第3話・夜来香

 間宮リカは人生の最初からまあまあ恵まれた子供だった。生まれたのは大正5年。築地の聖路加病院。主に在留英米人のための医療施設だったハイカラな建物は、日本人が通常の出産で使うには贅沢な施設だった。当時は自宅に産婆を呼ぶのが普通だったからである。

 父親は新聞記者、母親は裕福な老舗菓子屋の娘で家は四ツ谷。山の手と下町の境にあるような、ちょっと粋な風情も漂う街だ。そんな環境で彼女は育った。

「リカ」という名前は当時としてはとても洒落ていた。記者であり雑文書きでもある父親の命名である。本当は「ルカ」と付けたかったのだが、男の名前なので「リカ」に変えたと聞く。リカ自身は長いこと「ルカ」の方がずっと良いと思っていた。

 ルカというのはキリスト教の聖人で、聖書の一つ「ルカ福音書」を書いたと言われる人物である。もちろん2000年近く前の事だから実在かどうかは不明だ。職業は医者で、イエスの弟子の中でも知的だったと伝えられる。また女性に優しく、彼の書いた福音書は聖母マリアやマグダラのマリアなど、出てくる女性の記述が愛と尊敬に満ちているという話だった。

 だが、そんなことを幼い時分は知らない。生まれたのが聖路加病院だから付けたのだろうという、安直な理由を想像して憤慨した事もあった。ルカについて調べ父の思いを知ったのは、父が亡くなり自分も成長した後だ。

 リカは頭の良い少女だが、自分の考えで暴走し思い込みで感情を高ぶらせる、気分屋の面が多々あった。それは父親にそっくりな気質でもあった。

 父親は有名新聞の記者で担当は地域ニュースだ。そして同時に市中のゴシップ誌に多数寄稿もしていた。専門は政財界の醜聞で、有名新聞での記事よりもこうした暴露記事の方が数多いかもしれない。だが父はあくまでも「政治記者」と自分を位置付けていた。娘もそんな父親を尊敬した。

 一方、母親は奔放な女性だった。自分の気分や感情のままにものを言い、その結果にあまり頓着しない。ただ夫や娘のリカと違い、自分の言葉に自分で激することはなく、あくまでも淡々とマイペースだった。

『冷静な考えなし』

 娘はそう見ていた。母は江戸時代から続く老舗の和菓子屋の、末っ子のお嬢さんである。自分の家を政商かもと取材に来たリカの父親と恋に落ち、あっという間に周囲の反対を無視して押しかけたのだ。二人はこの四ツ谷の地に小さな世帯を持ち、そしてリカが生まれた。


 新宿通りから長屋の脇を抜け、住居と住居の間を縫う長い石の階段を下りると、突然小料理屋やミルクホールやカフェーの密集する一角に出る。その角の、当時としては珍しい西洋料理店のすぐ裏手が、リカの家だった。昼や夕飯時には西洋料理のいい香りが漂い、料理を作ることが面倒になった日など、母親はすぐに娘を厨房の裏口に行かせ

「カツレツを、牛肉を薄く切ったもので1匁」

と買いに行かせたものだ。

 父の収入がある時はサラダやスープ、ビフカツが食卓に並んだ。その代わり家計が厳しくなっていくと、リカは乳母の子や近所の子と一緒に、近所に老舗の漬け魚店や豆腐屋の屋台に手鍋を下げて走った。納豆や野菜の漬物、煮豆や油揚げの煮つけ。浴衣に赤い兵児帯を締めた少女は「間宮先生のお嬢さん」と呼ばれ、ご近所からも可愛がられた。癇の強いところも利発な子の証拠だと許容された。

 華道のおっしょさん宅を買い取ったリカの自宅には部屋が沢山あったが、一階には大勢の書生達が寝泊まりしていた。皆父親が講師を務めた学校の学生や、父の文章の信奉者だった。父の収入が当時の世間的な相場よりある方だからいいようなものの、家計は決して裕福ではなかった。リカの着物も母が幼いころの物だった。母は鷹揚に微笑みながら、言いたい事を言い、家事や日々の楽しみをこなしていた。

 7歳になったある暑い夏の昼。

 リカは横丁で、近所の子供たちとケンケンをして遊んでいた。乳母がそろそろお昼御飯ですよと声をかけに来る頃。昼を告げる午砲が鳴るというその時。お稲荷さんの木立がごうっと鳴って大地が破壊された。もうもうたる土煙と共に地面が咆哮し、リカの目の前の世界は潰れていった。乳母が飛んできて家に引き戻され、家族と共にわずかな荷物を持って宮城まで避難をした。途中で見た光景は彼女の小さな平和を打ち砕くに十分だった。やがて下町方面で大火災が起こり、視界の彼方が真赤な炎に染まった。火災は一晩中夜の闇の底を輝かせ続けた。

 リカの小さな世の中は一変した。

 一晩宮城前の広場で家族と身を寄せ合って過ごし、翌9月2日には四谷舟町の自宅に帰った。幸い四谷界隈の被害は比較的軽かった。元武家屋敷や寺社の多い街だったせいか、作りのしっかりした建物が多く、古びたリカの自宅も窓や中の物置、台所が壊れた以外は軽微な被害で済んだ。何より近所に火災が起こらなかったのが幸いだった。

 その一方で、震災の火災で大被害を出した下町から四ツ谷の迎賓館前に流民が大量に流入し、省線の駅前には貧民屈ができていた。

 四谷鮫川橋谷街。

 現在の四ツ谷駅前、南元町公園から高速道路の高架下、信濃町の境に至る一帯である。今は学習院初等科や有名一軒家レストラン、鯛焼き屋などがある地域だ。

 元々江戸初期に火葬場があり、300年続く貧民屈は逃れてきた人々によってさらに膨れ上がった。それと同時に第一次大戦で膨張した日本の景気も一気に停滞した。貧民屈の長屋には職にあぶれた元車夫や人足等がたむろし、日々の銭にも事欠いていた。

 当然通常の飯屋など彼らの収入では利用できない。自宅で料理しようにも材料すら買えないのだ。そんな事情を反映し、その地には市ヶ谷の陸軍士官学校から出る残飯を売る残飯屋が何件かあった。残飯はおかずの内容によって等級があり、値段も違った。ただ、所詮食べ残しや余り物である。それらを樽にまとめてぶちまけ、汁ものも鍋に買い受け、大八車に積んで貧民屈に戻り、群がる人々に量り売りするのである。すこぶる不衛生な環境だった。

 残飯にまみれ、手洗い場も水場もろくにない一帯はすえた臭いを発し、さすがの両親もリカに行くのを禁じた。疫痢や赤痢、果てはコレラ等伝染病の発生源ともなっていたからである。

 程なく、下町の火災から焼け出されて四ツ谷に住み着いた絵師が、間宮家に出入りするようになった。既に書生、芸術家、詩人崩れ、写真家と色んな人種が出入りしていた間宮家だが、彼・片桐惟人は特にリカを可愛がった。歳より大人びてはいたが小学生の「お嬢ちゃん」である彼女は他の大人達からは人形扱いされ、頭を撫でられてはあちらで遊びなさいと追い払われたが、片桐は違った。


 彼は正体のわからない男だった。「アトリエ」と称する傾いたあばら家で、少々病的な印象の瞳の大きな美人画を描いては、団扇や絵葉書の図案を扱う画商に売り、幾ばくかの金を得るとすぐにマンドリンやギターの楽譜を買ったり、高価なフランス語の詩集を購入したりの生活を送っていた。その全身趣味に生きる性格ゆえ金が手元に定着する事はなかったが、彼はリカを可愛がり、幼い美貌の裏の激しい気性を見抜いていた。

「お嬢さん、僕は貴女を子ども扱いはしない。一人のレディとして接したい。だから僕の前にいる時はできるだけレディでおいでなさい」

 これが間宮家に出入りし、その家の一人娘リカと初めて会った時の、片桐の第一声だった。

 リカは何を言われているのかわからなかったが、父は磊落に笑い、リカに

「かく在るように努めなさい」

とだけ言った。

 この風変わりな若い絵師はリカの父親の妙な信頼を勝ち得ていた。彼は商業用の美人画の他に、幼いリカをモデルに独特の絵画を描いていた。子供相手なのでモデルとして長時間拘束する事はなかったが、世紀末的な色彩で描かれたそれは少女の一瞬一瞬の暗い情熱をとらえていた。だが少女は自分を描いたそれらの絵を嫌った。

「片桐さん、私この絵は好きじゃない。この絵だけじゃない。貴方の書いた私の絵、全部が嫌いです」

 モデルの時間を終えたリカは髪を整え、キャンバスに入念に色を塗りこむ片桐の手元を見ながら言った。

「それは残念ですね。でもこれは間違いなくリカさん自身です。僕の目が見た貴女の姿そのものなんですよ。大人になったら分かるでしょう」

「それだったら私は大人になりたくありません。」

「これは貴女の一瞬の表情です。今しかない表情です。大人になったら更に深みのある美しいひとになるでしょう。私にその姿を見せてください。土下座してでもお願いします」

 そして片桐は、リカにカルピスを作りキャラメルをくれた。


 リカはモデルとして書かれる自分の絵は嫌いだったが、ご褒美の甘い物と片桐のアトリエは好きだった。彼の長い脚の、胡坐をかいた膝の上で外国の絵本を読んでもらい、フランス語の詩を聞き、窓辺で彼が弾くマンドリンに耳を傾けた。彼女は教育勅語よりもヴェルレーヌやランボーの詩を美しいと思った。毎日四ツ谷の横丁に来る紙芝居や、同級生の少女達との人形を使ったごっこ遊びよりも、彼女は片桐のアトリエに来て宝物のような外国の絵葉書や本、写真を見てレコードを聞く方がずっと好きになった。

 同年代の子達との精神的な溝が生じつつある事は彼女自身も気づいていた。間宮リカは9歳にして早熟なファム・ファタルになっていった。


 間宮家に寄宿している大学生の書生は何人かいたが、その一人は格別に母のお気に入りだった。

 いつも母に媚びへつらい、母の気まぐれな言葉と行動に必死について行こうとする若い学生槇村良吉を、リカは嫌っていた。まるで尻尾を振る犬のようにいつも母を見上げ、けして真っ向から視線を合わせようとしない。自分を卑下し、母を女王様のように崇めているのは痛い程感じるが、リカの父親の前では全く萎縮し、遠くから父母の睦ましい姿を指をくわえてみている。そのねっとりとした湿り気を感じる暗い視線が、リカは怖気が来るほど嫌だった。

 一度女中部屋の脇を通った時、乳母や女中達が「奥さんにお熱の学生さん」の話をして、嘲笑っていた。女中達の目から見ても、なりふり構わない下僕状態の槇村良吉は笑いの対象だった。

「笑う事ではありません。槇村君は彼にできる精一杯のやり方で、お母様を愛しているのです。それは先生もお母様もご存知です。というより」

 マンドリンを弾く手を止めて、片桐はアトリエに寝そべるリカに語った。

「あの三人は貴女のお母様を頂点とした、信仰にも似た服従関係にあるのです。それはもう信心ですね」

「お母様は女神様なんかじゃないわ。あんな我儘で人を振り回す神様はないわ。それに槇村さんとお母様との間に愛なんかあるはずない。愛とはもっと公平なものでしょう。平塚らいてう先生も『青踏』の中で仰っていたわ」

 貴女はそんな本まで読んでいたのですか、と片桐は苦笑した。

「大人の世界には色々な愛の形があるのです」

 リカの瞳が大人びて光った。

「では片桐さんは私を好いていますか?」

 片桐は自分の為に紅茶を入れ、次に二つ目のカップに注ぎ、リカ用に大量の砂糖と牛乳を入れた。

「貴女と言う存在もそうですが、それよりも貴女を通して見る事のできる幻影を私は愛しています。リカお嬢さん」

 そうして大きな背もたれ椅子に腰かけたリカの前に膝を屈めて、ぬるいミルクティーを差し出した。リカは何だか敗北したような気がした。この変な大人の男に認められたい、不思議な反骨精神が幼い心の中にあった。


 大正15年。耳が千切れるほどに寒い12月25日深夜午前1時25分、天皇が崩御した。

 その日も書生や出入りの芸術家崩れの連中と深酒をしていたリカの父は、酒が抜けぬままコートをひっかけ靴を履いて新聞社に走った。政界財界各方面に精力的に取材を敢行し、徹夜で記事を書き上げた翌日、新聞社の机で冷たくなっていた。寒さと疲れと、酒による心臓麻痺だった。

 葬儀は大葬の喪中なので簡単に行われた。リカは、生前父が密かに憧れていたキリスト教でお送りしたいと母に進言したが、それはさすがに叶わなかった。書生達は一人また一人と主を失った家を去って行き、最後に熱心な母の崇拝者である書生・槇村良吉だけが残った。

 やがて妊娠中だった母が男の子を生んだ。男の子は「世羽根」(ヨハネ)と名付けられた。口さがないご近所や間宮家を去って行った書生達は、男の子の父親は母の崇拝者の書生槇村良吉だと噂した。


 ヨハネは体の弱い喘息持ちの子であった。泣き始めるとすぐに喉を詰まらせ、ヒューヒューと鳴らして苦しんだ。冷たい風や埃にも弱くすぐ咳込んでは発作を起こすので、小さな頃から家の外に出る事はほとんどなかった。誕生日を迎える頃は、まだうまく離乳食も食べられず痩せこけていた。この子は長生きできそうもない、使用人はおろか家族もそう思っていた。だが3歳を迎える頃は、まだ世間並ではないが体も強くなり発作も減った。

 リカは乳母と一緒にヨハネを乳母車に乗せ、方々を見せて回った。内堀の桜、大好きな横丁の風景。宮城前の広場。陸軍士官学校の兵隊さんに、近衛兵の見事な馬上の姿。なかでも後楽園の見事な庭園とそこから見上げる青空は、リカとヨハネのお気に入りだった。やがて彼女は広い高い空を好きになっていった。

 かつてリカは空が嫌いだった。母のお気に入りの書生、ヨハネの父親と噂されている槇村良吉から

「リカさん、あの空のどこかにお父様は居て貴女を見守っていますよ」

 と言われて以来リカは空が嫌いだったのだ。

 槇村さん、貴方には言われたくない。

 お母様をみだらな風に見る貴方には。

 少女の潔癖さをもって、リカは槇村を毛嫌いしていた。


 いつの間にか大正の世は終わり、世間は「昭和」と呼び交わす世の中になっていた。

 リカは13歳になった。良い意味でも悪い意味でも「進歩的」と評される女学校へ通い、長いおさげ髪にセーラー服の美しい少女に成長した。

 片桐は相変わらず彼女をモデルに絵を描き続けていたが、決してそれを売ろうとはしなかった。

 その夏、女学校から帰宅したリカを、唐突に訪ねてきたご婦人がいた。近所でも有名な世話好きで、まだ13歳のリカに縁談を持ってきたのだ。

「私は結婚なんかする気はありません」

「今の今、と言う話ではないわ、リカちゃん。先方は女学校を卒業するまで待っていてくださるという事ですよ。それに」

 仲人のおばさんは、じろりとリカを見た。学校から帰ったのでおさげを解き、長い髪を波打たせた大人びた美しい少女。

「貴女小さい頃から怪しい絵師の元に通っているという話じゃないの。先方は何か変な事になる前に、と言うおつもりがあるのよ。女一人でしげしげと定職もない妖しい男の元へ通い続け、モデルまでする。普通ではないわ」

 リカは憤然とおばさんを見返した。

 母親は何もかもリカに任せると言った。お断りするもお話を受けるも、お会いしてみるのもリカの自由にしていいと。リカは軽く失望した。

 分かっていた事だが、母は気まぐれで我儘な言葉は沢山言うが、肝心な事は何一つ決断しないのだ。他の人が敷いてくれたルールに、ぶつくさ文句を言いながらも乗っているだけ。だから今度も幼いリカに全部押し付けたのだ。

 リカは決意した。

 部屋に半日閉じこもると、裁ち鋏で長い髪を切り落とした。ただ切っただけではなく、坊主に近い短髪になるまでめちゃくちゃに鋏を動かした。

 艶やかな長い髪が畳の上に、夜の渦のように拡がり落ちた。リカはその髪を集めてごみ箱に捨てた。髪を失った事に何の感慨もなかった。その足で夜の横丁を歩き、片桐のアトリエと言う名のあばら家に向かった。


「片桐さん、片桐さん」

 押し殺した声で呼ぶリカの声に軋む引き戸を開けた片桐は、言葉を失いしばし立ち尽くした。

「何て事をしたんですか、貴女は」

「縁談を押し付けられそうになったんです。母は私に全部を任せました。何の助言もしてくれませんでしたわ」

「それで、ですか?」

「はい。決意です。私が女だからこんな風に訝しがられ、理不尽な縁談など持ち込まれるのです。私は自由でいたい。片桐さん、私に男の服を貸してください。父の服を着ようと思ったのですが、母がしまいこんでしまって」

「それを着てどこに行こうというのです?」

「縁談を持ってきた女性の所です。私は結婚などしません。少なくとも他人様に押し進められて、年も離れた知らない人に自分の人生を預けるなんてまっぴらです。男の格好をして行きたいんです。髪がなくなって男の服を着ていても、私は女である間宮リカ、それ以上でもそれ以下でもありません。そうじゃありませんか?」

「貴女は全く正しい、お嬢さん。一式出して参りましょう。ただし僕の服だから手足がダブダブに余ると思いますよ」

 片桐は部屋の隅の物入れから、少女が着るのだからせめてもと、新しいシャツとズボンとチョッキを出して、椅子の上に置いた。リカは何の気遣いもなくその場でセーラー服を脱ぎ捨てた。薄暗い電燈の下、弾むような白い肌と下着姿の少女。その頭は痛々しく刈られていたが。

 リカは手を伸ばして片桐のシャツをとり、袖を通してボタンをはめた。案の定両腕が余りぶかぶかだった。彼女は袖口をまくり上げながら片桐に笑いかけた。

「やっぱり言う通りですね。随分大きいわ」

 片桐は静かに彼女の前に椅子を並べ、描きかけの大きなキャンパスを立て掛け、即席の仕切りを作った。

「リカさん、男のなりをするのとレディーでいるのは相反しませんよ」

 そして無邪気に見上げる少女を優しく抱きしめた。

「片桐さんの汗の匂いがするわ。それとオーデコロンも」

「貴女からは日なたと風と空の匂いがしますよ」

 すっかり着替え終えたリカを、片桐は引き戸を開けて見送った。凛と佇む少年でも女でもない、清々しい少女の姿がそこにあった。

 玄関先に濃密な甘い香りが立ち込めていた。来た時は漂っていなかった、むせ返るようなまた心の奥に触れるような花の香りだった。

「何でしょう、これは」

「夜来香でしょう。この家の元の持ち主が植えていったものらしいのです。夏の短い期間だけ、夜に咲いてこんなに匂うのですよ。朝になったらしぼんでしまいますが」

「この匂いのおかげで、今日と言う日を忘れないで済みそうですね」

 男の服を着て坊主頭のまま、リカは仲人の元へ向かった。

 玄関先で相手の男の写真や身上書を返し、目をまん丸くさせたおばさんとおじさんの前を立ち去った。


 たちまちのうちに間宮家の娘の悪評が立った。縁談はもちろん即座に破談になり、リカは自由になった。そのかわり世間の彼女を見る目は変わった。

「文士先生の風変わりなお嬢さん」から「蓮っ葉な性質の悪い娘」「女のくせに我を通すためには何でもやる小娘」と陰口を叩かれるようになった。リカは短く切り落とした髪に後悔はなかった。

 弟のヨハネも

「お姉様、とてもお似合い。すごくかっこいい。僕のなりたい僕の姿そのものです」

と心から称賛した。ただしセーラー服にはどうやってもこの頭は似合わなかった。

 女性の進歩的教育で有名な女学校の先生達も

「思い切ってやっちゃったわね」

と苦笑した。でも貴女ならそのくらいやるわね、とも言われた。

 リカは校庭から空を見上げた。『女である』という事が、人が生きる足かせにならない世の中に生きていきたい。間宮リカは決意した。昭和4年、1929年。13歳だった。

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