第6話・水仙の女
碧生蒼太郎は真冬の宮城近くを白い息を吐きながら歩いていた。彼の作品を載せてくれる文芸誌「暁星」編集部に通うためである。そこは靖国神社の近く、神田神保町からも少し離れた九段の陸軍会館の近くで、小石川の家からも歩いて行ける距離だったので、体調が良い時は気分転換も兼ねて歩いた。
家の周りは静かではあるが風が凪ぎ、空気が滞っている気がする。地厚の黒いコートに帽子、毛の襟巻を巻き、耳が切れるような冷たい空気の中を歩くと、自分自身が清浄になっていく気がする。埃っぽい靖国通りを書きあげた詩歌の原稿用紙を抱えて歩くと、ほどなく編集部のある古ぼけた建物に着いた。
彼は編集者達のそっけない声と煙草の煙に出迎えられ、いつも隅の小さな机をあてがわれた。女子事務員の入れてくれる茶と持参した森永キャラメルで喉を潤しながら、彼宛に届いた便りを開けて読む。碧生蒼太郎は若き文章人として一定の評価を得るようになっていた。この「暁星」以外からの詩歌原稿の依頼もぼちぼち入るようになった。ただしそれで生計を立てるまでには至らない。しかし一人だけの慎ましい生活なら営んでいける程の収入は得られた。
彼は編集部に寄せられた手紙を読むと、原稿料を受け取りまた静かに帰って行く。寡黙で美しい顔をした長身の姿は先輩作家の話題となり、中には是非会いたいという者もいたが、彼は体調を理由に誘いを断り続けていた。どうしても断れない文士同士の寄合等には顔は出すが、元軍籍にあった者らしく謹厳実直な姿勢を崩さず、礼儀正しく先輩文士達に挨拶をしそこそこに切り上げて帰るのが常だった。実際彼の体調は一進一退で、歩いて編集部に顔を出せる時もあれば、床に伏せったまま、さやに原稿を口述筆記させ郵送してもらったり、原稿料も郵便で届けてもらったり安定しなかった。
彼の俗世離れした暮らしぶり、長身の儚げな佇まいと作品が誌面に載ると、読者の反響は大きかった。彼の元へは実に様々な感想が届いた。文学青年崩れと思しき男性読者層からは、修辞技術が稚拙だとか文章が固すぎるとか、文章に関するありがたい批判と批評が多かった。彼が予科練上がりだという事を批判する、思想がかった便りも多かった。編集員は
「ま、あまり気にしないように。自分がなれなかった文章家と言うものに、八つ当たりする者も世間には多いから」
と言っていたが、元々が白紙状態から文を書き始めた彼には、そういうものかと批判も素直に受け入れられた。その真摯な態度は海千山千の編集部員達からも好感を持たれた。
ああ、またこの女性から来ている、と蒼太郎は一通の手紙に目を留めた。それは女性にしては骨太で大胆な字で、いつも鋭い感想を寄せてくる「間宮リカ」という差出人からの手紙だった。何の気なしに選択した言葉や季節の描写に目を止め、ぐいぐいと核心に迫ってくる分析力には、一緒に手紙を読む編集者も舌を巻いた。手紙の内容からすると彼女は女子学生のはずだ。
「この人が出版界に居たら俺達のお株を奪うやり手の編集者か、もしくは喰えない批評家になりますよ」
他には、文壇でも評判の裕福な医師で病院経営者の徳永淳三という随筆家も、彼に関心を寄せている一人だった。文に滲み出る視線の哀しさ、心根の純粋さを大いに評価し、事あるごとに誌面でも文壇の中においても彼を誉めていた。蒼太郎は一面識もなかったが徳永はどこかで彼を見かけた事があるらしく、編集部を通して会いたいと言ってきた。だが年が明けた昭和10年の大寒の最中、21歳を迎えたばかりの碧生蒼太郎はまた体調を崩していた。
初めは軽い風邪をひき、症状は喉の痛みとくしゃみだけだった。さやは蒼太郎の部屋の火鉢の上に鉄の湯釜を置き、絶えず湯を沸かして湯気を部屋に籠らせるようにした。布団には湯たんぽを欠かさず、分厚い綿入れの丹前や羽織を用意した。喉が腫れて食べ物がよく飲みこめない彼の為に葛湯を作り、やや冷まして温かい状態で供したりした。だが彼はみるみる消耗していった。さやは献身的に看護を続けたが、結核患者の蒙った酷い風邪である。自宅での治療は限界があった。さやは渋る蒼太郎にことわりを入れ大学病院に入院させた。
彼女の判断は正しく、彼はインフルエンザから肺炎を起こしかけていた。元々が肺病を病んでいてのインフルエンザは致命的である。彼はすぐに点滴に繋がれ結核病棟の奥に隔離された。今回ばかりはさすがの実家も兄を上京させた。蒼太郎は面会謝絶状態だったので会う事は出来なかったが、父と自分の書いた手紙とまとまった金を持ってさやに託した。
「いつも弟の世話をしてもらってすまない。お前も自分の体に気を付けて、おかしいと思ったらすぐに医者にかかりなさい。お前が蒼太郎をしっかり見てくれているおかげで湘南の家は安泰で、子供も元気に育っている。いつも感謝しているよ」
そう言って兄は、病院の医者にも挨拶と付届けをして帰って行った。傍目には随分と薄情に感じられるかもしれないが、碧生の家を守らなければならない兄とその家族の暮らしを考えると、仕方のない事なのかもしれない。
さやは近くの伝通院と白山神社に参拝を欠かさなかった。そして蒼太郎の入院する病院近くの、古いキリスト教の教会にも寄った。天井の高い石造りの聖堂の中で静かに祈り、帰ってくる。彼女の中で仏教の寺院、神道の神社、キリスト教の教会に同時に祈る事は矛盾ではなかった。太陽は一つだが呼び名は世界中で様々に違うものがある。本当に大事な神様は一人だけかもしれないが、宗教が違ってもその一人の存在を見る道が違っているに過ぎない。彼女はそう漠然と考えていた。
蒼太郎の入院は長引いた。元々消耗していた彼は医者にも体力が続くか危ぶまれたが、幽霊のように痩せ細りながらも持ちこたえた。そうして立春を過ぎた頃からゆっくりと回復の道を辿り始めた。
熱が下がり胸の痛みが取れつつあっても肺の白い影はなかなか消えなかった。だが結核の病巣がさらに広がっていないのは幸いだった。徐々に口から固形食がとれるようになり、点滴が外れ、彼は久しぶりに顔と手足を湯で拭いてもらいさっぱりとした。やがて桃の節句の頃、彼は一般病棟に移った。痩せてますます尖った顔に眼ばかりが大きく、久しぶりに面会に行ったさやは驚いた。蒼太郎は彼女が手渡した父と兄の手紙を読んで考えに耽っていた。
氷雪と霜の季節を打ち破りマンサクと蝋梅の花が咲く頃、碧生蒼太郎はようやく退院した。結局ひと冬近く病院で過ごした事になる。久々の小石川の家に彼の気持ちも落ち着いた。狭い庭に雪を被ってもなお輝く南天の赤い実や、厚い氷を割って花を咲かせる福寿草の黄色が彩り豊かだった。
「坊ちゃん、お電話です。徳永さんと仰るお方からです」
退院で疲れた体が落ち着いた頃、蒼太郎宛に電話がかかってきた。相手は富裕な医師の徳永と言う随筆家だった。文壇の会合で何度か会った事はある。随筆家と言うより一流のホテルマンのような、飄々とした洒脱な熟年という印象だった。
「はい、碧生です……」
「徳永と言います。僕が分かるかな?」
「はい。暁星社の会合でお話しさせて頂いたと思います」
「その通り。君が体を壊したと聞いて、僕はちょっと心配した。いやかなり心配した。君の清々しい文章をまた読みたいと思っているからね」
「それはどうも、ありがとうございます……」
蒼太郎は返事をしつつ首をひねった。地位も名もあるこの紳士は、わざわざそれだけの為にこの自分に連絡を寄越したのだろうか。
「君に興味を抱いたと言うか、とても心惹かれましてね。君の文章にも君自身にも。それで編集部から色々と聞いたんです。とても、とても大変だったようですね。お気持ちお察しします」
「いえ、一病息災と言うつもりで、病と一緒にやっていくしかないと思っていますから」
「潔い。そういう点も私が君に惹かれるところです。文章も君自身も、実に潔い。そこで提案なんですが、僕は目白に結核専門の病院を一つ経営しています。そこは自分で言うのもなんですが、治療の質も環境もかなり上の上だと思っている。どうです。そこに入所してくれませんか。いつまでとは言わない。君が居たいというだけ」
蒼太郎は事情がよく飲みこめなかった。
「はあ。それは大変にありがたいお申し出だと思いますが……」
「費用の面は心配いりません。あなたは僕の客人です。お客として僕からの最高のおもてなしをを受けてほしいだけです。お客からお金を頂くなどと言うシンパシーのない事は私の信条とは合わない」
「あの、突然の事で、とても素晴らしいご提案だとは分かるのですが……少し考えさせてください」
「はい。どうぞご存分に。よくお考えになってください。で、結論が出ましたらこちらの番号にお電話ください。僕は待っていますよ」
「あのう、一つだけ教えてください。なぜこんなに親切な事を仰るのですか」
電話の向こうで徳永と言う紳士は小さな息をついた。ややあって、静かに話し出した
「君は、僕の書きたかったものを書いてくれるんです。感じたかったものを、君のその鋭くて優しい感受性で感じて、奇をてらわずに素直に文に表現してくれる。それは僕にはできなかった。そういう風に感じて表現したくても、邪念が入ってこねくり回して、読者の目をかわそうとして……色んな小賢しい垢にまみれた文章しか書いてこなかった。君は、僕の書きたかったことを書いてくれる、天使のラッパの吹き手のようなものなのです。そんな人が体の具合でペンを持てないでいる。それを黙って見過ごすなんて僕にはできません。これで納得していただけますか?」
碧生蒼太郎は黙って、電話のこちら側でうなずくしかなかった。
「さやさん。自分は療養所のお話しを受けようと思う」
徳永氏の電話から1週間ほどたった日、蒼太郎は切り出した。
「はい坊ちゃん。そうなさるのが一番良いと思います」
徳永氏からの電話を受けてすぐ、蒼太郎から概要は聞いていた。それでも彼が迷っているのを何故なのだろうと思い見守っていた。さやには、なぜすぐにお受けしないのだろう、こんな素晴らしいお誘いを、としか思えなかったのだ。それでも彼は考えるのに1週間かかった。徳永氏に申し出を受諾する旨の電話を返したのは、更に数日後だった。
徳永氏は喜び、引っ越し用に車と人足を寄越そうかと言ったが、蒼太郎は断った。元々身一つで小石川の家にやって来たのである。柳桑折一つ分の衣類と本、原稿用紙類。あとは愛用の古い革の鞄一つに収まるだけの身の回りのもの。それだけだった。買い集めた書籍はさやが見舞いの度に少しずつ持って行くという事になった。それでも少しはこのまま部屋に置いておきたい、と蒼太郎は言った。
「全部お持ちになられたら良いのに。坊ちゃんはすぐお読みになりたくなりますよ」
「少しここに置いておきたいんだ」
変わった事を言い出す人だと内心さやは呟き、困ったように微笑んだ。
部屋はどうせそのままにしておくつもりだった。そして、一度去ったこの家にまた蒼太郎が戻る日が来るとは思えない。今までは多少なりとも気を遣って訪問を控えていた蒼太郎の父、さやの「旦那様」も、息子が療養所に移ったとなれば大手を振って足繁く通って来る.だろう。今までがそうだったように。そして、自分はまた旦那様の「持ち物」に戻る。ただそれだけの事だった。さやは小さなため息をついた。
明日は療養所に入所するという日。蒼太郎は初めて、一緒に夕飯を食べたいとさやに申し出た。
「いつもお傍に居させていただいているではありませんか」
さやはたすき掛けの着物に大きな前掛けを締めて鍋の煮ものをかき混ぜながら、きょとんとした目で振り返った。
「いや、そうじゃない。いつものお給仕をしてもらうのではなくて、一緒の食卓を二人で囲みたいんだ」
最後なんだし、という言葉を彼はほとんど聞こえないくらい小声で付け足した。
変わった坊ちゃんですね、とさやは微笑んだ。
「……あと、何かお望みの事はありますか?」
「飯の前に風呂屋に行きたい」
「お風呂なら外に行かなくとも家でいつもお入りでは?」
「外の風呂に行ってみたいんだ。春日町の桜並木通りの近くに大きな風呂屋があるだろう。そこに花を眺めついでに行ってみたい」
「ああよろしいですね。行ってらっしゃいまし。ご飯の支度は整えておきます」
「それが……さやさん、貴女と一緒に行きたい」
「私と?」
「ああ」
さやはどういう顔をしていいのか迷った。自分は彼の父の愛人である。大人の余裕を見せて笑ってやり過ごせばいいのか、それとも真面目に諭してあげればいいのか。蒼太郎の目はとても恥ずかしそうで、また真剣だった。彼なりに随分考えたに違いない。
当初は父の愛人と言う事で不機嫌な態度をぶつけられた。だがどんなにぶっきらぼうにされても年下の病身の青年が、可愛くもあり切なくもあった。最後なんだし、という言葉は年上のさやの耳にも魔法のように甘美に響いた。
「わかりました。全部作り終えて温めるばかりにしておきます。ご一緒させていただいてもよろしいですか?」
「もちろん。お願いします」
小学生の作文のようなぎこちないややりとりに、さやと蒼太郎はどちらからともなく噴き出した。
二人は初めて連れ立って銭湯に行った。本郷菊坂下の「菊水湯」は明治からの歴史ある古い銭湯で、市電の通る春日通りから何丁目か入った旧街道の坂下にあり、昔ながらの破風屋根が堂々としていた。行きも帰りも小石川の印刷所脇の桜並木を通る。つい先頃労働争議のあった印刷所は昼夜を問わず動いており、ひっきりなしに機械の音や台車の行き交う音が響いていた。その裏手、漏れてくる灯りの元で蒼太郎とさやは風呂道具の風呂敷包みを持って歩いていた。桜のつぼみはもう咲くばかりにぷっくりと膨らんでいる。
「桜もだいぶほころびかけてきたね」
「左様ですね」
からころと下駄を鳴らしながら、歩幅の狭い小柄なさやに合わせて蒼太郎は歩を進めた。二人ともあまり言葉を交わさなかった。
菊水湯に着くと、男湯と女湯に分かれて入った。女は長風呂と古今東西相場が決まっている。蒼太郎は極力ゆっくり、湯あたりにならない程度に時間をかけた。
湯上りの火照った肌に、毛織のセーターと上着を通じて春のひんやりとした空気が撫でてゆく。長身脚長の彼のやや後ろをどうしても遅れ勝ちになるさやも、洗い髪をただの櫛巻きに束ねて俯いて歩く。
二人は帰る道は無言だった。夕暮れから夜になり、闇に溶けたような並木の濃い桜色の蕾の下を歩く時も、来た道と違い二人は無言だった。
小石川の家に戻ると、さやは食卓の火鉢の火をかきたて部屋を暖かくした。そして熱燗でもお付けしましょうか、と珍しく声をかけた。蒼太郎は晩酌はしない。今日が最後ですから、と彼女は付け加えた。
「いや、体を壊してから、酒を飲むと食事が腹に入らなくなるんだ」
「それは困りました。それではいつものように美味しい番茶を用意しましょう」
今日が最後の家での夕餉だという事で、心尽くしの品々が卓に並んだ。春の鯛の昆布締め。特別に桜鯛の良いところを魚屋に届けてもらったのだ。結び三つ葉のちょこんと載った鯛の潮汁。萌え出たばかりのヨメナの芽を塩揉みして混ぜた菜飯。土筆と蛤のぬた。ふきのとうの天ぷら。
一品一品は小食の蒼太郎に合わせてほんの少しずつ、ままごとのような量だったが、目と鼻でも楽しんでもらおうという春の色と香りがいっぱいの膳であった。
この家に来て初めて、蒼太郎とさやは食事を共にした。神田の蕎麦屋で一緒に蕎麦を食べた事はあった。だが家の中で同じ食卓を囲むのは初めてだった。
二人とも妙に緊張し無言だった。黙って吸い物に口をつけ、冴えた緑が散った菜飯をかきこんだ。沈黙のまま箸を進めていると、熱々の天ぷらを口にしたさやが、顔をしかめてはあはあと舌を冷やし始めた。
「さやさん、猫舌だったの?」
「はい……」
強いて猫舌という事もなかったが、さやはいつも蒼太郎の食事が終わってからすっかり冷めた物を食べていた。彼の父親が来た時も同様である。彼女は出来立て熱々の食事という物に慣れていなかった。
「あの、坊ちゃん、お口に合いませんでしたか?」
「いや、そんな事ないよ。美味しいよ」
そして蒼太郎はほっとしたように微笑んだ。
「一人じゃなく、誰かと食卓に着くというのは、良いもんなんだね」
「はい」
さやも頷いた。
「やっぱりほんの少しお燗をつけてもらおうかな。最後なんだし」
「はい」
最後なんだし、という言葉はやはり甘く蠱惑的に二人の心と体に沁みた。
二人の食卓は切り良いところで終わった。
深夜、寝室の灯りがポッと点った。それは部屋全体を照らす電球ではなく、枕元のスタンドのようだった。
やがて中で人が動く気配がすると、スーッと窓の障子が細く開き、肘まで寝間着の袖から剥きだした白い腕が伸びた。黒い夜の空気の中、薄い光を吸収するような不思議な艶めかしさを放つ女の白い腕だ。
さやの白い腕は窓の外をしばし泳ぎ、何かを確認するようなそぶりであった。春の小雨が降り出していた。手先を温かい雨が濡らすと白い腕はまた引っ込んでいった。スッと障子戸も閉まった。中で二言三言、囁き交わす声がしたかと思うと、灯りは消された。
翌朝まだ早い時間、黒のコートに帽子、毛のマフラーを巻いた碧生蒼太郎は小石川の家の玄関を出た。
花冷えの朝はしんと静まり返り、玄関先から道路までキンキンに凍り付いていた。昨夜の雨が思いもかけない寒気に当たったのだ。冬用の靴を履いても蒼太郎の足は滑りそうになった。
「それじゃ」
「坊ちゃん、お気をつけて」
薄化粧の白い肌にうっすらと紅をはいたさやの、吐く息もまた白かった。
古ぼけた革の鞄を下げた蒼太郎は振り返って、ゆっくりと右手を差し出した。
さやは静かにその大きな手の長い指を見つめると、庭先の白い水仙の花を一本手折り、そっとその手に渡した。
二人の指が軽く触れた。
さやも蒼太郎も黙っていた。
牛乳屋の自転車の荷台で配達の瓶がカチャカチャと揺れる音が、表通りを過ぎて行った。
蒼太郎は軽く頭を下げて踵を返すと、ゆっくりと門をくぐり歩いて行った。
さやは長身の姿が角を曲がって見えなくなるのを見つめながら、冷たい両手を口許にやり、ほうっと息を吐きかけた。そして口元を覆ったまましばらく佇んだ。息で温められた小さな掌からは、今手折った水仙だろうか。否、それとは違う青臭い匂いがした。さやはその匂いを愛おしむように、口元から手を離さなかった。
蒼太郎もまたポケットに入れてある革手袋をはめる気にはならなかった。右手に受け取った水仙の花を左手に持ち替え、歩きながら右手の長い指を広げて嗅いでみた。中指と人差し指そして掌からは、昨夜の名残の温もりが匂い立つような気がした。それは今もらった水仙の花の清々しい香りとは違う、艶めかしいものがあった。澄んだ寒空の下、蒼太郎は歩みを緩めず進んだ。
昭和10年、1935年4月初日、碧生蒼太郎は徳永医師が院長を務めるサナトリウムに入った。院長の客人だったので無料に近い破格の待遇であった。
徳永氏は金は受け取れないと言ったが、碧生は強引に、赤十字にでも寄付してほしい、食事代だけでもと渡した。彼は貯金等全く興味がなかったので、原稿料は全て徳永に渡すつもりだった。もっとも徳永氏の方に受け取るつもりはなく、全てまとめてさやに渡していた。彼女はそれを、元々の碧生蒼太郎名義の貯金口座に全額そっくり貯金していたが、碧生は全く知らなかった。
徳永の療養所はイギリス人の邸宅を改造したもので、蔓バラが伝うエントランスから、ジキタリスやヘリオトロープその他外国の見慣れない薬草が茂る前庭を抜け、重厚な赤レンガの建物に至る。石段の脇に車いす用のスロープまで設置した玄関は軽い威圧感を与えたが、一歩重い扉を開けて中に入ると、英国の木々や花が生い茂る中庭をぐるりと回廊が囲み、日当たりのよい休憩用のデッキチェアや簡易ベッドが置かれている。食堂も中庭に面し緑を眺めながら食事をとる事ができた。徳永氏の美意識を反映した、個人経営ならではの質の良い看護体制が見て取れた。日当たりのよい丘の途中の斜面にこんな療養所がある等、碧生蒼太郎は知らなかった。
彼は院長の徳永氏から歓迎を受けた。日当たりのよい小さな一部屋が与えられ、図書館や音楽室、娯楽室も自由に出入りできた。暖かい季節になってきた事も幸いし、碧生蒼太郎は微熱や咳も落ち着き小康状態を得た。
落ちついたところで他の患者達を見てみると、彼の他は皆上流階級と思しき、優雅な身のこなしと囁くような上品の小声の会話を絶やさない人達ばかりであった。彼は疎外感を感じるよりも、自分の今まで接した事のない人達に興味を覚えた。他の患者も院長の客人扱いの若い文士を歓迎した。時間が有り余っている彼らはありとあらゆる文芸誌を読み、投稿もしている愛好家が多かったのだ。
その中で、異質なまでに若い少年の姿があった。旧制中学の生徒であろうか。長期入院している新聞記者の子息だ、と紹介された。不用意に触ると折れてしまいそうな薄い体に、いつも分厚いガウンと毛糸の靴下を履いている少年は、ヨハネと名乗った。彼は生まれつき体が弱く、子供の頃から入退院を繰り返し、近所の子供とはほとんど遊んだ事がなく、常に大人とばかり接してきた。そのためか脆い体に過敏な感受性を秘めた少年だった。
「でもあまり寂しくはありません。こういう状態が当たり前という感じで育ったもので」
食堂で新入りの碧生に人懐こく話しかけながら、ヨハネ少年はその大きな目を輝かせた。自分の知らない外の世界を豊富に知っている、大人の碧生蒼太郎に近寄ってきて、話を聞きたがった。
「僕には姉がいていつも頻繁に会いに来てくれるんです。とても綺麗で優しい人なんですよ。近くの女子大で勉強をして学者になるんだと言っています」
「それはすごいね。頭のいい人なんだね」
「色んな本をたくさん読んだり会合に参加したり、外国に手紙を書いたり。強いと思われがちですけど、本当はとても傷つきやすい心の細やかな人なんです。僕には分かります」
「そうか、君のお姉さんはとても美しい心の人なんだね」
「はい。僕の憧れです。こんな弱い男だから姉を護ってあげられないけど。いつもハラハラして見ています。女だというだけで攻撃してくる男達と戦う、なんて言っているから……」
蒼太郎は誰かさんも同じような事を言っていたな、と思い出した。
「毎日のように学校の帰りに寄ってくれるんですが、今日はまだ。忙しいのかもしれません」
間宮ヨハネというその少年は残念そうな顔をした。
「姉が来たら碧生さんにご紹介したいと思っているんです。姉も文学が大好きなので絶対にお二人話が合うはずです」
「そうか。いつかご挨拶したいな。楽しみだね」
春の日差しが徐々に暖かく初夏が近づく。緑豊かになるにつれ、療養所の庭園も西洋から取り寄せたバラが咲き誇っていた。小石川のさやの小さな家では、冬は福寿草や南天、春はマンサクやボケやシャクナゲ、夏はリンドウや桔梗、秋のナデシコと華やかさとはおよそ関係のない花が植えられていた。だがこの療養所の中庭庭園は、日本とは思えないほど清々しく肉感的なバラの芳香に満ち溢れ、レンガ造りの重厚な建物のそこかしこに西洋の花が咲き乱れていた。それは非常に情熱的で生きるエネルギーに満ち、蒼太郎の心に迫ってきた。空と風に慎ましく同化してそよぐ植物ではなく、拮抗し空の力を受け止め、風と戦っていく力のある花たち。中庭のベンチに腰を掛けノートと鉛筆を膝に、彼は詩想を巡らせていた。
ふと目を上げると、バラの茂みに真赤な中輪の花が房になって咲き盛っている。白い小さな蝶と蜂がせわしなく花に停まり、また女性のドレスの中に潜るように入り込み蜜を吸っている。蒼太郎は夏に向かう小さな生物達の生きる戦いに思いを馳せ、夢中で紙に鉛筆を走らせた。
サワサワ……と風に揺れるバラの茂みが、風がやんでもまだ動いている。誰か来たのかなと目を上げると、茂みの中から長い髪を波打たせた若い女が現れた。真っ白い顔にバラの花の赤やピンク色が映え、物思いに憂うような大きな澄んだ目に高い細い鼻梁。海に沈む夕日のような珊瑚色の脣。真珠の輝きを放つ肌は胸元や二の腕までむき出しで、風にそよぐ薄物の象牙色のドレスをまとっていた。若草色の光沢を放つストールは申し訳程度に美しい腕や胸元を覆い、細身の絹のドレスの裾に絡み合い、スッスッとためらいなく歩みを進める銀色の靴の先に垂れている。女は蒼太郎に全く気付いていないのか、こちらに目も向けず風に翻る羽根のように軽やかに歩を進め、また別のバラの茂みの中へと消えていった。
「どうかしましたか?心が飛んでいますよ」
話しかける軽妙な声に蒼太郎は我に返った。黒い詰襟、ローマンカラーの司祭服に身を包んだ小柄な神父が、にこやかにこちらを見て微笑んでいる。近くのカトリック教会から患者の話し相手に来ている湯浅という神父だ。人の心の奥までスッと入り込む柔和な瞳で、じっと蒼太郎を見つめている。
「ああ湯浅神父、今そこに花の妖精のような女性が歩いていたんです。まだ夏でもないのに薄物の西洋女性の格好をして、長い髪で……」
「美しい人だったんですね?」
「はい。とても。若い女性でした」
「それは大変よろしい。春の満開のバラのなせる業かもしれませんよ。貴方も植物の生命力が多少移ってきたかな」
「何の事ですか? 」
おかしな事を言う神父だ、と蒼太郎は内心首をかしげた。
神父は時々柔和な外見からはかけ離れた、人を食ったような言葉を吐く。
「貴方の顔色ですよ。先日までは地中で何年も暮らしてきたような青白さだったのに、今は頬にほんのりと血の気が戻って赤みが差しています」
「え?」
「きっとその女性がかけていった魔法でしょう。おっと。聖書的には正しくない言い方ですが」
にこやかに笑いながら湯浅神父は会釈をして去って行った。
碧生蒼太郎はある程度書き溜めた原稿用紙を置きに部屋に戻り、未清書の他の原稿と共に紙留めで止めた。今日は良い言葉が紡ぎだせそうだ。碧生は先程とは別の日の当たるベンチを探した。春の午後の陽は傾きかけている。
「片桐さん、私はもうとても寒いのですけど、まだこのコスチュームをしていなければならないの?」
「もう少しですリカさん。傾きかけた日の光の中の、春の精のビジョンです。もう何枚か写真を撮りたい」
「そう言われても私は冷えてきましたわ。熱い物でも飲みたい気分です」
「そうですね。妖精が風邪を引いてはいけない。私の上着を羽織っておいでなさい。台所から温かいお茶でももらってきましょう」
バラの茂みを抜けて、カメラを首からかけた長身の男が建物の中に入って行った。蒼太郎が男の来た方を見ると、若い女が日の当たるベンチに座っていた。長い髪を肩の下まで垂らし、じっと陽の光を受けて目を閉じている。薄いドレスをまとった肩から男物の上着を羽織り、やはり薄い裾からむき出しの白い膝下には毛布がかけられている。間違いなく先程薔薇の茂みからそぞろ歩いて通り過ぎた女だった。新しい患者だろうか。だがそれにしては薄着すぎる。蒼太郎はじっと彼女を見つめていた。
柔らかい春の日差しに頬の産毛をキラキラと輝かせて目を閉じている女は、うたた寝をしている迷子のようでとても美しいと思った。見ているとそろそろと手を動かし、胸元から小さな煙草入れを取り出しくわえ、しゅっと手慣れた手つきで火をつけた。白い煙をゆったりと吐き、目を閉じたまま深く呼吸している。
蒼太郎は軽く衝撃を受けた。この春の精のような若い娘は病院の中なのに煙草を吸っている。しかも肺を患う病人のための療養所なのに。思わず席を立って娘に近づいた。
「君、その煙草の火を消しなさい。ここは肺を病んでいる人のための病院です。煙草の煙も病を悪くするんだ。消しなさい」
「あなたは何? お医者さん? 」
女は美しい目を開けて蒼太郎を一瞥すると、気怠く口を開いた。
「僕は患者ですよ。ともかくすぐに火を消して、煙草を捨てなさい」
「これは煙草じゃないわよ、薄荷の葉です。かえって喉の薬なのよ」
娘はふてぶてしく呟くと深く息を吸って煙を吐き出した。言われれば薄荷油のスーッとする匂いが漂っている。
「江戸時代の漢方書の和漢三才図会に既に書かれている、歴史ある喉の薬なんです。覚えておかれるといいわよ」
そこへ、先ほど建物の中に入った首からカメラを提げた長身の紳士が戻ってきた。
「おや、春のニンフが東洋の紳士と既に面会ですか。美しい光景ですが薄荷煙草は美的ではない。お消しなさい」
「はい片桐さん、あなたもこの堅物さんと同じ事を言うのね」
片桐と呼ばれた長身の優男は湯飲みに入れた熱い茶を女に渡し、憮然と立ち尽くす碧生に軽く挨拶をした。
「日が落ちてしまう前にもう少し撮ろうと思ったが、ちょっと無理なようですね。この若い方に説明をした方がいいのでしょうね。誤解のないように」
「別に誤解だろうが何だろうが私は構わないわ。受け取る人の勝手と言うものよ」
片桐と呼ばれた男は、意地になって薄荷をくゆらす女を困ったような目で見ながら、碧生に説明を始めた。
自分は絵師で、風俗画や雑誌の挿絵、便箋や帳面の表紙を書いて生計を立てていること。
この女性は子供のころから知っている作家のお嬢さんで、時々油絵や写真のモデルになってもらっている事。ここの院長徳永氏とも知り合いなので、たまに写真撮影の場所を貸してもらっている事。彼女の弟がこの病院に入院している事。
「ああお姉さん、いらしていたんですか。今日はまた素晴らしく美しい装いですね」
「ヨハネも元気そうじゃない。写真撮影の休憩をしていたんだけどね、ここにいらっしゃる朴念仁さんが気分を見事に壊してくれたわ」
「朴念仁……」
何故喫煙を注意しただけの俺がそこまで言われなくてはならない。
自分が今まで知る女とは全然違う、繊細な外見とはかけ離れた逞しいこの娘に蒼太郎はむっとした。
「リカ姉さん、碧生さんをそんな風に言うのはやめてください。僕、お二人をきちんと紹介して引き合わせようと思っていたのに……」
ヨハネ少年は泣きそうに二人をかわるがわる見た。
彼の言う「気が強く見えるけど本当は優しい姉」とはこの目の前の娘の事なのか。
残念ながら碧生にはそうは見えなかったし、見方を変えようとも思わなかった。片桐と名乗る優男が、終始面白そうににやにやしてこちらを眺めていたのが気に障った事もあった。ただ彼女の自分を睨み返す強い目線には、反発を感じながらも美しいと思う瞬間はあった。
やがて間宮リカという名の娘は憮然としたまま帰って行った。
春の大風が咲き誇っていたバラの花びらを散らしていったのは、それから間もなくだった。
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