愛げのない事を言ってしまった。褒められて嬉しくなるとつい真逆の事を口にしてしまう。部屋の壁一面を埋め尽くした本棚を眺めながら、リカはちらと碧生を見た。彼は気にも留めない風で、つるりつるりとぷでぃんぐを口に運んでいる。ふとその動きが停まった。

「無理なさらないで、体調をみて食べられるだけ召し上がってください」

 風邪ひきに無理強いはいけない。吐いたりしたら大変だ。リカは青白い碧生の顔を注意深く見た。

「いえ美味しいです。もっと食べられそうなんですけど……」

 碧生は思い出していた。この卵と牛乳の甘いとろりとした味は以前口にした事がある。そうだ。以前小石川の家で、さやがわざわざお茶の水のパン屋まで出かけて買ってきてくれたクリームパン。その味にそっくりなのだ。あの頃は、父の愛人である彼女と世話になっている無力な自分に腹を立て、ほとんど無視に近い態度をとっていた。なんと情けない真似をしていたのだろう。年上のその女を思いながらも、心配そうに見詰めるリカの表情に気づき、蒼太郎は気まずくなった。

 リカはそんな事情を知る由もなかった。早逝したという母親の味でも思い出したのだろうか。そんな風に漠然と思っていた。


 蒼太郎は休み休み湯のみ一杯のぷでぃんぐを食べきると、礼を言いまた執筆に戻った。

「私は居ない方がいいでしょうか」

「いや構わないですよ。僕は集中すると周りの事は全く感じなくなるんで。本棚の本とか読んでらして結構です」

『独逸紋章学とその象徴』『欧羅巴の森から・植物の伝承』

 興味をそそる表題の本がたくさん並んでいる。しかも西欧の風物関係の本が多い。いま彼はそちら方面を執筆中なのだろうか。読みたいのはやまやまだったが、それよりも目の前に広がるこの部屋いっぱいのごみの海を何とかしたい。きっと彼の体にも悪い。

「あのう、ちょっと片付けていいですか、こちらの床やベッドの周りのごみ」

「はい」

 書き物に没頭していた碧生蒼太郎は 顔も上げずにそっけない声だけを返した。集中しているのだ。時折丸めた原稿用紙を的となるくずかごも見ないで背後に放り投げる。これでは散らかるはずだ。

 リカは机に向かう蒼太郎の後ろでせっせと紙くずを拾い、一つにまとめ始めた。くずかごはすぐ一杯になった。それでも足りず、リカは一度病棟裏に捨てに行き、もう一つのくずかごを用務室から借りてきた。

「おや間宮さん。お見舞いですか」

 湯浅神父が通りかかった。入院中のシスター達のためのミサを執り行った帰りだろう。

「はい。ちょっとあまりにも汚かったのでおせっかいをしています」

「ああ。ヨハネ君はいつもきちんとしていますからね。文士先生は仕方ないですな」

 リカは意味ありげに微笑む湯浅神父から逃れるように、病棟の碧生の元に戻った。

「それじゃ弟の所に行ってきます」

 くずかごを戻し、大分綺麗になった床周りを見ながら、リカは残りのぷでぃんぐの箱を手に取った。

「はい」

 蒼太郎は顔も上げず机に向かったまま手を振った。リカもにこりともせず振り返した。

「あの」

 リカがドアを開けた時碧生が顔を上げた。

「はい?」

「帰りにまた寄ってくれますか?」

「はい。湯飲みを回収しに寄らせてもらいます」

「じゃ、その時でいいです。で……」

 机に向かったまま振り向いた蒼太郎の顔が柔らかい笑顔になっていた。

「出来たらもう一個置いて行ってください。今夜は食べられそうだ」


 帰り際、リカはもう一度蒼太郎の部屋をノックした。先刻弟に笑顔で言われた事を思い出していた。

「そりゃ姉さんとの進展を期待しているって事ですよ。すっぽかさないでちゃんと碧生さんの所に回ってくださいね」

「寄るわよ。湯飲みを返してもらわなきゃ」

「またそういうことを言う……」


 ノックはしたが返事がない。半開きのドアからそのまま入って行った。

「碧生先生、間宮です」

 碧生は机に向かっていた。返事くらいすればいいのに。

「もう帰りますので、お菓子の器を返して頂きに」

 返事はない。机を前に座ったままの碧生はピクリとも動かない。リカは心配になった。

「碧生先生……」

 近寄って肩に手をかけると、気が付いた。彼は眠っていた。ペンを握りしめ、書きかけの原稿用紙に顔を伏せたまま、子供のような無防備な表情で寝ていた。

「おーい……聞いてますか?」

 完全に寝ているようだ。机の上には先刻完食した分と、半分食べかけのぷでぃんぐの湯飲みが二つ。広めの机の上や周囲には、先ほど彼女が掃除したばかりなのにもう丸めた紙ごみが散乱している。その中に、横長のペンチのような椅子に沈んだまま、碧生は眠っている。リカはふと隣に座ってみたくなった。

 彼の細い腰の脇に腰掛けてみた。体は冷え切っている。ベッドの上に放り投げられた毛布をとり、作家の骨ばった肩からかけて包んだ。そっと抑えたその体は思っていた以上に細くごつごつしていた。

 机の上にはドイツ語の分厚い辞書と、博物学の原書が開いたままになっている。日本にない種類の花や鳥、森の木々について書かれているらしい。リカは彼の書く透明感あふれる詩や随筆を思い出した。美しいその文章は、こうした努力によって裏打ちされているのだ。

 碧生が飛行予備学校出身である事はリカも知っていた。他の文士達が多く旧制高校もしくは大学を出ている事もあり、彼が学歴に劣等感を持っている事も知っていた。彼は一人で色んなものと戦っているのだ、決してぬくぬくと保護された文章書きなだけではないのだ。リカは彼にかけた毛布をスッと広げ直した。


 あれ、暖かい。

 碧生蒼太郎はふと目を開けた。いつの間にかベッドに放り投げたはずの毛布が掛けられている。そして人肌の気配がする。すぐ近くに人がいる温かな気配。それは大層久しぶりだ。

 くるりと顔を回すと、ほんの数センチ先に女の顔があった。小さな掌で手枕をし、もう一方の手で碧生の肩からかけた毛布をしっかりと押さえている、間宮リカだった。

「間宮さん、間宮さん?」

 顔を寄せ合った体勢のまま声をかけたが彼女はピクリとも動かない。規則正しい静かな寝息をたてている。お菓子作りをがんばったから疲れたのか。

「すみません。お菓子と全然関係ない事を思い出したりして」

 蒼太郎は毛布を半分開いてくっついて寝ているリカの肩にもかけた。思っていたよりなで肩で、かけた毛布が落ちそうになる。蒼太郎は肩を抱き寄せるようにして、落ちかかる毛布を押さえた。

 一枚の毛布にくるまれていると、逞しい才女という印象だった間宮リカはとても小柄だった。そしてその華奢に驚嘆した。もっとも病身の自分と比べれば大抵の女性は逞しく見えるのだが。

 そっと、高い鼻に口づけてみた。白粉の匂いのしない彼女の顔は、眠りながらうっすらと笑ったようだった。同じく机に顔を落とした碧生の顔にも笑みが浮かんできた。


 夜。食事に出てこない碧生を不審に思った看護師が巡回しに来た。具合が急変していないか確認するためである。

「おや……」

 看護師が見たのは煌々とついた灯りの元、一枚の毛布にくるまって机上の原稿用紙と本の上に突っ伏して寝ている碧生とリカの姿だった。二人は二羽の小鳥のように体を寄せ合って、あどけない寝息を立てていた。


 もうすっかり暗くなってしまった。療養所の門には帰ろうとするバツの悪い顔をした間宮リカと、同じく困った顔をした碧生蒼太郎、にこにこと機嫌よい間宮ヨハネがいた。彼らの後ろから見送りに来た徳永院長も妙に上機嫌だった。

「実にいい夜だ。月も雲のかかり具合も申し分ない美しい夜だ。恋人達の語らいにはうってつけだ。でも規則は規則だからね」

 碧生と間宮リカはきょとんとした目を向けた。おすそ分けした手作りぷでぃんぐに誰か何か仕込んだのか?

「もう碧生君もだいぶ回復したし。退院して二人で住んじゃいなさい。二人で切磋琢磨しあってお互いの作品を仕上げる。これはいい事じゃないか」

「あのう」

「院長先生、それどういう」

「素敵な祝辞ならとっくに用意してあるんだよ。楽しみだなあ」

 二人は顔を見合わせた。


 春・4月。

 2月26日の帝都での陸軍大規模叛乱事件以来自刃未遂で入院していた柘植さやは、ようやく退院の日を迎えた。4カ月の身重であったがその身元は碧生蒼太郎が引き受け、病院への迎えもまた碧生と間宮リカがハイヤーを回した。彼と同様さやの身を気遣うリカは柘植家からごく近い路地裏に古家を借り、住む事にした。彼女の実家は同じ四ツ谷の舟町にあるのだが、21歳になったリカは家を出て一人暮らしをすると決めたのだった。卒業した女学校の助手として既に働いていたし、雑誌の校閲や翻訳等の仕事である程度の収入はあったので可能だと踏んだのである。反乱軍人の妻という汚名を着たまま暮らすさやを心配して、というのは事実だが、もっと他の理由もあった。

 弟のヨハネが療養所に長期入院しているせいで、学校の寮からたまに戻ると家には母とリカの二人きり。かつて大勢の書生を住まわせていた広い家に女二人だった。母の実家は大きな菓子処で援助を惜しまないので生活には困らないが、奔放な母は若い男をいつも自分の周りに置いていた。

 母は小柄で痩せっぽち、体つきも顔つきも決して美しくはなかった。だが斜視気味の小さな鋭い目と濃い眉、眼が弱いせいか人の顔をじっと見入る癖があり、一度それが気になった男はもう心が囚われて抵抗できなくなってしまう、不思議な色気があった。

 奔放な彼女はまた、子育てよりも記者の未亡人の体裁よりも、自分の内なる声に正直な女だった。男を抱きたい時は自分から男の元へ走り、子供には菓子を与えて自分が男に飽きるまで放っておく。そのかわり帰宅した後は母恋しさに泣きじゃくる子供をしっかり抱きとめ、優しい母の顔を見せる。その振り幅が娘としてのリカを苦しめた。その母との日々もやっと終わる。もう母に振り回される事はない。嬉々として身の回りの物をまとめ、引っ越しの準備をする娘に母は言った。

「貴女の男とは住まないの?」

 その単刀直入な言い方は癇に障った。女が一人で住む等あり得ない、男と一緒に決まっている。そう決めつけている物言いだった。一人暮らしだなんて言って私にはわかっているわよ。そんな意味を含んだ声だった。

「お母さん、私は貴女とは違う。色恋や身勝手な感情に流されるままのだらしない貴女とは」

「ああご立派ね」

 母は娘の語気の荒さを鼻で笑った。

「私は男と流されるままに体を交わした事は一度もないわよ。全部自分の責任で恋をしてきたのよ」

 そう言い放つ母の肌は小麦色に滑らかに輝き、白粉を塗らなくとも男の心をとらえてしまう魅力を放っていた。

 ああやっぱり母は美しい、頭でっかちの私とは違う。リカは反発しながらも認めざるを得なかった。

「じゃお父さんは?」

「貴女のお父さんね。あの人は私が付きあった中で一番弱い人だった。娘の貴女には申し訳ないけど」

「貴女の父と言われるとヨハネの父親ではないみたいじゃないの」

 リカは風呂敷包みを背中に背負い、更に両手に持って立ち上がった。

「気になるの? そこが?」

 母は含み笑いを浮かべてリカの若々しい顔を覗き込んだ。玄関まで大荷物を持って歩くリカを手伝おうとはしなかった。そういう人間ではない事は娘としても重々承知している。

「柳桑折に詰めた本は後で少しずつ取りに来て運ぶから」

「真っ先にそれを持って行ったらいいのに。衣服なんか後でいいから。貴女の仕事道具でしょう。後で小僧に持って行かせようか?」

「いい。自分で確認しながら運ぶから」

 靴を履こうと玄関に座り込んだ時、たたきの石に微かな傷跡があるのを見つけた。それは彼女が小さい頃お気に入りの靴を履いて出かけようという時、なかなか支度部屋から出てこない母を待つ間、踵をこんこんと打ち付けていた痕だった。支度を終えて父と出てきた母はいつにもまして美しく艶めいて見えたものだった。その名残りを見つけ、リカはほんの少し寂しく感じた。

「リカ、弱い男もいいものよ。もっとも貴女の碧生君は見た目より弱くはなさそうだけど」

「私は貴女とは違うわ」

「貴女、だって。可愛い」

 リカは憮然として間宮の家を出た。門の外で待っていた碧生は驚いて声をかけた。

「全部持ってきちゃったんですか。僕は待っていたのに。荷物くらい持てますから呼んでくださいよ」

「大丈夫です」

「ほらそうやって全部自分で持とうとする。転んでしまいますよ」

「転んだら起き上がれますから」

「貴女らしい。本類は後で?」

「ええ。自分で全部確認しながら移動させます」

 細い腕で風呂敷包みを持とうとする碧生蒼太郎をリカは目で制したが、彼の体裁も考えて一番大きいが実は軽い包みを一個手渡した。

 省線の行き交う通りをお堀の近くまで歩き、駅前の四つ辻を左に曲がってせせこましい住宅街を曲がりながら歩けば、新居だ。柘植家と変わらぬ古さと狭さだったが、もうすぐ退院する碧生蒼太郎と住むには充分だった。リカの耳には自分の靴音と蒼太郎の下駄の音が心地よく響いていた。


 そうしてさやの夫・柘植譲二が陸軍の軍法裁判を終えて妻の待つ自宅に帰ったのが同年5月初め。再召集がかかったのが同じ月の末だった。

 柘植譲二一等兵ら陸軍第一師団第三連隊は、冬に先発している部隊に合流すべく海を渡り、満ソ国境の最前線に送られた。

 品川駅からの出征兵士を乗せた列車には、大勢の兵士家族が見送りに駆け付けたが、二・二六事件の蹶起軍になってしまった第三連隊には窓の方を向く事も許されず、見送りの家族の顔を確認する事もできなかった。第三連隊は囚人護送のように一カ所に集められ、窓に背を向ける体勢で立たせられ、列車は動き出した。口惜しさに煩悶する若い兵士達の苦悩は列車中に重く立ちこめた。彼らははっきりと

「お前達は陛下に背いた大罪人なのだから、生きて帰ってきてはならない。白木の箱に入って戻れ」

と言われたのであった。

 柘植も背嚢を背負い、窓に背を向けてじっと直立不動で立っていたが、身重の妻が来ているだろうという事は気配で察していた。恐らく碧生やモデルを勤めていた絵師、碧生の想人の間宮嬢たちに護られながら。それでも妻は毅然と立ち、自分を見送っているはずだ。その春の陽だまりのような暖かな笑顔を思い出すたびに、柘植の胸は甘く痛んだ。

「行ってらっしゃい、お父様」

 突然澄んだ高い声が頭の中に飛び込んできた。柘植は思わず目を見開き左右を見回した。年端もいかない声だった。だがこの車両の中には兵士しかいない。

 瞬間、彼は理解した。妻が自分の首を切った直後に聞いたという声は、この声なのだ。

『行ってくるよ。見守っていてくれ』

 彼はまだ見ぬ小さな我が子に向かって呼びかけていた。

 子供の名は『光』とつけよう。きっと自分の代わりに母親を守ってくれる、元気な子になるに違いない。

 神がこの世を作った時に最初にもたらしたもの、光。

 闇の中でも消えない光。

 光、父さんは君に会いに戻るからね。

 だが柘植一等兵らが最前線に着いて間もなく、日本が実効支配している満州国と、ソビエト連邦共和国は激しい戦闘状態に入った。ノモンハン事件の勃発であった。


 ここで再び、話は時を遡る。


「こちらでお待ちなさい。ただ今ご案内します」

 一張羅の銘仙の着物に母のくれた帯を締めて、少女は心細そうに屋敷の裏門に立っていた。貧しい実家を助けるため女学校を中途で辞めた山崎みかは、深川の生家から目の前の立派な屋敷に奉公に来たのだ。女学校の先生からの推薦で、この家の一人息子のお世話をする事になった。みかは子供は好きだし、小さな弟や妹たちの面倒は見てきたから子守りには自信はあった。相手は6歳の男の子だという。下から二番目の弟と同じ年だ。

「こちらに来なさい。いま坊ちゃまがやってきます。まずはご挨拶をして、好かれるように」

 女中頭が威厳を持って言うので、みかは子供部屋の前の廊下に立って待った。程なくパタパタと賑やかな足音と笑い声がして、勢いよく戸が開いた。

「坊ちゃま危ないですよ。外の人がぶつかったらいけません」

「僕は危なくないから大丈夫だよ」

「違いますって」

 にこやかな女中頭に伴われて、すらりとした男の子が走ってきた。みかの緊張した顔に思わず笑顔が戻った。

 自分の弟達や近所の子とはまるで違う。白いシャツと半ズボン、長靴下の白い蝋細工のようなすらりとした手足、にこにこと自分を見上げる丸い小さな顔は、眉間や高い鼻、白い歯のこぼれる顎のあたりなど、日本人離れした彫りの深さだ。まん丸い頬と黒目勝ちの瞳が親しみやすく、緩やかに渦巻いた薄い茶色の髪の毛。天使が走ってきたと思えた。

「レオ坊ちゃまです。ご挨拶なさい坊ちゃま、今日から一緒に遊んで面倒を見てくれるねえやのみかが来ましたよ。好きになりそうですか?」

「うん。好き。お友達になってくれる?」

 舌足らずな高い声ですぐに返事をした彼は、小さな右手を差し出した。

「お友達の握手だよ」

 みかはいっぺんでこの男の子が好きになった。

「私こそよろしくお願い致します、坊ちゃま」

 みかは子供の小さな白い手を両手で包んだ。

「ね、みかねえって呼んでいい?」

「いいどころじゃありません。坊ちゃま」

 じゃ、と男の子はみかの着物の袂に頭を突っ込み、笑いながらぐるぐる回った。たちまちみかの袂は千切れそうな勢いで体に巻きつき、彼女は転びそうになった。

「坊ちゃま、そんなことをしてはいけません」

 女中頭がちょっときつい声で言った。

「だって、本当はカーテンでぐるぐるしてみたかったんだよ。でもママや君がダメっていうから」

「カーテンで駄目なものは他の女性でも駄目なんです。そんな事では立派な紳士になれません」

「はあい」

 少年は大きな丸い目をミカに向け、俯いて謝った。

「ごめんなさい。紳士的じゃない事をしました」

 みかは男の子を抱きしめたくなった。袂なんかどうでもいい。この子は全身で自分に甘えているのだ。弟達と同じだ。

 こうして山崎みかは、美術商である富士見家に子守りとして働き始めた。屋敷の一人息子レオはドイツ系ロシア人の母と、亡命ロシア人の血を引く日本人の父との間に生まれた子供であった。居住地の麻布永坂町、三田神社近くの高台にある洋館の女中部屋が彼女の住処となった。


 昭和8年9月6日、ソヴィエトのスパイ、リヒャルト・ゾルゲが来日した。既に上海の租界でドイツのジャーナリストとして有名になっていた彼は、日本の動静を探るべく船で来日したのである。横浜の港に上陸したゾルゲは、ほどなく東京市内に居を構えた。場所は麻布永坂町の、神社の坂を下った路地の奥であった。赤坂にあるドイツ大使館にもほど近く、多くの在日外国人ジャーナリストや文化人が出入りする銀座、新橋界隈にも比較的出て行きやすかった。

 ゾルゲはドイツの新聞記者として大使館に出入りできる身分を手に入れていた。日本文化を理解し物腰の柔らかい博識なゾルゲは、すぐに周囲の信頼を得て行った。


 神社の秋祭りは9月の後半だ。

 路地の奥の急な参道の坂を上った先に、また続く石段を登りきった先が氷川神社の社である。

 この日、レオ少年の両親は久々に小さな我が子と共に祭りに行く約束をしていたが、急に仕事仲間の通夜が入ってしまい、弔問に行かなくてはならなくなった。若い両親は幼いレオをぎゅっと抱きしめ、子守り役のみかを呼んだ。

「くれぐれも怪我の無いように頼むよ。この子が欲しがってもあまり不衛生なものは食べさせないように」

「承知いたしました、旦那様」

 黒の喪服にベールのついた礼装の帽子を被った美しい母親も、いかにも悲しそうな笑顔を息子に向け頭を撫でた。

「レオ、あまりみか姉にわがままを言っちゃ駄目よ。手を離しても駄目よ」

 両親が行けないという事で一瞬泣きそうになった少年だが、懐いているねえやとお祭りに行けるという事ですっかりご機嫌が直っている。丸い大きな瞳を輝かせ、ステンドグラスのはめ込まれた玄関で、バイバイと小さな手を振って両親を見送った。

「みかねえ、アンズ飴ならいいんでしょ」

「それくらいならいいですよ。虫歯にならないように寝る前にきちんと歯を磨かなければなりませんが」

 浴衣を着てお祭りに行きたいというレオ少年のおねだりで、みかは新しい縫いたての浴衣を下ろした。レオの母が出入りの呉服商から生地を選び、みかが縫った白地の青いトンボの柄の、糊のきいた浴衣。帯は大人ならば博多献上を締めたいところだが、手足がスラリと長いとはいえまだ幼い子供なので、渋い青の有松絞の兵児帯にした。

 白木の新しい下駄も下ろしたてだが、じいやが鼻緒を柔らかくほぐし蝋をぬってくれていたおかげで大層歩きやすい。西洋式の革靴での生活が多いレオ少年でも、無理なく履いて歩く事ができた。

 陽が暮れてから外を出歩く等ほとんどない年端もいかない子供にとって、祭りの夜の灯篭や街灯、参道に焚かれた火や露店の灯りは大層誘惑的で嬉しいものだ。レオ少年はちょこちょこと走り出しそうになりながら、これも浴衣に着替えたみかの手を離さず歩いていた。

「ねえねえ、射的はやっちゃいけないの?」

「射的はもっと大きくなってからですよ、ぼっちゃま」

「うーん、ねえソーダ水は? 喉が渇いたから買っちゃダメ?」

「それくらいならいいですよ。ラムネもありますよ」

「じゃあラムネ」

 ラムネを飲んでげっぷに目をを白黒させた可愛らしい男の子は、今度はビー玉すくいに走って行った。この分では神社にお札を奉納しお参りを済ませるのにどのくらいかかるのか。みかはちょこんとしゃがんで他の子供たちの間で待つ栗色の髪のレオに追いついた。順番が来て、小さな手に網を持ち、さっと盥の中のビー玉と水を掬って手籠に入れようとした時、レオは手を滑らせて数個を地面に転がしてしまった。監視のみかが制止する間もなく、コロコロと色んな方向に転がっていったビー玉を追ってレオ少年は走り出した。小さな姿はたちまち参拝客の波に紛れて見えなくなってしまった。

「みかねえ、みかねえ!」

 御神楽の舞台のすぐ裏手で落とした最後のビー玉を探し当て拾った時、みか姉の小柄な体は小さなレオの視界からすっかり消えてしまっていた。

「みか姉……」

 どんなに目を凝らして、行き交う人々の姿を見つめて視線を泳がせてみても、いつも自分を優しく包んでくれるねえやの姿は見えない。真っ暗な夜の闇の中、小さな子供の目に無数に眩しい祭りの明かりと、空の星と、祭りの客と神社の参拝客、屋台の物売りの声に、お面や売り物の紙風船、千代紙やお手玉、カルメ焼の色。極彩色の世界が子供の瞳を襲い彼は不安に駆られた。

「みか姉ー!」

 叫んで泣き出した富士見レオ少年の前に歩み寄ったのは、大柄な体に瀟洒な背広、帽子をきちんと被った西洋の紳士だった。

「あれあれ、どうしたんだい?迷子かな?」

「坊や、お母様かねえやはご一緒じゃないの?」

 外国人の紳士に寄り添って歩いていた、鮮やかな浴衣を意気に着こなした若い日本女性が、しゃがんでレオの泣き顔をのぞき込む。

「ビー玉追いかけてたら……いなくなっちゃった……」

 涙と鼻水でくしゃくしゃになった小さな顔を、女性はハンカチーフで拭いてやり、西洋人の男性は優しく微笑んだ。

「じゃ社務所に行きましょうか。調べてもらえるかもしれない。私はゾルゲという名前の新聞記者なんだ。心配する事はないよ」

「ゾルゲおじさん……」

 この夜の出来事は、幼いレオ少年の頭に、取り乱して迎えに来たみか姉の泣き顔と共に強烈に焼き付けられる事になった。


 昭和11年5月11日。

 満州国とソヴィエトの国境、ノモンハン近くで両軍が衝突した。第一次ノモンハン紛争である。

 戦線が瞬く間に拡大すると、帝都の大反乱に加担した師団で構成された柘植の部隊は最前線に配属された。

「生きて帰ってくるな。来るなら白い箱の中に入って帰って来い」

 師団長の激が飛んだ。いかにも「反乱兵士であるお前たちに死に場所を用意してやった」と言わんばかりの口調であった。

 同年6月17日。

 一度は引いた双方が再び軍をすすめ衝突した。第二次ノモンハン紛争である。ソヴィエト軍は中央アジアの山岳高地付近に展開していた精鋭部隊を投入し、名将ジューコフによる猛攻で、日本軍は各地で惨敗を重ねていった。


 身重の柘植さやの近所に住み始めた間宮リカは、生活が落ち着くに連れ次第に母を正視できるようになった。

 離れてみて初めて見えてくるものもある。

 自由奔放な性を謳歌しているとしか思えず、嫌悪の対象でしかなかった母は、実は隣組の婦人会でも欠かせない中心的な位置にあり、近所から慕われているのを知った。

 ふらふら出歩いてばかりと見えた、何をしているかわかったものではない母の行動は、実は寺の慈善活動だったり、宮城や明治神宮への清掃奉仕だったり。

 大学の研究室に閉じこもっているばかりのリカより、ずっと社会に溶け込んでいた。


 久々に私物を取りに実家に寄ったリカは、一階の母の部屋や寝室、書生部屋ががらんとしているのに気が付いた。いつも従属物のように母を慕いついてくる、愛人の書生、槇村の姿がないのだ。

「お母さん、槇村氏はどうしたの? いつもお母さんの近くにいたじゃないの」

「ああ、あの子ね。出て行ってもらったわ」

「お母さん捨てられたの?」

「貴女には残念だけど逆。私が追い出したの。鬱陶しくなっちゃってね」

「お気の毒に、あんなにひたすら付き従っていたのに。見苦しいくらいに」

「そうね、そこよね。盲目的に崇拝されるとかえって疲れちゃうし飽きちゃうの。若さもなくなって来たしね、フレッシュネスって大事だわ」

 酷く残酷な言葉を、母は歳不相応の無邪気な笑顔で言い放った。そして孤児院の子供達に配る為の着物を縫う針を止めなかった。

「随分長かったわね」

「そうね。今じゃどうやって知り合ったかも忘れちゃった。あんな子本当にいたのかしらって」

 リカはひっそりとため息をついた。ひたすらな母につき従っていた書生・槇村良吉は、リカには生理的に受け入れ難い存在だったが、それにしても残酷だと思った。

「今どうしてるのかしらね」

「さあね。とうに大学も追い出されていたみたいだから、得意の文章か演劇の方で食べているんじゃないの」


 あの日々はなんだったのだろう。槇村良吉は小さな劇場の、汚れた観客用便所を掃除しながら漠然と念じた。

 帝都一の繁栄を誇る銀座の直ぐ近く、海沿いの運河の脇に建つ劇場は元は或る穀物廻船問屋の倉庫だった。劇場の上層部が何某かの伝手を利用して格安で入手し、劇場に改築したのだ。夏はむっとする磯臭さに加えて東京市の生活で廃された汚水が泥の渦を巻き悪臭耐え難く、冬は冬で遮る物のない寒風が吹きつける。先の大震災の時には火災に追われて隅田川に飛びこんだ幾百もの遺体が膨満し腐り果てた姿で流れ着いた。また目と鼻の先には、劇団と親交のあった作家の小林多喜二を拷問死させた築地警察署があった。官憲がオオカミのごとく徘徊している中での演劇活動に、槇村は所在無く浸かっていた。


 大学をとうに中退して四ツ谷の間宮家に入り浸っていた槇村良吉は、自分を師匠亡き後の間宮家の門番とでも言うべき立ち位置だと思い込んでいた。匿名で書いていたプロレタリア雑誌への寄稿や翻訳、出版社や印刷会社の雑用で稼ぎがない事はなかったし、それは全てリカの母、槇村にとっては太陽や女神にも似たはるか年上の恋人に渡していた。

 愛人の娘リカは彼を嫌悪し出て行ってしまったし、槇村の血と思しき末子の男児は子供の頃からサナトリウムで暮らしている。大勢いた書生達も、性的な匂いを辺り構わずまき散らし、時を構わず屋敷の一室に閉じこもって帯を解く奔放な間宮未亡人に耐えかね、色気違いと去って行った。昔のままに出入りしているのは、近くにアトリエという名のあばら家を構える自称全身趣味に生きる男、絵師の片桐だけという有り様だった。

 だが槇村は幸せだった。四ツ谷の先生の家に閉じこもり、未亡人の年上の色香と温もりを全身で享受し、また自分も全力で奉仕しながら、印刷会社や製版会社から送られてくる本の初稿の細かい文字を校閲し、しばし文学の世界に生きる。いずれ文学の世界で身を立てたいと、まだ存命だったリカの父親・間宮記者に弟子入りしたのはもう何年前になるだろうか。捨てられない角帽と学生服、マントが、衣文かけで埃を被っている。その黒い羅紗のピンとした衣服は、事後の化粧直しをしながら赤い肌襦袢をまとい、万年床の上にしどけない肢体を晒す未亡人の頭上で揺れている。

「槇村君、ここに来て随分長いわよね」

 白粉を細い首筋にもはたきながら、リカの母である未亡人は気だるげに声をかける。

「はい、干支が一廻りして、また幾年か経ちました」

 白いメリヤスの肌着に褌姿でカリカリとペンを走らせる槇村は、事後の熱の冷めぬ声で答えた。

「あのね、そろそろここを卒業して行ってちょうだい」

「え、あのう……」

「慣れと惰性で絡みあってもちっともときめかないわ。ずっと考えていたのよ。以前の貴方はとてもフレッシュで凛としていたわ。今は先生の夫人の前でも褌姿で自分の仕事をするほどになっちゃって」

「これは、とても急ぎの仕事だったので……」

 槇村は顔を紅潮させ慌ててワイシャツに手を伸ばし、学生ズボンに足を通そうと動き出した。つい先刻までねっとりとした愛撫に少女のように嬌声を上げていた夫人が、信じられないほど冷静な顔を向けている。

「じゃ明日か明後日出て行ってね。そうでないと人を呼んで出て行ってもらう事にするから」

「あのう、あの、なぜですか。他にいい男ができたのですか」

 彼には訳が分からなかった。まだ先生が存命だった頃からひたすらに愛し、尽くしてきた。奥様も良くそれに応えてくれた。つい数分前まで。

「ううんそうじゃないわ。飽きたの。とっても飽き飽きしちゃったの。意外性がないの」

「はあ?」

「貴方から学ぶものもないし吸収する事もないわ。私に新しい世界を感じさせてくれる力もない、ただ肉と肉の擦り合いだけ。それは貴方じゃなくてもいいし、むしろ貴方以外の方が私はいいの」

 襟元をぐずぐずにかき合わせ、いい加減に腰ひもを結びつけた姿で、リカの母は立ち上がった。派手な柄物の腰巻が細い膝下に続くむっちりとした太腿を隠す。

 小柄な夫人は斜視気味の眼で槇村を見つめた。

「新しい世界に連れて行ってくれなかったら、若い人と交わる意味なんかないじゃない。そういう事よ」

 シャツに半分袖を通し足元にズボンを落としたまま茫然とした青年に、リカの母は少しも情を残していなかった。

 槇村良吉は30歳を越して、女の生々しい温室から放り出されたのだ。


 体一つに大きなボストンバッグだけで放逐された槇村は学生時代の友人宅に身を寄せた。場所は浅草橋のたもと。運河沿いに長屋が立ち並ぶ一角である。

 体が丈夫でない彼はエログロ雑誌の匿名コラムニストや、三文雑誌の花街取材原稿を細々と書き日銭を稼いだ。それらの出版社は支払いが悪く、原稿料を払う前に夜逃げされたり倒産したりで収入は安定しなかった。たまたま本屋で見かける文芸書や翻訳の外国小説に、碧生蒼太郎や間宮リカの名前を見かけると、背中がチリつくような焦燥で叫びだしたくなるのだった。

 俺は何て無為な時間を過ごしてしまったんだ。希望に燃えて大学に入ったのではなかったのか。文学を志したのではなかったか。それが30過ぎて女に捨てられ、エログロ雑誌の原稿書きでやっと食い繋いでいる。槇村は自分が情けなく、涙すら出てこなかった。ただ吐くものもない嘔吐だけが繰り返された。

 やがて見かねた友人が小さな団体の出版部門の事務仕事を紹介してくれた。そこは大勢の労働者や学生、農民、映画人が出入りしている団体の事務局だった。書生として間宮記者の元で雑務をしていた彼はすぐに仕事を憶え、無難にこなしていった。団体に出入りしていたのは親子連れや若い女性もいたが、いずれも顔を隠しこそこそとやってきた。槇村もそのビルヂングに入っている他の会社に出勤する態で、出入りしていた。

 やがてわかってきたが、そこは労働者組織のための会誌を作る編集部であった。だがどうして思想的にも共産寄りでない、思想的には無知な自分が誘われたのか、当初槙は不審に感じたが、その理由はすぐに分かった。出入りしている若者達はみな理想家肌で、知識や会話は豊富だが短気で怒りっぽく自分の意見を譲らない。他人を追い詰め論破する術には長けていたが一般人との関わりは苦手そうな者ばかりであった。だからこそ実務のできる槇村が採用されたのである。

 彼は覇気がないと揶揄されながらも柔和で実務能力が高いと重宝され、次第に信頼を得て行った。ただ行き帰りや家の中でも、絶えず周囲を誰かに見張られている気配は消えなかった。


「槇村君、君は演劇は好きかい」

 ある日の夕暮れ、仕事を終えようとすると同僚が声をかけてきた。

「はあ、劇ですか。剣劇や歌舞伎なら……」

「おやおや年に似ず随分風雅な趣味なんだな。今日は一緒に趣の違う劇を見に行こう」

 仕事に関係した劇団でもあるし、と、気の進まないままに彼は連れ出された。

 銀座からほど近い倉庫街の一角に古びた汚い倉庫を改造した劇場があった。青白い顔のインテリゲンチャらしい若者達がポツリポツリと来ては吸い込まれていく。同僚に連れられてやってきた槇村は、こんなところに演劇の劇場があるのかと驚き、そしてかつての自分を見る思いで、熱に浮かされたように劇場に入って行く若者達を眺めた。

「マキシム・ゴーリキイ作 『どん底』」と、本日の演目のチラシが劇場の壁に貼ってあった。


 観客席は青白い文学青年達の他に、明らかに自分と同じ、誘われてついてきただけで劇に等関心がない、という観客もいた。舞台は埃っぽく、いかにも牢獄の中のようなゴミや酒瓶だらけの床が舞台にしつらえてあった。天井からはぼろきれや女性の下着と思しき派手な色の千切れた布がぶら下がり、裸電球が照明だ。その中では、貧しさの極みの苦しい人々が互いに助け合うでもなく足を引っ張り合い、獣のような欲望をぶつけ合って世界から這い上がろうともがいている。弱い者は踏みにじられ、白く清らかな者は汚される。そんな暗鬱な舞台が繰り広げられていた。

 槇村はこれがプロレタリア演劇というものかと衝撃を受けたが、その暗い情熱の勢いに打たれる事こそあれ、けして惹かれる事はなかった。惹かれたものはただ一つ。虐げられ利用され尽くす20歳の娘を演じた女優の儚い美しさだけだった。

 汚れたスカートを身にまとい、スカーフで粗末なブラウスの裂け目と汚れを覆い、この世に居場所がないように悲しい目をして佇んでいる。

「ナターシャ……佐田芳子」

 舞台上の買い求めたプログラムの配役を槇村は何度も眺めた。その場で覚えてしまおうというように。


 長い舞台での上演が終わった後、槇村はぐったりと疲れてしまった。初めて見た本格的な演劇が重厚で救いのない「どん底」で、演出も登場人物も一部の光もないものであった。それは劇場を出て浅草や千住小塚原の近く、また隅田川のたもとに行けばいくらでも見られる帝都の現実の光景だった。なぜこんな夢も希望もないものを文化人とやらは見たがるのだろうか。

「どうだった槇村君。初めての演劇は迫力があっただろう。この臨場感、真実こそが舞台の要だ」

 誘った同僚に声をかけられても槇村は生返事しかできなかった。

「うちの編集社はこうした労働者の真実を伝えていく本を作っている。君もできるだけプロレタリア芸術に親しんでほしいんだ。知り合いの愛すべき役者達に紹介してやろう」

 同僚は気の進まない槇村を無理やり楽屋に連れて行った。

「いいかい、芸術は一部の金持ちの暇をつぶす道具じゃない。どんなに貧しくとも味わう事のできるものでなければならないんだ」

 楽屋に一歩踏み入れるとそこは汗臭い衣装が掛けてあり、上半身裸で白粉を落とし着替える男優達、顔を拭いて別人のようにのっぺらぼうになっていく女優達、小物類を運ぶ小道具、美術の裏方でひしめき合っていた。むっとする雑多な臭いに槇村は引き返したくなった。だがただひとつ、汚い舞台の中の一つの救いのような、あの清冽な美しさの女優には会ってみたかった。やがてごった返す役者たちの中に、ひときわ大きな声で喋り笑う背の高い女が目に入った。薄い綿ブロード地の男物のシャツに、これまたサラリーマンのような毛のズボンをはいている。細い華奢な指に煙草をくわえ、ひっきりなしに白い煙を吐き出しまた赤い唇に戻す。

「槇村君、紹介するよ。我らがヒロイン清純なる魂を持つナターシャ役の、佐田芳子君だ」

 佐田と紹介された女優はチラリと槇村の身なりに目を走らせ、あからさまにがっかりした表情を見せた。なるほど彼は着たきりスズメの毛のコートに形の崩れた帽子、襟元が汚れたシャツを着ていた。女優に貢ぐ金は持っていないだろうと一目見て分かる風体だ。

「初めまして、でいいんだよね、槇村君」

 男のような口をきく、先程まで泣き崩れていた儚い美貌のヒロインに槇村は驚いた。だが不思議と不快には感じない。天使は両性なのだ。この世の天使もまた男も女も兼ね備えていて不思議ではない。

「ええ。初めまして。槇村良吉と言います」

「うちの出版社に新しく入ったとても優秀な事務屋君だ。演劇は初めてだというから連れてきた」

 同僚が合の手を入れる。

「初めての演劇がこんなに暗いもので、さぞ面喰ったことでしょう」

「はい、正直驚いて……でも私は好きです。大好きです」

 槇村は真っ直ぐにヒロインの眼を見て言った。女優は視線を外し明らかに疲れた顔をした。もういい加減帰ってほしい、そう全身で言っていた。

「また観に来ます。今度は仕事ではなしに」

 女優の指の間でじりじりと灰になっていく煙草の煙を吸いこみ、槇村は軽く咳き込んだ。元々喉が弱いのだ。佐田芳子は慌てて手にした湯飲みに吸いかけの煙草をほうり投げ、消した。その心配げな眼差しと仕草の可愛らしさに槇村はガツンと頭を殴られた気がした。

 槇村良吉は佐田芳子という女優に、その瞬間恋をした。

「出来たらここで働きたいです。何でもしますから今の仕事を辞めて」

「おいおい勝手に決めないでくれよ。せっかく今の仕事に慣れたというところで」

 女優に向かって性急に言う槇村に同僚が苦笑した。感情を表さないつまらない奴だと思っていたら予想もしない方向に突っ走る。

「仕事の事なら座長へ言ってください。お給料が出るかどうかわからないけど、何か雑用仕事があるかもしれない」

 疲れているのでこれで、と佐田芳子は主演用の個室楽屋に引っ込んだ。

「これから僕は座長に会う。仕事があるかどうか聞きたいからね。君は帰ってくれ。遅くなるかもしれない」

「おいおい槇村君」

「もし首尾よくいったら明日辞表をだすよ。ありがとう。ここに連れて来てくれて」

 槇村は晴れやかな笑顔を同僚に向けた。

 こんな笑顔が自分にできるなんて、ここ数年忘れていた。

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