第5話・オシロイバナ

 昭和8年、1934年。

 咳と微熱、訓練中の喀血に倒れた碧生蒼太郎は、肺結核と診断され予科練を除隊した。

 19歳、パイロットとして就任直前であった。


 陸戦の訓練中グランドで昏倒した彼は、一度救護室に担ぎ込まれた。軍医は彼の痩せた体を診察し喀血時の様子を聞き、即座に診断を下した。痰や血中の菌の培養結果など待つまでもなく、重度の肺結核である。

 その頃には蒼太郎も40度近い高熱と、呼吸が困難な程の胸の痛みを訴えていた。汗をびっしょりかいても一向に熱が下がらない。激しい咳は寝ているうちに収まり喀血も落ち着いたが、悪夢にうなされしきりとうわごとを言った。

 夢の中で練習機に乗り込もうとするのだが、スッと足を滑らせて落ちてしまう。するとそこは渓谷にかかった吊り橋で、あっという間に何も掴むものなく落下していく。ふっと体が浮いてから落ちていく感覚の気持ち悪さに、かすれた悲鳴を上げて目を覚ますのだが、また熱でうとうとと眠ってしまう。そしてまた落ちる夢を見る。蒼太郎は眠った気がしないまま、固いベッドの上に半ば放置されていた。


 彼が収容された横須賀海軍病院は、鎮守府内に建設された明治から続く近代的な巨大施設で、海軍の軍人軍属およびその家族が無料で治療・入院ができた。治療費は国費負担である。彼は学生ではあったが軍籍にあるという点で、比較的余裕のある海軍病院に入れられたのだ。ただし他の傷病兵とは隔離された、感染症の患者向けの狭い病棟。それでも看護は手厚く、出される病院食も上等であった。

 結核は現代でも、栄養不足や過労で体力が落ちると薬が効かなくなるという厄介な病気である。「贅沢病」と言われる所以がそこにある。ただし彼はせっかくの食事もほんの少量しかのどを通らなかった。看護婦や医師に注意されても幽霊のような表情で申し訳ありませんを繰り返すだけだった。そこにはつい先日までの訓練をこなし勉学に励む、輝く澄んだ目の青年の面影はなかった。見舞いに来た同級生や家族は、こんなにも短期間で面変わりするものかと驚いた。

 軍医の『軍務に堪えることを得ず』という診断が通ったが、軍籍を失ったとはいえ重篤な状態にある元学生を急に転院させるのはしのびず、上官はぎりぎりまで彼を入院させておくと決めた。学校から湘南の実家に連絡は行ったが、家から病院の蒼太郎の元に届いたのは実家に帰るってはならないという電報だった。少しずつ回復しつつあった青年は茫然と電信紙を握りしめた。


 ややあって、実家より腰の曲がった年寄りが彼を訪れた。蒼太郎が小さいころから面倒を見てもらった小作の一人だった。蒼太郎は彼を慕い爺やと呼んでいた。爺は兄からの長い手紙をことづかってきた。

「蒼太郎殿。体の具合はどうか。

 爺に見舞いを頼んだ。着替えや日常のものを持たせたので、必要なな物は折り返し爺に頼むように。

 今回の帰宅は不可だという知らせは、お前にとって冷たく残酷なものだろうと思う。俺もそう思う。だからそう思ってくれて構わない。

 知っての通り、お前が予科練にいる間俺は嫁を娶った。

 お前は訓練で祝言に参加できなかったが、肺病病みの母のいる家に来てくれる等なかなかない事だ。

 そして今嫁は子供を宿し、もうすぐ産み月だ。

 赤ん坊と出産したばかりの嫁に病気がうつるような事になっては、碧生家に関わる一大事なのだ。

 病に苦しむお前には残酷だが家に帰るのは諦めてくれ。

 そのかわり、東京の小石川に親父の妾の一人が住んでいる。

 そこなら部屋も余っているし家族の代わりにお前の面倒を見るように命じた。

 仕送りは充分にするつもりだ。

 退院したらそこで養生しろ。

 退院の日が決まったら、その女と爺を迎えにやらせるから、決まり次第連絡するように。


 碧生蒼太郎殿


                         兄より」

 ふふ……と乾いた笑いが蒼太郎の口許に上った。

 兄貴に赤ん坊が生まれるのか。それじゃ邪魔なわけだ。こんな将来の道を断たれた肺病病みの叔父がいたんじゃ。俺は余計者なんだ。文字通りの疫病神だ。

 蒼太郎は一瞬、土蔵に寝かされている自分を夢想した。愛する母が自分と同じく肺を病んだ時、寝かされていた土蔵。夏は暑く冬は凍えるほどに寒い中に、古い荷物のように放置されていた痩せ衰えた姿。

「蒼太郎さん、顔を見せてもらって嬉しかったわ」

と、彼の話を聞き安心して眠っていった愛する母。自分と同じ病気で先に逝ってしまった。

「お母さん、あの家には新しい命が産まれるんです。だから僕は居られないんです」

 蒼太郎は心の中で力なく呟いた。故郷のみかんの花の香りが一瞬鼻先をかすめた気がした。

「お母さん、僕はまだ、生きていなければなりませんか?」


 1カ月後、碧生蒼太郎は退院した。痰に結核菌が排出されなくなったので、他への感染の恐れは低いと診断されたのだ。

 彼は爺が持ってきた背広に着替え、わずかな手荷物をまとめて病院を出た。門を出た青年はふと立ち止まり振り返った。中学を卒業して以来5年近く、空を飛ぶ夢の為に全身全霊を捧げてきた海軍の、その施設。今放逐同様に門を踏み出してみると、離別は驚くほどあっけないものだった。

 この日も空は高く晴れ上がり、風は弱く肌にあたる空気は乾いていた。思えば蒼太郎はいつも海と丘の向こうから吹く澄んだ空気の中に生きてきた。厳格な予科練の学舎の中でも、彼の周りにはいつも清浄な風が吹いていた。これから行く帝都はよい風が吹いているだろうか。

 年老いた爺は断っても無理やり荷物を担いだ。

「蒼太郎坊ちゃん、なんておいたわしい事……」

 涙を滲ませ痩せこけた碧生家の末っ子の傍らを歩く。

 幼い時、父や兄に叱られてみかん畑に隠れて泣いていた際、探しに来てくれたのは母親と爺だった。家の事で忙しい両親に代わって度々面倒を見て可愛がってくれたのは、この爺と婆の夫婦だった。腰は曲がり白髪は増え、自分の身長の半分もない程小さな、だが相変らず屈強な体に荷物を背負い、蒼太郎について来てくれた。

 横須賀駅まで歩いて行くつもりだったが、病み上がりの坊ちゃんを歩かせるわけにはいかないと爺がタクシーを拾った。円タクを下りると爺が安心したようにつぶやいた。

「ああ、もう来ておりますな」

 爺の視線の先には、薄紅色の紬の着物を着た若い女が、薄杜松色の小さな風呂敷包みを持って券売窓口の前に立っている。彼女は蒼太郎と爺がタクシーを降りるのを目にすると、スッと白足袋の足を進めこちらに近づいた。黒地に萩の柄の帯を締め、トンボ玉の帯留めをしている。

 先程若い、と書いたが、面長なうりざね顔に緩やかなウエーブがかった髪をゆったりとまとめ、襟足で小さな髷にしたその表情は、白い弾むような肌や薄桃色の脣、ほっそりと固い線を持つ首筋から漂う若々しさとは対照的に、物事を達観したような妙な大人びた空気があった。ふっくらとした頬、やや上を向いた丸い鼻の親しみやすい幼さとは相いれない諦観がその容姿を覆っている。いわば子供が無理やり大人にさせられたような、いびつで不健康な美だった。

 彼女が話に聞いた父の愛人の一人か。蒼太郎は表情が強張るのを感じた。

「さや子さん、わざわざお疲れ様でございます」

 爺の言葉に女は静かに頭を下げ、二人に挨拶をした。

「お迎えに上がりました。さやと申します」

 彼女の声は子供のように細く高く澄んでいたが、すぐ近くで話しているのに遠くから喋っているような、不思議な距離感を感じさせた。

「兄から聞いています。厄介者ですが宜しく願います」

 蒼太郎はどう受答えしていいのか分からず、出てきた言葉はなんとも間が悪いものだった。


 横須賀から東京駅までの旅はそれなりに時間がかかる。

「さや子」と呼ばれる父の愛人は、列車に乗る前に売り子から透明なガラス瓶に入った茶を買い、動き出してしばらくすると持参した風呂敷包みを開いた。中には箱に納められた真ん丸なキツネ色のどら焼きが数個。

「坊ちゃん召し上がってください。滋養にいいと思いまして」

 蒼太郎は礼を言い長い指で一個をつまんだ。

「 上野の『うさぎや』のものですがお口に合うかどうか」

 歯にしみるほどの甘さが優しく体に溶け込む。

「坊ちゃんは甘い物がお好きだったと思い出して、さやこさんに持ってきてもらったんですよ」

 長身を座席に預けて黙々とどら焼きを頬張る蒼太郎を、爺は眼を細めて見ていた。そして涙を流し、坊ちゃんが不憫だ、お父様とお兄様は酷過ぎると泣き出した。さや子は若い女にしては太い眉をひそめて、目線を膝に落とした。隣近所の席の客も何事かと覗き込む。

 余りの居心地悪さに、泣くなよ、と蒼太郎は声をかけた。だがそれは逆効果で、爺はかえって辛そうにさめざめと泣きだす始末だった。年寄だから涙脆くなっているのだと蒼太郎は思ったが、その泣き萎れる姿にどこか他人に見られる自分を意識しているような、理不尽に放逐されたお坊ちゃんを気遣う自分を演出しているような、些細なわざとらしさを感じないではいられなかった。だがそう感じる自分のひねくれ具合にも軽く腹が立ち、彼は憮然とした表情で押し黙ってしまった。三人は東京駅に着くまでの二時間近くを、気詰まりな沈黙と投げやりな僅かな会話のみで過ごした。


 東京駅からは市電に乗り換え、さやにあてがわれた妾家のある小石川まで向かった。伝通院と言う古い寺の近くにある狭い家に着く頃は、さすがの蒼太郎も疲れ切って息が切れてきた。だが爺と女の手前恥かしく、必死で様子に出さないよう努めた。特に目の前の父の若い愛人の前では弱いところは見せたくなかった。

 坊ちゃんの荷物を用意された上座の部屋に置くと、爺は名残惜しそうに帰って行った。とんぼ返りをしないと湘南の碧生家に戻る頃には夜になってしまうのだ。

 さや子は熱い茶と洗いたての浴衣と丹前を持ってくると、すぐに廊下に控えた。

「お食事の時間になったらお声かけ致しますからそれまでどうぞ……お湯を使われる時は申し付け下さい。準備を致します」

「ありがとう。とりあえず疲れたから今は横になりたい。それと、この浴衣……」

「はい?」

 蒼太郎はふと意地悪な気持ちが湧いた。

「この丹前と浴衣、父がここに通うときに着る物?」

 さやは一瞬頬を赤くし、すぐ真っ青になった。射るようなまなざしで真っ直ぐに蒼太郎を見つめて言った。

「いいえ坊ちゃん。旦那さまのお召しものはすぐ出せる桑折にしまってございます。そちらはご家族から丈を聞いて私が縫いました物です。新しい物ですからお気にかける事なくお召しになってください」

 それでは……と、さやは襖を閉めて出て行った。


 さや子は実の名を「清」と書いて「さや」と読む。呼びにくいので皆は子を着けて「さやこ」と呼ぶのだ。歳は蒼太郎より4つ上の23歳だった。

 風呂の用意ができました、と言いに来た際に尋ねたのだが、女性に年齢を聞くのは実は大変失礼な事だ。だが相手は父の愛人だし、と見下す意識がどこかにあった。なので聴き出した23歳という年齢に内心驚いた。その容貌から自分と同じかせいぜい一つ上程度だろうと思っていたのだ。

 風呂にさっと浸かり到着の日はさっさと寝てしまった。


 東京での奇妙な療養生活は小石川の家で始まった。彼は軍隊と同時に家からも見捨てられたという無常感に満ちて、ただ自分の部屋で書物を読み、疲れを感じれば横になり、たまに歩いて神田の古書店街に出かけた。途中すれ違う、神田周辺の大学で法律や文学を学ぶ学生達の姿が眩しい。彼は中学卒業後ひたすらに空と飛行機を追ってきた。まだ地上での歩き方が分かっていないのだ。

 父の愛人は彼を放っておくようでいて、細やかに面倒を見てくれた。彼女は学校には通わなかったが、周囲の知識ある人々から素直に物事を聞き応用していくしなやかさがあった。食の細い蒼太郎の為にいつも好みそうな菓子を買い求め、少しでも滋養がつくようにと、当時珍しかったイギリス輸入の紅茶の葉を混ぜて牛乳を沸かし、たっぷりの砂糖を入れた飲み物や、生姜の効いた甘酒を熱くして供してくれた。寒い時には布団の中にいつの間にか湯たんぽが用意されていたし、何時の間に用意したのか手縫いの綿入れ半纏や暖かな冬用の足袋、ネルのシャツなど細々と部屋の入り端に準備して置いていった。

 だが食事を一緒にとる事はなかった。蒼太郎が一人卓につき、さやはいつも慎ましく脇に控えて給仕をしていた。多分父がしげしげと通ってくる時も一緒なのだろう。そう考えるだけで味噌汁の味が苦くなる気がした。そして、お代わりに備えて静かに茶の間の隅に控えている父の若い愛人に対して、心痛む思いを感じた。

 ただ、決して彼女に心を許したわけではない。彼が彼女にお代わりを頼む事は全くなかった。風に吹かれればよろけそうな長身を黒い外套に包んで外に出ようとする蒼太郎を、さやはいつも心配そうに見送った。


 寒さが厳しくなってきた秋の終わりの夜。彼は早めに床に就いたはずなのに、軽い咳が続いて眠りそびれた。用を足そうと廊下に出た時、台所脇の小部屋に静かに入っていくさやの、白い浴衣の後ろ姿を見た。それはほんのちらりと目にしただけで、彼女は気づかず静かに襖を閉めてしまった。洗いざらしの背中に長く垂らした黒い髪と白い素足、匂い立つような上気したような背中は風呂から上がったばかりなのだろう。

 蒼太郎は突然思い出した。以前実家で彼女、さやを目にした事があった。数年前、彼が予科練に合格した日の祝宴の夜だ。その時もこんな風に、早めに退席させてもらい床に就いた蒼太郎は、夜中に用足しに立った。

 祝い客がすっかり帰った祝いの後の座敷。誰もいないはずの室内から物音が聞こえ、厠に続く廊下の障子の隙間からそっと覗いてみた。まだあどけない、先日雇ったばかりの下働きの少女を、父が無理やり抱いていた。片付け途中の祝いの膳はひっくり返り、抱かれて嫌がる少女の掌の中で祝い箸の紅白の箸袋が握りつぶされていた。彼女を犯しながら、父は紙幣をその胸元に差し入れていた。

 蒼太郎は足音を忍ばせて廊下を駆け抜けた。それ以来、父に何とも言えない気持悪さを抱くようになってしまったのは事実だ。

 父は豪農として成功し、羽振りもよく体力も気力も充実した漢気のある人物だったから女にはもてた。だが15歳当時の蒼太郎の知る限り、それまでの相手は街の芸者か酌婦、粋筋の玄人の女であった。自分とそう歳が変わらないように見える、つい先日雇ったばかりの農家の娘に手を出すとは、と蒼太郎は嫌悪感を抱いた。自分と同じ小学校に通っていた、三学年上でしかない娘ではないか。思い余って兄に見てしまった事を告げた。

「母への裏切りは許さない」と。

 だが「お前は子供だ」と突き返され、それきり相手にしてもらえなかった。さやはよりによってその時の少女だったのだ。


 翌朝、蒼太郎は出された朝餉に全く手を付けなかった。白粥と温泉卵、鯵の開きとお新香に大根と里芋の味噌汁。硬い表情で胡坐をかき、茶だけを飲む蒼太郎の前で冷えてゆく朝餉の品々を、さやはいつもの茶の間の隅から寂しげに眺めていた。

 蒼太郎はいくら世話をされても、父の若い愛人である彼女に心を開かなかった。満足に食事をとらない彼をさやは心の底から心配していた。だが父の妾である自分を嫌っているという事はひしひしと感じる。

 彼女は淡々と、家族から聞いた蒼太郎の好きなものを作り、栄養の為に牛乳や高価な果物や西洋菓子を買い求め、少しでも食べてもらおうと食卓に並べた。だがそれらは食べてもらえたりもらえなかったり。食べてもらえるとしても蒼太郎が部屋に持ち帰った後で、彼女の目の前で食べてくれるのは滅多にない。食欲旺盛で元気な少年だったと家族に聞いてはいたが、彼の美味しそうに食事をする顔をさやはまだ見た事がなかった。

 よほど機嫌と体調がいい時は食事を残さないでくれるが、食べている表情は厳しく、味を楽しむというよりも修行をしているようだった。父親の世話になっている自分と暮らしているのは、坊ちゃんにとって修行なのかもしれない。そう思うとさやは、食器を洗う音をたてないように注意しながら、物悲しい気分にしばし顔を俯けるのだった。


 翌昭和9年1月、碧生蒼太郎は20歳になった。寒い時期の生まれのせいか風邪もひかず、検査での肺病の菌も検出されず、症状も安定していた。持ってきた服は小さくなり、さやは大体の目見当で新しい服を買ってきて、着物も縫った。蒼太郎が体に触れさせなかったからだが、目見当にもかかわらず袖丈も身丈もぴったりと合った。

 彼は再び勉強を始めていた。目標が生まれたのだ。教師になって子供達に学問を教え、子供達と一緒に学び、世界と繋がる空の素晴らしさを教える。彼はかつての座学の本を勉強し直し、古書店街に通い苦手だった文学も読み始めた。

 三月。桃の節句の頃。彼は府立の東京府師範学校に合格した。赤坂区青山北町にある小学校教師を育成するための学校、就学期間は5年間。寮もあり当時は高等小学校卒業時から入学できた。

 さやは喜んで湘南の蒼太郎の実家に電報を打ったが、おめでとうという短い返事と、真新しい下着と服と着物が届いただけだった。

 無理もない。兄に赤ん坊が次々と生まれ、それどころではないのだ。蒼太郎はもはや寂しいとも思わなくなっていた。母が死んだのを境に、生まれ育った家とはわずかな細い糸を残しただけで限りなく縁が遠くなった気がした。15歳まで毎日見ていたみかんの繁る青い段々畑、木々の緑に溶け込んだ青い空、白い雲と広がる海のある故郷は想い出の中にあって、時々引っ張り出して眺めるものになりつつあった。

 北青山は小石川のさやの妾宅から充分通える距離であるが、碧生蒼太郎は寮に入る方を選んだ。さやが優しくまめで性格の良い女だとは分かるが、やはり自分の父の年若い妾だという事が受け入れられず気詰まりであった。

 自分が外出した後、調べものや図書館の勉強を終えて遅く帰ると、さやの体と家からは父が来ていた名残が立ち上るのを感じた。それはごく些細な玄関先の風情の違いだったり、座敷の座布団の位置のわずかな変化から感じられるに過ぎないのだが、自分のいない間にしげしげと女の元に出入りする父の姿を身近に感じる程に、蒼太郎のやりきれなさは募った。そうした日のさやの出してくれる食事は普段より豪華なのが常だったが、蒼太郎は到底口をつける気になれなかった。さやも抱かれて少しほつれた後ろ髪を気にしつつ、ただうつむいて冷めてゆく坊ちゃんの膳を前に控えているしかなかった。その妾宅から出て環境を一新する事は、蒼太郎にとって大いに望むところだった。


 風がすっかり春の温かさをまとった三月も末、蒼太郎は帳面やペン、鉛筆などの文房具や本を買いに、いつもの神田神保町に出かけた。小石川のさやの家からは路面電車の行き交う春日通りをやや歩く。退院して小石川に来た直後は爺と一緒に市電に乗ったが、体がよくなってからはいつも歩いていた。本を買い近くの学生街で学生達に交じって珈琲を飲み、ゆったりとした時間を過ごすのも悪くない。

 当初彼は、そうした青臭いインテリ臭を嫌っていたが、買った文学書を読むためにカフェーやフルーツパーラーに出入りを始めると、その雰囲気が嫌いではなくなった。特に靖国通りの近江屋洋菓子店の喫茶はお気に入りだった。

 その日も重い本や帳面類を買い愛用の古い革鞄に詰めて歩いていると、向こうから小柄な若い女がいそいそと歩いてきた。黒っぽい銘仙の着物に紅花染の帯と鶯色の帯揚げの初々しい、さやだった。いつもの薄杜松色の風呂敷包みを抱え小股で急ぎ足、こちらには全く気付いていてない態だ。

「さやさん。今日はこっちにお出かけだったのか?」

 さやは弾かれたように顔を上げ、つぶらな目をさらにまん丸く開いて蒼太郎に気付いた。

「ああ坊ちゃん。申し訳ありません。全く気が付いていなかったものですから……」

「何か買い物?」

「はい。お茶の水のニコライ堂の近くのパン屋が美味しいと評判で。卵と牛乳のクリームパンというものとジャムパンを買って参りました。坊ちゃんがお好きと思い出したんです」

 さやは蒼太郎の態度が普段より柔らかいのが嬉しく、手にした風呂敷包みを示した。蒼太郎が触ってみるとまだ温かかった。

「焼き上がりの時間が決まっているので、それに合わせて出かけたのです。お口に合うと嬉しいのですが……」

 年上の、しかも父の妾とは思えない清純な微笑と佇まいに、彼も思わず顔をほころばせた。

 家の中では、彼女はいつも自分の顔色を窺っている。それが気に触る点でもあったのだが、彼女なりに引け目を感じているのだろう。蒼太郎はふと、この美しい女の立場を忌む自分が、とても小さな情けない者に思われた。これでは根っこの部分で父と同じではないか。

「もうすぐ昼だ。ちょっと早いけど蕎麦でも食べていかないか?」

「え、私とですか? 」

「そうだよ。他に誰もいないじゃないか」

「でも、よろしいのですか? 私はご一緒させてもらうような……」

「いいんだよ。別に何をはばかる必要がある? それとも俺と一緒じゃ不満か?」

「いえそんな」

「この先に老舗の美味い蕎麦屋がある。そこでいいな」

「はい。ありがとうございます」

 どう答えていいか困っていたさやは、蒼太郎の思い切りの良い言葉に安心した顔を向けた。


 神田司町にある明治五年創業の浅野屋本店は、東京府下においても老舗の蕎麦屋である。間口は狭く店は小さかったが、挽きたての蕎麦粉八割と小麦粉二割の手打ち蕎麦は、江戸前らしく甘みがかった濃いめのつゆと相まって評判となり人気が衰えない味だった。

 春の埃っぽい風に急き立てられるように二人は縄のれんをくぐり、元気な女将の声に迎えられた。昼前の店を開けたばかりの時刻と見えて、他の客はまだ誰もいない。二人掛けの席に着くと、蒼太郎は鴨南蛮蕎麦、さやはおかめ蕎麦を頼んだ。

「お銚子は如何なさいます?」

「いや、いらない」

 女将は見事な詩吟のような声で厨房に注文を通した。

「坊ちゃん、さくら蕎麦もあるみたいですよ」

 さやが珍しく自分から話しかけた。弾んだ声だ。

「いやいい。東京で春のさくらを食べようという気になれないんだ」

 さくらとは、春先に三浦海岸や駿河湾で取れる初物のサクラエビの事である。そのサクラエビと、やはり新物の三つ葉の柔らかい芽先とを一緒にからりとかき揚にし、温かい蕎麦に載せたのがさくら蕎麦だ。蒼太郎は確かに品書きのそれに目を留めたが、実家の湘南の地以外でサクラエビを食べようという気にはなれなかった。

 やがて二人の前に、盛大に湯気を立てた鴨南蛮とおかめが運ばれてきた。蒼太郎は冬限定の鴨南蛮を柚子で食べるのを好んだが、今は三月、もう間もなく鴨南蛮も品書きから消えるので、薬味は渋々ながら七味唐辛子である。ぱっぱっと盛大にかけてしまい、思わずくしゃみをしてしまった。

「ごめんください、坊ちゃん」

 さやは思わず笑ってしまったのを小さな声で謝った。そう言いながら小さな口をすぼめ、汁を飛ばさないように静かに蕎麦をすすり、具のかまぼこや伊達巻き、結び三つ葉を齧る。その白い小さな歯が眩しかった。蒼太郎は照れ隠しに、わざと音を立てて蕎麦をすすった。

 厨房からは蕎麦を切るトントンという音が小気味よい調子で響く。昼時が近くなり次第に客が入ってきた。

 二人の卓には熱々の蕎麦湯が置かれた。

「さやさん、今までありがとう」

「いえ、そんな言葉をかけていただくいわれはありませんので」

「作ってくれた物をあまり食べないで残してばかりだったなと思い出したんだ。すまなかった」

「坊ちゃんの美味しそうに召し上がっているお顔を初めて拝見して、さやはとても嬉しいのです」

「親父の別宅だと思うと、あの家で飯を食う気になれなくて」

「わかります。申し訳ないと思っております……」

「いいんだ。親父をよろしく頼む」

 さやの勧めてくれる蕎麦湯を一杯飲み、二人は店を出た。蒼太郎は彼女のために長い腕で暖簾を押さえてやり、先に出るように促した。レディーファーストなど知らない彼女は面食らったが、嬉しそうに微笑んで従った。神田司町から小石川まで大分あったが、二人は前になり後になり、のんびりと歩いた。

「蒼太郎坊ちゃん、お気をつけて。お体には十分注意なさってください。さやは心配しながら祈る事しかできません」

「大丈夫だよ。お医者も大丈夫だろうと言っている。さやこそ物騒な世の中になってきたから気を付けるんだよ」

「はい」

 今日は随分多く言葉を交わしたな、と思いながら蒼太郎とさやは家路を急いだ。

道沿いの神田川の土手の桜は蕾が膨らみ、もう咲くばかりになっていた。


 満開の桜の中、碧生蒼太郎は青山の師範学校へ入学した。同時に身の回りの物を持って、学校付属の寮に入った。空と飛行機の世界しか知らなかった自分を変えたいと晴れやかな気分で門をくぐった師範学校だったが、蓋を開けてみると学校内でも寮でも、彼は異分子に近かった。

 既に20歳を越した彼は、高等小学校卒が大半を占める生徒たちの中ではまず群を抜いて年長で、それだけで年の近い教師からは疎まれた。さらに予科練の座学で物理や化学、外国語まで履修済みだというのも、教師達から見ると面白くない存在だった。さらに自分達よりも教師の方に年が近い蒼太郎は、寮に於いてもやんちゃ盛りの子供である他の入寮生から見れば気詰まりな存在だったし、彼にしてみれば静かに勉強どころではない彼らの煩さに、ついつい怒鳴りつけてしまい閉口された。海軍仕込みの規律を叩き込まれた蒼太郎にとっては、少年たちの騒ぎ振りは常軌を逸していると感じられた。だがそれは彼をますます孤立させるだけだった。

 学校でも寮でも彼は煙たがられ、悪戯を仕掛けて来るような勇気ある者すらおらず、口をきいてくれる者は皆無だった。それでも学ぶ事自体は楽しかったのでそれだけに集中した。いつの間にか心労と過労が重なり、一度回復した彼の体は次第に悪化していった。

 初めはお決まりの微熱と軽い咳。食欲不振。元々痩せている蒼太郎の体は一気に体力を奪われた。だが彼は空元気を振り絞り、級友や教師の悪意の視線を受け流しながら勉強を続けた。

 だが限界は来た。彼は再び高熱を発し、血の混じった痰を吐いて倒れた。師範学校は退学となり病院の結核病棟に収容された。また元に戻ってしまったのだ。


 症状が落ち着いたところで彼は退院した。やはり日光輝く湘南の実家からは帰宅を拒否され、彼は小石川の小さな家に戻るしかなかった。季節は夏の盛りを過ぎ9月になっていた。先に私物は送ってあったので、身の回りの物を詰めた古い革の鞄を下げただけの姿で、蒼太郎は小石川の家の玄関に立った。

「お帰りなさいませ」

 静かに出迎えたさやは涼しげな木綿単衣の普段着を着ていた。何も聞かず初めの時のように荷物を持って彼の部屋に案内し、浴衣と洗い立ての下着類を出して、木の小さなたらいに水と手ぬぐいを持ってきて、顔と手を洗うように勧めた。

「暑いし埃っぽいですから。坊ちゃん」

 蒼太郎は言われるままに手と顔を拭き、汗くさい学生服からさっぱりとした夏服に着替えた。

 お風呂のご用意ができました、とさやが声を掛けに来た時、彼は中庭に面した縁側に腰を下ろし、小さな庭に青く茂る夏の竹と石に生した苔を見ていた。狭く日当たりのよくない庭に羊歯や熊笹、竹が所狭しと植えられているこの家は、元は都都逸の師匠が住んでいた物だったらしい。だがさやも蒼太郎もそんな事は知らない。

「坊ちゃん、お風呂のご用意ができました。いつでもお声を……」

 数か月前と全く変わらず、さやは慎ましやかに声をかけた。

「この庭はこんなにも暗かったんだね」

「はい?」

「いや、俺がここを出て学校に行った春先は、この庭の木も冬枯れで葉が落ちていたし、枝もまだ伸びていなかった。今は竹も他の木も伸びてしまって、空が見えない」

「夏の間に若い木がぐんぐん伸びましたから……」

「そうだね。若いものの勢いはすごいからね……瞬く間に繁って、空も太陽も隠してしまったんだね」

 さやはやや困った顔をして、控えていた廊下の隅から膝を立て立ち上がった。

「枝や葉の間からお日様も見えますよ。坊ちゃんは大層お疲れでしょう。甘い物でも持ってきましょう」

 困った顔をしながら、さやは台所に消えた。

 蒼太郎は彼女の運んできたお茶とみつ豆を傍らに、まだぼんやりと中庭を眺めていた。小石川の窪地にあるこの界隈はあまり風も吹かず、むっとする熱気が漂っている。夕暮れになれば少しは涼しい良い風も吹くのだが。

「師範学校の周りでも、空はこんな感じだったよ。青山の御所の直ぐ近くだったけど」

「それはとても素晴らしい所にございますね」

「ああ。でも空は青くないんだよ。けぶっていた。美しくないんだ。横須賀の海の近くの、あの学校で見ていた空みたいには……」

 蒼太郎はふと目線を空に向けた。何重にも重なった庭木の枝と葉で中庭は木陰になっていた。さやにはその日陰は好ましいものだったが蒼太郎には違った。

「俺にはもう、本物の空は見られないかもしれないな。飛行士になって空に上がれば、見られた」

 さやは黙って傷ましそうに青年を見つめていた。

「今見ている空の上にある、本当に美しい、本物の澄んだ空をね」

 蒼太郎の言葉は途切れた。彼はいつの間にか低く喉を鳴らして嗚咽を漏らしていた。女の前では絶対に見せたくない姿だった。特にこの、さやの前では。だが止めようとする努力は無駄だった。彼はいつしか深くうなだれて、痩せ細った背を震わせ泣いていた。

「坊ちゃん、生きるのはお辛いですか?」

 さやの涼しげな声が真近で響いた。

「今の坊ちゃんにはさぞお辛い事と思います。さやも生きていくのが辛いと何度も思いました」

 彼女は静かに蒼太郎の近くににじり寄ると、帯の間から白いハンカチーフを取りだし、差し出した。

「でも最近よく思うんです。自分はこのちっぽけな庭の石や、隅っこの雑草にすぎないのですけれど、でも神様はそんな私でも生かしておいて下さる。世の中に意味のないものなんて何一つないんです」

 彼はためらったが、さやの手からハンカチーフを受け取り顔を拭いた。

「私はちっぽけな取るに足らない者で、世の中からしたら邪魔で余計な、踏みつけても良い存在なのかもしれませんが、それでも生きております。だとしたら、私が生きている事だけでも何か意味があるんじゃないかって。さやはそう思います。ましてや坊ちゃんなんて、お体さえ治れば何でもおできになりますよ」

 お風呂お使いになられたら如何でしょう、とさやは立ち、風鈴を取り込みながらささやいた。

「さやは小さいですが、こうして立っていると、風が吹いた時にきれいな空が眺められます。ましてお背の高い坊ちゃんはこれからいくらでもご覧になれます」

 涙を拭いた蒼太郎の目には、そう言って立ち去る姿が大きく伸びやかに見えた。


 夏の日々は静かに過ぎた。

 落ちついて療養生活を過ごす蒼太郎は、その頃ペンと帳面を手に部屋で過ごす事が多くなった。元々痩せた体はますます細くなり、肌は透き通るように青白くなっていった。

 彼は自分が諦めざるを得なかった空への思いを、文にする事を知ったのだ。詩歌や文学は気持ち悪いと感じて苦手だった。そんな物を書いてうじうじと悩んでいるくらいなら行動したほうが早い、という性格だったが、いざ体の自由が利かない身になってみると自分の思いを書き留めておきたい、という気になってきたのだ。ややもすると食事と用足し風呂以外は部屋に閉じこもりきりで、ペンを走らせ、文章に悩んでは破いてゴミ箱に放り投げる。そんな蒼太郎をさやは心配した。

「ちょっと郵便局へ行ってくる」

 秋の気配が次第に増してきた昼下がり、彼は珍しく上着を着て出かけた。書き溜めた空への憧れと痛みを書いた詩や文章を、ある文芸誌に送ってみようと思い立ったのだ。

 彼には文章家になろうなどという気は毛頭ない。ただ誰かに読んでもらいたくなった、それだけだった。郵便局で切手を買い投函した後急に気恥ずかしく、自分の行為がとても愚かなものに思えて、たった今投函したばかりの原稿用紙の束を返してもらいたくなった。

 彼は気晴らしに舶来のチョコレートを買って帰った。さやにもあげようか、大分心配をかけているし。そんな気になったのだ。そしてそのまま投稿した事を忘れてしまった。


 二か月後、秋の日のとっぷりと暮れた頃、さやの家に電話がかかってきた。蒼太郎が詩歌と短文を送った出版社の、編集長からだった。彼の瑞々しい手垢の付いていない文章のセンスを誉め、今月末に発行される本誌に掲載したいというのだ。さやから受話器を受け取った蒼太郎はすぐに快諾した。載ると言っても後ろのページにほんの少し、読者の投稿と言う形だろうと思っていたのだ。

 昭和9年11月の末、書店に並ぶ前に郵送されてきた文芸誌は、文壇でも格式が高いと評判の本だった。もっとも蒼太郎は全くそれと知らずに送ったのだが。彼については空を歌う悲運の青年詩人として3頁に渡る特集が組まれていた。いつの間に調べたのか、彼の境遇や軍暦まで載っていた。蒼太郎は驚いたが、出版社と言うものは余程優秀な人達の集まりなのだと、のどかに感心していた。

 そして、彼の詩の載る文芸誌「暁星」は発売された。

 編集部の見立て通り、軍人上がりの彼の清潔な文章、若々しい固さの残る詩は、詩歌愛好家の間で評判を呼んだ。碧生蒼太郎は自分も知らない間に詩歌の世界の静かなる新星として注目を浴びる存在になっていた。

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