第4話・ギンヤンマ

 1929年(昭和4年)は中学生の碧生蒼太郎にとって特別な年となった。この年12月、将来航空特務士官となるべき人材を育成する事を主眼とし、海軍省令により海軍飛行予科練修生(予科練)制度が制定された。応募資格は満14歳以上で20歳未満の高等小学校卒業者である。

 この知らせを蒼太郎にもたらせたのは村長だった。元海軍の船乗りだった村長は碧生家の末っ子を幼い時から可愛がってきた。その子が空に憧れ、強く敏捷な体と真っ直な心を持っている事も知っており、練修生募集の知らせを持ってきたのだ。

 15歳の碧生蒼太郎はこの知らせに飛びついた。憧れの飛行士になれる。大空を飛ぶ事ができるのだ。愛する空と海と郷土を守る事ができる。

 蒼太郎は一心に勉強し、また家業の農業を手伝い体を鍛えた。勉強に疲れると好きなみかん畑の丘の上まで駆け昇り、仁王立ちになって海と空を眺めた。カモメや他の海鳥が水面すれすれを滑空し、さっと魚を狩ると急上昇して彼方へ飛び去る。そのはるか向こうにも他の国があって、同じように空を見上げている人々がいるのだ。そのまた向こうにも、同じ潮騒を聞いている人達がいる。蒼太郎は世界が無限に広がっていくような、胸拡がる興奮を覚えた。飛行機に乗って空を飛びたい。


 早春、まだ寒い時期に試験は行われた。志願者は全国で5807名に上った。うち合格は79名。実に70倍近い高倍率である。

 合格者79名の中に碧生蒼太郎の名前があった。空を夢見る「あお」という文字が二つも入った名を持つ少年は15歳で第一歩を踏み出したのだ。

 その知らせに小さな村は喜びに沸いた。まるで戦勝パレードのようなお祭り騒ぎだ。祝いの夕餉が催され、教師やとなり町の顔役も含め村中の人達が集まった。

 主役は蒼太郎ではあるがまだ少年で酒は飲めないし、緊張で祝い膳の尾頭付きにも赤飯にも手を付けられない。学生服を着たまま上座に置き物のように座っていた。滅多に末っ子を誉めない父や兄も、彼の強運と根性を誉めた。優しい母は可愛がってきた小さな末っ子の行く末を思い、台所でそっと涙した。

 ただの飛行士ではないという事を、空が大好きな一心で受験したあの子は分かっているのだろうか。彼らが飛び立つという時は戦いが起こっているか有事の時である。飛び立った先に待っているのは美しい青い空だけではない。聡明な母は素直な息子を心配していた。


 翌1930年(昭和5年)6月、碧生蒼太郎は海軍飛行予科練習生第一期生として、横須賀海軍航空隊へ入隊した。

 この時の身分は後の『乙種飛行予科練習生』通称乙飛と称される,ものだ。教育期間は年11カ月。その後1年間の飛行戦技教育が行われ、全課程修了時には海軍二等飛行兵から海軍飛行兵長に昇格する。

 彼ら第一期生は横須賀海軍航空隊の追浜基地で教育を受ける事になった。実家からも近い馴染みの土地である。碧生蒼太郎は16歳になっていた。順当にいけば20歳には飛行兵として一本立ちできる。彼の未来は洋々と拡がっているように見えた。

 勉強や教官達の鉄拳制裁という独特のしつけは怖かったが、彼らはよく耐え前向きに学びを続けた。

 予科練で学ぶ座学は物理、化学、国語、漢文、地理、歴史、気象天測、通信(電信)他12科目に及ぶ。電信はモールス符号で、蒼太郎はコツを覚え得意科目とした。反対に化学と物理は苦手だった。

 体技・武技と言う名の体育・武術の訓練も欠かせない。体技とは体育なのだが、特色あるのは「操転器」という回転する鉄筋の大きな玉に入る訓練だ。手足を伸ばして骨組みをつかみ、ぐるぐると球体を回して移動し、三半規管を鍛えるというものである。初めての者はたいてい悪心を憶え下りてから嘔吐する者もいた。棒倒しや海軍体操等、他にも独特の体技も多かった。

 また陸戦(陸上戦闘)の訓練も欠かせなかった。海軍の飛行兵と言えど、陸に上がって敵と相対すれば肉体をもって戦う事になる。ガキ大将と遜色ない喧嘩を勝ち抜いてきた蒼太郎にとって、これは得意科目だった。碧生少年の未来は拓けていた。


 昭和6年9月18日。

 中国大陸に一つの爆音が轟き渡った。中華民国の奉天(現・瀋陽)近郊柳条湖で、日本が運営する南満州鉄道、通称満鉄の線路が、爆音と共に破壊されたのだ。

 中国北部の満州国を実質支配し、中華民国政府と緊張関係にあった日本陸軍の動きは素早かった。瞬く間に中華民国の軍による破壊工作と発表し、証拠として中華民国軍の銃や軍帽、機械部品等を上げた。

 その爆音が、やがて日本を泥沼の戦争に引きずり込む事になろうとは、当時の陸軍も軍や政府中枢も、大陸に進出した関東軍も想像してはいなかった。

 関東軍は満州の邦人保護と報復を口実に、瞬く間に中国北部を制圧し、実質支配下におさめた。満州族出身の支配者、張學良は日本軍と争うのを躊躇し、敵対関係にあった中華民国の蒋介石に合流した。諸外国は広大な中国大陸における日本陸軍の電撃的な進軍に驚き、警戒の念を強めた。

 横須賀の穏やかな海と空で勉強と訓練に励む生徒達には、その事実はもたらされない。陸軍の軍事行動は、中枢にいる将官クラスを除いて海軍にはほとんど知らされない。まして勉学中の練習生になど。

 湘南の空は明るく雲は高く、訓練と座学の合間に見上げる碧生には自分を待つ広い世界しか感じられなかった。

 空は世界とつながっている。自分が学んでいる航空学も、科学も、全て外国から入って来た知識の賜物だ。

 碧生は飛行機と空が繋ぐ、外国の先人達と自分達との絆に感動することすらあった。日本が諸外国から警戒され、孤立しつつある事も知らなかった。


 たまの休み、学生は外出を許された。碧生蒼太郎も飛行学校の制服に身を包み、意気揚々と学校の外へと繰り出した。面倒見のいい上級生や下士官から花街へ誘われる事もあったが、碧生はいつもまっすぐ家に帰っていた。

 生まれ育った湘南の村は横須賀の飛行学校から遠くない。電車に乗って海岸線をのんびり揺られればすぐだった。

 飛行学校の短い上着とすらりとしたズボンの制服に身を包み村への道を歩くと、見知った村の人々や、子供の頃街に買い物に行かされた時に世話になったお店の人々とすれ違う。皆逢う度に「大きくなったねえ」「立派になったねえ」と顔をほころばせ、挨拶をしてきた。女学生は顔を赤らめ、中には碧生の制服姿を憧れの眼差しで見る娘たちもいた。ただ海軍予科学生碧生蒼太郎はその手の機微に全く鈍感であった。

 17歳の彼は自分でも気づかないうちに背丈がぐんと伸び、昭和初期としては珍しい程の長身になっていた。周りの学生もぐんぐん大きくなる時期なので自分ではさほど感じなかったのだが、学校の外に出てみると実感した。子供の頃お世話になったおじさんや、村のおばさん達が皆はるか眼下に見えるのだ。

 顔つきは華奢で、日頃外で激しい訓練に明け暮れているにも関わらず色白のままであった。母に似て日に焼けにくい体質らしい。彼自身は女のように白い肌の色と、切れ長の大きな目、ほっそりとした涼やかな顔立ちは気に入らなかった。


 蒼太郎は村の誉だった。実家でのんびりくつろいでいると、必ず村の者達が「これを息子さんに食べさせてあげて」と採りたての野菜や果物、果てはつぶした鶏や水揚げされたばかりの鯛を持ってやってきた。夜は近所の人達が集まっての酒宴だったり、父や兄達の勉強や訓練に関する質問攻めに逢う。実は帰宅しても、蒼太郎自身が安らぐ時間はないのだが、それでもやっぱり家は格別だった。

 優しく聡明な母は、甘えん坊な小さな末っ子が帰郷するたびにぐんぐん大きく精悍になり、一人前の青年になっていくのを眩しい思いで見ていた。だが風呂や夕餉の世話をされる時、蒼太郎は未だにどこか甘えたような表情と声で母と話した。

 家に帰っての風呂の際、母は必ず脱衣所の外から湯加減を聞く。それはかつては父や兄だけの特権で、末っ子の自分は訪ねてもらえなかった。蒼太郎は内心誇らしい思いで細い筋肉質の体を湯に沈めていた。

「蒼太郎さん、お湯の加減は熱すぎない?」

 脱衣所のすりガラスの向こうに、細く戸を開けて尋ねる母の気配がした。

「いやちょうどいいです、お母さん。あの……」

「なに」

「心配してくれてありがとう。やっぱり家って、親っていいですね」

「そんなに大きくなったのに、何を幼いことを言っているんですか。背だけ伸びた子供みたいですよ」

 子ども扱いされた蒼太郎は体を洗いながら鼻白んだ。むきになると長い手足を洗う手つきが荒っぽくなる。

「僕はお母さんの子供ですよ。ずっとずっとそうですよ」

 その言葉通り、優しく美しい母の息子であるのは、蒼太郎の誇りでもあった。

「でも貴方はじきに子供ではなくなりますよ。母親としては寂しいけれど嬉しくもあるわね」

 母は新しい寝巻と丹前を用意してくれた。湯上りにそれを着て狭い自分の部屋に行き布団に転がる。

 よく干した日向の匂いのする寝巻と、のびのびと足を延ばせる柔らかい布団。虫の声と、みかん畑を吹き渡り葉をそよがせる風の音。子供の頃から変わらない、大事にしているものがそこにあった。ただ一つ気になるのは、帰郷するたびに母の顔色が青白くなり、元々ほっそりとしていた姿がよけいに痩せ着物がだぶついているように見えることだった。もう学校に帰るという日の昼餉の後、蒼太郎は思い切って台所に行き母に尋ねた。

「お母さん、何か体の具合が良くないように見えるんですが」

「ああ、心配かけた? ちょっと咳が続いてね。多分季節の変わり目によくひく風邪。おかげで食欲もなくて着物も緩くなってしまうのよ」

 母は女中の動きに目を配りつつ青白い顔を向けた。

「本当に気を付けてください。お母さんが元気でないととても心配です。親父や兄貴が何と言っても街のお医者にかかって診てもらってくださいね」

「ありがとう蒼太郎さん。その優しい所は子供の頃から変わらないわね」

 母は細い首をかしげて透き通るような微笑を浮かべた。

「当たり前です。僕がこの世で一番尊敬するのはお母さんですから。お母さん……と、天皇陛下です」

 あわててとってつけた末っ子の言葉に、母は笑い出し、すぐに顔を引き締めた。

「蒼太郎さん、貴方ももう大人なのだから自分の言葉には責任を持ちなさい。高い空と広い世界と、同時に足元の小さな世界や自分の周りのささやかな世界も大事にできるよう、そういう人におなりなさい。お母さんは学問がないから貴方に何も教えてあげられないけれど、これだけは言っておきたいの」

 後年、この時の凛とした母の表情を、彼は痛みを伴って思い出すことになる。


 学校に帰る電車に乗る前、蒼太郎は村はずれの墓地に足を向けた。丘の上の、海と村全体を見下ろす場所に立った村の墓地。震災で死んだ子供の頃の友人「さっちゃん」こと『おがたさちお』の墓墓参りをする為だった。

 さちおの名は緒方家代々の先祖が眠る墓石の一隅にあった。7歳という享年が、童子のまま逝ってしまった魂を思い出させた。少女のように美しい澄みきった明るい目の、独自の世界に生きていた幸男。戦死したと知らず、兄の帰りを待ち焦がれていた小さな姿のまま、空に吸い込まれ地上に落ちて死んでしまった。

 蒼太郎は母が庭から切ってくれた仏花を供え、彼の好きだった饅頭を置いた。そしてしばし祈り、坂を下りて街の駅へと向かうのだった。

 背の高い細い制服姿が風に吹かれ、17歳と言う年齢に似合わぬ、もの寂しい風情を醸していた。母親譲りだろうか、軍人の卵というにはどこか透明感のありすぎる、儚い空気を彼は常にまとっていた。


 昭和7年5月14日の土曜日、蒼太郎は当分帰郷に及ばぬという父からの電報を受け取った。母が結核で血を吐いて倒れ療養しているからと言うのだ。うつるといけないからお前は戻ってくるなとの、父と兄の知らせだった。家のことは使用人がいるし、母の看護もやってもらっているから心配ないとの文面だった。

 碧生蒼太郎は勉学に励み、18歳の精悍な飛行学生になっていたが、電報を受け取るなり血の気が引いていくのを感じた。以前帰郷した時不安になるほど青い顔色をしていたのは、この病の為だったのか。思えばその頃は既に、相当病状が進んでいたに違いない。

 15日の日曜日になり外出許可が下りると、蒼太郎は真っ先に学寮を飛び出し実家へ向かった。来るなと言う父と兄の言葉は無視した。一刻も早く母を見舞い、顔を見て安心しなければとの一念しかなかった。小銭を出す手ももどかしく震え、彼はやっとのことで切符を買い、いつも帰郷する汽車に乗った。

 海辺の崖下の線路を進む列車。片側の崖にはみかんの木が青々とした葉を茂らせ、陽の光を弾いている。蒼太郎はいつもその眩しさを愛したが、この時はそこに心を向ける余裕すらなかった。

 母が血を吐いて倒れた。

 母が労咳になってしまった。

 治す薬もない病になってしまった。

 蒼太郎は固く目をつぶり、瞼に浮かぶ、先日帰郷した際の青白い母の姿を打ち消そうとした。だが母が倒れたという事実は彼の心を打ち倒すのに十分な力を持っていた。最寄駅の名を読み上げられても彼は到着したのに気付かず、慌てて汽車から飛び降りた。

 蒼太郎は村への道をひたすら走った。一刻も早く母の顔を見なくては。知り合いの挨拶にも気付かず、街から村への上り坂を一気に駆け上がり、走り続けた。二度三度、制服の帽子が飛びそうになったので手に握り、短く刈り込んだ頭全体に海風を受けながら走った。

 家に全力で駆け込み、何事かと使用人達に驚かれた。屋敷奥から出てきた父と兄に、蒼太郎はこっぴどく叱られた。軍人としての勉学に励む末っ子への折角の気遣いを無にしたと。いつもなら素直に謝る蒼太郎だが今日は違った。

「お父さんとお兄さんが自分を気遣ってくれたのはとてもよくわかります。でもお母さんに会いたいんです。会わせてください」

 蒼太郎は感情の高ぶりを抑えるのに必死だった。

「会わない方がいいぞ蒼太郎。お前が母さんを慕っているのは皆よく分かっている。でも母さんも、病み衰えた自分の姿をお前に見せれば、絶対心配するだろう思ってる。だから知らせないでくれと言ったんだ」

 日頃気短な兄が、珍しく優しく諭した。

「それと、うつるぞ蒼太郎。労咳はうつる病だ。お前が感染したまま学校に帰り学寮や飛行学校中に拡がってみろ。どうするつもりだ」

「僕は大丈夫です。こんなに鍛えているんだし、絶対に病にかかったりしません。そんなにやわじゃありません」

「そういうもんじゃないんだ、あの病は」

 父が静かに割って入った

「もういい。こいつが会いたいと言うんだ。どうなってもいいんだろう。会わせてやれ。その代わり絶対に俺達に取り乱した姿は見せるな。いいな」

 そう言い捨てて、不機嫌そうに屋敷の奥に入ってしまった。

 兄は蒼太郎を連れて土蔵に向かった。彼は不審に思った。なぜ土蔵なんかに? 母は母屋の座敷に寝かされているものとばかり思っていた。

「お母さん、蒼太郎が見舞いに来ましたよ。言いつけの通り『見舞うに及ばず』と書いたのですが、この馬鹿がどうしてもと帰ってきてしまって」

 兄は分厚く重い土蔵の扉を開け、中に声をかけた。この土蔵は自分も入った事がない。頑丈な錠前が付いており、碧生家の先祖代々の大事な物が入れられていると言われていた。兄に促され、蒼太郎は中に入った。

 月半ばの太陽が格子のはめ込まれた狭い窓から差し込み、中はむっとするほど熱が籠っていた。風が流れていないのだ。澱んだ空気が充満していた。その土蔵の奥に布団を一枚敷かれて、母はぽつんと寝かされていた。

 兄の声に頭を上げたその姿に、蒼太郎は衝撃を受けた。これが美しく優しかった母の姿だろうか。顔は頭蓋骨の形が分かる程に痩せ、髪は乱れ、垢じみた浴衣から骨に薄く皮膚が張り付いたばかりの体が覗けていた。幼い頃に自分が甘えて抱き着いた、綺麗な着物に包まれた母の豊かな胸とお腹。それは全く面影もなく、今目の前にいるのは行燈の燃え尽きようとする灯心のような、細い糸の如き女性だった。

「蒼太郎さん、なぜ来たの。こんな姿のお母さんに会わなくともいいでしょうに」

 弱々しいかすれ声は、だが確かに慕わしい母の声だった。蒼太郎はあらゆる感情が一時に吹き上がってくるのを感じた。彼は何も言えず、倉の入り口から少し入った所に立ち尽くしていた。

「蒼太郎、折角来たんだ。母さんにきちんと挨拶をして顔を見せてやれ。しっかりしろ」

 兄が土蔵の入口で声をかけたが、絶対に足を踏み入れようとはしなかった。蒼太郎は茫然としたまま母の布団に近寄った。

「お母さん……」

「こんにちは蒼太郎さん。元気でやっている?」

「はい……」

「お母さんこんなになっちゃったわ。貴方の言う事を聞いてすぐ街のお医者に行っていればよかったわね。大丈夫だと思って無理をしてしまった。ごめんなさい……」

 喘ぎながら言葉を絞り出していた母は、突如激しく咳き込み、枕元の蓋つきの壺を手元に引き寄せた。蓋を開けると中には水が入っていて、真っ赤な血痰が幾つも浮いていた。母は全身を折り曲げ苦しげに激しく咳込み、壺の中に何度も何度も血を吐いた。

 蒼太郎は思わず近寄って背中をさすろうとしたが、母は激しい勢いで振り返り、

「近寄っては駄目」

と苦しい息の下で叫んだ。

 彼は何もできずただ茫然と見ているしかなかった。

 激しく咳込み、こみ上げる血を吐き続けると、母は次第に落ち着いてきた。枕元の懐紙で口を拭うと、その紙も放り込んでから壺の蓋を閉め、布団にまた戻って行った。蒼太郎は心が飛んで行ってしまったかのように目を見開いて母の動きの一部始終を見ていた。

「ごめんね。汚い姿を見せてしまって……ちょっと横になります。頭を上げていられないの」

「いえ……どうぞご自愛ください。構わないで」

 母は埃臭い掛け布団を口元まで引き上げ、子供のようなまなざしで息子を見上げた。

「顔を見せてもらって嬉しかったわ。そうたちゃん。」

 それはごく幼い時、また赤ん坊に毛が生えたような年齢の時に呼ばれていた呼び名だ。蒼太郎は再び胸が詰まって色んな思いが一度にこみ上げてきた。だが、言葉にできた感情はごく僅かだった。

「お母さん、もう眠ります?」

「ええ。ただこうしているだけで疲れてしまうの。ちょっと眠いわ」

「じゃ眠るまでお話をしてあげます。お母さんの好きな海やみかん畑や、お魚の話」

「ありがとう。子供の頃と立場が逆ね」

 蒼太郎はゆっくりと穏やかな調子で話し始めた。

 ゆったり話さないと涙があふれてきて言葉が詰まりそうになるからだ。

 ここに来るまでの間電車の窓から見たり、訓練中に学校から見える穏やかな光に溢れた春の海。

 駅近くの港で水揚げされた新鮮な春の魚達が、籠の中で元気に銀色の体を光らせ跳ねる様子。

 まるで銀の鋭利な刃物のような、美しく躍動的なその姿。

 そして、母が大好きなみかん畑に今咲き誇っている白く香り高い花……。

 蒼太郎は口が達者な方ではなかった。次から次へと言葉が流暢に出てくる方でもない。一つ一つ言葉を選びながら、朴訥に間を置きながら、静かに語った。

 母は弱々しく微笑みながら、末っ子がぽつぽつと喋る話を聞いていた。初めは病み衰えて皺だらけとびっくりした母の顔だったが、今穏やかにまどろみながら自分の話を聞いているその顔は、次第に童女のようなあどけない安らぎに満ちてきた。

「蒼太郎さん、ありがとう」

 話が途切れた沈黙の後、寄り添って自分を見詰める末っ子に、母は目をつぶったままささやいた。

「でももうここから出なさい。もう……あまり来ないように……」

 そしてそのまま眠りに落ちて行った。

 余りに静かに寝入ったので、心配になった蒼太郎は思わず顔を寄せて母の息を確認した。やっとの思いで息を繋いでいるように、母の骨だらけの胸は眠りに落ちながらもゼイゼイと激しく波打っていた。

「おやすみなさい。お母さん……心安らかに……」

 蒼太郎は静かに言い置いて立ち上がった。立った時ふらりと少し体が揺らいだ。まだ動揺しているせいだ。蒼太郎は自分の心の弱さを恥じた。


 土蔵の扉を開けて外に出ると、庭先で喫煙していた兄が煙草をもみ消して近寄ってきた。

「ずいぶん長いこと居たな」

「はい……」

「おふくろとも充分に話せたか?」

「いえ、まだまだ……なんか言葉に詰まってしまって……」

「無理もない。お前はお母さん子だったからな」

 吸うか? と煙草を差し出しながら兄は微笑した。

 厳しいだけと思っていた兄の意外な優しさに、蒼太郎は驚いた。

 いいえ、自分吸わないので……と丁寧に断りながら、兄と並んで母屋に向かう。

「お母さんは、どんなふうに?」

「うん、この前お前が来て学校に帰った直後だった。風邪をこじらせたと言って少し調子が悪そうだったが、本人も俺達も大した熱もないしとたかをくくっていた。今年の風邪はしつこいねと話していたのに、昼ご飯の支度中に突然ばっと血を吐いて倒れたんだ」

 蒼太郎は歩いている足から力が抜け、自分のものではないような気がした。

「お前も見たろう、お母さんの様子を。もう先が長くないとお医者は言っている。どのくらいとは言われないが、もういつ死んでもおかしくないと」

「そんなに……」

「ああ。見舞いに及ばずとは言ったが、可愛がっていたお前とこうして逢って話ができたのはお母さんには良かったかもしれない。お前にうつる心配はあるけれど」

 母屋に着くと蒼太郎は兄に礼を言って、狭い自室に閉じ籠ってしまった。父に「取り乱した姿を俺に見せるな」と言われた通り。今、自分を失わずに父と兄ときちんと話ができる自信がなかった。

 窓の障子を通して注ぐ柔らかな日の光の満ちる中、彼は座卓の前にじっと座ってうなだれていた。長身の背中を丸め細い体は小刻みに震えていた。

 母がもう長くない。その事実は甘えん坊の蒼太郎を打ちのめすに十分だった。

 その日の夕方五時過ぎの事だった。武装した海軍の青年将校達が総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を射殺した。その他内大臣公邸や大手銀行なども襲撃した。多数の民間人も参加した大規模な同時多発のクーデターであった。後世に言う「五・一五事件」である。


 ちょうど蒼太郎は学校の最寄り駅に帰り着いていた。予科学校にも学生と教員の待機命令が出ていた。学生は担当下士官に帰還の報告をしなければならない。碧生蒼太郎は下士官の前に立ってもボーっとしていたままだったので、この非常時にと鉄拳で殴られてしまった。

 鉄拳制裁は軍隊に置いては珍しい事ではなく、受ける方もベテランになるとうまく力を逃がす方法を会得して、最小限のダメージで済むようにやり過ごす。だがこの時の彼は心ここにあらず状態だったため、その場に昏倒して鼻血を出してしまった。情けない姿だと口汚く罵られて立ち上がった彼は、手のひらで拭ったその血に喀血して苦しむ母を思い出した。

 母は死の国に迎え入れられようとしている。今は元気に見える自分達も死に向かって突っ走っている。確実なものなんて何もない。憧れている空だって、学校の前に広がる海だって、この大地ですら。

 事件は首謀者と実行部隊の海軍将校、陸軍士官学校生等の自首で終息した。死者は首相の犬養毅と警備の警官一名のみ。他に首都の中枢、首相官邸、日本銀行、警視庁、内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行と襲撃し、負傷者を出した。これほどの大規模クーデター未遂にもかかわらず、裁判での判決は軽いものだった。海軍将校は横須賀、陸軍士官学校生や民間人は、東京地方裁判所で裁かれたが、反逆罪で訴追され死刑を求刑されたにもかかわらず誰一人として死刑判決は出ていない。この甘い処分の結果が、後の昭和11年の2・26事件への引き金になるとは、この時誰一人知る由もなかった。


 昭和7年9月23日。

 残暑が厳しく日差しの強い日。海軍予科学校の碧生蒼太郎の元に母が死んだと電報が入った。ケイトウの花が真赤に咲き誇る日だった。

 許可を得て校門を飛び出した蒼太郎の目に、キラキラと光るものが映った。道端に落ちているトンボの死骸だ。陽の光を受けて、透き通る羽根に反射させながら、びっしりとたかった黒いアリに曳かれていく、ギンヤンマの亡骸だったのだ。蒼太郎は一瞬立ち止まり、大きく目を見開き、我を忘れてその列を見つめた。

「さようなら、蒼太郎さん」

 ギンヤンマが話しかけた気がした。碧生蒼太郎は足が地面にくっついたように動けないでいた。不審に思った門の歩哨に怒鳴られるまで、彼は青ざめた顔でただ立ち止まっていた。


 昭和8年(1934年)碧生蒼太郎は長期間の咳と微熱が続いていた。咳は激しくむせかえるようなものではなく軽く、訓練や座学に支障はなかった。ただ軽い熱が下がらず、体力が落ちたような気がするのが悩みだった。

 教官や指導の下士官も風邪がなかなか治らない蒼太郎を心配していた。訓練生としての期間もあと一年。20歳になったら卒業し、いよいよ一人前のパイロットとして赴任するのだ。蒼太郎は青白い顔に微熱で頬を紅潮させ、歯を食いしばって厳しい訓練について行った。成績も抜群なこの長身の青年は、優秀な飛行士になると前途を嘱望されていた。

 秋の日、湘南の空にトンボが群れを成して飛び交う穏やかな日。まだ青いみかんが徐々に黄色に色づき始めた日。

 碧生蒼太郎は陸上戦闘の訓練中倒れた。指導教官達は陸戦は得意な奴にしては珍しいと訝しがった。相手の銃剣の当たり所が悪かったのか。近寄って怒鳴りつけても蒼太郎は地面に伏したまま起き上がれなかった。木刀で体を転がすと、グランドの固い土の上には彼が吐いた真っ赤な血が幾筋もこぼれていた。

 肺に穴が開いていた。死んだ母のような激しい咳が出なかったため、まさか自分が罹患したなどと思わなかったのだ。

 碧生蒼太郎は重い肺結核と診断され海軍を除隊にされた。

 19歳。パイロットとして基地への赴任直前であった。

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