第1話・虹を追う子等
そこは一面薄紅色の海だった。冬場の休耕田に隙間なく植えられたれんげは、可憐な珊瑚色の花を一斉に咲かせ春の到来を告げていた。雪解け水が小川に注ぎ、土手にはフキノトウが薄緑の蕾を膨らませている。
碧生蒼太郎たち少年組は 絣の着物の裾をからげジバジバと水の中に踏み入って魚を追った。だがメダカやウグイはすばしこく、背をキラキラ光らせて少年たちの脚の間を縫って逃げる。
小川の向こうで少女たちの歓声が上がった。少年たちは何事かと岸に上がり、声のする方を見た。
一面のレンゲの花咲き乱れる平野の中、手に手に春の花を摘んだ少女たちが立って一方を見つめている。
視線の先には、大きな虹がくっきりとかかっていた。レンゲ畑が山の端に消える辺りからすっと太い色の帯を伸ばした虹は、鮮やかに七色の弧を描き、畑地が林に変わる麓に消えていた。
走ろう!
碧生蒼太郎はいがぐり頭をくるりと回し、仲間の少年達に叫んだ。
走れ!
あの虹の根元まで!
虹を追いかけろ!
少年たちは口々に叫び、走り出した。
足を取られて走りにくい下駄は、脱いで両手に持った。草履の子は脱ぎ捨てて懐に入れ、裸足になった。
花を摘んでいた少女たちも、革靴が土で汚れるのを構わずつられて走り出した。白い首の左右から伸びたおさげ髪がセーラー服の背で踊った。
少年たちも少女たちも、走り出したらそれだけが楽しくて、走る理由など置いてきた。口々に歓声をあげながら全力で空を仰ぎ虹を目指した。
足元に広がる薄紅色のレンゲの花の海は、いつの間にか白い海の泡のようなシロツメクサの畑に変わっている。
突然、碧生蒼太郎の隣で少女が転んだ。俊足の彼と並んで走っていた、一際足の速い少女である。少年はおっとと立ち止まり二・三歩戻った。
少女は車ひだのスカートの裾からにょっきりと白い脛を出し、座り込んでいた。常日頃見ることのない白く細い足に、少年はどきりとした。
彼女は転んで擦り剥いた膝小僧の傷をフーフー吹いて、痛みを和らげようとしている。不意に、碧生少年は足元のシロツメクサの茂みを目にとめ、手を伸ばしてそれを摘むと少女の目の前に突き出した。
「これ、やるよ」
少女は澄んだ大きな瞳を見開き、驚いて少年の顔と突き出された手の指の先を見た。シロツメクサの小さな四つ葉が、武骨な少年の指に握られていた。
少年は日に焼けた頬を赤くしながら、怒ったように四つ葉をグイと差し出した。無言で。ほらこれ、と言わんばかりの投げやりな態度で。
少女は美しい顔を赤くした。風に吹かれほつれた前髪が聡明そうな白い額に落ちかかり、上気し汗ばんだ肌に絡みついていた。
長いまつ毛が二、三度瞬き、はにかみながら少年の手から四つ葉を受け取る。陽の光を透かし微笑んだ顔は、繊細な陶器のように清楚で美しかった。
少年の目にその微笑が焼きついた。
「ありがとう」
「行こう!」
少女はうなずいて立ち上がり、少年と共に他の者に遅れまいと走り出した。
空の虹はまだくっきりと子供らを待っていた。
碧生少年は後々まで思っていた。
夢で見たあの少女は誰だったのだろう、と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます