第8話・水仙は咲かず

 湯浅哲広氏は司祭の叙階を受けて長いベテランの聴罪神父である。人に警戒心を与えない穏やかな笑顔と声音、巧みな話術で、懺悔をする人々の警戒心を解き、核心を聞き出して許しを得られるよう導く。東京市のカトリック司教座聖堂では協力司祭でありながら、懺悔は是非彼に担当してほしいという信徒が市外からも訪れる程だった。小柄だが頑健な肉体と強い精神力を持っていたので、各地の刑務所や病院を回り告白を受け止め慰め、また獄中でのミサも行ってきた。

 彼の素性を知る者はあまりいない。修道院の上長ですら、ヨーロッパの大学に留学経験があり外国語も堪能、神学関係の翻訳書も手掛ける俊才であるという事しか知らなかった。両親と親類縁者は先の大震災で皆死んだ、と語っていた。

 懺悔とはいわゆる「罪の告白」で、カトリック教会や正教会では少なくとも年に二回以上の懺悔を進めている。特に春の復活祭の前には懺悔室の前に長蛇の列ができる事もある。司牧の一環ではあるが神父には守秘義務が固く課せられていた。例え懺悔する人間が「人を殺してきた」と触法の犯罪を告白したとしても、神父は秘密を守らなければならなかった。ただし、懺悔によって自首を強力に勧める事は可能である。

 口が堅く信徒に絶大な信頼を置かれている湯浅神父の元には、大小様々な「秘密事項」が飛び込んでくる。さらに従軍牧師をしている米英のプロテスタントの牧師からの便りや、ヨーロッパのカトリック神父を通しての情報も入る。だが今、温和な湯浅神父の訪れるサナトリウムでは、視線の先にはおずおずと歩み寄る碧生蒼太郎元飛行学生と、間宮リカの姿があった。


 昭和10年の夏の終わり、夏の花が咲き誇るサナトリウムに、その軍服姿の男はふらりと現れた。柘植譲二と名乗った彼は軍装に似つかわしくない風呂敷包みを手に下げ、無防備な笑顔で入り口に立っていた。

「碧生蒼太郎君は居りますか? 」

 よく通る声で受付に尋ねる。書き物中の碧生は慌てて上着を羽織りシャツとズボンを整えて迎えに出た。

「柘植じゃないか。お前帝都にいたのか」

「偶々な。お前こそ体は大丈夫なのか?」

「ああ。大分良くなった。俺がここにいるってどこで知ったんだ?」

「それも偶々だよ。気に入りの文芸誌で貴様の名前を見つけて編集部に問い合わせたんだ。初めは向こうも教えるのを渋ったがな」

「それはそうだ。民間にはプライバシイというものが存在する。柘植、貴様も変わりなさそうで何よりだ」

 柘植と呼ばれた陸軍の軍装の男は碧生の小学校時代の同級生である。家が貧しく小学校にほとんど通わず町に奉公に出ていた。みかん農家の坊ちゃんである碧生蒼太郎とはよく喧嘩をしたが、気が付くと一緒にいる悪友でもあった。苦しい生活の中奉公先の主人に金を出してもらい、小学校を卒業した後陸軍に入ったのだ。優秀さを認められて今は乃木坂の御所近くに勤務しているという。日焼けした精悍な顔つきと鍛え上げた逞しい体躯に蒼太郎はやや引け目を感じた。

「貴様の好きな饅頭を買ってきてやったぞ。『しほせ』の薯蕷饅頭だ。どうだ怖いだろう」

 そんな蒼太郎の気持ちを知ってか知らずか、柘植は豪快に笑いどんどん園内に入ってきた。

「しかしすごいなここは。どんな優雅な金持ちが療養しているのか、だよ」

「ああ。俺も院長が作家仲間でなければとてもこんないい所へは入れなかった」

「だろうな。世の中には泥の中で血を吐いて、周囲から忌避されたまま死んでいく患者の方が余程多いのだ。貴様は運がいい」

 瀟洒な院内の応接室で職員が入れてくれたお茶をすすりながら、柘植は辺りを見回した。

「海外のホテルのようだな、もっとも俺は写真でしか知らないが」

と呟いた柘植はにやにや笑いながら碧生を見詰めた。

「貴様が文章家になるとは思ってもみなかったよ」

「いや、それで一家を養っているわけでもないから、そんな風にはとても名乗れない」

「俺も貴様の文章が載っている本を買って読むが、なかなか良いじゃないか。本なんか絶対に読まなかったお前が書くにしては上等だ」

「体が自由で無理が効いた時には、文を書こうなんて全く思わなかった。目を開いていても見えていない物が多すぎたんだ。今でもそうなんだろうが」

「随分な変わりようだな、さては愛しい人でも出来たか?」

 蒼太郎はしほせの饅頭をとり落としそうになった。

「図星だな。まあお前は昔からもてたからな」

「まさか。全然そんな事はない。言い寄られた経験もなかったぞ」

「そりゃお前が朴念仁だからだよ。なんで気が付かないんだろうって周りが皆呆れていたのさ」

 また朴念仁か。蒼太郎は白い歯を見せて笑う旧友を苦笑して眺めた。

 疲れたか? と柘植は顔色の悪い蒼太郎を気遣った。豪快に見えてこういう細やかな所は子供の頃とちっとも変らない。

「饅頭は世話になっている看護人や皆に分けるといい。俺はそろそろ帰るから。そうそう碧生、ここにも本をたくさん置いてあるのか?」

「何だ柘植、お前も文学に目覚めてきたのか?」

「恥かしい事を言うなよ。俺は今曹長だが少しは時間に余裕もできた。貴様のような目で世界を読んでみるのも悪くないと思ってな」

 旧友の照れたような口ぶりに碧生は我知らず微笑んだ。

「こら、笑うな」

「すまんすまん。俺は今こちらにはあまり持ってきていないんだ。ここに入所するまで世話になっていた父の妾が小石川に住んでいる。その家にほぼ全部置いてあるんだ」

「お前の親父も大概だなあ……」

「ああ仕方がないさ、そういう奴だ。本を読みたくなったらいつでも行って、自由に読んで構わない。俺の紹介だと言えば大丈夫だ。電話をしておくから」

 碧生は手早く小石川の住所を書き留めると柘植に渡した。婦人が一人で住んでいるのだからくれぐれも他人に教えたりはしないように、と釘を刺すのは忘れない。

「もし行く事があったら、その家の女主人に俺は元気だと伝えてくれ」

「ああわかった。伝えるよ」

 丁寧に鋏で切り取った帳面の紙片を受け取り、柘植は何かを察したように答えた。


 小さな中庭の紅葉も夏枯れしそうになっている。さやは少し寂しい思いで汗を拭き、玄関先に打ち水をした。夏の終わりとはいえ窪地になった小石川の家の周りは蒸し蒸しと熱気が籠るのだ。

「ごめん下さい」

 爽やかな声が頭上でした。下を向いて打ち水を続けていたさやははっと顔を上げた。きちんと陸軍の軍服を着て軍帽を被った青年が涼やかな風情で立っている。気付かずに足元に水を跳ねさせてしまったのか。だがそうではなかった。

「永瀬さやさんのお宅ですか? 自分は碧生蒼太郎君の友人の、柘植譲二と申します」

 埃っぽい軍服、鼻の頭に汗を光らせた長身の若者は、子供のようなまん丸い目で自分を見ていた。

「蒼太郎君から電話が既にいっているか分かりませんが、彼の蔵書を読ませて頂きたいと思いまして」

「お話しはお伺いしております。坊ちゃんのご本ですね。どうぞ」

 さやは勝手口に回って手桶と柄杓を置くと、玄関を内側から開けて柘植を迎え入れた。


 不思議な事もあるものだ。この家に蒼太郎坊ちゃんの旧友が訪れるとは。小ざっぱりとした木綿の一重に着替えたさやは、市電に揺られながら思った。彼女は最近モデルを始めたのだ。和服を着て籐いすに座っているだけの事だったが、片桐と名乗る絵師はササッと炭でスケッチをしたり、さやの着物の柄にあわせた色を塗ったりして手際よく書き留めていく。サナトリウムに見舞いや日用品や着替えを置きに行くうちに、友人の息子が入所しているという絵師と知り合い、便箋や本の挿絵のモデルを頼まれるようになったのだ。さやは最初断ったが蒼太郎から『僕も着物姿を書き残してもらうのは賛成だ』と言われ承諾した。片桐の「アトリエ」と称するぼろ屋に行くたびに、蒼太郎の最近の生活を聞く事ができるのも嬉しかった。

 坊ちゃんは年下の美しいお嬢さんと、もしかしたら恋に発展するかもしれない。片桐はスケッチした和紙に色を置きながら、さも面白そうにさやに訊かせる。年下の『坊ちゃん』が新生活に馴染んでいくのを聞くのはさやにとっても嬉しかった。


 夏が終わり、じりじりとしたセミの鳴き声がいつの間にか静かになっても、柘植陸軍曹長は度々小石川の家を訪れた。蒼太郎の部屋の本棚から本を借りて官舎に帰ったり、時に彼の座卓に座って読んで行ったり。茶と茶菓子を出しながら、この家に碧生以外の男がいるという事実にさやは落ちつかなかった。女中部屋に引っ込みご近所から請け負った縫物の仕事をしている間も、早く帰ってくれないものかとじりじりしていたが、次第に「坊ちゃんの部屋に男性がいる」と言う事に違和感がなくなってきた。

 彼女の旦那である蒼太郎の父は、もう滅多にこの家に寄りつかなくなっていた。それでも毎月律儀に金を送ってくるのは、東京の療養所に押し込めたままの二男坊に対する負い目があるからに違いない。

 蒼太郎が去って半年以上、彼女は孤独な生活を送ってきた。その静かな生活に自然な形で滑りこんできたのが、坊ちゃんの友人、柘植だった。

「意味がない。何の意味もないですわ」

 いつものようにやってきて静かに読書を始めた柘植に、茶と剥いた水蜜桃を勧めながら、廊下に出てさやは呟いた。その声は二人しかいない小さな家の中に思いがけず大きく響いた。

「え、何がですか?」

 柘植は蒼太郎より大分逞しい背中越しに振り返った。その顔は不意を突かれ子供のように無防備だった。

「いえ、何でもありません。申し訳ありません」

 台所に引っ込みながら、さやは顔を見せないように背けた。

「僕がこちらにお邪魔させて頂く事で、永瀬さんにご迷惑がかかるようであれば……」

 随分近くで声がした。竈の脇から顔を上げると、台所の入口に柘植が立っていた。大柄な体に似ず足音もなく歩いてきたのだ。

「とんでもありません。意味がないのは私の方なんです。柘植さんには全く……でも」

「ほらやはり何かある」

 柘植は小さい目と鼻にしわを寄せて心配そうに見返した。さやは病身の蒼太郎とは違う健康な率直さに、まともに目を合わせるのを憚った。

「何もありません。でも私はそろそろこちらを出て行こうかと思っています」

「え?」

「こんな御宅に私が一人だけ住んでいられるというのも元々あり得ない話ですし、当初は坊ちゃんのお病気の面倒を見るという事で……でも、坊ちゃんは素晴らしい施設に移られましたし、私よりも頼りになる方々に囲まれています」

「碧生君からある程度は聞いています。奴の親父から頼まれて東京の別邸の管理をしていらっしゃるのだと」

「それだけではありませんわ。柘植さんもう聞いていらっしゃるはずです。私の身分を」

「……」

「もう日が傾き始めました。お帰りになられた方がよろしいです」

 さやは毅然と立ち上がり柘植に微笑みかけた。柘植譲二はこの年上の女をまじまじと見つめ、穏やかに返事をした。

「自分はもう少しいられるのですが、永瀬さんがそうした方がいいと仰るならば」

 その物腰は硬質な軍服姿とはまるで似つかわしくない穏やかさに満ちていた。ふと今目の前にいるこの軍人ならば、自分の声を聞き流してくれるのではないかと、さやは思った。聞いてほしい気もするが覚えていてほしくない。自分の声を上げてみたくなったのは、彼女にとって生まれて初めての気持ちだった。

「今からとてもはしたない独り言を致します。独り言ですから決してお気になさらずそのままお帰りになってくださって結構です。自分でも少しおかしいのです」

 自分は今エキセントリックな表情を浮かべているだろう。多分一緒に過ごした蒼太郎もその父も見た事のないような。だがこの見ず知らずの軍人だったら、見ても見ぬふり聞かぬふりをしてくれそうだ。

「どうぞ。自分も通りがかりの路傍の石になります。読みたい本を一気に読んでしまいますので」

 柘植が台所から離れる気配がする。廊下の微かに軋む音がそれを表していた。小柄なさやは歩いても鳴らないが、男である蒼太郎や柘植は痩せているとは言えぎしっぎしっと板が鳴るのだ。その甘美な軋みの音を、さやは幾度この家で聞いたろうか。


「私はごく若い時から人様の囲い者として生きてきました。手伝いに行った先の坊ちゃんのお父様から手籠めにされたのがきっかけですが、貧しかった実家はこれ幸いとばかりに私を碧生家に売りました。それ以来湘南のお宅から東京の家を当てがわれ、旦那様が商いや他のお妾さん達へ寄るついでにお越しになる時をお待ちしていました。そんな生活でした。私の生きるという事は、旦那様の手が伸びるのをひたすら待ち日々を過ごす。それだけの意味でした」

 柘植の気配はなかった。きっと蒼太郎の部屋の襖を閉めて本に集中しているに違いない。

「その日々に突然、旦那様のお子様の蒼太郎坊ちゃんが現れました。御病気で湘南のご実家に帰れず、こちらで静養なさるようにとのご実家のご意向です。幸い坊ちゃんはお体が弱っていても仕事に恵まれ、先輩作家の先生方のおかげで大変良い療養所にも入る事ができました。私のお役目は終わりました」

 一気に言葉を吐くと、さやは心から笑顔が湧きあがってきた。心の丈を口から吐くという事はこんなにも爽快なのか。口汚い言葉は蛇に、優しい言葉は宝石やバラの花に変わるのだと坊ちゃんに訊いた事があったが、今の自分の言葉がどちらに変化しようと構わない。さやはうきうきしてきた。なぜこんなにも心軽いのだろう。

 一方、一度蒼太郎の部屋に戻った柘植は、どうしても気になり、静かに廊下へと戻ってきた。どの板を踏めばぎしっと鳴るか、慎重に足を運びながら、台所の入口のさやからは見えない壁の向こうに腰を下ろした。腰の軍刀がガチャリと音をたてないように気を使いながら長い脚を折り曲げ、女の独り言を聞いていた。

 柘植にとって、さやの身の上は全く知らないというものではなかった。蒼太郎がちらと言っていたし、控えめな物腰と粋筋の様な住まいの様子。生活感の無さ。多分誰かの愛人なのであろうと見当はつけていた。と同時に、親友の蒼太郎が一度は真剣に好きになった相手なのだろうと、推測もしていた。何故なら自分も心惹かれていたからだ。

「さっき意味がないと言いましたのは、この私の生き方です。意味があるのはどういうのか、と言われても分かりませんが、これだけは決めました。私は旦那様の囲い者でいるのは辞めます。こちらの家も出て行きます。たった今思いついた事ですから、どこに行こうか等まだ決めていませんが、東京に女一人働いて暮らしていく場がないのであれば、満州や京城や台湾に渡っても良い事ですし」

 言葉にするという事は、改めて自分の決意を耳から再確認し自分の決心を固くする事でもある。今思いついた事ではあるが、さやは独り言を口に出して言い続けるうちに、それが一番いいと思いを固めていた。

「坊ちゃんの御本が一番の気がかりですが……でも私が出て言ったら旦那様が売っておしまいになるでしょう。その前に全て療養所に運んでもらえば、もう人様がこの家に来る理由はなくなりますね」


「永瀬さん、ちょっと出かけましょう。一緒に来てください」

 いきなり間近で声がしたので、さやは思わず小さな悲鳴を上げた。

「今からですか? もう夕方になるのですが」

「ええ今から、今すぐにですよ」

「でも私、外出用のなりをしていませんし……」

「そのお着物で充分です。すぐに出かけますよ。僕は気が変りやすい方ではないが、すぐ行きたい所があるのです」

 さやは質素な銘仙に紬の帯を締めた姿で軍装の柘植に手を引かれて家を出た。家の門に鍵をかけると流石に手を取ったままという事はできない。柘植は自然に手を離し、女を庇うような位置で並んで歩いた。

「どこに行こうというのですか?」

「九段です」

 さやにとって、市電に乗って神保町から九段への道は、しばしば蒼太郎の代理で原稿を暁星社に持参した、慣れた道である。柘植にとっては陸軍会館もある軍の中核でもあり、小石川程度なら本来歩いていくべき距離なのであるが、婦人と一緒なので気を使った。

 彼らが向かったのは靖国神社だった。玉串を捧げ修祓・参拝をし、境内の前に立つ柘植の目には清々しい光があった。

「永瀬さん、自分の妻になってください。私は今、先祖・先人の霊に誓って貴女を幸せにすると約束したのです」

 余りにも唐突な言葉にさやは息が止まってしまった。ややあってふーっと息を吐き、自分を見下ろす柘植の表情を見上げた。

 靖国の森の木々の間から夕日が零れ落ち、二人の周りに濃い影を作った。細かな表情は逆光で見えなかったが、この年下の青年兵士は優しげな眼で自分を見つめている。

「駄目ですか?」

「無理に決まっています。貴方は私の身分をご存じでしょう?」

「ええ。蒼太郎から少し聞きました。あとは多少の推測と……でもそれが何ですか? 人間が生きていくという事はそれもこれも全部ひっくるめての事です。自分は貴女と一緒に生きたい」

「順番が逆ですわ。まずはお付き合いとか」

「順番よりも自分は己の直感を信じます。永瀬さん、一緒になりましょう」

 夕日の強い逆光がさやの目を眩ませ、長身の柘植の表情を窺い知る事を拒否した。一方目を凝らして自分の表情を必死に探ろうとする小柄な女性の素顔を、柘植はこの上なく可愛らしいものとして見つめていた。


 昭和10年秋、柘植譲二と永瀬さやは祝言を上げた。

 柘植の数少ない親戚がさやの身分を知り、勝手に決めた結婚に大反対をした挙句に彼を勘当してきたので、参列者は仲人である柘植の陸軍の上官に碧生蒼太郎と間宮リカ、サナトリウムの徳永院長、絵師片桐、そしてカトリックの神父である湯浅だけであった。

 二人はこじんまりとした料亭で祝言を上げ杯を交わした。徳永医師の家に伝わる白無垢をまとった初々しく上気したさやと、陸軍の礼装を凛々しく着こなした柘植譲二曹長は、例える方もなく誠実な美に満ち溢れていた。夫婦は時節柄旅行などには行かず、四谷愛住町に小さな家を借り住まいとした。そこは元々お針を仕事とする年増女が一人で住んでいた家で、日当たりも悪く猫の額ほどの庭は苔が生え、木造りの門も根元に朽ちた部分さえあった。しかし柘植譲二とさやの夫婦にとってはかけがえのない「二人の家」となった。

 子供の頃から苦労したせいか、柘植はこの時代の男にしては実にまめであった。そして軍人としてのプライドを家の中に持ち込む事もなく、ごく自然に女の仕事を手伝った。ふろ焚き、水汲み、そして狭い家の掃除や雑巾がけも、さやが驚くほど気軽にやっていた。

 外に働きに行っている職業婦人でもないのに、自分の家事に不満があるのだろうか。さやは一時悩んだが、そうではなかった。幼い頃から苦労して働き大人の中で揉まれてきた柘植には、女の人は大事にするべしという、その境遇にしては珍しい考えが染みついていた。

 柘植は自分でもおかしい程に、そして周囲からからかわれる程に狂おしく妻を愛した。訓練や事務仕事に忙しかったが、朝出かける際には玄関に正座して見送る新妻に接吻した。帰宅時も軍靴を脱ぐのももどかしく、出迎えの妻を玄関先で抱きしめた。あまりに勢いよく抱きしめた為、新妻は正座の姿勢のまま後ろざまに転んでしまい、押し倒す形になった事も一度や二度ではなかった。

 あまりにも直情的で隠すつもりのない夫の愛情に、さやが白い頬を染める事も多々あった。

「俺はいつも自分でいたいんだ。軍の組織の中での自分は軍人としての役目を果たす顔しかない。家の中では柘植譲二として生まれてきた最大限の事をしたい」

 彼はいつも機嫌よく活動的だった。

 良人の為にさやが酒の肴を作り、夕餉の支度をするわずかな時間に風呂の湯を汲み、薪で炊いた。そして食事の前に風呂をつかい、小ざっぱりとした着物に着替え妻と一緒の細やかな膳を囲む。柘植は何を作ってもご機嫌で食べてくれた。がっつくという事はなく淡々と、でも笑顔で美味しいと言ってくれる。この時代にしては珍しい男だとさやは毎日思った。蒼太郎坊ちゃんはお体の具合もあって食が細く、また自分に対する反感もあったせいで、作った物に手を付けてくれなかった。決して贅沢な物ではないが、慎ましい食事を気持ちよく平らげてくれるというのはどんなに嬉しいか。さやはいつもホッコリとした気分になった。

 妻が後片付けをし、促されるままに風呂をつかって身づくろいをする間、良人はいつも畳に寝転がりほの暗い天井を眺めていた。通りから暗く湿気の多い路地を何メートルも入り、市電の音や車の音など聞こえない。静かな横丁には時折猫の鳴き声や犬の遠吠え、夜回りの拍子木の音が聞こえてくるだけだ。それら街の音に混じって妻のつかう風呂の水の跳ね返る音、木造りの手桶やたらいのカポーンと鳴る音、湯をかき混ぜているであろうゆったりとした水音が、生々しい艶を帯びて柘植の心と体に迫ってくる。

 自分の妻は世界中で一番美しく愛情深い。目を閉じて風呂に浸かっている妻の風情を夢想しつつ、良人は胸の高まりを必死に堪えていた。軽い木綿の一重に着替え、寝巻用の兵児帯を締める衣擦れの音は甘く耳に響く。

 やがて風呂上りの半ば火照った素肌に、洗い髪に櫛目を通し(洗い髪は夫が好むものだ)唇に薄く紅を引いた妻が現れると、柘植は歓びを隠す事なく満面の笑みでひょいと抱え上げ軋む階段を上った。まるで銃剣を肩に担ぐように軽々と抱え上げられた新妻は、笑いながらも階段の高さに怯えた。

「少し怖いです。それに背嚢か銃剣になった心地ですわ」

「しっかり押さえているから怖い事なんてないよ。ほらもう着いた」

 二階は寝室と小さな納戸である。六畳の部屋には小さな座卓と妻の姿見。既に布団が引かれていて、いつもさやは気恥ずかしい思いをした。自分が引くからと言っても夫は聞かないのだ。木綿の清潔な布団の上に、妻はそっと下ろされた。


 白く温かな妻を柘植は深く激しく愛した。妻も全身全霊でそれに応えた。四谷と内藤新宿の際にある、窪地の一角の小さな家。そこは帝都にいくらでもある、新婚夫婦の家としては貧しげなつつましい家だったが、柘植とさやにとっては他に比べる物もない満ち足りた幸せな空間だった。世界は幸せの内に完結し、二人の中で重なり合い、交わって溶け合い融合する。

 停車場の音や人の足音が絶え月が傾く頃、二人は折り重なって手を絡ませ、荒くなった息を整える。夫婦の睦事が終わっても良人の態度が変わる事は決してなかった。そんな年下の夫の肩に布団をかけ直してやりながら、さやはいつも動悸を鎮める。手足の冷えやすいさやを心配し、柘植は自分の足で妻の足先を絡げ脇で手先を挟み温めながら眠りに落ちるのだ。

 新婚の家に夫の同僚が来る事は滅多になかったが、たまに仲間の軍人達を連れてくる夕べもある。同僚達は歳上の妻の落ち着いた、しかし初々しい美しさを讃え柘植をからかった。柘植は三国一の妻だと大いに惚気ていたが、夜も遅くなるにつれ不機嫌になり態よく仲間達を追い返した。

「もっと楽しくお飲みになりたかったのではないですか?」

 甲斐甲斐しく後片付けをする妻の、袖からのぞく白い腕や、立ったり座ったりの度に翻る着物の裾と白足袋との間にちらりと見える足首を見つめながら、柘植はホッとして言った。

「いいんだよ。あいつらはどうせ君を見に来たのだ。そんな奴らにつきあって夜更かしするまでもない」

「でもお付き合いというものが」

「いいんだ」

 妻の声は夫の唇で遮られた。

 妻は夫を愛し、夫も妻を愛した。夫の愛情に洗われてさやはますます美しく暖かな色香を身にまとい、柘植は事務仕事や訓練に邁進し、誰よりも優秀な軍人と認められていった。


 年が明け、二人は靖国神社に詣でた。身を切るような寒気の中何時間も参道に並び、夫婦は御榊を奉納し二礼二拍手一拝を行った。屠蘇や雑煮、細やかなお節料理を祝う中、親友の碧生蒼太郎と佳人のリカの年賀訪問も受けたが、初詣から帰った直後から微熱と悪心を感じたさやは、早々に二階の寝室に引き上げた。親友と心置きなく話に興じながら、夫の譲二は心配で堪らなかった。実際妻が軽く咳をしただけでも夫の狼狽する様は笑ってしまう程であった。

 碧生とリカは気を利かせて早めに帰り、柘植は待ちかねたように二階へ駆け上がり妻の様子を見に来た。

「さや、具合はどうだ?」

「大分いいです。でもごめんなさい。坊ちゃんや間宮さんにもご迷惑をかけてしまったわ」

「このところ近年になく寒かったからな。風邪でもひいたのかもしれない。疲れも出たんだろう」

「風邪かしら……疲れてなんかいないのに。後片付けもお風呂の始末も満足にできなかったわ。ごめんなさい」

「そんな事はどうでもいいんだ。寝てください。僕はかなり反省しているんだ。貴女を愛しすぎて疲れさせてしまった」


 2月に入り立春を迎え、さやの体調は少しずつよくなってきた。元々貧血気味で、冬の寒さで血行が悪くなってしまったのかと周囲は心配した。絵師片桐はどうやって手に入れたのか、海外の修道院で作られたという強い薬草酒を差し入れてくれたし、蒼太郎は以前さやが買ってきてくれた御茶ノ水のパン屋のクリームパンを持参した。傍らには質素な毛織のコートを着た間宮リカ嬢が付き添っていた。彼女は

「サナトリウムの中庭の温室で育ててみました」

 と、毛むくじゃらでひょろりと長い茎の花束を持ってきた。

「ヒナゲシといいます。こんな無愛想な蕾と茎ですが、暖かいところに置くとぱちんと音がする程に蕾が割れて花開くんですよ」

「なんて素敵。楽しみです」

 さやはリカの手から一掴みもある花の束を受け取った。その指は女中も置かない質素な暮らしぶりを反映し赤く荒れていた

 すぐに有田焼や江戸切子の花瓶に入れ、二階の寝室と一階の茶の間に飾った。石炭ストーブの暖かさで蕾がパチンパチンと割れ、赤や白、蜜柑色や黄色の友禅の艶やかな柄の様な大ぶりの花が開いて行った。

 さやは良人に抱かれながらその花の生命力に息を飲んだ。細く弱々しい茎の、とげとげした毛むくじゃらの蕾だったのに、それが弾けるとこんなにも繊細で艶やかな花が咲く。良人もさやも二人の未来を想った。


 2月24日。

 心底冷える夜だった。次の日から夫は夜も宿営の勤務である。さやは心ばかりの温かい夕餉を作った。夫の好きな酒粕汁と五目豆、魚屋が持ってきた寒ブリの塩焼き。柘植曹長は喜んで残さず食べ、風呂に入り、暖かな布団と妻に抱かれて安らいだ。この夜の事を彼は後々まで覚えていた。妻の一挙手一投足まで克明に記憶していたのである。

 そして25日朝、陽が上っても雲が厚く垂れ込め、底冷えは和らぐどころかいや増すばかりであった。柘植曹長は軍装を整え、防寒コートを着用し官給のブーツを履いた。剣を帯び帽子を被り、玄関先で冷たい床に正座して見送る妻を固く抱きしめ、快活に出て行った。

「私が行ったらすぐに鍵をかけて十分に気を付けるんだよ。近頃街は物騒だから」

 全ていつも通りの朝だった。さやも夫の気配が去ると立って昼前の家事を始めた、糠床をかき混ぜ掃除をし、繕い物や近所から頼まれたお手玉や袋物作りに精を出す。いつの間にか暗く立ちこめた雲の下から、霞のような雪が舞い始めた。初め霧のようだった小さな雪粒は次第に大きくなり勢いを増し、帝都はすっぽりと雪に覆われていった。実際この日から数日間の積雪は近年類を見ないものであった。

 2月25日深夜。

 雪の四谷の路を大勢の足音が注意深くだが荒々しく、銃剣の音を響かせながら通り過ぎて行った。住民はまた特高警察による共産主義者への手入れだろうくらいに思っていた。

 2月26日。

 日付けが変わり月が地平線の下に入り分厚い暗い雲に覆われた空の底が白む時分。数発の銃声が雪の中こだました。四時になるかならぬかの時であった。

 さやは何も知らなかった。彼女が事を知ったのは、夫と同じ小隊に所属する同僚の若い妻からの電話である。その妻は斎藤内大臣邸の近くに住んでおり、邸に何人かの陸軍兵士が押し入り、直後に銃声を聞いたというのであった。奥方がそんな未明に起きていたのは、近くの小さな神社に明け方参拝する為であった。

「柘植さん、私とても怖くて。そちらでは変わった様子はありませんでした?」

「いいえ特に。主人は駐屯地で宿直勤務ですし、何も連絡はございませんわ」

「そう、なら賊が押し入ったのかしら。私も子供と一緒に家に閉じこもっている事にしますわ。柘植さんもお気を付けになって」

「ええ。ありがとうございます。お互い戸締りを厳重にしましょう」

 さやは軋む雨戸を開けた。外は一面の銀世界であった。こんな雪は久しぶりだ。いつだったか蒼太郎坊ちゃんと見たような気がする。だが彼女はどういう経緯で坊ちゃんと雪を見たのか、全く記憶にない。ただその時の自分はとてもよい空気を感じたとだけ覚えていた。

 甲斐甲斐しく小さな家の掃除をし、畳の部屋は雪を散らしてサッサッと箒で掃いた。そうすると細かいちりや埃を雪が吸収してきれいになるという、寒い時期ならではの掃除法である。毛の普段着の着物の尻っぱしょりをし、廊下の隅々までタターッと雑巾がけをし、氷の張るような冷たい水で雑巾を絞った。

 夫は寒い戸外に詰めているのだろうか。それとも暖かい室内で事務仕事をしているのだろうか。いつ頃帰るとは言わなかったので余計気にかかった。

 同僚夫人の朝の電話以外、変わった事は何一つない。さやは湯を沸かし夫の褌や下着の洗濯をし、通りから見えない裏庭側の軒先に干した。終始日の当たらないその軒先はつららが垂れ下がり、周りの風景を奇妙に歪めて氷の中に閉じ込めている。その曲がりくねった風景の美しさにさやはしばし時間を忘れた。

 また突然電話が鳴った。急いで出ると碧生蒼太郎からだった。こんにちは坊ちゃんと応える間も許さないほど、蒼太郎の声は急ぎ緊迫していた。

「さや、ラジオを聞いたかい?」

「いえ、盗人が内大臣邸に押し入ったかも、というのならば……」

「それどころではない。今君の家の近辺は大変な事になっているんだ」

 ともかく今すぐラジオをつけろという蒼太郎の指示にさやは胸騒ぎを覚え、急いで電源を入れた。周波数を国営放送に合わせる。そこから流れてきたのは岡田啓介首相、高橋是清大蔵大臣、そして同じ四谷の斎藤實内大臣(先程夫の同僚から電話があった舘の主である)、鈴木貫太郎侍従長、そして軍人では陸軍教育総監の渡辺錠太郎大将、華族では元内大臣牧野伸顕伯爵が朝のうちに襲われたとの報である。そしてそれは陸軍の一部の別動隊による凶行であるかもしれぬ、という事であった。さやはラジオを消してしまいたくなった。

「坊ちゃん、柘植が昨夜からの宿直で帰って来ないのです」

「さや、気を強く持って固く戸締りをして、あいつからの連絡を待つんだよ。僕達もそちらに向かうけど、警備線が張られていてなかなか難しい」

「私は大丈夫です。あの人の帰りを待ちます。軍人の妻ですから」


 夫は寒い中で警戒中なのだろうか。それとも室内で事件の情報収集に奔走しているのだろうか。さやは落ち着こうとラジオを一時消したが、また考え直してつけた。

 ガンガンガン、と表の戸が鳴った。さやはぎくりとして玄関に向かった。

「どなたですか?」

「片桐です、柘植夫人。心配して参りました」

「まあ片桐さん」

 凍える手で鍵を開け引き戸も開けようとするが、寒さと雪で元々立てつけの悪い引き戸は大層軋んだ。細く開いた隙間を自分でこじ開け、雪の粒を全身に付けた長身の片桐が飛び込んできた。

「表は警戒の警官だらけです。私は内大臣邸の近くに住んでいるので余計来るのに難儀した。日頃の行いですかね」

 玄関のたたきで雪を払いながら、片桐は寒さに凍えるさやの青白い顔を一瞬で見てとった。

「文士先生は生憎この寒さで体調が良くない。間宮のお嬢さんも彼と弟についているので私が貴女の様子を見に来ました。忌憚なく言います。私と一緒においでなさい」

「え?」

「ここは陸軍省にも近いしとても危険だ。私が徳永先生のサナトリウムへお連れします。そこで良人をお待ちなさい。病院という施設が嫌なら隣の教会の女子修道院に一時身を寄せてもよい。湯浅神父がうまく根回しをしてくれます」

「でもどうしてそんな事をしなければなりませんの? 私はこの家で柘植の帰りを待つつもりです。どこにも行きません」

「柘植君は帰ってこないかもしれません」

「え?」

 片桐は端正な顔を曇らせ、身を屈めてさやの間近に顔を寄せた。

「これは一部の賊による要人襲撃どころではない。陸軍の反乱なのです。近衛や歩兵師団、砲兵隊等が大人数参加した」

「ラジオを……切っていたのです。聞き続けるのが辛くて。だから知りませんでした」

「わかります。恐ろしい事です。だからここは危険なのです。今は陸軍の上部が『決起の信条にいたく感動せり』と寛大な措置を奏上しているが、とてもそれでは収まらない。反乱分子ではなく反乱軍なのです。掃討部隊による戦闘に陥る事態もあり得ます」

 さやは頭がグルグルしてきた。片桐は彼女の視点がぼうっと遠のいたのを見て手をしっかりと取った。柘植譲二曹長が愛した象牙のような小さな手は、片桐の手も凍らんばかりに冷え切っていた。

「私は……」

「一緒に来なさい。貴女の身が危ない」

 片桐は有無を言わせず玄関の引き戸を開けた。盛大に軋む戸からは雪と強い風が吹き込んで、さやの黒い髪を乱した。

「私は行きません。残ります」

 女は取りつかれたように虚ろな声で呟いた。

「ここで夫の帰りを待ちます。夫は必ず戻ってきますから。大丈夫です。片桐さんはお帰りください」

「いや、それなら私もここに居ます。あなたを一人にしておく事はできない。男として」

「迷惑ですわ」

 思いがけない言葉が女の口から洩れた。

「何ですって?」

「私はそれを望んでいません。なぜ他の殿方と夫の帰りを待つ事ができるでしょう。私は愛人だった女ですが柘植の妻です」

「そういう事ではない?今問題なのは」

「お帰り下さい」

 さやは渾身の力を込めて片桐を突き飛ばし、思いがけない反撃に面食らった男は雪の中もんどりうって転がった。

「柘植夫人!」

「お戻りください。坊ちゃんと間宮さんに宜しく仰って」

 ぴしゃりと戸を閉めたさやは急いで固く施錠し、家の奥にと引っ込んでしまった。

 片桐はしばらく乱暴に戸を叩いていたが(日頃の彼を知る者は信じられないだろうが) 無念そうな表情を浮かべたまま、少しずつ家を離れた。もしや窓からでもと二階のガラス戸を見上げたが、固く閉ざされた窓辺には彼女の影すら感じられなかった。


 事件は陸軍や政府で隠しきれるものではなかった。1400人規模の、帝都の中枢部で起こった反乱である。

 26日、反乱は新聞各紙の夕刊にて既に一面報道された。ただし各紙の論調は後の扱いとは大いに異なり「青年将校達による蜂起」という好意的な印象を与えるものだった。事実この時点では陸軍内部でも「やむにやまれぬ国を憂う心から来た蜂起」という見方が主流だったのである。

 反乱部隊は歩兵第三連隊長の指揮下に組み入れられ占領地域の治安維持任務を命じられ、青年将校達は意気揚々としていた。午後七時の国営ラジオは東京にて「二・二六事件」が起こった事を全国に報じた。そして帝都東京には戦時警備令が発令された。これは戒厳令に次ぐ重い警戒レベルである。

 2月27日。

 夫からの連絡もいつものような元気な靴音もさやの元には来なかった。

 深夜二時四十分、枢密院は帝都に戒厳令施行を決定し、明け方三時五十分戒厳令が交付された。

 朝日や讀賣、その他の各紙は朝刊にて事件を大々的に伝えた。例えば大阪朝日新聞2月27日の朝刊では

「帝都に青年将校の襲撃事件」「斎藤内府、渡邊教育総監岡田首相ら即死す」「高橋蔵相、鈴木侍従長負傷」「非常警備の処置をとらるる」

 また他紙にては

「青年将校等・重臣を襲撃」「國體擁護を目的に蹶起」「首相、内府、教育総監即死」「内閣総辞職を決行す」

 情報が錯綜している上に未確認なので、実際に即死状態だった高橋蔵相らも負傷と書かれている等報道にも混乱が見られた。柘植家では夕刊をとっていなかったので、さやは朝刊を読みラジオを聞き、もしや夫の所属する隊が蜂起に参加しているのではと訝しんだ。

 事実、柘植譲二の所属する陸軍歩兵第三連隊は、2000人の人員に対して実に半数近くの900人余が蹶起に参加し、大半が上官の命令のままに粛々と行動した。自分たちの行動が何を意味するのかも分からず、柘植曹長は部下を率いて警視庁の警備(という名の襲撃)に当たっていた。だがそれは妻さやの知る所ではなく、彼女は静かに待つ事にした。

 心配した蒼太郎や間宮リカ、絵師片桐からひっきりなしに電話がかかってきた。それらを総合すると、柘植家の周囲は蹶起軍と警備の他の部隊、憲兵などが睨み合う狭間にあり、既に自由に行き来出来ない地域になっている。特に永田町や山王町、麹町や半蔵門に抜ける通りは悉く反乱軍によって封鎖され、住民と言えど通行は難しい。地域の人々は家の中に閉じこもり、外に響く物音とラジオに耳をそばだてていた。それらは静かに夫を待ちたいさやにとって、至極都合が良かった。

 一階の茶の間の箪笥の上には、先日リカが持ってきてくれたヒナゲシの花が寒さに耐えて咲いている。その下には、良く拭き清められた桐板の上に、彼女が余暇に作った縮緬のお手玉や余り布で作った小さな雛人形の内裏一対。そのすっきりとした男雛の顔立ちは愛しい良人によく似ており、彼はその人形を見るたびに恥ずかしいと申し立てた。改めて見ると、濃い眉もくっきりとした鼻筋も、締まった口許も、涼し気な瞳も良人にそっくりなのだった。

 さやは一日中電話の受話器を外していた。これで心静かに夫を待てる。二階の寝室に上がり火の気のない部屋の寒さに震えた。夫の掻い巻きを取り出し着物の上から羽織ってみた。僅かに青臭い、毎晩胸いっぱいに吸い込んでいた夫の汗の匂いがした。彼女は階下に下りていくのが怖かった。夫の部隊が反乱軍に参加している、とラジオで報じられるのを恐れた。

 だがもし、夫が自分の考えで上官の命令に共感して蹶起に参加したのであれば、例えどんなに血生臭い事件の当事者になってしまったにしろ、自分は夫についていくしかないのだ。夫は彼女の全世界だった。彼のいない世界など考えられなかった。もし彼が処刑と言う事になったら自分も生きてはいない。そして妻と言う自分の存在が足かせになったり、弱さとなって夫の邪魔をする事態になるならば、それはいけない事だと考えた。


「間宮さん、僕は柘植の所に行こうと思う。電話をしても交換手が困るほどに切られている。彼女は多分受話器を外してしまっているんだ」

 顔から血の気が引いた碧生蒼太郎は、何度となく掛け続けたサナトリウムの電話の受話器を置いた。

 片桐からの話は聞いた。さやの頑なな態度も思いつめた表情も、夫を愛するあまりに思いがけない行動に走りかねない脆さも、容易に推測できる危険を孕んでいる。連絡を自分から断ってしまったという事が、まずもって一番危険だ。先日来の大寒波で碧生は咳が続き熱も出ていたが、片桐が拒絶された以上もう自分しかいないだろう。電話を拒否されている時点で、自分が彼女を繋ぎとめる紐にも鎖にもならないと分かってはいたが、考えまいとした。一度は情を通わせた優しい年上の人である。

「私も行きます。さやさんを一人にしてはいけません」

「でも貴女は女性だし」

「今現在の貴方より私の方が逞しいですわ、文士先生」

 リカは白い歯を見せて分厚いコートを着込んだ。そして碧生にもマフラーをぐるぐる巻きにし、毛の靴下を二重に履かせた。

「すみません間宮さん。これは僕の身内の事ですのに」

「さやさんは私も片桐さんもよく知っている人じゃないですか。それに……」

「え?」

「私は繋がりたい人と繋がっていた人は、皆大事なんです」

 一面に白い雪景色の中、リカは本当に言いたい事は飲みこんでしまった。そして優等生的な事を言ってしまったのを恥じた。その一瞬の揺らぎを碧生は見逃さなかった。間宮リカは自分達にあった事を知っている。

「すみません、本当に……殴ってくれていいです」

「病人を殴りはしません。あなたが健康になって、事が全て納まってから存分に戦わせていただきます」

 碧生は苦笑した。やはり男は女性には敵わない生き物だ。


 雪の中を分厚い防寒着姿で飛び出した碧生蒼太郎と間宮リカは、停まっている市電に面食らった。戒厳令が布告され、交通機関は警備の軍と警察そして一部の地域は反乱軍によって支配されているのだ。外を歩く人影も滅多になく、居たとしてもそれは軍人だった。その中を急ぐ二人は各所各所で呼び止められ、警戒に満ちた尋問を受ける羽目になった。

 目白台から坂道を下り、お堀に沿って移動する道は諦めた。陸軍省や麹町警察、戒厳令司令部となっている陸軍会館(現九段会館)の脇を通るため、銃剣を構えた兵士によって固く防衛線が張られている。坂道を再び登り、神楽坂の奥や牛込の住宅地を通ることにした。

 近くに居るはずの片桐に連絡を取りたかったが公衆電話などない時代で不可能だった。やがて雪道に慣れない二人は激しい疲労を覚え始めた。元々結核が全快したわけではない碧生と、華奢なお嬢さん育ちのリカである。降り積もった雪に足元を取られ、何度となく彼らは転んだ。そして迎賓館や若葉町周辺は第一級の警戒がされていて近づけない。何度も場所を変えては接近を試みる碧生たちに、警戒の兵士達も次第に不審の色を漂わせ始めた。

「ひとまず戻りましょう間宮さん。そして何とか彼女に家に近づく手段を考えましょう」

「ええ。この近くに片桐さんのアトリエがあるはず。彼にも知恵を貸してもらいましょう」

 二人は足首まで埋もれながら、雪に潰されそうな片桐の「アトリエ」を探し当て、ストーブで体を暖めた後三人でサナトリウムに戻った。帰る道々片桐の口からさやの頑なな態度が語られ、より一層心配を募らせた。

 27日夜九時半。

 戒厳令司令部は国民に向けラジオ放送を行った。流言飛語に惑わされず慎重な行動をする事、外出を避け軍の命令に従う事である。

 さやは心が凍る思いでその放送を聞いていた。夫や陸軍からの連絡はない。自分で受話器を外してしまっている事は混乱した彼女の記憶からは飛んでいた。二階の寝室から降り、一階の茶の間で夜具も引かずに眠りに落ちた。夫の掻い巻きにくるまっていると、彼がすぐ帰ってくるような根拠のない安心感に包まれるのだった。

 2月28日。

 反乱事件は二日目を迎えた。政治的にはいかに収拾を図るかで何度も会議が行われ、反乱軍将校達の処遇と、皇軍相討つという悲劇は避けたいという思惑が支配的だったが、重臣を殺害された天皇の怒りは凄まじく

「朕の老臣を殺したあのような者達に何故情をかける必用があろうか」

と、武力鎮圧の方針を一歩も譲らなかった。青年将校や陸軍の顔を立てつつ無血鎮圧を目論んでいた陸軍上層部の思惑は外れた。統帥権を持つ陛下を頂点とした軍事国家樹立、という青年将校達の思惑

はここに全く崩れた。陸軍内での協議の末『反乱部隊』の武力鎮圧という方針が決定した。

 この時はっきりと、青年将校達の行動は陸軍内において「反乱」と意味づけられたのであった。

 この「武力鎮圧決定」は反乱軍将校達にもたらされ、将校達は昨日までとは余りに違う自分達の扱いに衝撃を受けた。将校達の協議がもたれ、正午には自分達乱軍将校は自刃、下士官兵達は原隊復帰させる旨の連絡が陸軍に伝えられた。

 ただしそれには条件があった。この期に及んでも未だ陸軍の内部に根強い意見であった。彼らは天皇の盤石な治世の為に蹶起したのだから、自刃に当たって天皇からの勅使を派遣してほしいというのである。そうする事で自分達の面目を保ち、正しさを世に伝えようというのであった。

「将校達の心情もお察しください」

という奏上を、天皇は一顧だにしなかった。

「どうしてそのような者達に勅使を派遣する必要があろうか」

 天皇陛下の怒りは27日より全く静まる事なく

「なぜ陸軍は鎮圧に躊躇しているのか。この上躊躇し続けるようなら朕自らが先頭に立ち近衛師団を率いて直接鎮圧の指揮を執る」

と激しい言葉を上層部に浴びせていた。

 将校達の甘さは、実にこのような天皇の激越な怒りまで慮ることのなかった点であった。天皇の理解が得られなければこの蹶起は「未曽有の反乱」の域を出ない。

 午後四時、自刃の知らせを待っていた九段の戒厳令司令部に、反乱将校も下士官兵も帰順せずの一報がもたらされた。これで両者の決裂は決定した。師団長や参謀の必死の説得にも反乱将校達の態度は変わらず、午後六時、陸軍第一師団の師団長・堀は反乱に加わった第一連隊に対して「軍の指揮下より外す」と命令を下した。それは事実上の罷免であった。

 午後八時、戒厳令司令長官香椎中将は、指揮下の各部隊に一斉攻撃に備えての準備と待機を命じた。反乱軍への一斉攻撃は明朝午前五時以降と決定された。


 さやは夫を待っていた。彼女を心配してくれる友人達の言葉にも耳を貸さず、ひたすらに待ち続けていた。飲食も風呂も忘れ夫に思いを馳せる時間は辛くもあったが、純粋に幸せな時間でもあった。

 明朝未明、夫の部隊は一斉攻撃を受け恐らく全滅するであろう。自分は良人に遅れをとってはならない。良人の行く所に先に行き待っていなければならない。さやの気持ちは既に決まっていた。

 夜も遅い時間、雪はまだ厚く残り、行き交う人とてない愛住町の奥。一人で死ぬ決意をしたさやに迷いはなかった。これで心置きなく彼を待つ事ができる。彼女の友人達の面影や声は、頭の中から消し飛んでいた。

 そうと決まれば行動にためらいはなかった。一昨夜来の心労から憔悴しきった顔のまま死ぬ事は許されない。これでは優しい夫にあの世で心配をかけてしまうだろう。彼女は湯を沸かし二日ぶりに暖かい風呂に入った。髪を洗い、夫の好む真っ直ぐな洗い髪にきちんと櫛目を通し、縮緬のリボンでゆったりと束ねた。これであの世で夫が髪を解いてくれるのを待つ事ができる。

 下着から肌襦袢、長襦袢まで新しい物に着替え、夫と正月に靖国神社に詣でた時の着物を死出の衣装と決めた。晴れやかな柄の着物は死出の旅路の、というには些か派手な気がしたが、夫がきれいだと喜んでくれたからと、帯も帯締めもその時の物で揃えた。足袋は銀座で買った礼装用を下ろした。真新しいキャラコの足先を締め付けるような感覚。冷えを心配し自分の足で挟んで毎晩温めてくれる、夫の逞しい足を想起した。こはぜを一番上まで留めつけ、しばらく後にはこの白い色が血に染まるのだとはっきりと思い描いた。

 きちんと身支度を整えると、さやは落ち着いて箪笥の中を探し始めた。目当ては良人が身を守る為にとくれた短剣である。結婚以来ずっとしまってあったのだのが使えるだろうか。万が一でも歯が錆びていたり。鈍っていて切れ味が悪く失敗するような事があってはならない。さやは驚くほど冷静だった。


 四谷周辺の警戒線で柘植家への接近を阻まれていた碧生蒼太郎、間宮リカ、絵師片桐惟人の三人はどうしても抑えきれない胸騒ぎがして、再び裏手から四谷区愛住町に接近を試みた。明朝未明に陸軍は反乱部隊への総攻撃を開始する。その情報が湯浅神父経由でもたらされ、居ても立っても居られなくなったのだ。

 だがうら若い女性であるリカは院長徳永によって外出を止められた。弟のヨハネについてサナトリウムに留まるようにと有無を言わせず命じたのである。同じ四谷区の舟町にあるリカの実家は当然防衛線の中にあり、彼女は事件以来院内に足止めされたままだったが渋々それに応じた。

 医師の応急鞄を持ち防寒着をまとった徳永、そして片桐に碧生は真っ暗な雪の帝都に走り出た。

 途中警戒の憲兵や陸軍兵に咎められたが、徳永は

「私は医師で、ここにいる家族の要請で急患に駆け付けるのだ」

 と一喝し半ば無理やり通行させた。実際徳永の往診患者には進歩派の皇族の子弟も含まれていたので、宮家の名前を出した途端に兵士たちの態度は変わった。天皇が反乱部隊に対して激越な怒りを持っているという事は、薄々ではあるが知れ渡っていた。皇族や侍従長も襲撃され内大臣までが惨殺されているいま、これ以上宮中との軋轢の種を生むのは避けたかったのである。碧生達は降り積もり細かな氷状になった雪に足を取られながら、東京の真っただ中を走った。

 四ツ谷の小さな柘植家では、さやがすっかり仕度を整えていた。二階の寝室で、と一瞬考えたが思い直して一階の茶の間で喉を切ろうと決めた。玄関の灯りは点しておく事にした。ついで鍵も外し誰でも入って来れるようにした。僧侶だろうが牧師だろうが夫の上官だろうが、入って来れなかったらさぞ不便だろうとぼんやりと考えたのである。

 茶の間も明るく電気をつけた。神棚、仏壇の灯明は消し、彼女は部屋の中央に正座し襟元を緩めた。そして膝の前に置いた短剣を手に、ぴたりと刃を顎の脇下につけ思い切り引いた。

 瞬間、ガンと思い鉄棒で首を殴られたような衝撃を憶え、目の前が一瞬で真っ赤になった。首の血管から噴き出る血で視界が赤く塞がれた。さやは手元が狂わなかった事に勇気を得て、再びもっと切り込もうと刃を喉深くに動かした。

 折からの強風で玄関がガタガタとなり、今にも良人が帰ったよと飛び込んできそうな風情であった。玄関の隙間から吹きこんだ雪がたたきに白い筋となって積もって行く。

 突如、胎内から声が聞こえた。さやはその言葉に慄然とした。

『母様……死なないで……生きたい……』

 非常に小さく、出血の為の耳鳴りかと思ったが、はっきりとした言葉だった。そして、自分の早鐘のようにガンガンと鳴る心音に重なり、ささやかに拍動する心臓の音も。

『母様……死にたくない……』

 耳鳴りではなかった。

 私の中にもう一つの命が在る。

 良人である愛する柘植との間の大事な命が。

 その命が強い意志で訴えていた。

「私は生きたい」と。


 さやは慌てて吹き出る血を掌で抑えた。次いで長い髪で喉をぐるぐる巻きにし、狂ったように出血を止めようとした。

 生きなければならない。この小さな命の為に。柘植の血肉を分けた存在の為に。生きなければ。

 初め感じられなかった痛みは次第に強く激しくなってきた。

 玄関から助けを求めに出ようとしたが、吹き出した血で足を滑らせ倒れ、起き上がる力は既に残されていなかった。

 誰か、どなたか助けてください。この小さな命を。

 玄関が激しい音を立てて引き開けられた。

 自分の体が勢いよく抱き起されるのを、さやは急速に遠のく意識の隅で感じていた。

「柘植夫人!」

「さや!」


 間一髪、切ったのは頸動脈ではなく静脈だったので、さやの命は助かった。他人より動脈が内部にあり刃がギリギリのところで到達しなかったのである。母体が大量に出血したせいで胎児の命も危ぶまれたが、担ぎ込まれた病院で、無事心拍は確認された。急ぎ血管と傷口の縫合が行われ絶対安静の上母体の回復が図られた。

 この頃の病院はボイラーや床下暖房等はなく、大抵は家族が燃料を持ち込む練炭ストーブである。さやにはリカや碧生、片桐が交代で練炭を持ち込んで付き添い、次の日には湯浅神父が看護訓練を受けた修道女を連れてきて手厚く見守った。

 首の深く大きな傷はなお感染症などの心配もあり、さやは高熱を出した。意識が戻らないまま安らかな顔で眠っている彼女を、一同は悲痛な思いで見詰めていた。


 2月29日午前7時10分。

 戒厳令司令部により、反乱軍が駐留している麹町区、千代田区の一部住民に対して避難命令が出された。赤坂、麹町、現在の紀尾井町付近の住民は雪の中ぞろぞろと避難を始めた。最前線の鎮圧にあたる兵士達は複雑な心境であったが、陸軍上層部でも叛乱軍の一般兵士や下士官を何とか助けたいという思いは強く、奔走するグループがあった。代表的なのが陸軍省新聞班の大久保少佐である。

 彼は前日や早朝危険を承知で叛乱軍の主力の立籠る赤坂の山王ホテルに潜入し、まだ若い兵士や下士官達に中隊長達の命令など訊かずに軍に帰順せよと説いて回った。しかし答えはノーであった。同じ釜の飯を食った仲間、面倒を見てくれた上官を裏切る事はできないという悲痛な答えが帰って来るだけである。

 攻撃命令を出すばかりとなっている軍司令部の中、大久保少佐は奔走した。せめて午前中いっぱいはという猶予を取り付け、下士官や兵士達に直接訴える方法を探していたのだ。その耳には、叛乱軍になってしまった兵士達の家族縁者らが集まって、前夜立て籠もる建物に向けて上げていた懇願の声が、消える事なく響いていた。

 午前8時。

 立川や羽田の飛行場より投降を促すビラを満載した飛行機が数機離陸した。飛行機は三宅坂上空まで来るとビラを投下した。ビラは大久保少佐らが深夜に起稿し印刷した物である。


『下士官兵に告ぐ

 一・今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ

 二・抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル

 三・オ前達の父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ

 二月二十九日 戒厳令司令部』


 8時55分。

 憲兵により厳戒態勢にある愛宕山の日本放送協会東京中央放送局から、投降を呼びかけるラジオ放送がなされた。これが名高い「兵に告ぐ」の放送である。大久保少佐がその場でメモ用紙に書きあげ、アナウンサーが読み上げた。以下、その全文を載せる事をご容赦いただきたい。


「兵に告ぐ」

 敕命が發せられたのである。

 既に天皇陛下の御命令が發せられたのである。

 お前達は上官の命令を正しいものと信じて絶對服從をして、誠心誠意活動して來たのであろうが、 既に天皇陛下の御命令によってお前達は皆原隊に復歸せよと仰せられたのである。

 此上お前達が飽くまでも抵抗したならば、それは敕命に反抗することとなり逆賊とならなければならない。

 正しいことをしてゐると信じてゐたのに、それが間違って居ったと知ったならば、徒らに今迄の行がゝりや、義理上からいつまでも反抗的態度をとって天皇陛下にそむき奉り、逆賊としての汚名を永久に受ける樣なことがあってはならない。

 今からでも決して遲くはないから直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復歸する樣にせよ。

 そうしたら今迄の罪も許されるのである。

 お前達の父兄は勿論のこと、国民全体もそれを心から祈ってゐるのである。

 速かに現在の位置を棄てゝ歸って來い。

            戒嚴司令官 香椎中將


 この放送は繰り返し流され、下士官や兵士達に明らかに動揺を与えた。彼らは上官の命令通りに行動しただけだった。自分たちが叛乱軍、逆賊、国賊と激しい調子で罵られるのは衝撃だったのである。


 午前9時半頃

 警視庁を占拠していた叛乱軍・第三連隊が続々と帰投し始めた。まず門から出て銃剣類を次々と雪の地面に置き、武装解除を受けると原隊の兵営に帰って行った。やがて占領していた他の建物からも兵達の帰投は相次ぎ、正午前には山王ホテルに立て籠もる一部の兵士達と、兵士や下士官を帰投させた後の将校達しか蜂起側には残っていなかった。

 午後2時過ぎ、陸軍大臣官邸に集められた叛乱軍将校達の中で、首謀者の一人の野中大尉は拳銃で自らの命を絶った。

 午後3時頃、唯一最後まで立て籠もった第三連隊第六中隊の安藤大尉は拳銃で頭を撃ち自殺を図るが、失敗。ここに二・二六事件の終結が宣言された。事件に関わった将兵は実に1400人弱。

 戒厳令自体は3月20日に一部緩和されるまで続いたが、住民の交通や行き来は自由となった。一般の兵士達は次々と兵営に帰投したが、迎える側の態度は「罪も許される」どころではなかった。赤坂、青山、乃木坂等に点在する近衛師団の兵営に徒歩で移動を命じられ、隔離されたのである。2月26日以来ろくに睡眠をとっていない兵士達には過酷なものであった。その後一人ずつ呼び出され、担当官による厳しい尋問が始まった。数か月前に入営したばかりの初年兵も例外ではなく、時間は短かったが全員が尋問対象となった。二年兵やさらに上級の兵士になると尋問も激しさを増し、時間も長時間に及んだ。はっきりと「国賊」「陛下に背いた大罪人」とも呼ばれた。

 柘植の様な下士官の処遇はさらに過酷だった。彼らは輜重隊や騎兵隊等他の連隊の営倉に入れられ(その時点で犯罪者扱いは明確であった)、すぐに代々木の陸軍刑務所に収監され、軍事裁判にかけられる事になったのである。しかも官位は剥奪され一等兵の身分に降格したことを全員口頭で告げられた。自宅にある勲章や賞状を憲兵に有無を言わせず持って行かれた下士官もあった。

 予審は陸軍刑務所に収監された直後から始まり、後半は5月5日から開始された。その間高圧的な看守から罵られ、尋問官からは罵倒され、家族との音信も断たれた。柘植にとってそれが一番辛い事であった。

 優しく美しい妻はどうしているだろうか。酷い目にあってはいないか。考えるだけで柘植は内臓が沸騰しそうな煩悶に苛まれるのであった。

 裁判は一審制で非公開、さらに弁護人もつかなかった。かつて海軍将兵の起こした五・一五事件の時とは雲泥の差がある。

 5月7日に開廷した裁判は早々に結審し、5月半ばには柘植譲二一等兵に判決が下った。禁錮一年六か月、執行猶予三年であった。執行猶予が付いたとはいえ柘植譲二にとっては憤懣やるかたない判決である。

 柘植だけではない。上官の指示通りに動いていたら知らぬ間に「決起軍」にされてしまった、全兵士達の憤怒であった。

 中にはその年の1月に新兵として採用された初年兵達も裁判にかけられ、着任1か月余りで執行猶予なしの禁固刑に処せられた者もあった。

 彼らは「上官の命令は絶対である。天皇陛下の命令と同様である」と教育された。その上官の命令のままに動いただけで国賊、逆賊にされてしまった。これはどのように心のけりをつければよいのか。代々木の陸軍刑務所より釈放され、実に3か月ぶりに四ツ谷の家に向かう柘植の胸中は乱れたままであった。

 妻は無事に家に居るだろうか。万が一の時は親友の碧生や、彼の主治医である徳永のサナトリウムに避難させてもらっていればよいが。

 彼は家族・知己との音信を断たれていたので自分の留守中に妻の身に何があったか知らない。四ツ谷警察の前で市電を下り、坂を上って裏手の小道に入れば柘植家の借家はすぐなのだが、彼は電車を使う気にはなれなかった。ただがむしゃらに歩きたかった。ひたすらに、疲れで自分の状況が分からなくなる程に歩いて行きたかった。

 彼は自分が尾行・監視されている事に気付かなかった。彼だけでなく事件で有罪(執行猶予含む)となった下士官、兵士全てが特高の監視下に置かれたのである。それは終戦後の名誉回復まで続くのだ。

 柘植は道で軍服を着たものに対しては、全て立ち止まって敬礼をした。今の彼は曹長ではない。是非もなく一等兵に降格された身だ。

 彼の敬礼を受けた兵士の中には所属を示す徽章を見てあからさまに侮蔑の表情を浮かべる者、迷惑顔をする者、にやにやと笑っている者もいた。それらは全て彼の心を突き刺すに十分だった。

 市電通りから細い路地に入り、プロテスタントの教会の前を抜け、寺の並ぶ一角に入る。半年前に二人で住み始めた古いちっぽけな借家への、通いなれた道だった。二つ先の角を曲がると大事な妻の待つ家がある。柘植は走り出していた。


 門のそばに女がいた。女は長い髪を結いあげ、質素な絣の着物をゆったりと着付け、膝を折って屈み、庭先で何かを摘んでいた。そのほつれ毛のかかったうなじから立ち上る暖かな体温の記憶が、急速に彼の脳裏によみがえってきた。

「さや」

 妻は何気なく顔を上げた。目の前に佇む軍服の長身の男の、まず足元を、次いで一等兵の軍服を。そして取り乱した様子の顔を見上げる。まん丸く大きな黒目を見開き、柘植の瞳をひたと捕らえた。

「貴方……お帰りなさいませ」

 さやは手に摘んだミョウガの芽を潰しそうな程、ぎゅっと握った。

「お疲れ様でございました」

「いや、貴女こそ疲れただろう。長い事心配かけた」

 柘植は妻の、さやは愛しい良人の顔を見た。二人共やや面やつれしていたが、それはずっと焦がれた互いの顔だった。

「貴方、随分痩せてお背が一層高くなったように思えますわ」

「貴女こそ顔色があまり良くない。体の具合は大丈夫か?」

「色々話さなければならない事があるんですの」

「俺もだよ。中に入ろうか。一人で待っていたのは心細かっただろう。すまなかった」

「ええ。でも一人じゃなかったのよ」

 柘植は妻の悪戯っぽい目に言葉を失いながら、玄関の戸を閉めた。世界はすっかり春になっていた。


 帰宅して前庭で摘み草をする妻と再会し玄関の戸を閉めた瞬間、彼は妻を抱きしめていた。

「一人じゃなかったって、どういう事なのかな?」

「貴方、そんなにきつくしたら苦しいです」

「苦しいのなんか当たり前だろう。誰かと一緒だったの?」

「ええ。蒼太郎坊ちゃんや間宮のお嬢さん、徳永先生や片桐さんたちがしょっちゅう来て助けてくれましたわ。でも、いつも一緒に居たのは……」

 そして、訝しがる柘植の手を取り、帯の下から体に沿わせた。

「まだわからないかしら。ここに小さな心臓が動いているのは……」

 柘植は電気に撃たれたような衝撃を覚えた。とっさに言葉葉出てこない。妻の顔を凝視するだけだ。

「分かったのは、あの事件があった日でしたの」

「座りなさい」

「はい?」

「いいから座りなさい。玄関じゃなくて茶の間にだ」

 柘植は大股で茶の間に駆け上がり、軍服を脱ぐまもなく押入れから客用の分厚い座布団を引っ張り出し、さやを無理やり座らせた。そして自分のかいまきを出してきて妻の腰から下を覆った。妊婦は絶対に冷やしてはいけない、というのが大人に交じって子供の頃から働いてきた柘植の知識だった。

「貴方そんな、大丈夫ですよ。お茶くらい出させてください」

「そんなものはどうでもいい。静かにしていなさい!」

「あのね、私も飲みたいんですの。喉が乾いてしまったわ」

 さやは良人の慌てぶりを目の当たりに見て、思わず微笑んだ。柘植譲二が切望した、花のような妻の笑顔だ。そして彼女のほっそりとした体の中には二人の子供が息づいているという。

 彼は泣き出しそうな感動を覚え、再び妻の体を抱きしめた。今度は加減して、やや体を浮かせてお腹を押さないように。すると白い乳の流れのような、滑らかな妻の首筋に大きな傷がある事に気が付き、愕然とした。傷は見ただけでもいかにも深く三寸余りに及んでいる。生々しい傷口の盛り上がりに数針縫った痕まである。

「さや、頸はどうした。怪我をしたのか?」

 妻は良人の腕の中で嬉しそうに身を預けていたがビクンと震えた。

「ごめんなさい。分かりますか?傷……」

「まさか賊が押し入ったとか。反乱兵士の家だからと……」

 よその部隊でそうしたリンチ事件があったと聞いた事がある。柘植はそれがか弱い妻の身にも起こったのかと、全身の血が逆流する程動揺した。

「いいえ、自分で切ったんです。自決しようとして」

「自決?」

「ええ。貴方が蜂起に参加したのだとすればそれは貴方のお考えですから、私という存在が足を引っ張ってはならないと思って。でも首をかき切った途端に、お腹の中からこの子が叫んだんです。母様、生きて。私はこの世に生れたいって」

 柘植は無言でその傷に接吻した。無精ひげを剃っていない顔を擦りつけられ、さやはくすぐったいと身をよじったが、夫は離してはくれなかった。

 長身を折り曲げて小柄な妻を抱きしめ、柘植は泣いていた。体を震わせて全身で泣いていた。帝国軍人として限りなく女々しいがそんな事はどうでもよかった。

 自分の大事な宝物がこの世から消えてしまうところだった。二人の血肉の結晶と一緒に。その恐怖に柘植は少年のように嗚咽していた。着物の肩がびしょ濡れになるのを感じながら、さやは子供をあやすように夫の体に腕を回し、小さな手で背中をポンポンと叩いた。

「落ち着いてください。ね、落ち着いて。もう大丈夫です」

 さやはここにちゃんといますから。どこにも行きませんから。そうなだめすかすように囁きながら、さやは嬉しそうに夫をあやしていた。


 久々の家の風呂は何もかも忘れさせてくれる程気持ちよかった。頭の先から足の先までさっぱりと洗い、ひげもきちんと剃った。

 安定期に入ったという妻は、心配のあまり座っていなさいと連呼する良人をよそに、先程摘んだミョウガで酒の肴を作っている。甲斐甲斐しいその後ろ姿はほっそりとしていてとても身重には見えないが、前に回るとゆったりと締めた帯の下から、やや膨らんだお腹がそれとわかる。

 ストーブをガンガンに焚かなければ震えるほどの寒さだった茶の間が、5月の今は爽やかな風が吹き抜ける。妻のいるこの家、この空気と時間を柘植は拘束されている間中切望していたのだ。

「ぬるめの燗でよろしいですか?」

「ああ。でもあまり呑まないよ。久々に貴女の作るご飯を堪能したいから」

「ろくな物がありませんのよ。お帰りが今日だと知らなかったものですから」

 質素な夕餉は油揚げと山菜、人参の入ったかやくご飯と、なまり節と車麩、蕗の煮物、近所の人からもらった卵と砂糖を使って焼いた卵焼き。おぼろ昆布の吸い物であった。甘い味の卵焼きは最高の贅沢品だった。柘植は3カ月ぶりの妻の手料理を満喫した。それでも視線はどうしても彼女のお腹に行った。

 二階に上がる時も流石に以前のように抱え上げるのはやめた。抱き上げようとしたがかえって危険だと思い直し、妻が足を踏み外さないように前を上らせ、後ろから支えた。布団も自分で引いた。

 久々に糊の効いた自分の浴衣。そして傍らに寄り添う湯上りの浴衣姿の妻。柘植は彼女を壊れ物を扱うようにそっと触れた。

 そして部屋の電灯を消した読書用スタンドだけの灯りの中で、その優しい精緻な顔からゆっくりと顔を寄せ、唇と頬の感触で確かめていった。

 黒い豊かな、真っ直ぐな髪。一本一本筆で描きあげたような鮮やかな生え際は、丸い富士額に続く。白くふっくらとした瓜実顔はやややつれてはいたが充分に瑞々しく、優しげな柳眉と長いまつげに覆われた微睡んだ様な瞳は、柔らかな光を映して夫の視線を吸い込んでいる。細く滑らかな首筋には先ほど良人の驚きを受け止めた盛り上がった傷跡。丸く薄い肩もほのかな膨らみの胸もぴったりと合わされた白い真っ直ぐな脚も、全て柘植の愛したままの妻だった。

 そのややふっくらとした下腹部。スタンドの灯りが届くギリギリの、闇に溶けだしてしまいそうな光と闇の端境の、精緻な臍の丸みの下の秘めやかな辺り。そこに小さな「もう一人」がいるのだ。今の二人の息遣いと睦事を残らず聞いているに違いない、二人の分身が潜んでいる。

 柘植は元来汗かきの暑がりだったが、妻の体に掛け布団をかけ、覆った。

「大丈夫よ、これでは貴方は汗が引かないでしょう?」

「いいんだ。二人で布団によく包まりなさい」

 貴女と、お腹の子供と二人で。


 柘植一等兵は、この妻と新しい命のために、何としても生きようと思った。

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