第7話・緑の袖の女
バラを散らす大風が吹いた翌日の事である。碧生蒼太郎はサナトリウムの廊下で間宮ヨハネ少年と出くわした。そう広くない建物内、生活時間帯も似ているので患者同士よく顔を合わせる。
初夏なのにネルの寝巻を寒そうに羽織った少年は、薬草茶の湯飲みを手にし、明らかに蒼太郎を待っていた様子だ。繊細な青白い顔を困ったように俯けている。
「碧生さんごめんなさい。先日は姉が無礼な物言いで失礼しました」
蒼太郎はたちまち不愉快だった時間を思い出したが、少年の姉リカが美しかった事には変わりない。
「君が謝るような事ではないよ。自分も大人げなかったし」
「でも」
「お姉さんが言っていた薄荷煙草の事だって僕は知らなかったから、一つ物知りになれた。言葉の毒はどうあれね」
最後は蛇足だ。だが言わずにいられなかった自分の弱さを蒼太郎は疎んじた。
「ごめんなさい……」
「すまん。こういうのが僕の器の小さなところだ。お姉さんに会ったら僕がありがとうと言っていたと伝えてください」
「姉ともう一度会ってみる気はありませんか?」
「当分いい」
その夕、いつものように学校帰りに見舞った姉、間宮リカにヨハネは噛みついた。
「姉さんは何であんな態度をとるの。あれじゃ普通男は怒るよ。碧生さんは優しい良い人だからちゃんとご紹介したかったのに」
若草色のセーターに千鳥格子のスカートと言う春らしい装いの間宮リカは、整った眉をひそませた。
「あれが悲運の元航空学生作家、碧生蒼太郎氏だったの……」
「そうだよ、僕はちゃんと言ったじゃないか。碧生さんって」
弟に悪い事をしたかなとリカは思った。あの日彼女は文学同好者の会合で他校の教授とやりあった。女性が平等を求める声を支持し、法律をも考え直すべきと主張する彼女を、その大学教授は鼻で笑ったのだ。
「だいいち君、今時フェミニズムとか『青鞜』とか全く流行りませんよ。遅れてきたハイカラさん」
そう言い放たれたリカは心ここにあらずのままにサナトリウムに移動し、着替え、絵師片桐のモデルになった。その鬱憤をたまたま鋭い言葉で注意してきた若い男にぶつけてしまった。それが顛末だった。確かに困惑した弟の言葉に「碧生さん」という相手の名前はあったはずなのに。改めて思い出して動揺した。自分が愛読し出版社にファンレターを送っていたその人だったのだ。だが彼女はその思いを押し殺して、弟の顔を一瞥した。
「なあんだ。思ったよりも世間並みの殿方だったのね。碧生蒼太郎先生も」
翌月の「暁星」誌には、久々に碧生蒼太郎の文章が載った。
『足下の蝶』
詩や随筆が多い蒼太郎にしては珍しく、今度は大人向けの寓話短編小説である。
ある男が公園の花壇の傍、ベンチで眠る美しい女を見る。
女の手元、ベンチの手すりには美しい蝶が羽を休めているようだ。
ふと男は子供のころを思い出す。
幼馴染の不思議な男の子。不思議な言葉を喋りながら、無邪気な、しかし心に重く残る子供だった。
ある夏の日、大きな地震があった。
男が見上げる傍から男の子が上っていた鐘突き堂が崩れ、空を舞うように落ちていった。
男の子は綺麗なあどけない笑顔のまま死んでしまった。
遠くから女を呼ぶ声がし、「男」が見ている間に、美しい女は目を覚ました。
自分をじっと見つめる男の視線を無礼と罵りながら、迎えに来た小洒落た男にしなだれかかって行ってしまう。
力尽きたように女の手元から落ちた蝶を踏みにじりながら。
『足下の蝶』を読みながらリカは怒りを禁じえなかったが、同時に心寂しくもなった。
新聞記者を目指す女学生間宮リカは、碧生の文章が好きだった。彼女は19歳。弟の入所するサナトリウムから遠くない、目白の女学校に通う学生である。少女の頃から女性の自立、女性も男性も一個の独立した人格として扱われるべきと主張してきた彼女は、ペンの力で世論と戦うという意志を固めていた。ただその意志を曲げない頑固な性格や率直すぎる物言いもあり、思いが前のめり過ぎるあまり理解されず、周囲から叩かれる事もしばしばだった。
おまけに彼女の唱える女性の権利、フェミニズムという概念も当時既に古臭いものになりつあった。金融恐慌や陸軍・海軍の拡張競争。時代は急速にきな臭くなっていたのだ。聡明な彼女もそれは分かっていた。だからこそもがいていた。
数日後、またもや碧生蒼太郎と間宮リカは顔を合わせた。しかも最悪の形で。
その日体調の良かった彼は久々に小石川の家に向かった。ただ一人妾宅を守っている父の愛人さやに元気な顔を見せたかったし、新作の資料となる本を読みたかったのだ。
冬まで暮らしていた小さな家と面倒を見てくれた父の愛人、そしてきちんと整理されそのままにしてある自分の部屋は心地よかった。この家を出る時玄関先には水仙の花が咲いていた。季節が代わり、今は芝生代わりに植えたスズランが可憐な白い花房をつけ、清々しい香りを漂わせている。その俯いた佇まいは珍しく洋装のさやに似合った。
「また来るよ」
「はいいつでも」
「ここはいつも気持ちの良い所だね」
サナトリウムに戻り自室への回廊を歩いていると、使用していないはずの茶室から話し声がした。不審に思いノックしてみると爽やかな声で返事があり、出て来たのは間宮リカと先日のカメラの男、片桐と呼ばれた人物だった。驚いた蒼太郎は思わず後ずさった。若い女が男と二人きりで密室に居てしかも見られても全く悪びれない。普通に人前に出ている。ヨハネ少年の言う通り実は心優しい姉だとしても、彼には信じがたい状況だった。
「こんにちは。ヨハネ君のお姉さん」
「こんにちは。碧生蒼太郎先生」
2人の声は固く挨拶を交わすもぎこちない。片桐さんと呼ばれた男はにやりと笑って、フィルムの缶を手に行ってしまった。
「先生、ですか?」
「はい。文士の碧生先生。今月の『暁星』の御作も拝読致しました」
「何かちょっと照れますね。今まで読者の方と面と向かってお話しした事はなかったので」
お茶でも飲みますか? と碧生はリカをティールームに誘った。このサナトリウムには英国趣味の徳永医師の意向で立派なティールームがあり、本格的なお茶が飲める。ただし碧生が頼むのはいつもグリーンティー、緑茶だった。
「今回のお作も素敵でした。特に蝶と少年の印象の重なり合いが」
「ありがとう」
「あの男の子には特別な思い出がおありなんですね」
「ええ。僕の子供の頃の友人でね。実際に震災であの通りに亡くなったんです」
「やっぱり。書き方にいつもの透明感がなくて、自分に引き寄せて書かれていましたわ。今までのような透徹したものが乏しいというか」
「さすがに厳しいですね。自分でも気にかかっていた所です」
熱心な口ぶりと美しい真摯なまなざしに、碧生は目の前の鼻持ちならない若い女性が自分の熱心な読者『間宮リカ』その人である事を思い出した。と同時に何ともやりきれない気分になった。文章に鋭く切り込み、まっすぐな感受性で分析してみせるこの聡明な女性は、男と二人きりで部屋に籠りそれを他人に見られても平気な感性の持ち主なのだ。
「話変わって恐縮ですが、先程の男性は先日もご一緒でしたね」
「ああ片桐さんの事ですね。きちんと紹介しようと思ったのですがもう行ってしまいました。気ままな人だから」
リカはきりりとひかれた太めの眉を開いて笑った。そうすると19歳と言う年齢相応の、実に屈託のない表情になる。その顔は一瞬で碧生を魅了した。
「あの方は絵師なのです。亡くなった父の古い友人で私のごく幼い頃からのお友達。父亡き後の私達姉弟の後見人みたいな役割もしてくれます。母がからきし生活能力のない人だから」
「先日は写真も撮っていましたね」
「ええ。写真に西洋の音楽、何でも造詣が深いのよ。若い頃西洋に勉強に行っていたらしくて。挿絵とか便箋、封筒の絵柄を書いて生活しているけど時々油絵を描くの。私は幼い頃から彼のモデルをしていて、もう歳の離れた兄のような感覚ですわ」
「だから彼の前ではどんな風にでも振る舞える……」
「そう。彼は大人の男だけど、私を性別の前に一人の人間として見てくれるわ。子供の頃からそうだった」
涼やかな目元を細めて思い出す彼女に碧生は些かの苛立ちを憶えた。
「貴女は片桐さんの事を好きなのですか?」
「え?」
「あなたの今の表情を見ていると、そう思う」
「まさか」
間宮リカは自分を真っ直ぐに見据える碧生の目を見返し、はぐらかすようにクスリと笑った。
「私が好きになった男性も私を好いてくれた男性も何人かいたけど、彼は違いますわ。子供の時にふられたの」
目を逸らしいかにも可笑しそうに笑う、その美しい横顔を見ながら、碧生は混乱してた。
「海軍出身のお堅い方には分かって頂けないかもしれないけれど」
「ええ。分かりにくいです。確かに」
「分からない、とは仰らなかったですね」
リカはぴたりと笑うのをやめ碧生蒼太郎を見返した。その強い瞳の力に碧生ははっとさせられた。だが彼は混乱していた。言葉や態度の端々に彼女が真っ直ぐ過ぎる感性を持った女性だというのは感じ取れる。弟のヨハネ少年の病的なまでに鋭い感受性と瓜二つだ。だが女性と男性の性差を否定し碧生の保守的な軍人思考に反発し、まず強気な口をきいて一本太刀を浴びせてから会話に入ろうという彼女は、彼にとって理解しがたい存在でしかなかった。
それでも碧生は残念だと感じていた。否定しても否定できないところで彼女に惹かれていたのだ。
「あなたはイングランドの古謡に出てくる女性のようですね」
「イングランドですか。片桐さんのアトリエの本で読んだことがあるわ。女王の国で、高い塔のお城や七つの海を制圧した艦隊、騎士道が盛んだった国ですね」
「そう。我が国の航空学は彼の国から多大な影響を受けています。航空学生にとって英語は必須ですし」
「それで、その女性はどんな人なのですか?」
「レデイ・グリーンスリーブス。『緑の袖の女性』というのです」
「素敵な響きですね。どんな歌?」
碧生はつと立って、食堂に置いてある古いピアノの蓋を開けた。ピアノが本格的に弾けるわけではなかったが、旋律を思い出しつつ指一本でたどる事はできる。そしてぽつぽつと歌い出した。もちろん英語だ。人前で歌を歌うなど軍歌以外に経験はなかったが、何故かこの時はそんな気になったのだ。
「美しい歌ですね」
碧生の長い指がたどたどしく鍵盤をなぞる、その朴訥な音が耳に心地よくリカは思わず微笑んだ。
「ですが、この女性には諸説ありまして。緑は愛の色で、対象は宮廷の高い身分の女性、その彼女との忍ぶ恋を歌った歌、二つ目はイングランドの地方での、緑は死者の色という伝承を受けて死んだ恋人を思う男が歌った歌。そしてもう一つ。これが一番信憑性があるのですが」
テーブルに戻った彼を可愛らしい顔で見つめる見詰める間宮リカの瞳は、これから彼が言おうとする事を予測するように曇った。にもかかわらず、こうしてみると清純な天使のように見える。だが碧生は言い出した勢いと、さっき強気に挑みかかってきたこの女性への反発もあって止められない。
「緑は娼婦の色です。古くから娼婦である印として、袖に緑の布を縫いつけていたのです。それに」
間宮リカは既に怒りの浮かんだ顔を向けて、言葉の先を促した。
「そういう女性は郊外の野原で商売に及ぶ事が多かったから、草の汁でドレスが緑に染まって汚れた女性、という意味もあります。手練れな娼婦へのかなわぬ想いでしょうか」
彼女はまだ飲みかけの茶の入った湯飲みを手に、血相変えて立ち上がった。茶をぶっかけられるかと咄嗟に身構えた碧生はそれも仕方がないと観念した。
だが覚悟した次の一撃は来ない。間宮リカは静かに立ったまま手にした湯のみを見詰め、泣き出しそうに顔をゆがめたまま自分自身に浴びせかけた。熱い茶が彼女の肩から胸元、腕や背中を濡らす。碧生は面食らい立ちあがった。彼女の白いセーターはみるみる緑色に染まっていった。
「こんな感じなのでしょう? 貴方に見えている私の姿は。汚れた生意気な女。分かっています!」
みるみる瞼の淵に盛り上がった涙をこぼすまいと顔をそむけ、間宮リカは椅子を蹴って出て行った。残された碧生は自己嫌悪に俯きながら、床に残ったこぼれた茶の跡を見つめていた。
「誰かいるのですか?」
端正な顔を曇らせた院長徳永がドアから覗いた。たまたま通りかかったところに、目にいっぱい涙をためて飛び出してきたリカと出くわしたのだ。しかもお茶で緑に汚れた服を着ていた。
「僕です。碧生です」
徳永は意外だという顔を向けた。
「今出て来たヨハネ君のお姉さん、服が盛大に汚れていましたよ」
「はい。僕が悪いんです」
碧生は素直にうなだれだ。
「事情が分からないのであまり言いたくはないですが、間宮さんは泣いていましたよ。女性に乱暴を働いてはいけない。心にも体にも」
乱暴と言う強い言葉に内心ぎくりとしたが、確かにそうだ。
「僕がいけないのです。イギリスの古い話を引き合いに出して、ついつい彼女を傷付けてしまった。彼女は口論の中で興奮して、自分で自分の茶を浴びたのですが、その引き金を引いたのは間違いなく僕です」
「君は若いし、モダンなタイプの女性とお付き合いした経験もなさそうだから免疫がないかもしれないが……後悔しているのならなるべく早く、その悔いている気持ちを伝える事です」
「はい」
碧生はふと目を泳がせた。蓋が開きっ放しのピアノは、先刻奏でた拙い音と自分の稚拙な言葉を憐れむように、白い鍵盤を光らせていた。
その夜の事である。
「碧生さん、宜しいですか」
碧生が浮かぬ顔で原稿用紙を広げているところに、ドアの外から少年の声がした。
いつもの軽やかに高いボーイソプラノではない、低く押し殺したような間宮ヨハネの声だった。
「はい。どうぞ」
多分今日の事だ。碧生は居住まいを正してドアを開けた。案の定痩せ細った美しい少年、間宮ヨハネだ。いつもにこやかな顔をきりりと引き締め鋭いまなざしで碧生を見上げている。その様子は先ほど自分が傷つけた彼の姉にそっくりだった。
「夜分に失礼します。僕がなぜ来たのか碧生さんはよくご存知ですよね」
「ああ」
碧生も真っ直ぐに彼を見返した。そうしないと彼に失礼だと思ったからである。
「碧生さんにとっては姉は落ちた蝶を踏みつぶす女に見えるかもしれませんが、実際は逆です。誰にも助けを求めず手も伸ばせず、落ちて踏みにじられていく蝶の側の人なんです」
「ああきっとそうだね」
そう気づいた時には遅かった。碧生は自分の意固地を呪った。ヨハネはそんな碧生をじろりと一瞥し言い放った。
「いいですか。姉を傷付ける事は僕が絶対に許さない」
そうして静かにドアを閉めて帰って行った。手荒に閉められるよりもずっと怒りが伝わってくる仕草だった。
翌日以降も、サナトリウムの他の患者たちはこぞって「暁星」誌の碧生の寓話を誉めた。だが彼はちっとも嬉しくなかった。
カーテンから差し込む光が、白い顔に淡い陰影を形作っている。その移ろいゆく光の造型の一瞬を逃すまいと、片桐は筆を走らせキャンバスに絵具を載せていく。
ソファに俯いて座ったリカは気怠く声を上げた。
「ちょっと休憩にしません? 私が紅茶を入れますから」
「あと一時間待ってください。この今の影の具合が貴女をより美しく彩っているのだから」
「そうなの?」
こういう時の片桐の言葉は絶対だ。モデルとして長い時間接している間に理解した点だ。絵筆を持っている片桐には逆らえない。きっかり一時間後、光の変化を描き切って片桐は休憩を宣言した。
リカは紅茶の葉が湯に浸って行くのを見るのが好きだった。透明なガラスのティーポットに2人分、大匙二杯の茶葉を入れ沸かしたての熱湯を注ぐ。みるみる赤茶色の揺らぎが透き通った湯に溶け、香料のくせのある香りと茶葉の芳香が漂う。片桐は「アールグレイ」という香料入りの紅茶を好んだのでリカもそれが好きになった。子供の頃はもっと穏やかな香りの茶葉でミルクティーを入れてもらったものだが。今は片桐もリカも、ストレートで熱い茶をすすった。
「ねえ片桐さん、グリーンスリーブスという歌をご存じ?」
「知っていますよ。イングランドの16世紀の歌ですね」
「聞かせてください」
「すぐに?」
「ええ今」
相変らずせっかちなお嬢さんだと笑いながら、片桐はアトリエの隅の『パラダイス』と呼ぶ一見無秩序に西洋雑貨が置かれた一隅から、古いリュートを取り出した。琵琶の原型のような丸い形の西洋の弦楽器は中世以降すっかり廃れてしまったそうだが、彼はそれをドイツで買って来たと言う。
頼りないほど小さく静かな音の楽器、それがリュートである。その音のおかげで夜の窓辺で、家人に気づかれないよう恋人の窓辺で愛の歌を歌う為に使われたのですよ、と片桐は語った。
英語で歌って聞かせるその声は、一本指でのピアノの弾き語りの碧生蒼太郎とは違い低く甘く流れた。だがリカは目をつぶり、ソファで休んでいるふりをしながら浮かない顔をしていた。
「貴女は碧生君からこれは娼婦の歌だと言われたそうですね。『レディグリーンスリーブス』と言われて傷ついているが、後世では純愛の歌だと認められて讃美歌にもなっている。日本でもクリスマスの季節に広く歌われているんですよ」
「純愛を捧げる男はよくても、それを受ける側の女を売女呼ばわりしても平気なんですね、男って」
「貴女はすぐそうやって先手先手で自分を傷付ける。他人に傷付けられるくらいなら自分から傷ついていった方がましだと思っているんでしょう、リカさん」
リカは黙ってしまった。無表情にすすった紅茶は既に冷めかけていた。
「碧生蒼太郎君が特別石頭な男というわけではありません。男と言うものは貴女以上に傷つく事を恐れる生き物なんです。そして貴女と違って、自分が傷つく位なら先手を取って相手を傷付けてしまうんです。それに碧生君はまだ若い。軍を抜けてからの一般の生活経験も乏しい。僕から見れば純粋すぎて可愛い程だ。貴女もそれが分かるから彼の文章と人となりに惹かれたのでしょう?」
「分かったような口をきかないで。貴方だって男に過ぎないわ。私がどうやったって女でしかないように」
「それはそうです。否定はしません。でもだからこそ世界は豊かで美しい。何度裏切られようとも踏みにじられようとも、世界は美しいんです。それにアーサー王の伝説を知っていますか?」
「ええ。このアトリエで子供の頃読んだわ。ギネヴィア姫に捧げる騎士達の恋が素敵でした」
「そうした宮中の麗人を歌ったという説が今は有力なのです。碧生君は文献研究が甘いですね。彼は自分の勝手に描いた貴女のイメージに囚われ過ぎ傷つけてしまったようですが、多分ひどく後悔していますよ」
「あんな人はどうでもいいのよ」
「またそういう事を言う」
片桐はポットに湯を注ぎ、二番出しの茶を入れながら苦笑した。このお嬢ちゃんの意地っ張りは幼児期から変わらない。
リカは蒼白な顔に落ちかかってくる長い髪をかきあげながら呟いた。
「ただ素敵な文章を書く、ロマンティックな人だと思っていたの。少女趣味に過ぎる事だった。目が醒めたわ」
「醒めたつもりがまだ夢の中ですよ。貴女も碧生君も。2人共夜明けを望んで夜の中にいるのにね」
「え?」
「どうぞ、次の一杯はロシア風の紅茶です。ジャムを一舐め、紅茶をひとすすりが正しいのですよ」
片桐は微笑して、明治屋で買った高価なジャムと蜂蜜を混ぜ、ウオッカを一垂らしして勧めた。
ポーランド製だというパリの蚤の市で買った小鉢に入れてある。
「人生には甘味と美が必須なんですよ、お嬢さん」
初夏に咲くのは白い花が多い。目白台は広い庭の家が多くあり、その庭先で陽光の愛撫を受ける花々を眺めながら碧生蒼太郎は『暁星』社へ歩いた。往路は目白から江戸川橋までの坂を下ればよいのだが、帰りはそう容易くははいかない。特に今の体力では。彼はすっかり弱ってしまった自分を情けなく思った。その歯がゆさが、生命力と気概溢れる間宮リカへの反発の一つになっているとは思いたくはなかった。
出版社には初めての碧生の「物語」に沢山の感想が寄せられていた。その中に間宮リカの手紙もあった。先日諍いがあったとは思えぬ程視点は冷静で平等だった。感想も鋭くまた暖かい。見事な読み手だと彼は舌を巻いた。湧き上がった感情を整理する事もなくそのまま文章にしてしまう自分とは大違いだ。
「今度の寓話は特に反響が大きかったですねえ。文章に今までと違う勢いがあった」
「お住まいを徳永氏のサナトリウムに移されたという事ですが、それは貴方にとって大きな転換点なのかもしれませんね」
わずかに顔を紅潮させて手紙に読みふける蒼太郎に、編集者も次々と声をかけて行った。
目白のサナトリウムに帰った彼は、決められた手洗いうがいをすると、急いで手紙を書き始めた。今日もヨハネの姉は来るかもしれない。その前に書き上げて渡したかった。ペンは何度も止まり書き損じ、書き上げても納得がいかず、くず入れに放り投げる。詩歌や物語や作る方がよほど澱みなく文が出てくるものだ、と蒼太郎は頭を抱えた。
出来上がったのは結局夜の8時を過ぎ、見舞いに来ていたであろう間宮リカの姿はとうになかった。蒼太郎は個室のドアを叩き弟のヨハネに手紙を託した。
「ご自分でお渡しになったらどうですか。僕、お手伝いしますよ。何なら姉とちゃんと逢って、ご自分の口から」
「いや、君の手から渡してくれ。僕は見ての通り気弱な情けない男なんだ。お姉さんの前になんか出られないさ」
「ペンと言う武器を持たないとだめですか?」
「そうだな」
ヨハネはそれでは、とうなずいて手紙を受け取った。
手紙は二通あった。変わらぬ「間宮リカ」の分析の鋭さと視点の正しさを誉め、文章を読んでもらった事への感謝で一通。
そして「自分の弱さを君に叩きつけてしまった。本当にすまなかったと思っています」というもう一通。
ヨハネは二通の手紙を寝巻のポケットに入れ、静かに見上げた。
「自分の弱さを隠さずにいる事ができたら、もうその人は弱くなんかないんですよ。死んだお父さんがよく言っていたとお姉さんが教えてくれました」
そして、先日は生意気な事を言ってごめんなさい、とぺこりと頭を下げた。
後日、ヨハネが姉の返事を持ってきた。
自分の感想が正しく伝わった事への謝意と、次の新作への期待だけが簡潔に書いてあった。蒼太郎は少々落胆した。
サナトリウムからほど近いカトリックの教会は、小石川聖マリア教会と言う。フランス人神父によって松平常陸の守の屋敷跡が購入され、幕末の混乱期の中で孤児となった子供を引き取り、まずフランス語学校、工芸学校が建てられた。食パン製造部、裁縫部、左官部などを備え、孤児達の経済的な独立に大きな役割を果たしたのである。1899年にゴシック調の美しい大聖堂を献堂し、15年前に築地の司教座から権限を移した当時の東京最大のカトリック教会であり、修道院や孤児院、専門学校も併設していた。
徳永氏のサナトリウムには近くの聖マリア女子修道院のシスターや、同じく肺を病んだブラザー、年老いた神父も入所しており、聖職者のための小さな別棟が二つあった。カトリック信徒の患者も多数入院している。その患者達の為に隣の聖堂から派遣され、祝福を授けたり懺悔を聞いたりしているのが小柄で屈強な湯浅神父である。
彼はその神学的才能を見込まれ、フランスやドイツの神学校に派遣され学んだ俊才であった。ただし年配の神父・信徒の中には「進歩的過ぎる」と囁く向きもあった。飄々とした風貌に似ず時たま見せる眼光鋭い表情は、神父と言うより特高刑事に近いものがあった。
「湯浅神父にお目にかかりたく、参りました」
「お約束はされていますか?」
「いえ、約束はしておりませんが、どうしてもお話ししたい事が出来まして……」
教会受付の修道士はしばらく碧生を見回し、いま人を呼びにやらせますのでお待ちくださいと椅子を勧めた。やがて黒いキャソックに身を包んだ湯浅神父が、堂守の青年に連れられて姿を見せた。相変らず穏やかな微笑みを浮かべている。
「おや珍しい。文士先生ではありませんか。わざわざいらっしゃらなくても来週になれば私が病人の懺悔に参りましたのに」
「来週では遅いような気がして……突然で失礼しました」
「いいえそんな気にかけなくとも結構ですよ。私は嬉しいです。こうして貴方が神の家に来てくださって」
お話は応接室で聞いた方がよろしいでしょうかね、と湯浅神父は碧生と並んで歩きだした。
前の通りを通る度に門の外から目にするが、こうして教会の敷地内に足を踏み入れるのは初めてだ。
「いえあの、できればあのお堂の中で……」
ほう、と神父は目をむいた。重厚なステンドグラスと高い天井の聖堂は、初めての人間には威圧感を与えかねないのだが。
聖堂には先に祈っている人達がぽっぽつといた。その人々の邪魔にならぬよう、信徒席の隅、何本もの燭台の揺れる炎に照らされたマリア像の前に二人はかけた。
「足元の板にはけして足を置きませんよう。これは信徒たちが膝まづいて祈る台ですから」
「はい」
碧生は素直に、長い脚を折って窮屈そうに座った。
「で、お話ししたい事があるのですね?」
「はい。自分の心の弱さから短気を起こして、ある人を深く傷つけてしまいました。できれば懺悔と呼ばれるものをして頂きたいのです」
神父は静かに見返した。
「懺悔と言うものは洗礼を受けた信徒でなくては出来ないんですよ。まず学び洗礼を受けて神の子になる、という過程を経なければその資格がないのです。そうでなければ罪の告白を促す事や神に許しのお取次ぎを願う事は、司祭の私にはできません。あなたは未信徒だ」
碧生は黙ってうつむいた。伸びた前髪が頬から顎に垂れ、その青白い顔を覆った。
「でも私が貴方のお話を聞く事で心軽くなるのであれば、友人として幾らでも聞きますよ」
碧生はぽつぽつと語り始めた。
自分の途惑いと、間宮リカの生命力と意志の力への反発、後悔。空を飛びたい一心で飛行学生として学び充実した日々の記憶や自分の学んだ事やパイロット歴も、思えば鳥のように自由を求める女への嫉妬に結び付いたのかもしれない。そう思い起こしながら少しずつ告白する碧生を、湯浅神父は時折信じられないほど鋭い眼で、だがあくまでも柔和な顔を崩さないよう聞いていた。
「碧生さん、貴方は既に分かっているはずだ。あとは貴方が心から謝罪するだけです。そしてその女性が怒りで返したり貴方の思う通りの反応を示さなかったとしても、心を荒ぶらせてはなりませんよ」
その夜静かに教会の門扉が開き、黒い上着と黒い帽子に身を包んだ湯浅が滑るように出てきた。神父は市電に乗ると人目を避けるように新聞で顔を隠した。
市電は目白から新宿を抜け、百人町のごった返す外国人街で停まった。神父はそこで下りると、小さなプロテスタント・ホーリネス教会の陰に身を潜めた。程なく背の高い英国風の顔をした外国人が現れ、2人は何事か会話をしながら牧師館に入って行った。
碧生蒼太郎と間宮リカは会う機会がないままに時だけが過ぎて行った。五月も終り、夏と見まがう日差しの六月になってしまった。サナトリウムの中庭の丹精込めた大輪のバラはすっかり散り、ドイツアヤメや菩提樹、房咲きの野ばらが花をつけ始めた。
体調が良くなった碧生は新作を書き上げた。
夜の闇でしか生きられない目の退化してしまった鳥が、太陽を求め近づこうとして飛んでいく話だった。目を開けても何も見えない鳥は、いつしか海の上に彷徨い出て、翼を休めた時が即ち死となる。それでも真っ直ぐに上に飛び続け、落ちてしまうのだ。
江戸川橋からサナトリウムのある関口へと続く急な坂道を、碧生はゆっくりと上っていた。神田川の散歩がてら市電の通りを護国寺まで歩いてみたのだ。
サナトリウムへと続く目白坂途中のパン屋まで来た時、正面からやって来る杖を突いた少年とその体を支えて歩く若い女性が目に入った。珍しく外出用のイギリスの少年風の装いをしたヨハネと、その姉間宮リカだった。姉も萌木色の丈の長いワンピースに千鳥格子のラシャの上着という身軽な装いで、風が強いせいか長い髪を絹のスカーフでくるりとまとめている。姉弟は急な長い坂を体制を整えながら下りるのに必死で、碧生に気づいている様子はない。彼は帽子を取って挨拶をした。
「こんにちは、間宮さん」
「こんにちは、碧生さん」
リカは急な挨拶に面食らったのか、身構える暇もなく屈託のない笑顔を見せた。蒼太郎はホッとした。緊張していた表情も緩む。
「弟さんとお出かけですか?」
「ええ。お天気も良くこの子も体調がいいというので、宮城のあたりまで行ってみようかと」
「今そこのフランスパン屋でパンを買って、坂下の市電に乗ろうかとしていたところです。下り坂なのに杖にすがらなくてはならないなんて、僕は情けなくてたまらないんですが」
ヨハネが嘆いた。サナトリウムから目白坂を下った所に古い歴史のパン屋がある事は蒼太郎も知っていた。だが以前さやが遠出して買ってきてくれたパンを思い出すと、買いに入る気がしなかったのだ。
「仕方がないですよ。僕たちは病んでいるのだしこの坂はとても急だ」
「大丈夫ですよ。私達は」
落ちついてきたリカの目にまた意固地なものが浮かんだので、蒼太郎はそそくさと申し出た。
「お手伝いさせてください。僕は今ここを上ってきたのです。宮城までご一緒させて頂けたら」
「……どうしたのですか? 碧生さん」
リカは怪訝な顔になった。何の心境の変化だろう。この頑固な差別主義者のように振る舞っていた青年作家が。
「お願いします。僕もそうして頂けると助かるし嬉しいです。お姉さん、頼んじゃいましょうよ」
ぱっと明るい笑顔を浮かべた弟には逆らえず、それではと軽く頭を下げ、リカは弟を挟んで碧生と歩き出した。
大見得を切ってはみたが碧生も肺が治ったわけでなく、三人は休み休み歩いて市電に乗り宮城の緑豊かなお堀周りまで来た。ここは蒼太郎が良く来る「暁星」社と目と鼻の先である。
靖国神社に一礼し森の緑の中から宮城を目にする。外堀の公園まで来て二人は休んだ。帰りは目白台まで市電で帰ろうと相談し、お堀の緑を渡る風に吹かれながら、碧生蒼太郎は口を開いた。
「少し休みましょう。陸軍省のすぐ近くだ」
「ええ。ヨハネも大分疲れたみたいだし、碧生さんも大丈夫ですか?」
間宮リカも弟と碧生を気遣った。こうして見ているとよく笑い明るく受け答えをする、聡明な美しい女性である。
「この先の四谷舟町に私達の家があるんですよ」
「そうそう。お堀に沿ってすぐなんですが、もう相当帰っていないなあ」
「お母さん独りで元気で暮らしているのだけどね」
間宮リカも家族とは離れて住んでいるようだ。聞けば女学校の研究助手をしながら寮に居るという。道理でサナトリウムにすぐ来れるわけだ。
「碧生さん、私貴方の文章は好きです。地上でのあれこれを忘れさせてくれる」
リカは透明な微笑みを湛えてお堀の水面を見つめている。碧生も眺めるその先には濃い緑の影を落とす桜の枝葉と、ボートで寛ぐ学生達。
「空の上では男も女もない、一個の人間なんですよね」
間宮リカは続けた。なぜそこまで男と女にこだわるのだろう。蒼太郎は不思議に感じた。だが今は訊くべきではないと思い、口まで出かかった疑問を飲み下した。
「一個の人間ですよね。僕はとても無礼な事をしてしまいました。ごめんなさい」
「いいえ、私も知ったかぶりの知識をひけらかしたりして、とても嫌な人間でしたわ。ごめんなさい」
「間宮さんはお手紙ではとても素直なんですよね」
「失礼ね。でもよく言われます。物言いが生意気なのかもしれない」
「生意気とは……でも誤解されるタイプかもしれませんね」
「誤解しているならどうぞそのままで。その方が気が楽だわ」
「そういう態度がいけないのでは?」
「何故?」
「少なくとも、僕は自分を正しくとらえてほしいし、あなたを正しくとらえたい」
ひたと自分を見つめる碧生を間宮リカは戸惑った目で見つめ返した。これはどう解釈したらいいのだろう。片桐ならひねりの効いた、気の利いた受答えを教えてくれるだろう。だが彼はいない。自分の言葉でこの目線に応えなければ。
「グリーンスリーブスのお話しを思い直しました。緑っていい色ですよね。好きな色です」
蒼太郎の方から微妙な助け舟が出された。
「私も空の蒼って、こんなにいい色だったんだと思い直しました」
遠くを近衛兵の乗った軍馬が通る。
空と緑ののどかさとは別に、時代のきな臭さが帝都に忍び寄りつつあった。
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