現象世界の果てで……
「セフィラは来月にも、実際の医療現場で活躍してもらう事になります。東京都の承認はすでに得てありますので、当社で最終メンテナンスをしてから、現場に出るという流れですかね。セフィラが大変お世話になりました。明日、彼女を引き取りに来ますね」
来宮さんはそう言うと研究室を後にした。
セフィラの稼働状況は順調そのものだった。そして、来週より東都大学附属病院の医療スタッフとして、臨床の現場に配備されることが正式決定された。
セフィラの電子頭脳の基幹システム、アヴィダを開発したこの研究室としては、とても喜ばしいことかもしれない。実際、世界初のヒューマノイドの臨床応用として様々なメディアからも注目を集め始めている。
でも、また一つ大切な何かが、僕から離れていくようで寂しかった。
「今日は僕も帰りますね。明日でセフィラとは最後ですか。いろいろありましたね。でも本当に良かったと思います。望さんもきっと喜んでいると思いますよ」
「佐竹さんが、セフィラの面倒をよく見ていてくれたから。いろいろと、ありがとうございました」
佐竹さんは僕の肩をかるく叩くと帰っていった。
研究室にはいつものように、僕とセフィラだけになった。
これでセフィラもいなくなってしまえば、僕は一人になってしまうのだろうか。
「セフィラ、話がある」
僕は、ラプラスのデモンと会ったこと、これからのこと、セフィラに話さなくてはいけないと思った。
「うん、わかった……。お茶入れる?」
セフィラは充電ポッドから立ち上がると、研究室の隅にある流し台に行き、ケトルでお湯を沸かし始めた。
コトコトと水が沸騰し始める音が、静かな研究室を包む
――懐かしいこの感じ。
「ラプラスのデモンにあったよ」
「望みの居場所を聞いたのね?」
セフィラはティーポッドにお湯を注ぎ、砂時計をひっくり返した。
「もう、君は何もかもわかっているんだね」
「アヴィダシステム……。亮が作ったこのシステムは、ある意味でラプラスのデモンだよ。君のせい、あるいはおかげ、というべきかな。私は未来を何もかも予測できてしまう。それが所詮は、確率論的な仮説でしかないのかもしれないけれど、驚くほどの精度で、未来の世界を垣間見ることができてしまう……」
「セフィラ……」
セフィラはティーカップに紅茶を注ぐと、それを僕の机まで持ってきてくれた。
セフィラの頬には一筋の……。
「泣いているの?」
ヒューマノイドには、人間とほぼ同等の機能を有するイグジスティアでさえも、涙が流れるような設計はなされていない。悲しみという感情を体現できたとしても、物理的に涙を流す機能は存在しなのだ。
――そう見えただけか。
「亮、君はこの世界から消える覚悟ができている?」
「望さんと引き換えに、失うものは、やはり僕の存在、あるいは、みんなが持っている僕の記憶、そうなんだろう?」
セフィラは黙ったままうなずいた。
「大丈夫だよ。僕は必ずこの世界に戻ってくる。運命なんていう必然なんか存在しない。僕にはファンタスマという能力がある。記憶を保持したまま現象世界を飛び越えて行ける。だから必ず、望さんを連れて一緒に帰ってくるよ」
「それは、君にとって、幸せなこと?」
「ああ」
「望さんにとっても?」
「きっと」
僕は胸ポケットから一粒の錠剤を取り出した。
「これを服用すれば、エキヴォケーション値で0.99の世界、現象世界の果てへ行くことができる。ただしラプラスのデモンから許されたタイムリミットは1時間。1時間以内に望さんに逢い、そして彼女を連れて帰る」
「連れて帰るには、君が何者なのか、望に伝える必要があるかもしれない」
「わかっている。それが意味することも」
僕は椅子から立ち上がると、セフィラが先ほどまで紅茶を作っていた流し台に行き、自分のコップを手に取った。水道の蛇口をひねり、コップに水をためる。
「セフィラ、また会おう」
彼女は何も言わず、うなずいた。
僕は錠剤を含み、そしてゆっくり水で流しこむ。
セフィラが泣いている。今はそれがはっきりとわかった。
――君はもう機械じゃない。
誰かの気持ちを思いやり、誰かの存在を大切に思い、そして誰かのために泣くことができる。
**
波の音が聞こえるが、ここはあの神社、そう
小高い丘に木々はなく、ただ視線の先には海だろうか……その水平線が広がる。
僕はゆっくり歩きだす。
平地の向こう側にたくさん並んでいる何かが見る。おそらく墓標だ。
エキヴォケーション値は0.99.ここは色彩鮮やかな現象世界の果て……。
霊園を進むと、初老の男性が墓標に花を供えているのが分かる。
地面に片膝をつき、そして手を合わせている。
そのシルエットは門脇先生に間違いない。
なぜここにいるのか、それは多分、そういう事だろう。
「門脇先生」
その初老の男性は後ろに立つ僕をふりかえって見上げた。
「君は? 以前に僕に会ったことが、あったかね?」
「いえ、多分、ないと思います。ただ、望さんは僕の大切な人でしたから」
その墓標に刻まれた名を見なくても分かっている。
ここは彼女の墓だろう。
「そうでしたか」
門脇先生はそれ以上、僕に何も聞かなかった。
「もし、お時間があるようなら、もう少し、望のそばにいてやってください。僕は帰りの列車の時間があるので、先に失礼します」
「はい、そうさせていただきます」
「望がお世話になりました」
僕は黙って頭を下げた。しばらく、地面を見つめ、頭をあげたときには、門脇先生の姿を見つけることはできなかった。
望さんはこの世界では存在しない。
いつ、どこで、何が原因で亡くなってしまったのか、それを調べる時間的、そして精神的な余裕はないように思えた。
ただ、一つ確信できることがある。
海面を伝う空気に、彼女の面影を感じる。そう、彼女はこの世界のどこか、それもかなり近い場所にいる。
僕は立ち上がり、歩き出した。
門脇先生は列車の時間と言っていた。
「駅が近くにあるのだろうか……」
ここにいても手掛かりはなにもつかめないことは明らかだった。
霊園を出ると、列車の駅はすぐに見つけることができた。
紀勢線、大曽根浦駅。この駅からは尾鷲湾を眺望できる。先ほど見えていた水平線はやはり海だったのだ。
ここは三重県といえど、熊野三山の一つ、熊野速玉大社が鎮座する和歌山県新宮市に近い。
1日の平均乗車人員が10名にも満たない小さな無人駅。
駅舎もなく、あるのはホームと、貨物路線専用の上屋のみ。
そしホームに設置されている時刻表を見ると1日10本程度しか運行されていないようだ。僕は駅のホームに立ち、視界に広がる尾鷲湾を眺めた。
「この近くに、望さんは必ずいる」
幸いなことに、列車はあまり待たずにホームに滑り込んできた。
発車時刻と、僕が駅に着いたタイミングが良かったのだ。
先頭車両がはねのけた空気は僕の前髪を揺らしていく。
ドアを手動で開け、僕は誰もいない列車内に乗り込んだ。
扉の脇に立ち、窓から外の景色を眺める。
望さんは列車に乗るのが好きだった。
三重の学会の時も、飛行機を使わず、東京から新幹線で名古屋まで出て、そこから近畿日本鉄道で津駅まで向かったのだ。
なんだか、もうだいぶ昔のような気がする。
海沿いを走る列車の車窓はとても美しかった。流れる景色一つ一つが、古い映画の一コマのようで、それだけでノスタルジーな印象を与えてくれる。
列車のスピードが緩やかになる。僕はやや前方向に力をうけ手すりにつかまる。
――駅が近づいているんだ。
尾鷲駅。ここは特急列車も停車するためか、駅もやや大きい。
降車口となるのは僕が立っている扉とは反対側。僕の視界の前には、線路を挟んで下り列車のホームが見える。
その緩やかに流れる景色の中に彼女はいた。見失うはずがない。
「今の、間違いない」
下り列車のホームのベンチ。そこに彼女は確かにいた。
僕は列車が止まると、急いで駅のホームに飛び降り、反対側のホームへ回る階段を駆け上がった。
列車の中で見たままの姿。彼女はうつむいたまま、ベンチに腰掛けていた。
僕はゆっくり彼女に近づく。
確かに門脇望みを表象しているが、彼女はこの世のものではない。
本物の実態としての彼女は、すでに死んでいるのだ。
「望さん? 」
彼女の前で僕は声をかけた。
「君は誰? 」
答えるべきだろうか。いや、答えるべきだろう……。
僕の名前を知らないのであれば、今、ここで僕の名を告げるよりほかない。
「城崎亮です。あなたと少しだけ、お話しがしたい」
彼女は再びうつむく。
そんな彼女に僕は手を差し出した。
「駅の外、少しだけ歩きませんか?」
僕たちは尾鷲駅から出ると県道沿いを歩き始めた。
空の灰色が、その色合いを増してくる。
まだ陽が落ちるには早いのだけれど、空は暗かった。
何か話をしたかったけれど、僕たちは黙って歩き続けた。
会話を切り出すきっかけを見失い、僕はただ歩くより他ないというほうが正解だろうか。速くでもなく、遅くでもなく、ただ歩き続けた。
なんの前触れもなく突然、轟音が鳴り響いた。
――春雷
「あめが……」
望さんの小さな声が聞こえた。
いろんな世界で望さんの声を聞いてきた。でもこの声が本物。今はそう思う。
「雨、降ってきちゃいましたね。これはかなり降りそうです」
湿気をたっぷり含んだ生暖かい風が僕たちを包む。
「すぐに止むとは思いますけど……。どこかで雨宿りしましょう」
雨が少しずつ、でも確実にその強さを増してくる。
僕たちは狭い県道の傍らに立つ、小さな寺へ入っていった。
表札には妙長寺と書かれている。
「雨宿りさせてもらおう」
寺の軒下に駆け込んだその時、雨あしが急に強まった。
ものすごい雨音と、そして地面の水が跳ね返る。
「外に連れ出したせいで、ごめんなさい。濡れてしまいましたね」
「いえ、どうせ行く当てもありませんでしたから」
僕は望さんの横顔を見つめる。
髪が雨でぬれて、頬に張り付いている。
いや、それは涙……なのだろうか。
「行く当て?」
「そう、行く当て」
彼女は遠くを見つめている。
雨は相変わらず降り続いているけれど、雷がやや遠ざかっていくような気がした。
「私は誰?」
「望さんは、望さんですよ。望さんを待っている人がいます。僕と一緒に来ませんか?」
「私も逢いたい人がいるような気がする。それが誰なのか、今はよくわからない。とっても大切なことを教えてくれた人。その人も、私を待っていてくれるかな」
彼女はやはりうつむき、地面を流れる雨水を眺めていた。
「もちろん、待っていますよ。あなたのこと。ずっと」
望さんが顔をあげ、僕を見つめた。
「君が、ずっとそばにいてくれたような気がする。なんでだろう。初めて会うのにね」
「ずっとそばにいてくれたのは、望さん、あなたです。僕が苦しい時、悲しい時、うれしい時、楽しい時、いつもあなたはそばにいてくれました」
「私はいったい……誰?」
「門脇望です。そして僕が城崎亮。さあ、一緒に帰りましょう」
僕は望さんの手を握った。小さく、冷たい手。
そろそろ時間だ。
僕の体が透明になっていく。
この手を放しはしない。
いや、僕は一度手を意義り返し、そして望さんを抱き寄せた。
――帰りましょう。
僕たちの世界に……。
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